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聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.2.2.リーブルヴィルの聖ヨハネ神学校

2010年06月18日 | ルフェーブル大司教の伝記
リーブルヴィルの聖ヨハネ神学校

  初期の内は、授業はアフリカで開始してパリで終了した。大神学校は1874年に開校したが、1899年になってようやくガボン初の司祭アンドレ・ラポンダ・ウォーカー(André Raponda-Walker)神父が叙階された。彼はガボン一帯の動植物相の専門家 であり、マルセル神父は彼と面識をもつだろう。神学生たちの堅忍を妨げたものとしては、家庭環境における薄弱な知的文化と、自分たちの積んだ勉強故に元神学生たちが得ることができた収入の多い仕事への魅力であった。1929年には、タルディ司教は10名の土着民司祭を有し、シャルル・レミ神父が校長を務める神学校には、30名の神学生がいた。その内の22名は、フォレ神父が責任を持って当たる小神学校に属し、残りの8名は大神学生だった。

  翌年、布教聖省から1926年1月31日に出された提唱に従ったリーブルヴィルの聖ヨハネ神学校は、ガボン代牧区や、コンゴ‐ロアンゴ代牧区(将来のポワント・ノワール代牧区)、さらにコンゴ‐ブラッザヴィル代牧区から送られる生徒たちを引き受け、複数の代牧区のための神学校(séminaire intervicarial)となった。1931年4月、フォレ神父は校長に、ルネ・ルフェーブル神父はその補佐役に任命された。後者は以前に、ンジョレ(Ndjolé)や、シンダラ(Sindara)、そしてポールジャンティ(Port Gentil)に任命されていて、リーブルヴィル教区の聖ペトロ小教区教会(サン・ピエール)において助任司祭の持ち場を引き継ぐ為にもマルセル神父の到着を待っている最中だった。

  1932年の初めに、マルセル・ルフェーブル神父が、兄のルネ神父とヴォージュ(Vosges:フランス北東部アルザス地方)地方出身の屈強な男で総長代理司祭のポール・ドフラヌー(Paul Defranould)神父と共に、港から聖マリア宣教区までの急勾配で短い丘をよじ登った。この丘に上がるなり、壮大な眺めが広がっていた。背後にはドゥ二岬(Pointe Denis)まで見渡せる大きく広がる全河口、前方には、壁石のはめ込まれた丸天井とフレスコ壁画が薄明かりの中で【後に‐訳者】マルセル神父が短い祈りを捧げる、陽だまりに鮮やかな白が映えるあの上品な司教座聖堂 が建っていた。右側には、青色姉妹会修道院と350人の女性徒を抱える修道会経営の学校、さらに土着民の修道女たちを養成する修練院や、パウィンヌ婚約事業の家 へと続く小道があった。

 その向こうには、巨大な中庭が、数百名の実習生のいるジャン・ケルジャン(Jean Kerjean)神父の学校と向こう側で接しており、左側近くには修道士たちの家屋と、ジョゼフ・プティプレ(Joseph Petitprez)神父によって建てられた印刷所があった。

 左側のさらに遠くには、海岸から運ばれてきた申し分なく頑丈な茶色い石によって低い平地に建てられ、全体が軽量素材で出来た二階建ての垂直な建物が見えた。これは元モンフォール・スクールの建物で、モンフォール・スクールは1930年に聖ペトロ小教区教会(サン・ピエール)に移転して建物を残していったのだ。大いに施設の必要を感じていた聖ヨハネ宣教区が今ではそこを使用していた。
マルセル神父は、タルディ司教から見事な司祭館に喜んで迎え入れられた。そこは涼しく、風通しも良い回廊に囲まれており、この代牧が住んでいる場所でもあった。

 マルセル神父は、フォレ神父の指導の下で彼と共に、公教会における芸術の中の芸術、最高の宣教師の仕事、つまり土着民を司祭に養成することを、働くことになるのだ。

 1902年にアラン・ザン・ビゴール(Arrens-en-Bigorre )に住む農場経営者の家族に生まれたジャン・バティスト・フォレは、斧のような形に潰れた鼻と、ダルタニャン【D'Artagnan(1615年 - 1673 年】は、ブルボン朝時代に活躍したフランスの軍人で、アレクサンドル・デュマ・ペールが『三銃士』を始めとする『ダルタニャン物語』で描いた人物として有名‐訳者】並みの見事な口ひげ、さらに小さく、か細い先の尖ったあごひげを持つ厳格な骨ばった顔の向こう側に、冒険心と情熱的な心を隠していた。  

