一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

映画『日日是好日』 ……黒木華と樹木希林の佇まいが美しい、一期一会の感動作……

2018年10月13日 | 映画

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この映画の公開を待っていた。
なぜなら、私の好きな3人の女優が出演していたからだ。
黒木華、多部未華子、そして樹木希林。


今年(2018年)の9月15日に亡くなった樹木希林さんの遺作でもあるし、
(他に、2019年公開予定の『エリカ38』という作品も控えている)
「絶対に見る!」と決めていた作品であった。

原作は、
エッセイストの森下典子が、


約25年にわたり通った茶道教室での日々をつづり人気を集めたエッセイ『日日是好日 ―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ―』。


監督は、大森立嗣。


真木よう子の演技が秀逸な傑作『さよなら渓谷』(2013年)や、
池松壮亮と菅田将暉の掛け合いが絶妙な秀作『セトウツミ』(2016年)の監督である。
(タイトルをクリックすると、レビューが読めます)
大森立嗣監督作品ということで、期待は益々高まった。


映画『日日是好日』は、10月13日(土)公開となっていたが、
10月6日~8日に先行上映されることが判り、
10月7日(日)に、天山に登った後に、映画館へ向かったのだった。



大学生の典子(黒木華)は、二十歳。


〈一生をかけられるような何かを見つけたい……〉
と常々思っているが、学生生活は瞬く間に過ぎていく。
真面目で、理屈っぽい性格。
なのに、おっちょこちょいだったりもする。
そんな自分に嫌気がさす典子だったが、
母(郡山冬果)からお茶を習うことを勧められる。
乗り気ではなかったが、
やる気満々の同い年の従姉妹・美智子(多部未華子)に誘われるがまま、


流されるように茶道教室に通い出す。
通う先は、タダモノではないと噂の「武田のおばさん」(樹木希林)の茶道教室。


見たことも聞いたこともない「決まりごと」だらけのお茶の世界。
質問すると、
「意味なんてわからなくていいの。お茶はまず“形”から。先に“形”を作っておいて、その入れ物に後から“心”を入れるものなのよ」
と武田先生は答える。
「それって形式主義じゃないんですか?」
と美智子が反論すると、
「なんでも頭で考えるからそう思うのねえ」
と先生は笑って受け流す。


反発したり、お茶をやめたいと思うこともあったが、
それから20数年にわたり、典子は武田先生の下に通い続ける。
そして、
就職、失恋、大切な人の死などを経験しながら、
お茶や人生における大事なことに気がついていくのだった……




私自身は、「お茶」のことはまったく知らなかったので、
驚きと感動の1時間40分であった。
登場人物は少なく、
ほとんどが武田先生の家でのお稽古のシーンばかりなので、
普通だったら退屈な映画になるところなのだが、
そうならないのは、
「お茶」を題材として語られる人生哲学のようなものが、
見る者に深い共感を呼び起こすからだ。
そして、黒木華、多部未華子、樹木希林の美しさが際立っているからだ。






大森立嗣監督は、「お茶」の流れるような作法を撮りながら、


佇まいのみならず、
黒木華、多部未華子、樹木希林の顔を何度もアップでとらえ、
その表情を美しく映し出す。


四季折々の庭の風景や、


お茶室の中の、畳や、襖や、掛け軸や、茶器……






そして、季節を表現した和菓子など、




映像の隅々まで美しいのだ。



映画『日日是好日』のことをもっと深く知りたいと思い、
鑑賞後、書店に寄って、原作本(新潮文庫)を購入した。


そして、じっくりと、言葉のひとつひとつを味わいながら読んだ。
堅苦しい「お茶」の本と思いきや、
著者・森下典子が、
「日日是好日」の本当の意味を知るまでの、
「お茶」と共に歩んできた自らの来し方を語ったものであった。

『日日是好日 ―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ―』森下典子著(新潮文庫)
の目次を見ると、次のような項目が並んでいる。

まえがき
序章 茶人という生きもの
第一章 「自分は何も知らない」ということを知る
第二章 頭で考えようとしないこと
第三章 「今」に気持ちを集中すること
第四章 見て感じること
第五章 たくさんの「本物」を見ること
第六章 季節を味わうこと
第七章 五感で自然とつながること
第八章 今、ここにいること
第九章 自然に身を任せ、時を過ごすこと
第十章 このままでよい、ということ
第十一章 別れは必ずやってくること
第十二章 自分の内側に耳をすますこと
第十三章 雨の日は、雨を聴くこと
第十四章 成長を待つこと
第十五章 長い目で今を生きること


サブタイトルの
―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ―
の“15のしあわせ”とは、
第一章から第十五章までの章題に短い言葉で表現されており、
内容も、実に解り易く、優しく書かれていた。

「日日是好日」については、第十三章に、このように記されている。


雨は、降りしきっていた。私は息づまるような感動の中に座っていた。
雨の日は、雨を聴く。雪の日は、雪を見る。夏には、暑さを、冬には、身の切れるような寒さを味わう。……どんな日も、その日を思う存分味わう。
お茶とは、そういう「生き方」なのだ。
そうやって生きれば、人間はたとえ、まわりが「苦境」と呼ぶような事態に遭遇したとしても、その状況を楽しんで生きていけるかもしれないのだ。
私たちは、雨が降ると、「今日は、お天気が悪いわ」などと言う。けれど、本当は「悪い天気」なんて存在しない。
雨の日をこんなふうに味わえるなら、どんな日も「いい日」になるのだ。毎日がいい日に……。
(「毎日がいい日」?)
自分で思ったその言葉が、コトリと何かにぶつかった。覚えがあった。どこかで出会っていた。何度も、何度も……。
その時、自然に薄暗い長押の上に目が行った。そこに、いつもの額がある。
「日日是好日」
(……!)
(毎日がよい日)
なんだろう。この奇妙な符合……! ゾクゾクした。
自分を含めて、そこに存在するすべてのものが、織り込まれた一枚の布のようにつながっていた。
「日日是好日」の額は、初めて先生の家に来た日から、いつもそこに掲げられていた。初めてお茶会に連れて行ってもらった日には、掛け軸に書かれていた。その後、何度もこの言葉を見てきた。
ずっと目の前にあったのに、今の今まで見えていなかった。
「目を覚ましなさい。人間はどんな日だって楽しむことができる。そして、人間は、そのことに気づく絶好のチャンスの連続の中で生きている。あなたが今、そのことに気づいたようにね」
そのメッセージが、ぐんぐん伝わって胸に響く。
(新潮文庫版217~219頁)


