古寺の地蔵堂を出て波止浜街道を引き返し「鴨頭医院」の前に来た。大西町新町の三叉路は波止浜街道と今治(=松山)街道の分岐点にあたり江戸時代には札場が置かれていたという。旧道歩きを趣味とする人達には説明不要と思うが、追分の近くに御仕置場(=獄門場)が設置された事例はかなりあるのだ(※備後福山藩の榎峠など)。
かつては非常に重要な地点だった場所に建つ2本の石柱。新しい方が「四国のみち」の石碑(平成四年三月吉日建立)で風化が進んだ道標には施主として井手氏の名が刻まれていた。私は「延命寺」方面へと足を向けた。
道標から東へ直線距離で350mほど移動すると南側に国道196号が見えた。逆方向(北50m)に位置する「紺原集会所」を急いで撮影し感知式信号機付交差点へと駆けて行ったのだった。
かつては非常に重要な地点だった場所に建つ2本の石柱。新しい方が「四国のみち」の石碑(平成四年三月吉日建立)で風化が進んだ道標には施主として井手氏の名が刻まれていた。私は「延命寺」方面へと足を向けた。
道標から東へ直線距離で350mほど移動すると南側に国道196号が見えた。逆方向(北50m)に位置する「紺原集会所」を急いで撮影し感知式信号機付交差点へと駆けて行ったのだった。