石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2014年06月30日、栃木県氏家町と矢板市の石碑調査報告

2014年06月30日 | Weblog

 これは、栃木県氏家町の中心部に所在する真言宗光明寺さんにある「尼港殉難供養紀念碑」です。意外と小ぶりな碑で、墓地への入り口に建立されていて、銘文は裏面に記されています。この太平の世に「尼港事件」といってもわかる方は少ないと思いますが、大正九年に中国と朝鮮人を含んだロシア赤軍パルチザンによって、当地に居留していた一般人や軍人等が殆ど全員が虐殺された事件です。その犠牲者の霊を弔うために独りの僧が各地の遺族を訪ね歩いた紀念碑です。詳細は、別HPの方をご覧下さい。

 これは、氏家町の石碑巡りで余ってしまった時間を隣りの矢板市まで足を伸ばして偶然に近い状態で出会った壽宴碑です。失礼ながら、これほど素晴らしい碑と矢板市で出会うとは、当に青天の霹靂です。問題は、この碑文の撰者である「秋与」という人物と揮毫者の「山朝易」という人物が判りません。どなたか、御存知の方はぜひ御教示下さい。特に揮毫者は、出身地の喜連川町とは隣りとなる小山霞外(小山朝孺)かと想像はしていますが、「山朝」の次の「易」が付いた号名は今までに見ていないので、どうも自信がなくて‥。念のため、古河市博物館にも問い合わせましたが、今までに見たことがないとのことです。
 これも、別HPの方でその詳細を掲載しています。

ところで、6月も今日で終わりです。毎週末が雨にたたられ、6月に石碑巡りに出かけられたのは14日のたった一日のみという有様でした。尤も、そのために溜まっていた石碑調査済みの資料はその殆どを片付けることが出来ましたが‥。明日から7月。益々暑くなる季節に突入です。手拓がどこまで出来るかわからぬが、まあせいぜい熱中症に罹らぬ程度の外出に心がけることにします。何しろ、歳ですからネ!

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2014年06月21日は、栃木県氏家町の石碑御紹介です

2014年06月21日 | Weblog

 

栃木県氏家町の石碑調査、なかなか所在情報が少なく四苦八苦しています。仕方なしに、過去に石仏巡りやらで所在を確認している石碑を手拓(拓本採り)出来るものは手拓することにして、今回はその中のさくら市(旧・氏家町)ミュージアムの敷地内にある日清戦争碑の中の銘文がある上記を掲載いたしました。碑面がどうしようもなく汚れていて、本来の手拓時間よりも大変な思いをして掃除しました。戦争碑なので、内容的には面白くないのですがそれでも撰文者は漢文でなく文章を練りに練って作った思いが出ていて、その意味では面白く読みました。同所に3基あるうちの他の2基は銘文なしなのでパスしました。

これも氏家町の押上地区薬師堂にある石碑で、所在場所は男体山碑を1990年代に調査したときに確認していたものです。碑面はこれもどうしようもなく汚れていたものをご覧のように綺麗にしてから拓本を採りました。内容は、私と同じ姓の「滝澤翁頌徳碑」です。翁は山口県下関出身で、江戸で勉強した後で諸国を歴遊途中に当地へ来て、そのまま無住だった信国寺の住職となり、その博学から請われて村社の水神宮の官職も兼ねるなどと共に学問も教えた人で、その門人やら志士によって翁が81歳の時に寿蔵をも兼ねて建立されたものです。
 上記2基、相変わらず詳細は別HP6月号の所に掲載してありますので、興味のある方は御笑覧ください。そうそう、今週は午後になると雨となるので、今日明日を含めて石仏巡りは休みです。明日は、氏家町の「尼港事件」についての碑を清書しようと思っています。小さな碑なので、明日中には出来上がるでしょう。多分‥