 従順かつ熱狂的に、若きマルセル神父は授業に取り掛かり、大小両神学校における全ての授業をフォレ神父と共有した。その他の課目の中で、マルセル神父は、一クラスで生徒全員に受講させる事が出来るように周期的な教育課程を作って、教義神学と聖書学を教えた。

 ルフェーブル神父の機械整備の腕前に気付いたドフラヌー神父は、彼にミッション時の運転手を任せていたが、間もなくして神学校の会計係の役目を彼に担わせた。

 食べるものと言えば、パンを含んでいたが、主要な食事の内容は、宣教地区にある大農園の収穫を拠り所としていた。マニョック(キャッサバ)芋【サツマイモに似ていてタピオカの原料になる‐訳者】と特にバナナ、イニャム芋と御馳走とされているサツマイモなどが、魚、あるいは非常に稀ではあったがココナッツかピスタチオの油で調理された豚肉と共に、胡椒を加えて、供給されていた。
この宣教師なる教授の父親、ルネ・ルフェーブルは長男のルネ神父に手紙を書いて、次男の生活をむしろ理想化していた。

「私たちは、敬虔、という雰囲気や、そこを取巻く環境の静けさと美しさ、そして生育する植物になど、私たちが知る限り、理想的な修道院にいるマルセルを見守っています。」

 明らかにマルセルは、絶えず自分を汗まみれにし、極度な疲労をもたらす暑さと湿度の事や、休むことなく勉強をしては授業を準備しなければ成らない事については黙していた。

 しかし鉄の意志を持つ人間として、ルフェーブル神父は申し分のない健康を維持すると共に、湿気の多い幾つもの夜を切り抜けて眠る事さえ出来たのである。
“かなり気難しい”人であったフォレ神父と彼は上手くやっていった。

 フォレ神父は、夕食のテーブルでマルセル神父をからかうのが好きだったが、そのうち最後に笑うのは自分ではないと悟った。何故なら、彼がもらった返答は穏やかではあったが‐タルディ司教が非常に面白がるには‐それに対する反論の余地がないものだったからである。この頑固な北国のフランドル生まれ と、誇り高き南国のピレネー生まれ との友情はますます強くなったのだ。

 休暇がやって来ると、マルセル神父とその兄は神学生たちを連れて未開地への旅行に出かけた。教え初めて二年目は、司祭たちと司教との望ましい協力関係を強固なものにした。この司教はルフェーブル家に“心からの感謝状”送った 。フォレ神父によれば、マルセル神父は非常に融通がきいて愛想が良く、微笑みながらも自己の信念においては揺るぐことなく、生徒たちには非常に評判が良くて、司祭たちからはありがたく思われる方だったという。その宣教師人生の始めから、彼は司祭養成に適した傾向とそれ特有の才能を証明したのだ。

 「マルセルは」ルフェーブル夫人は書いている。「非常に幸せですが、彼らの鈍い理解力を教化し、自分に一部委ねられたものとして彼らの意志を強化する為にやるべき職務について、一切の幻想を持っていませんでした。」そして彼女は言った。「ただ恩寵だけがこの奇跡を行えたのです。」  


聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.2.1.土着民聖職者と神学校の為に

2010年06月17日 | ルフェーブル大司教の伝記
Ⅱ. リーブルヴィルの聖ヨハネ神学校にて(1932-38)


土着民聖職者と神学校の為に

  十五世紀突入当初より、聖座は次に述べる宣教の全体的目標を抱いていた。つまり土着民の聖職者たちの指導の下で存続するために十分発展した地方教会を築く事だった。 土着民の聖職者養成は、同様にリベルマン神父自身の関心事でもあった。しかし、公教会が認めるように、アフリカに関して持っている直観により、リベルマン神父はアフリカ人司祭たちをそのアフリカの地で養成したいと思ったのだ。 こうして1847年にはダカールにおいて、さらに1861年にはリーブルヴィルにおいて、リベルマンの息子たちは最初の小神学校を開校したのである。


ルフェーブル大司教の伝記 6.1.2.ガボンの福音宣教ベスィユ司教とその後継者

2010年06月16日 | ルフェーブル大司教の伝記
ガボンの福音宣教‐ベスィユ(Bessieux)司教とその後継者

  赤道直下のアフリカ大陸における福音宣教は、ポルトガル人宣教師たちによって1491年に開始され、非常に速やかに近海の島々や大陸から来た邦人司祭たちの手助けを受けた。公教会はベニン王国(Benin)とコンゴ南部王国内に定着した。

