石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

10月最後の探訪

2005年10月30日 | Weblog
10月29日(土)
朝9時に、岩舟町小野寺の大慈寺さんで、佐野市在住の高橋氏と合流。そして大慈寺さんへ事前連絡もせずに本堂へ上がり込み、林住職さんを交えた三人でその後11時過ぎまで雑談をして過ごしてしまう。それでも、大慈寺前住の林慶忠氏が残した「郷土文化を探る」の復刻用校正を行ったので、それなりに成果は上げた。さんざん、言いたいことを言ったにも関わらず、林住職より帰りに松林浄容氏著書の「私の中の円仁 片栗の華」を頂戴する。この本は、円仁さんに惚れ込んだ著者が慈覚大師円仁さんの足跡を巡った内容である。その情熱がひしひしと迫る内容である。

大慈寺さんを辞してから、佐野市の宝篋印陀羅尼経の見える近世宝篋印塔を纏めてから、その後に高橋氏が新たに見つけてくれた長法寺跡の個人墓地に案内してくれる。銘文は、どうにも拓本を取らぬ限り読めぬので、急いで拓本を取る。拓本だけに頼って、その後の手写し作業をサボったので、帰宅してから解読してみると3文字ばかり不明な個所が発生してしまった。やはり、現地での作業を手抜きしてはイケマセン!という手本である。

今日の予定は、ここまでで終了! 天候も悪いことだからと、ここで高橋氏と別れた私は、岩舟町へ戻って、こんな時でもないと再調査できない浅間神社頂上にある文字塔の拓本取りを行うため訪れる。腰が痛いが、採拓用具一式を抱えて、長い石段を息を切らしながら登る。そして石塔の所へ着いてみれば、その下部が土中に埋もれている。手で掘り出したが、所詮は無理である。仕方がないので、下部一部の採拓を諦めて取れるだけの分に墨を入れる。そうして取った文字だが、何とも難解な漢字が羅列してある。浅学の我が身ではどうもがいても解読は不能だろう。また、その前に、文字だけでも書き写すのに一苦労しそうである。そんな訳で、これは当分お預けとして机上に放置しておこう。

10月30日(日)
今日は、午前9時から、「鹿沼史談会」主催の「北犬飼のさとめぐり」があり、滅多にみられない県指定の仏像等が見られそうなので、昨日の高橋氏を誘って参加する。
しかし、最初に訪れた曹洞宗「永林寺」での千手観音坐像は、写真に撮るどころか、間近で見ることも出来ない有様。また、その解説をしてくれた住職の話の内容たるや、聞いている方が恥ずかしくなるような不勉強の体たらく。しかも、メモを見ながらの話しなのに、仏教用語さえ間違っているのに気づかず、自分の身の威厳だけは保とうとする姿勢にガッカリである。
次に期待した、薬師堂の鉄造「薬師如来坐像」。これはこれまでに当地へ何度も実物見たさに来たが、戸が閉まっていて実現しなかった物。早速写真撮影を願い出ると、あっさり了解を得られた。これぞ、本日最大の成果である。また、本日参加した最大の目的が達成できた。
背中に「建保六年大才戊寅二月廿三日」銘を含めて銘文が陽刻されている、通称「日本最古の鉄仏」なのである。
写真を取り終えて、ふと脇を見るとそこには木彫仏像が数体無造作に置いてある。お顔がなかなかに良く出来ているので、写真を撮ってから裏面を見てみれば、そこには文政七年紀年銘と共に、彫刻者名が「大仏師 高田運秀作(花押)」とある。そしてそれらは「薬師三尊と十二神像」を一組として建立されたことが記されていた。これは思わぬ発見である。仏師高田一門の手になる仏像が、思いもしなかった場所で出会えたことに、高橋氏と大喜びする。
そしてこの時点で、これ以上の皆様との動向に見切りを付け、「北犬飼のさとめぐり」は、二人で脱落することにする。
今日のもう一つの目的は、「鹿沼史談会」に入会する価値があるかの判断材料を得ることだったが、この時点で入会を見合わせることにする。現時点で入会しても、どうも皆と一緒に切磋琢磨出来そうもないと判断したからである。一人で巡り歩くなら、会に所属しなくても良いわけである、と勝手な判断で!