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2014年06月14日も栃木県氏家町等の石仏調査でした

2014年06月18日 | Weblog

 今回は、梅雨の晴れ間で文句のつけようない快晴とのことで、拓本を採りたい一心で早朝に家を出る。目的地は、前回と同じ栃木県氏家町の上阿久津地区にある高尾神社前にある、上記掲載写真の自然石塔。ご覧のように、正面には梵字で五大種字の中の初心門である「キャ・カ・ラ・バ・ア」が刻まれている。そしてその右側には「如是畜生發菩提心」とある。出典は「諸回向清規式巻第五」にある「見畜生」からであり、その意味は「同じこの畜生、菩提心を發(起こ)すべし」となるが、正しくは「如是畜生帰依三宝發菩提心」であり、この塔に限らず、その殆どは「帰依三宝」を抜かして用いられている。ちなみに、「如」に代えて「汝」の文字を使う場合も見られるが、こちらは曹洞宗関係のものに多く使われ、それは「如=おなじ)」に対して文字通りに「なんじ」として読む。
 それにしても、現時点で私が栃木県内で確認しているこの念仏信仰塔として見られる「如(汝)是畜生發菩提心」塔としては、全12基の内のこれが初発塔(紀年銘は延享二丑天)となっている。そして次は、八年後の宝暦三年銘塔で栃木県田沼町作原にある宝暦三年塔となっている。それにしても、川原石の拓本を採るのはどうしても上部が丸まっているので画仙紙の水張りに四苦八苦する。もっとも、今日の最初はこの拓本を採るのが目的で朝早く来たのだから覚悟は出来ていたので、まあそれなりに手拓出来ました。それでも、日中の暑い盛りの時間帯ではどうなったかは判らないと苦笑しつつ‥。その他、前回に手拓を諦めたもう一基も涼しい風に促されて快適に完了。しかし、それからが問題。今日の氏家町の目的はここで終了。そのまま帰宅したのでは午前中に家に着いてしまうということで、もう少し足を北へと向けて、矢板市へ行く。矢板市も、近世宝篋印塔調査は未了地区。安沢地区に大きな宝篋形宝篋印塔があるのを過去に見ているので、それを今日の余った時間で調査することにした。しかし、現地へ着いてみると太陽は真夏の日差しとなってギンギラに輝いていて、軸部の4面とも手拓しない限り銘文は読めないしれもの。もっとも、簡単に読めるならトウの昔に調査済みだったが‥。立っているだけで汗が噴出してきたので、「嗚呼、今回も止めたヤメタ」となり、地区内を車で巡回して、新たな石仏探しを行う。その中で、郵便局を代行しているお宅へ行って聞けば、何かわかるかも、と農作業をしていた方にアドバイスを受けて早速お宅訪問となる。そして奥様と会話をしていて、大ヒットとなる。それは、御先祖さまが商売で財をなし、昔は家塾も開いていたので、その紀念碑が道沿いの山の中にあるという。近くだからと、歩いて一緒に行って下さり杉林の中を覗けば、確かに石碑が見える。急いで薮を分け入って見れば、それはそれは当地にはもったいないほどの名碑であった。その揮毫者は、「山朝易」とある。「山朝」と言えば、小山霞外としjか想像のつかない浅学者だが、喜連川町とは隣り町。しかも天保十一年の紀年銘とあらばなおのことである。早速、手拓お願いを申し出れば、どうぞどうぞと快諾されて心うきうき薮蚊やブヨに悩まされたのも良い思い出として、森の中の涼しさに感謝しながら矢板市での素晴らしい石碑調査を終えることが出来た。そして帰宅前にお宅へ再度伺ってお礼を申し上げたのは言うまでもない。そんなこんなで、帰宅したのは珍しく遅くなってしまったが、流石に夏至の少し前とあって陽が長く、ライトも付けずに嬉しい一日を終た。

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2014年06月12日、栃木県喜連川町所在の石碑2基紹介

2014年06月12日 | Weblog

篆額は「梅園秋元翁墓表」で、翁は幕末から維新後にかけて栃木県喜連川にて活躍した人物です。撰文は、長岡護美。この二人の意外な関係に興味をそそられます。詳細は、相変わらず別HPの6月のところに掲載してあります。
 そして碑陰を見ると、そこには「梅園春男」の名が最初に刻まれていて、この二人の意外な結びつきに私としては大変に興味を持ちました。

篆額は「逸見君遺徳碑」。栃木県喜連川藩代々の家柄で、学問は上記掲載の秋元 與に学ぶ。藩主の意向に従う以上に藩制改革に取り組み、多くの新田開拓や水道開鑿、さらに治山までにも大きな成果を挙げる。その詳細も、上記と同じく別HPに掲載してあります。
 流石に、ここまで喜連川の石碑調査とその清書に多くの日時を使いましたので、まだまだ御紹介したい喜連川町の石碑もあるのですが、次回からは栃木県氏家町の石碑等をご紹介していくことにしましょう。

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2014年06月06日は、栃木県喜連川町龍光寺最後の石碑ご紹介です