 [ポルトガルのコインブラで学んだコンゴ王ペドロ3世の息子ヘンリーが、1518年5月8日に、教皇レオ十世によって司教に聖別された時それは、公教会にとって栄光の時だった。1596年、アンゴラとコンゴを統轄する司教座が設立された。ガボンの方は、ドゥアルテ・ロペス(Duarte Lopez)が今日ではその名前を持つ岬に上陸すると、おそらく宣教師たちの連続した急増を経験したのだろうか? 彼らはアウグスティヌス会士、イエズス会士、及びカプチン会士たちであった。いずれにしても十九世紀までは、宣教師たちの功績の跡というものは一切残らなかったのだ。

  パリにある勝利の聖母の小教区司祭デジュネット(Desgenettes)神父の摂理的介入を通して、尊者リベルマンが、エドワード・バロン(Edward Barron)司教との接触を取るに至った。この司教は、少し前にセネガル川から南部を流れるオランジュ川まで広がる広大な地域である、(所謂)“二つのギニア”の代牧(vicaire apostolique)に使命されたばかりのアメリカ人高位聖職者であった。残念にも、リベルマンの息子たちによる第一回目の遠征はリベリアの棕櫚岬(the Cape of Palms)で、7人いた宣教師の内の6人がアフリカ熱によって死亡し、悲劇として終わりを遂げたのだ。

 ジャン・レミ・ベスィユ神父(1803-1876)は死んだと思われていたが、たった一人生き残り派遣されていなかった所‐ガボン‐へ1844年9月28日に上陸することとなった。

 彼は、遡る事4年前にフランス海軍によって築かれたオマール駐屯地【Fort d’Aumale】近くに定住した。1848年、奴隷船から逃れて来た黒人の一団は、小高い高原にある駐屯地近くに住み着いた。それが理由でこの高原はリーブルヴィル【Libreville:自由の町‐訳者】と名付けられた。そしてベシィユとその最初の伴侶たちはキリスト教を彼らに教え始めた。1849年、無原罪の御宿り姉妹会がカストル (Castres)から到着した。ベスィユ司教は、ヨーロッパで司教に聖別されて後、二つのギニアの代牧としてガボンに戻った。

  1860年に彼はポングェ族の回心を使命とする聖ペトロ小教区(サン・ピエール)というリーブルヴィルの小教区を設立した。彼の後継者たちは、川伝いに進むさらに深く内陸に向かった。コモ(Komo)川、オゴウェ川とその支流、さらにングニェ(Ngounié)川を深く上り、およそ12箇所に根拠地を設置した。最後のものとなるオイェム(Oyem)の根拠地は、既存の根拠地から選抜された120人というカテキスタ(公教要理を教える伝道師)の大群の手を借りて、1929年にタルディ(Tardy)司教によって設置された。これらの“偉大な手段”は実を結んだ。一年後のオイェムは、既に7,000人の求道者を抱えていたのである。

 1904年から1918年までの間、ルイ・タルディ司教はンジョレ(Ndjolé)の宣教師であった。1926年に司教としてそこに帰って来た彼は、25名の聖霊修道会司祭と、6名の邦人司祭、聖霊修道会の修道士部門から16名の修道士ら、さらにリーブルヴィルの聖マリア宣教区にあるモンフォール・スクールで教職に就く3名の聖ガブリエル修道会修道士、さらに若き女性たちを教育する33名の無原罪姉妹会(Soeurs de l’Immaculée)の修道女たちを同伴していた。タルディ司教の非凡な才能は、1911年にガボンで原住民の為に創立された聖マリアの幼き姉妹修道会(Congrégation des petites Soeurs de Sainte-Marie)を発展させる事になった。この修道会は女性解放のための彼の戦いにとって大成功であった。それは間もなく青色姉妹会(Soeurs Bleues)の養成を受けた50名の修道女たちを持つ事になり、1949年には独立した組織になった。この司教が持つ第二の天才的手腕とは、カテキスタの養成である。カテキスタたちは地域の代表カテキスタの責任下にある村々に配属された司祭たちに不可欠な助手であった。この増大する大群のお陰で、ガボンにおけるキリスト教は次の表が明確にする様に、驚くほどの発展を遂げた:

年度    1925    1931   1938
伝道師   152     700   1451
受洗信者  18,660  30,000  69,684
洗礼志願者  3400  35,000  43,130