その後、日吉神社を訪れて漢文年間の地蔵像容庚申塔を高橋氏に案内して、12時前に本日の歴史散歩の日程を終えて別れる。
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今日、22日の石仏巡り記

2005年10月22日 | Weblog
 今日は雨にも関わらず、今月1日以来の石仏巡りである。最初に足利市川崎町地域を一巡りして、数基の庚申塔を調査。そして前々から気になっていた薬師寺を訪ねると、立派な宝塔型宝篋印塔があるので、雨にもめげず、奥様が出てきて呆れているのも気にせずに銘文を写し取る。なかなかの長文に手間取って記入用紙はびしょ濡れであるが、これで今日も新たな陀羅尼經が1基手に入ったと大満足! 
 このお寺さんも元々は渡良瀬川の中にあったのをここへ移転したことが看板に書いてあるので、もしかしたら大勝金剛に関する碑塔があるかも…と、その後は真剣になって境内を探すがそれらしきものは見つからず。残念!
 その後は、前回忘れ物をしてきた瑞穂野町の満宝寺を訪ねる。住職ご夫妻が在宅で、庭でお茶などをご馳走になりながら時間をノンビリ過ごす。何しろ、雨がふっているのだから、と言い訳しつつ。昼近くになって、やっと重たい腰を上げて、少し離れた福富町の円城院さんを訪ねる。
 ここには、前に佐野市在住の山口さんから重制石幢六地蔵があると教えられていたからである。享和二年銘のなかなか立派な石幢である。台座に散文もあるのが気に入った。そして同地には、四臂青面金剛像容塔もある。しかもバンザイ型で二猿二鶏の優れものである。銘文などが水洗いしただけでは読めないので、仕方なしに拓本を取って完了。そこへ当寺の総代をしている中島氏が見えられて、出来ればそこにある宝篋印塔の内容を知りたいと云う。今日は、雨も降っていることだからその宝篋印塔の存在だけを確かめられたので良しとし、銘文解読は次回にしようと考えていた矢先の話しである。何しろその銘文やらは浅彫りなので、見ただけでは読めない代物。拓本を取るのが面倒な今日の天気なのであるが、頼まれればイヤだとも言えず、仕方なしに拓本を取ることにする。一方、中島氏はその拓本によって出てきたかすかな文字を読もうとしているが、所詮は初めての方には判読できず、頭を抱えている。そして、ちょっと自宅へ行って来るといって戻ってくると、手には用紙と筆記具を抱えている。そして私に差し出して、そこへ書き出してくれと云う。その熱心さに根負けして、後日写真と一緒に読み下しを付けてお送りする約束をする。
 時計は既に2時半。雨は小降りになったものの、どんよりと曇っているのでこれ以上の石仏巡りを続ける気分にならず、今日はここまでとしてノンビリ帰宅する。
 そんな訳で、今日の石仏巡り成果は少なく、HPへの画像紹介は簡単で良いと思っている。早速、明日にでも掲載することにしよう。でも、その前に今夜は、頼まれた宝篋印塔の銘文解読が待っているが…。
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10月14日に…

2005年10月15日 | Weblog
ここのところ、毎週末は天候が不順。仕事やら何や等で石仏巡りに二週続けて石仏調査に出かけられぬ身にとっては何ともはやと言ったところである。もしこれで、土曜・日曜が秋晴れだったなら悔しい思いをするのだが、そんなこんなで諦めもつくというものである。
そしてこの一週間で、多くの石仏関係の皆様から沢山の資料やら書籍やらお手紙などが届けられてくる。寝床に入ってまで読んでも消化し切れぬ内容の濃い物ばかりで、御礼とご返事が遅れているが、もう少し時間を戴くことにしよう。
それらの幾つかをご紹介すると、

1、東京都あきる野市在住の多田治昭氏から戴いた「群馬県高崎市の庚申石祠」
 これは今年の7~8月に4日間高崎市を訪れて(しかもたったの4日間で109箇所を巡ったという驚異的行動力!)、庚申石祠60基を写真と共に纏めた私家本である。こうして改めて見させていただくと、その高崎市にはいかに多くの庚申石祠があるかが良く判る、非常にありがたい報告書である。いつもながらの、多田氏の庚申塔にかける情熱が如何ほどの物かと、ただ呆れかえるばかりでもある。それに比べ、当栃木県にはこのような見るべき庚申石祠の少なさに愕然とする。それでもその庚申石祠の大きさにおいてはいささか自慢できそうなものが佐野市高萩町に、紀年銘が不明なまでもあることに、少しばかり鼻を高くすることが出来そうだ。その写真や細部サイズなどをお送りしようと思う。そして出来れば、11月に当地へ来られる多田氏に現地をご案内したいと思っている。

1、東京都八王子市在住の水野英世氏から戴いたのは「あちこち石仏巡りの記3」
 「老いの執念で第三巻をまとめました」とあるように、昨年の同2巻に続く、日本全国石仏巡りを纏めた物である。これは、著者である水野氏が日本全国にある気になる石仏(像容中心)を見たさに訪ねた報告書で、所在地図も丁寧に書き込まれているので、この書を見て訪ねようと思った人には非常にありがたい。ただ惜しむらくは、そこに掲載された石像に関する資料的内容が抜けていることと、何時訪れたのかの年月日が記されていないことである。これは内容的に大きなダメージである。次回には是非とも何年に訪れただけでも記していただきたいと勝手に思っている。

