栃木県足利市に所在する近世宝筐院はとうの昔に調査し、その纏め本も作成してあるというのに新しい宝篋印塔が出現。「これは困ったものだ。もう一度纏め本を作り直ししなければならないゾ!」と、一瞬見なかったことにしようかとも思ったが、それが出来ない性分ゆえに銘文を読んでみると、滅多に出会えない面白い内容。これは自分の勉強になると銘文筆記をして意気揚々として帰宅したが、肝心なサイズが計測忘れ。「マッタク、私らしい」と苦笑しつつ放置していて、ようやく先週の木曜日に計測してきました。このブログに近世宝篋印塔を掲載するのは何年振りか忘れているほど、これも遠い昔の事。いずれにせよ、このような近世宝篋印塔に興味を示す人など誰もいないのを分っていながら敢て掲載しました。まあ、余り無視せずに、せめてものこの下段の読み下しを見る前に、その軸部に掲載してある漢字の勉強をするつもりで見て下さい!某お寺さんの住職さんに見せたら「こりゃ~、降参だ」と、笑っていましたので。
先ほど、栃木県足利市行道山、浄院寺にある春畦・華畦諸井夫妻による詩の石碑を掲載しましたので、その補足説明としての石碑等が、同じ足利市の福厳寺様境内に建立されていますので、それらを追加掲載いたします。
何となく毎日を石碑に関わっていると、ついついこのブログ更新のためのパソコンに向かう時間がおっくうになり、一ヶ月以上もサボってしまいました。そんな中、今回はプリントしようとパソコンンに向かえば、何とプリンタのインクがなくなっていたのを忘れていたのです。外は雨で、何となく外出するのが面倒で、その代わりにこのブログにむかっています。
今回の足利市行道山は浄院寺の清心亭やら山頂に佇む四十九院石仏群で名を知られています。今回は、その中の途中にある浄院寺境内に建つ、大きな石碑を、三回に分けて調査してきました。初回は、拓本を採るための事前調査、現地へ行ってみるとその大きさに頭を抱える。その一は、碑面が汚れに汚れていて、碑表銘文が写真にさえ写らないような汚れよう。早速に、次回のためにその石面の水洗いを始めるが、本体だけで高さが285㎝もあり、しかも大きな自然石の上に乗っているので、頂部までは優に3メートルを超えている。山道を登るに、脚立を持って登山は重労働なので持参せず。どうにも手の届かない所は悪戦苦闘して現地調達の足場?やらで何とかご覧のように拓本が採れる箇所までは綺麗にできた。この時点で、既に体力は消耗。帰宅。
そして一週間後は、拓本用紙を準備万端して脚立を抱えて登山し、現場に午前7時着。そして水張を終えたものの、安物の画仙紙ではどうやっても一文字の大きさに負けて文字の窪みで破れる敗れる箇所が多くなる。中国画仙紙の三層箋でも使えば良いのは分っているが、予算の関係でそうはいかぬ。仕方なくそのまま進め、全体の三分の二を手拓した段階で今回は終了。何しろ碑表の手拓に入る前に、碑陰の別の銘文を半切画仙紙で三枚程手拓したので、時間が無くなってしまったのである。そして更に翌週、今度こそ仕上げる覚悟で、またしても現地に早朝到着。誰もいぬ森閑とした境内で独り手拓に熱中して無事に目的の拓本採りが終了した。
今回の浄院寺様のこの拓本採りには、地元足利市の鈴木様に現地での手拓許可申請やら何やらと大変お世話になりました。今回の手振を振り返って思うに、多分私以後の人でこの石碑の拓本採りに挑戦する人は現れないだろうと変に自信を持つ。まず、碑面の水洗いだけでも大仕事。加えて現地の方々との拓本許可申請。そして現地までの足場対策に画仙紙の用意等々、数え上げればきりがありません。今回、私は一人で手拓しましたが、補助としてもう一人手助けが欲しかったです。一人で手拓するには危険過ぎました。ケガをしなかったから、言えることですが…。
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