  このようにして、カトリックの教会は聖座の指導に従いつつ偽りなくこの国の“占領”に取り掛かったのである。


聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.1.1.ジャングルとその住民

2010年06月15日 | ルフェーブル大司教の伝記
第二部 宣教師

第6章 ガボンのジャングルに住む人

Ⅰ. アフリカにおける尊者リベルマンの息子たち


ジャングルとその住民

 ガボンは、大河オゴウェ(Ogooué)とその支流、及びそれに隣接する川が幾つも流れる盆地に位置する国である。これらの川を流れる豊かな水は、湖や、入り組んだ入海に向って開かれた様々な河口に注いでいる。航行可能な下流を持つこれらの川も、人跡未踏な区域となれば、危険と言うよりはむしろ、渡ることさえ出来ない激流となっている。





 見渡す限り、赤道直下の酷暑の森林が丘陵地帯に広がっている。絶えずに高温多湿であるその気候は、毎年八ヶ月も降り続く激しい雨により酷くなるだけであり、マラリア、眠り病、肝血腫などの原因となるあまたの不快な害虫を引き寄せた。これらの害虫のどれ一つを取っても、身軽な豹(ヒョウ)や貪欲なワニよりも遥かに危険なのだ。

 少数の原住民であるピグミー族は別として、その住民は、(土壌枯渇に起因する)半遊牧民である25に及ぶバントゥー族から成り立っていた。宣教師達は彼らの救霊の為に、自らの健康や実際には命さえも危険に曝していたのだ。この部族は定住する傾向にあり、彼ら独自の風習と固有の方言を保ってしたのである 。マルセル神父は特に、聡明で商売熱心な河口沿いに住まいを定めるポングェ族や、その親類でオゴウェ川下流域に住むガロア(Galoas)族、あるいはミエネ(Myénés)族、さらにオゴウェ川の河口全域を侵略していた北の住民ファン(Fans)族、又はパウワン(Pahouins)族と面識を持つことだろう。

 上述した原住民の全てが、この大河沿いの二十から数百の小屋から成る村々で生活している事は【宣教師たちの‐訳者】司牧を促進した。時折彼らは内陸に向い、止めどなく潅木が生い茂る丘を越えて蛇行する小道沿いに居住した。彼らは、叔父や叔母または従兄弟ら、さらに最初の妻か、彼女たちが買われている限りでは、別の妻たちの何れかから生まれている一人の親が儲けた全ての子孫たちを算入すれば、【血縁的には‐訳者】広範囲な家族において生活していた。このような一夫多妻制を認めない宣教師たちではあったが、洗礼に拠れば愛徳に変質するものである保護による結束性の中に、その存在理由を見出す部族の階級制度を重んずるよう心がけた。




 この原住民たちは基本的に、彼らを創造された個人的な神や、霊魂の不滅を信じていた。しかしながら、彼らの礼拝には、先祖たちから受け継いだ儀式と、悪魔が持つ保護力に対する信心が含まれていた。呪い師たちはくじ引き、又は占いを通してこれらの悪霊たちを働かせ、それによって絶えず恐怖心や、執念深い憎悪、殺人、さらに、特に真の天主と唯一の救い主に対する無知を助長していたのだ。

 天主への愛徳を繁栄させようと硬く決意した先任者たちが残してくれた足跡をマルセル・ルフェーブル神父が辿り始めた場所とは、正にここだった:Credidimus caritati‐私たちは天主の愛を信じた 。





聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 20.1.4.“エクレジア・デイ”の心理

2010年06月14日 | ルフェーブル大司教の伝記
“エクレジア・デイ”の心理

  “エクレジア・デイ傘下”のカトリック者たちの動機は、様々である。ビズィーク神父などは、ローマに対する彼の信仰を考えるなら最も高潔である。しかし彼の信仰とは、ローマが占領されているという事実を忘れたいと望む、良く照らされていない信仰である。“破門された”大司教から追随者たち数名を引ったくって、そっと少しずつ、第二バチカン公会議に彼らを引きずってくることを喜ぶローマのことを

 ルフェーブル大司教は批評している。
「現今の公会議による当局の手の内に身を置くことで、彼らは暗黙の内に公会議と、それに由来する改革を承認しているのです。仮に彼らが、諸特権をもらったとしても、特別で一時的なものに留まるのです。この承認は彼らの発言を一切妨げてしまいます。司教たちは彼らを見張っているのです。」

  さらに占領されているローマは、エコンの大司教が主張する緊急事態など存在しないと証明する事にも満足していた。彼らは言うのである。ほらね、私たちがルフェーブル大司教に5月5日に譲歩していたものを全部、つまりミサ、神学校、1962年版の典礼様式による叙階式の継続、教皇権を皆さんに差し上げますよ、と。全てを提供しますよお、但し、司教を除く!と。

