10月29日(土)
朝9時に、岩舟町小野寺の大慈寺さんで、佐野市在住の高橋氏と合流。そして大慈寺さんへ事前連絡もせずに本堂へ上がり込み、林住職さんを交えた三人でその後11時過ぎまで雑談をして過ごしてしまう。それでも、大慈寺前住の林慶忠氏が残した「郷土文化を探る」の復刻用校正を行ったので、それなりに成果は上げた。さんざん、言いたいことを言ったにも関わらず、林住職より帰りに松林浄容氏著書の「私の中の円仁 片栗の華」を頂戴する。この本は、円仁さんに惚れ込んだ著者が慈覚大師円仁さんの足跡を巡った内容である。その情熱がひしひしと迫る内容である。
大慈寺さんを辞してから、佐野市の宝篋印陀羅尼経の見える近世宝篋印塔を纏めてから、その後に高橋氏が新たに見つけてくれた長法寺跡の個人墓地に案内してくれる。銘文は、どうにも拓本を取らぬ限り読めぬので、急いで拓本を取る。拓本だけに頼って、その後の手写し作業をサボったので、帰宅してから解読してみると3文字ばかり不明な個所が発生してしまった。やはり、現地での作業を手抜きしてはイケマセン!という手本である。
今日の予定は、ここまでで終了! 天候も悪いことだからと、ここで高橋氏と別れた私は、岩舟町へ戻って、こんな時でもないと再調査できない浅間神社頂上にある文字塔の拓本取りを行うため訪れる。腰が痛いが、採拓用具一式を抱えて、長い石段を息を切らしながら登る。そして石塔の所へ着いてみれば、その下部が土中に埋もれている。手で掘り出したが、所詮は無理である。仕方がないので、下部一部の採拓を諦めて取れるだけの分に墨を入れる。そうして取った文字だが、何とも難解な漢字が羅列してある。浅学の我が身ではどうもがいても解読は不能だろう。また、その前に、文字だけでも書き写すのに一苦労しそうである。そんな訳で、これは当分お預けとして机上に放置しておこう。
10月30日(日)
今日は、午前9時から、「鹿沼史談会」主催の「北犬飼のさとめぐり」があり、滅多にみられない県指定の仏像等が見られそうなので、昨日の高橋氏を誘って参加する。
しかし、最初に訪れた曹洞宗「永林寺」での千手観音坐像は、写真に撮るどころか、間近で見ることも出来ない有様。また、その解説をしてくれた住職の話の内容たるや、聞いている方が恥ずかしくなるような不勉強の体たらく。しかも、メモを見ながらの話しなのに、仏教用語さえ間違っているのに気づかず、自分の身の威厳だけは保とうとする姿勢にガッカリである。
次に期待した、薬師堂の鉄造「薬師如来坐像」。これはこれまでに当地へ何度も実物見たさに来たが、戸が閉まっていて実現しなかった物。早速写真撮影を願い出ると、あっさり了解を得られた。これぞ、本日最大の成果である。また、本日参加した最大の目的が達成できた。
背中に「建保六年大才戊寅二月廿三日」銘を含めて銘文が陽刻されている、通称「日本最古の鉄仏」なのである。
写真を取り終えて、ふと脇を見るとそこには木彫仏像が数体無造作に置いてある。お顔がなかなかに良く出来ているので、写真を撮ってから裏面を見てみれば、そこには文政七年紀年銘と共に、彫刻者名が「大仏師 高田運秀作(花押)」とある。そしてそれらは「薬師三尊と十二神像」を一組として建立されたことが記されていた。これは思わぬ発見である。仏師高田一門の手になる仏像が、思いもしなかった場所で出会えたことに、高橋氏と大喜びする。
そしてこの時点で、これ以上の皆様との動向に見切りを付け、「北犬飼のさとめぐり」は、二人で脱落することにする。
今日のもう一つの目的は、「鹿沼史談会」に入会する価値があるかの判断材料を得ることだったが、この時点で入会を見合わせることにする。現時点で入会しても、どうも皆と一緒に切磋琢磨出来そうもないと判断したからである。一人で巡り歩くなら、会に所属しなくても良いわけである、と勝手な判断で!