映画の中でも、
原作本の中でも、
私が個人的に最も感動したのは、
第十一章の「別れは必ずやってくること」に記されていた、
「一期一会」についての文章だ。

平成2年(1990年)。
典子は、33歳のときに、遅まきながら親元を離れ、一人暮らしを始める。
ある日、66歳の父から、突然電話があった。
「用事があって近くまで来たんだ。ちょっとお前のマンションに寄ろうかと思ってな」
ところが、その日は、昔の同級生が遊びに来ていた(映画では別の理由だった)ので、
そう告げると、
「そうか。いいよ、いいよ、また会える」
と言って、父は電話を切った。
せっかく電話をくれたのに、会えなかったことが妙に心に引っ掛かっていた典子は、
夜の11時過ぎに実家に電話をする。
だが、父はすでに寝ていたので、
母親に「土曜日に寄るから」と告げて、電話を切る。

その週の金曜の夕方、机の上の電話が鳴った。受話器をとると、ひどく取り乱した母の声だった。
「パパが、倒れたの! すぐ来て!」
三日後の朝、父は一度も意識を取り戻すことのないまま、病院で息を引き取った。
「そうか。いいよ、いいよ、また会える」
あれが父とかわした最後の言葉になった。
倒れる日の朝、父が、
「明日は典子が来るから、竹の子ご飯にして、みんなで食べような」
と、楽しみにしていたと、病院で弟から聞いた。
私は白い壁にコンコンと頭をぶつけながら思い出そうとした。
(いつだっけ? 最後に家族で食卓を囲んだのは、いつだっけ?)
私は、急いで時間を駆け戻ろうとした。過去に戻れると思っていた。そして、戻れないことを知った。平凡で陳腐に思えた家族四人のだんらんは、二度と戻らないものになっていた。その「二度と」という言葉の冷たさに、私は立ちすくんだ。
人間は、ある日を境に「二度と」会えなくなる時が必ずくるのだ……。
(中略)
人生に起こるできごとは、いつでも「突然」だった。昔も今も……。
もしも、前もってわかっていたとしても、人は、本当にそうなるまで、何も心の準備なんかできないのだ。結局は、初めての感情に触れてうろたえ、悲しむことしかできない。そして、そうなって初めて、自分が失ったものは何だったのかに気づくのだ。
でも、いったい、他のどんな生き方ができるだろう? いつだって、本当にそうなるまで、心の準備なんかできず、そして、あとは時間をかけて少しずつ、その悲しみに慣れていくしかない人間に……。
だからこそ、私は強く強く思う。
会いたいと思ったら、会わなければいけない。好きな人がいたら、好きだと言わなければいけない。花が咲いたら、祝おう。恋をしたら、溺れよう。嬉しかったら、分かち合おう。
幸せな時は、その幸せを抱きしめて、百パーセントかみしめる。それがたぶん、人間にできる、あらんかぎりのことなのだ。
だから、だいじな人に会えたら、共に食べ、共に生き、だんらんをかみしめる。
一期一会とは、そういうことなんだ……。
(新潮文庫版194~196頁)


携帯電話やメールなど、いくつもの連絡手段があり、
交通手段も発達している現代において、
「一期一会」という言葉を聞いても、
「なんと大袈裟な!」
と感じている人は多いことと思う。
だが、『日日是好日』という映画を見て、原作本を読むと、

会いたいと思ったら、会わなければいけない。好きな人がいたら、好きだと言わなければいけない。花が咲いたら、祝おう。恋をしたら、溺れよう。嬉しかったら、分かち合おう。
幸せな時は、その幸せを抱きしめて、百パーセントかみしめる。それがたぶん、人間にできる、あらんかぎりのことなのだ。
だから、だいじな人に会えたら、共に食べ、共に生き、だんらんをかみしめる。
一期一会とは、そういうことなんだ……。


という言葉が、魂の叫びとして、
見る者、読む者の心に響いてくる。

優れた原作本を、
優れた監督が脚色、演出し、
優れた女優たちが好演しているのが、
映画『日日是好日』である。


この映画を見ると、
どうしようもないと思えた己の人生の一瞬一瞬が、
なんとも愛おしいものに思えてくる。
―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ―
の“しあわせ”の項目を見ていると、
「見て感じること」
「季節を味わうこと」
「五感で自然とつながること」
「自然に身を任せ、時を過ごすこと」
「自分の内側に耳をすますこと」
「雨の日は、雨を聴くこと」

などは、“山歩き”の幸福感に通じるものがあるし、
「一日の王」になれる大事な要素を多く含んでいることが解る。


映画を見た後に、原作本を読むもよし、
原作本を読んだ後に、映画を見るもよし。
『日日是好日』という本と映画は、
あなたの人生を、
もっと豊かなものに、より輝かしいものに変えてくれるに違いない。
ぜひぜひ。

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