 「はっきり申し上げますが、」ルフェーブル大司教は強調した。「仮にローマが『エクレジア・デイ』に司教一名を与えたとしても、それは一体どんな司教でしょうか?」

 「どんな司教? それはもちろん、バチカンにとって好都合な司教です。この場合には、彼らはとてもスムーズに自分たちを公会議に連れて行く司教を持つでしょう。それは分かり切った事ですよ。完全に聖伝を支持し、公会議の誤謬と公会議後の改革に反対するような司教を彼らが持つことなど絶対にないでしょう。だからこそ、私たちの時と同じ議定書に署名しなかったのです。彼らには自分たちの司教がいないからです。」


 占領されているローマは、完全に聖伝を支持する司教など望みもしないのだ。

 “エクレジア・デイ傘下”のその他のカトリック者たちは、教会的な一致が信仰の一致と同様に重要であると考えている。これは【信仰の一致が存在する‐訳者】平和な時代にとっては真実なのではあるが、異端がはびこり、聖伝から離教している時代にとってそうなのではない。加えて言えば、ルフェーブル大司教が言う様に、公教会の一致は、ただ空間における水平の一致であるのみではなく、時間における【不変の信仰における一致により確証され、過去から今日まで、全時代を貫いてきた‐訳者】垂直の一致でもあるのだ 。

 ドン・ジェラールはジャン・マディランと共に「公教会の公式な可視的範囲外に追いやられる事」は「正に公教会の聖伝そのものにとって害になる」と考えた。

 大司教は回答した。
「ドン・ジェラールとマディラン氏による可視的教会とかいうこの話は子供じみています。私たちが代表し、存続させようと試みているカトリック教会に対立する公会議の教会のことを、彼らが可視的教会であると語ることができるとは、信じられないほどです。状況を熟知しているマディラン氏が、私たちは可視的教会の中におらず、私たちが不可謬なる可視的教会を出て行こうとしていると言ったとしても、これらの言葉はこの状況の現実を表していません。」

 “エクレジア・デイ傘下”のカトリック者たちは一般に、彼ら曰く、自分自身をその外に置いてしまったルフェーブル大司教よりも、自分たちは“公教会の内側から”より効果的な働きをすると考えている。大司教は熱意を以ってこの反論に答えた。

「どの教会について話しているのでしょうか? もしそれが公会議の教会なら、私たちは20年間もこの教会と戦ってきましたが、私たちはカトリック教会を望んでいるが故に、この公会議の教会に入り、それを、言わば、カトリックにするべきだと人々が言います。しかし、これは全くの幻覚なのです。長上を作るのは配下の者ではなく、長上こそが配下の者を任命するのです。全ローマ聖省の中で、進歩主義者である世界中の全司教たちの中にいたら、私の声は完全に掻き消されていたでしょう。もしそうだったら、私には信徒と神学生たちを守る為に何もしてあげる事が出来なかったでしょう。さらに、彼らは私たちにこう言っていた事でしょう。「そうですね、皆さんには叙階式を行う為にこの司教を与えましょう、貴方の神学生たちは、これこれという司教区から来たこれらの教授たちを受け入れなければなりません。」そんなことは出来ません!聖ペトロ会には、アウスブルクの司教区から送られた教授たちがいます。これらの教授たちは、どんな人々なのでしょうか?彼らは何を教えているのでしょうか? 」

  最後に、その他の“エクレジア・デイ傘下”のカトリック者たちは、“破門” のレッテルが原因で使徒職の発展に必ずやもたらされる損害を、特に中堅クラス、あるいは“最上流階級クラス”において、予防することを実際面で特に心配している。

 ルフェーブル大司教が展開する戦いに忠実に留まった司祭たちは、---その大々多数は---真理を黙らせるか、もしくは傷つける事を義務付けられるよりは、むしろこの危険を選んだ。何よりも先ず、彼らは聖伝のミサ典書が“昔のやりかたの感性”というものに還元され、公会議による多元主義の片隅に置かれるか、あるいは【教区司教独自の好みに左右される‐訳者】運次第の不安定な特別許可により壊れやすい箱の中にしまい込まれるかするのを拒絶した。