その後、日吉神社を訪れて漢文年間の地蔵像容庚申塔を高橋氏に案内して、12時前に本日の歴史散歩の日程を終えて別れる。
朝9時に、岩舟町小野寺の大慈寺さんで、佐野市在住の高橋氏と合流。そして大慈寺さんへ事前連絡もせずに本堂へ上がり込み、林住職さんを交えた三人でその後11時過ぎまで雑談をして過ごしてしまう。それでも、大慈寺前住の林慶忠氏が残した「郷土文化を探る」の復刻用校正を行ったので、それなりに成果は上げた。さんざん、言いたいことを言ったにも関わらず、林住職より帰りに松林浄容氏著書の「私の中の円仁 片栗の華」を頂戴する。この本は、円仁さんに惚れ込んだ著者が慈覚大師円仁さんの足跡を巡った内容である。その情熱がひしひしと迫る内容である。
大慈寺さんを辞してから、佐野市の宝篋印陀羅尼経の見える近世宝篋印塔を纏めてから、その後に高橋氏が新たに見つけてくれた長法寺跡の個人墓地に案内してくれる。銘文は、どうにも拓本を取らぬ限り読めぬので、急いで拓本を取る。拓本だけに頼って、その後の手写し作業をサボったので、帰宅してから解読してみると3文字ばかり不明な個所が発生してしまった。やはり、現地での作業を手抜きしてはイケマセン!という手本である。
今日の予定は、ここまでで終了! 天候も悪いことだからと、ここで高橋氏と別れた私は、岩舟町へ戻って、こんな時でもないと再調査できない浅間神社頂上にある文字塔の拓本取りを行うため訪れる。腰が痛いが、採拓用具一式を抱えて、長い石段を息を切らしながら登る。そして石塔の所へ着いてみれば、その下部が土中に埋もれている。手で掘り出したが、所詮は無理である。仕方がないので、下部一部の採拓を諦めて取れるだけの分に墨を入れる。そうして取った文字だが、何とも難解な漢字が羅列してある。浅学の我が身ではどうもがいても解読は不能だろう。また、その前に、文字だけでも書き写すのに一苦労しそうである。そんな訳で、これは当分お預けとして机上に放置しておこう。
10月30日(日)
今日は、午前9時から、「鹿沼史談会」主催の「北犬飼のさとめぐり」があり、滅多にみられない県指定の仏像等が見られそうなので、昨日の高橋氏を誘って参加する。
しかし、最初に訪れた曹洞宗「永林寺」での千手観音坐像は、写真に撮るどころか、間近で見ることも出来ない有様。また、その解説をしてくれた住職の話の内容たるや、聞いている方が恥ずかしくなるような不勉強の体たらく。しかも、メモを見ながらの話しなのに、仏教用語さえ間違っているのに気づかず、自分の身の威厳だけは保とうとする姿勢にガッカリである。
次に期待した、薬師堂の鉄造「薬師如来坐像」。これはこれまでに当地へ何度も実物見たさに来たが、戸が閉まっていて実現しなかった物。早速写真撮影を願い出ると、あっさり了解を得られた。これぞ、本日最大の成果である。また、本日参加した最大の目的が達成できた。
背中に「建保六年大才戊寅二月廿三日」銘を含めて銘文が陽刻されている、通称「日本最古の鉄仏」なのである。
写真を取り終えて、ふと脇を見るとそこには木彫仏像が数体無造作に置いてある。お顔がなかなかに良く出来ているので、写真を撮ってから裏面を見てみれば、そこには文政七年紀年銘と共に、彫刻者名が「大仏師 高田運秀作(花押)」とある。そしてそれらは「薬師三尊と十二神像」を一組として建立されたことが記されていた。これは思わぬ発見である。仏師高田一門の手になる仏像が、思いもしなかった場所で出会えたことに、高橋氏と大喜びする。
そしてこの時点で、これ以上の皆様との動向に見切りを付け、「北犬飼のさとめぐり」は、二人で脱落することにする。
今日のもう一つの目的は、「鹿沼史談会」に入会する価値があるかの判断材料を得ることだったが、この時点で入会を見合わせることにする。現時点で入会しても、どうも皆と一緒に切磋琢磨出来そうもないと判断したからである。一人で巡り歩くなら、会に所属しなくても良いわけである、と勝手な判断で!
その後、日吉神社を訪れて漢文年間の地蔵像容庚申塔を高橋氏に案内して、12時前に本日の歴史散歩の日程を終えて別れる。