2014年06月06日 | Weblog


 この石碑で、4月12日に調査した栃木県喜連川町龍光寺にあるものはどうにか終了することが出来ました。尤も、1基の宮脇先生の碑は小さく碑文も短いのでという訳ではないのですが、御紹介を省略しましたが‥。特に今回の石碑は、是非とも手拓したかった碑文なのですが、現地で見上げるととても大きくて私し一人では足場を組む以外に手立てはなく、やむなく諦めました。特に、撰文が亀田 英、そして揮毫者が中島 慶ということで、拓本が欲しかった一つでした。そしてその碑文を清書するには本当に苦労しました。つくづくと勉強が足らんことを実感しましたので、読み下し用の基本的な語彙説明も入れたかったのですが、今回は省略です。自分用の資料集だけに掲載しておこうと思っています。
 そうそう、上記掲載碑文の詳細は相変わらずいつもの別HP6月用に掲載してありますので、興味のある方は御笑覧ください。
 さて、次回からようやく喜連川町の次の地点へと進むことが出来ます。同じ喜連川町内にある慈光寺にある「梅園秋元翁墓表」の清書に進もうと思います。幸い?にも、明日からの週末は梅雨に入っての雨が続く予報。のんびり、清書が出来そうですが、5月10日から始めた栃木県氏家町で手拓した拓本はそのまま居間に積んである。これも早くパソコンに取り込まなければならないので、その作業のどちらにするか、明日の朝は悩みそうである。

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2014年06月03日は栃木県喜連川町の喜連川藩第九代藩主、彭氏公の墓碑案内です。

2014年06月03日 | Weblog

上記画像、謚は「惇徳院殿允山元公大禅定門」で諱は「彭氏(ひろうじ)」。喜連川藩第九代藩主の墓碑です。撰文は、大学頭林昇で揮毫者は戸川安清。そして石工は廣羣鶴という優れものです。その手拓画像を含めて精査報告内容を、別HPの6月のところへ掲載してあります。と言いつつ、今回の銘文文字はいつものように碑文に穿たれた文字を見習って作字(馬鹿見たい時間を要して)したのですが、出来上がって見るとそうそう簡単に読める代物ではなくなりました。そこで再度、今度はその字形を無視して一般の文字で書き改めました。流石にこの墓碑に膨大な時間をかけてしまったので、今度ばかりはささっと拓本を見ながらパソコンに打ち込みましたので、あるいは読み間違いがあるかもしれません。その節は、御指摘方々御叱責のお言葉をくださいましたら幸甚です。
それにしても、この喜連川藩主の墓碑4基を最初に調べだしたのは4月の12日。それからまもなく2ヶ月が経過しようとしています。それでもどうにかここまでたどり着きましたので、今度は一般の石碑に入ることが出来ます。これからの週末は、夏日になるようだったら石仏調査に行かずに、せっせと遅れている碑文の清書に取り掛かろうと思っています。これって、複雑な心境なのですが‥

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2014年05月31日は栃木県氏家町の石仏巡りでした

2014年06月02日 | Weblog

「南無阿弥陀佛」という六字を用いて地蔵菩薩の姿を現した自然石。もちろん、ここでの造立目的は墓碑としてではあるが、その姿があまりにも素晴らしいので、いつかは拓本として残しておきたいと思っていた1基。河内町にもこれと同じものがあるが、それは既に手拓済みなので、これでようやく二基が揃ったことになる。同地には、梵字での六字名号塔もあるので、ついでにそちらも手拓した。それらは、別HPの5月号の方に掲載してありますので、興味のある方はご照覧ください。


さて、今度は本日のおまけとして出会った青面金剛様です。最初に見ていただきたいのは、その側面に刻まれた「庚申供養塔」の「塔」の文字です。「襠」とは、音読みで「トウ」と読み、訓読みでは「まち・うちかけ」となります。それを、このように石塔の「塔」の文字に当てはめた例は管見ながら栃木県で始めての出会いです。もうこれだけでうれしいのに、そこに見える三叉矛はどう見ても武器には見えぬ代物。加えて、一般には「骸骨」の姿で表されるものが裾の両端に「人頭」となっている。しかも左右のバランスをとるような非常に面白い造形である。これも、別HPの方へ掲載してありますので、興味のある方は御笑覧ください。
さて、そんなこんなで真夏日となった今日の石仏巡り。汗ビッショリになって帰宅し、真っ先にしたのは風呂へ入ること。そして出てくると、顔が真っ赤に膨れている。どうやら、今日の暑さに皮膚が焼け爛れたようだ。家内が驚いて、まずは冷蔵庫の中に入っている冷却剤を取り出して顔に乗せての荒療法。何とか1時間後には、さしものハレも大分収まっての夕食となって、まずは苦笑い。これからは、加齢のことも考え、夏日以上になる日は石仏巡りに出かけるのを少しばかり控えようと、柄にもなく思う私だった。皆様も、これからの暑さには充分御注意ください。(笑)

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