  マディラン氏もまた、この意見を持った人であった。では何故、彼はルフェーブル大司教の後に従わなかったのだろうか?彼は従う人ではなかった。今まで彼は、ルフェーブル大司教の聖ピオ十世会を、“カタコンべやノエの方舟のための司祭たち”として理解していたのだ。 補足裁治権に基づく安定した組織設立は、彼にとってはよそ者であると言うか、必然性に欠けるものであった。6月30日の司教聖別はこの彼にとって自由に討論される問題であり、ロマン・マリーとドン・ジェラールへの彼の友情は、先ず彼が【大司教の‐訳者】見方をする事を差し控える態度を取らせた。大司教は心配し、1988年8月19日に、この報道記者を招いて彼に選択を迫った。

「私たちの20年間に及ぶ戦いの間、あなたの意見と判断は、闘う人々の軍勢を激励し、導く為に非常に重要でした。今回も、もう一度、正しい選択を行って下さい。」

 しかし、それは余りにも遅すぎた。ジャン・マディランは、司教聖別がいったん行われると、この問題の性質は変わってしまう事など理解しなかったのである。かつて司教聖別の仮定は自由討論の題材であったが、6月30日を機に、それは一指導者の賢明な決断の行為になった、つまり信頼の同意と、正しい意見を求めえる行動となったのだ。マディランは、科学的精神(証明するという知的能力を「科学」と呼ぶ意味においてであるが)の犠牲者として、同意すべきところで証明することを望んだのだった 。しかし証明することが出来なかった彼は疑問に思い、その疑念の中、自ら大司教から距離を置き、ついに離脱したのである。

  ルフェーブル大司教は、自分に同意しなかった人々に皮肉や侮辱を浴びせかける様な事はしない。ルフェーブル大司教はこのような高潔な心構えを要求した。

 「私たちの所から去って行った方々に対する不賛成を表すのに、少し辛らつすぎるような表現によってなすことを全て、私たちは避けるようにおそらく気を付けるべきだと考えております。侮辱だと受止めかねない形容を彼らに負わせないように。個人的には、私たちを去って行く方々に対して、私は何時もこの態度を取って来ました。(…)私は常にこの原則に従って来たのです。『関係が無いなら、それで終わり』と。」 この規則は正義であって、愛徳に何一つ反していない。これら2つの徳は、霊的でありながらも実践的なルフェーブル大司教の中で互いに補完し合っていた。

  大司教の地上における生活の終局を物語る前に、私たちはこれから簡潔にマルセル・ルフェーブルの霊的で、心理的、そして倫理的な肖像のスケッチを試みることが残っている。

【日本語訳の読者の愛する兄弟姉妹の皆様は、ここでは、まだルフェーブル大司教のアフリカ時代のことが触れられずにとばされていましたので、私たちは今からアフリカ時代を見てみることにしましょう。トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)】

聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 20.1.3.飢えも渇きもしない人々

2010年06月13日 | ルフェーブル大司教の伝記
飢えも渇きもしない人々

  司教聖別用テントに下る坂頂上で離れて座りながら、ドン・ジェラールは距離を取った。1988年6月30日の午後、「この集会、この拍手全て、この愚行はうんざりするほど十分長く続きました。ここには、私たちにすることなどありません。帰りましょう!」と彼は言いながら、それを聞いて仰天する友人ロラン・ムニエ(Laurent Meunier)氏を残して立ち去った。

 7月26日、彼はジゴンダで、これを最後にルフェーブル大司教と面会した。4時間に及ぶ面会の終わりに、この修道者は大司教に保証した。

 「私たちは閣下への相談もなくローマとは何も致しません。」 しかしながら、合意は実質的には6月16日以来、既に準備が出来ていたのだ。ドン・ジェラールは7月8日付けで教皇に対し「使徒的命令もなく授けられた司教聖別の承認により公教会から離れるというどんな見解にも私たちは反対します。」 と書きさえした。すると7月29日になって、ル・バルーの修道院は、ドン・ジェラールが言った“公教会の可視的防御線”内に統合された。ルフェーブル大司教は、自分がこれまで非常に多くを提供してきた人物によるこの離反に泣いた。

 彼は、自分に対する破門制裁の教令と、ヨハネ・パウロ2世による自発教令エクレジア・デイ・アドフリクタ【Ecclesia Dei Adflicta:苦しむ天主の教会】との後で、司祭15名と神学生15名とが聖ピオ十世会を離れたことよりも、ほとんどもっとドン・ジェラールの背反に動揺した。

