玉琳(ぎょくりん)三叉路手前にある大きな石は目立つ。ちょっと分かりにくいが、三叉路から折り返して丘陵を越える細い道が北方向に延びていく。
その坂の登り口付近に地蔵尊・回国供養塔・道しるべ(レプリカ)などの石造物がまとめられ背後に「玉琳と因幡往来」の説明板が設置されている。
玉琳という地名は、およそ四百年前の修験者河内玉琳に由来する。
ここ玉琳は、森家の街道整備によって一里塚が設置された場所であり、また、出雲街道から因幡道が北に分岐する場所でもあった。
そのため、幕末の不穏な情勢の中では、元治元年(一八六四)、城下町周辺の要所八ヶ所に設置された番所のひとつが、ここに設けられていた。
因幡街道沿い(巨木の下)に祀られた小社が今宮神社である。玉琳は説明板に記載のある修験者が埋葬された地ということで塚も存在する。峠や切り通し(主要街道)で監視の目を光らせたのはどの藩も同じである(備後福山藩では榎木峠、藁江峠などが有名)。私は坂から有名な橋野食堂を見下ろして出雲街道へ戻った。
その坂の登り口付近に地蔵尊・回国供養塔・道しるべ(レプリカ)などの石造物がまとめられ背後に「玉琳と因幡往来」の説明板が設置されている。
玉琳という地名は、およそ四百年前の修験者河内玉琳に由来する。
ここ玉琳は、森家の街道整備によって一里塚が設置された場所であり、また、出雲街道から因幡道が北に分岐する場所でもあった。
そのため、幕末の不穏な情勢の中では、元治元年(一八六四)、城下町周辺の要所八ヶ所に設置された番所のひとつが、ここに設けられていた。
因幡街道沿い(巨木の下)に祀られた小社が今宮神社である。玉琳は説明板に記載のある修験者が埋葬された地ということで塚も存在する。峠や切り通し(主要街道)で監視の目を光らせたのはどの藩も同じである(備後福山藩では榎木峠、藁江峠などが有名)。私は坂から有名な橋野食堂を見下ろして出雲街道へ戻った。