1、千葉県千葉市在住の西岡宣夫氏からは、「一切如來心秘密全身舎利寶篋印陀羅尼經」B版の全文読み下し文が送られてくる。これは、西岡氏だからこそ出来た労作である。私も、この寶篋印陀羅尼經には興味があって調べているが、このような全文読み下し文があることは、私のみならず全国のこの経文に興味を持っている人にとって何よりの宝物となるだろう。
この資料を、個人だけで持っているのは石造物調査者に対して非常にもったいないことであり、早速に日本石仏協会の坂口会長に電話してその功績をたたえると共に今後の宝篋印陀羅尼経塔を調査しようとする人々に公開していただきたく「ぜひ日本の石仏誌に掲載して戴くよう」進言する。とにかく、西岡氏の「一切如來心秘密全身舎利寶篋印陀羅尼經」に対する真摯な研究態度に敬意を表す次第である。

その他、諸々。
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10月最初の石仏巡りは…

2005年10月02日 | Weblog
十月最初の土曜日、1日は足利市の石仏巡りに出かける。最初に行ったのは、先週に佐野市在住の山口氏から単制石幢六地蔵の所在地をご教示いただいた、福富町の普門寺である。供養塔としての単制石幢六地蔵だが本体に傷もなく、六地蔵の本体像高が36センチもある。そしてその台座には、たくさんの長氏一族が先祖菩提のためにこれを建立した石文が刻まれている。それを解読するには拓本を取る必要があるが、今回は取り急ぎ確認だけとして写真を撮り、紀年銘を書き写して終わりとする。
何しろ、その隣には宝篋印陀羅尼経の刻まれた宝篋印塔があるのだから、どうにも石文の書き写しはそちらの方ばかり気になって仕方がない。
その調査を終えてから、じっくりと境内にあるその他の碑塔を眺める。その中の一つの青面金剛塔に刻まれた邪鬼が面白い。2邪鬼が合体した姿である。と同時に、そこに見える鶏の姿が何とも可愛い私好みである。それはもう、どう見ても鶏には見えず、小鳥の姿である。これらは、石仏巡り記に掲載しよう!
そうそう、今日の足利へ来た理由は、もう少し「大勝金剛」について探索してみようと思っているので、ここで時間を食っているわけには行かない。
少し戻って、瑞穂野町へ入り、たくさんの石仏がある満宝寺へまず行く。ここでも長文の宝篋印陀羅尼経を書き写してから、延宝8年塔を始めとした庚申塔やら、大きな阿弥陀如来像などを調査するも、大勝金剛に関する匂いは何も感じられない。
その後も、町内をあちこち廻って下日向地区の神明宮へ到着。ここで、面白い表情の狛犬と遭遇。その面白さに一人で笑いながら、写真を撮る。時計はとっくに12時を過ぎているが、面白いのがあると昼食どころではない。その後は、同じ町内の道路沿いで「千庚申塔」に出会ってしまったからには、空腹も忘れて調査する。そんなこんなで、ようやく午後1時過ぎに野田町の下野田地区へ入ってから道路沿いの阿弥陀堂で昼食とする。
この阿弥陀堂にも延宝庚申塔等がある。そして同地にある「馬頭観世音」塔の裏面には、渡良瀬川の改修工事にてここへ移転云々という文字があるのを見て、もしかしたらこの周辺に「大勝金剛」と関わりのある碑塔が出てくるかも知れないと、昼食もそこそこに周辺を見て歩くが、そう簡単に出てくるはずもなく、全てが空振りに終わる。
今日一日の調査で、既に調査資料は30基を越えているのと、石仏巡りもそろそろ時間が来たので、帰路途中に瑞穂野町の万福寺へ立ち寄ってから帰ることにする。万福寺さんで延宝庚申塔の写真を撮るも、光線の具合から午前中でないと逆行となって上手く撮れない。悔し紛れに、同地にある宝篋印塔の半分近くが剥離のために読めない宝篋印陀羅尼経を時間をかけて解読する。
その後は、収穫期を迎えた田の畦道に満開となって咲いているマンジュシャゲを眺めながらのんびり帰路につく。
そして帰路についてからひと騒動。どこかのお寺さんに、宝篋印塔調査資料ファイルを置き忘れてきた。慌てふためいていると電話があって、「当寺で境内に忘れていった資料を見つけたので預かっています」という、思いがけなくもご親切な電話を戴く。まったく、感謝!感謝!の言葉しかない。来週は行けないので、再来週にお伺いすることにして、それまで預かっていただくことにする。
今週も、大勝金剛様には出会えなかったが、興味のある碑塔がたくさん見られたし、宝篋印陀羅尼経も3基も確認できた。これからノンビリ整理することにしよう。
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