 教皇は、ローマにおいて、7月5日と6日に、ヨーゼフ・ビズィーク神父および7名の司祭と会見し、新生の司祭兄弟会を創立すると言う彼らの計画を喜んで受け入れた。これはフリブール近くの、オートリーヴに建つシトー会の大修道院にて7月18日に結成された。彼らの公式発表に拠れば、会創立の構成員たちは、教会法に基づいてビズィーク神父を総長に、フランス人ドゥニ・クワッフェ(Denis Coiffet)神父と、スイス人ガブリエル・ボマン(Gabriel Baumann)神父を総長補佐に選任した。彼らは全員、元聖ピオ十世会の会員であった。

 聖ペトロ会は、ル・バルーやその他の会と同じく、司祭及び修道者も同様に、エクレジア・デイ教皇庁立委員会に従属する。これは「自らの霊的かつ典礼的な聖伝を保ちながらも、カトリック教会の中でペトロの後継者との一致に留まりたいと願う司祭たち、その他の、まったき教会的交わりを助ける」 ために、この自発教令【モートゥー・プロプリオ】によって用意された。これは、信仰の問題、信仰のための戦いという問題というよりは、むしろ【新旧の霊性及び典礼に対する‐訳者】嗜好、つまり好みの問題であった。

 「ラテン語典礼の聖伝に結ばれていると感じる者全て」のために、ヨハネ・パウロ2世は1984年10月3日に発行した特別許可の、「広く寛容な適用」を司教たちに奨励した。こうして、特殊な宗教的感性を持つ人々に対する司教たちの不安定で射倖的な寛容さの範囲内で、特別許可ミサによる支配体制が固められたのである。


聖ピオ十世会(SSPX)創立者 ルフェーブル大司教の伝記 20.1.2.正義への飢え渇き

2010年06月12日 | ルフェーブル大司教の伝記
正義への飢え渇き

 公教会は何時かこの行為が英雄的であったかどうかを判断しなければならないことになるだろう。彼の行動の英雄性を拒む事は簡単であろう。

「ルフェーブル大司教は自分が陥りがちな傾向に、ただ従っただけではないのか?」 彼の“強情な”性格や、「自己」の原則への完全な信頼、あまりにも自分の判断に信頼しすぎること、そして、最後に、自由主義へのアレルギーなどが、【ドン・キホーテのような-訳者】“孤立した騎士”の役をするように、彼を駆り立てたのではないか?と。

 ここまで読むに至った読者たちは、これらの陳腐な決まり文句の誤りを指摘することができるであろうし、大司教が権威を尊重する教会聖職者であり、辛抱強く従順であり、上長には忠実で、人目を引く対立あるいは人を躓かせる対立の敵であって、祈りの人であると共に、御摂理に従う事を唯一の望みとする上智の人であると考えるであろう。少なくとも、本書の読者はこう自問する事ができるだろう。
「大司教の行いは、彼に与えられた特殊な使命に結びついた並外れた恩寵を通して説明されるべきではないか?」

 この恩寵は、すでに前もって予知された責務、予見されつつも1日1日と少しずつ、御摂理が指し示すところに従って実現されていく責務、その責務遂行に伴う全要求を、どんな犠牲を払おうとも、最後までやり遂げる力を彼に与えるのである。天主がそのように導いたマルセル・ルフェーブルは、その時、恩寵の神秘となるだろう。

 御摂理にこそ彼は常に“従う”事を欲した。しかしながら、信頼とは無頓着とは異なる。彼の友人のカルメル神父はこれについて良く存っていた。

「事を天主の恩寵に任せておく事は何もしないという事ではありません!それは【天主を】愛し続けると同時に、私たちに出来る事は何でもする事なのです。」 聖なる委託【saint abandon】とは、“任務放棄や怠惰の中にではなく、行動と事業の中核に見出されるのです。」

 実際に戦う事もしないで、勝利を求めてそれを天主に祈り求める事は不誠実だろう。 ここに気前良く天主の恩寵に応える事を意味する寛大さ【magnanimité】を見出す。寛大さとは、天主の恩寵が、祈りだけではなく、さらに私たちが自分の人格の行いで支払うことを求めるとき、それに寛大に答えることにある。聖トマス・モアはこの意味の寛大さでこう祈った。The things, good Lord, that I pray for, give me thy grace to labour for. 「我が祈り求めるものごとのために働く恩寵を、我に与え給え。」

 私たちが【批判的に】必要な距離を置いていないとか、あるいは賛辞に走っていると非難するような読者の為にも、私たちは、もう一人の聖トマスに、聖トマス・アクイナスに、寛大な人間とはどのような人なのかの素描をしてもらおう。

  寛大さ【magnanimitas】とは、広大で輝かしいある計画において、偉大で崇高な事柄を思いつき遂行する事を意味する。それは【4つの枢要徳である賢明、正義、剛毅、節制の中の‐訳者】剛毅の徳に不可欠な部分であり、ある仕事の遂行に伴う危険を前に尻ごみしないよう人を助ける。“偉大な事柄”という言葉によって、私たちは偉大な賞賛に相応しい事柄と理解すべきである。仮に偉大な事柄を行う事で、ある不当な恥を蒙っても、寛大な人は落胆することはなく、むしろこのような「不名誉」を軽視する。従って、真に偉大な事柄を行う為に、彼は無鉄砲な人々の様に冒険に対する愛からではなく、かき乱されることなく、臆病な霊魂がそうするのとは反対に、危険に立ち向かう。ただ非難に値するある振る舞いだけが彼を及び腰にする。強靭な人として、辛い反対攻撃を耐えるのと同様に、困難な仕事においても、しっかりと辛抱する決心がある。

 もし偉大な事を行うのに自分は相応しいと彼が考えるとすれば、それは天主が彼にお与えになった賜物を考えるからである。何故なら、彼は謙遜な人間として、自らの欠陥を知っており、自分自身を無であると見做すからである。従って、謙遜と結合した寛大さはキリスト教の徳になるのである。

 たしかに、妨害をものともせず、善を遂行する事において尻ごみしない事は、剛毅の徳に属している。しかし、ある善行を終わりまで完遂し、それによって‐あらゆる善行の究極的目的である‐永遠の生命に至る事について言えば、それは聖霊の賜物である。聖霊だけが【善の遂行に‐訳者】反対するあらゆる恐れを取り除く信頼を、唯一霊魂に注入して下さる。

 聖主は寛大な者たちに至福をお約束になったではなかろうか? 偉大で正義の業を熱望し、その実現の為に働く者たちは、自ら抱く願望の実現をそしてそれ以上のことを、現世と来世の両方で、見る事が保証されているのだ。

「正義に飢え渇く人は幸いである。かれらは飽かされるであろうから【マテオ5:6】。」  


聖ピオ十世会(SSPX)創立者 ルフェーブル大司教の伝記 20.1.1.最高に寛大な行為

2010年06月11日 | ルフェーブル大司教の伝記
第20章 

私は受けたものを伝えた


Ⅰ. 最高に寛大 な行為


 霊魂の救いと司祭職の純正さと信仰とが危機に陥っている悲惨な状況に直面して、ルフェーブル大司教は、大いに聡明な判断能力と円熟していて賢明な意思決定とを示した。

 「カトリック教会を続けるために、まったくカトリック的な司教たち」 を持つ必要性に直面する立場に一人置かれ、その上、ローマは麻痺状態と霊的エイズに陥っているがゆえに、公教会のセンスとカトリック教会に対する愛とに従って彼は熟考し、判断し、行動したのだ。フィリップ・ラゲリ(Phlippe Laguérie)神父が書いたように、この司教聖別によって提供された解決策は、“イエズス・キリストの名誉のためであれば、全世界でさえ自分を竦ませる事が出来ない” ルフェーブル大司教の「最高に寛大な行為」を構成したのだ。


カトリック教会に聖なる召命が与えられるため:現在1407環のロザリオが集まりました

2010年06月10日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 召命のための祈願の祈りの報告をご紹介いたします。

 2010年5月1日から5月31日までの分として、カトリック教会に聖なる召命が与えられるための意向で、現在
 ロザリオ1407環
 巡礼1回
 聖体降福式14回
 聖伝のミサ23回
 などが報告されています。
 
 11月1日まで、できれば、愛する兄弟姉妹の皆様から(聖三位一体を賛美して)総計してロザリオを3万環捧げることができれば、幸いに思います!

 ロザリオに限らず、召命のために捧げた祈りや犠牲も教えて下さい。一日15分の黙想・念祷もどうでしょうか?

 私も、大変蒸し暑いフィリピンではありますが、時折の雨に涼を得て、6月は1日から昨日の9日までロザリオ40環と聖体降福式4回をお捧げすることが出来ました。天主様に感謝!

 愛する兄弟姉妹の皆様の寛大なご協力もよろしくお願いいたします。

 次の祈りが報告されています。

【報告】
アヴェ・マリア
 聖なる司祭の多くの召命の為に、また聖ピオ10世会に日本人の召命が与えられますように、ロザリオをエリザベトさんと合わせて55環お捧しました。また、11日の主イエズス様の至聖なる聖心のノヴェナを今日からお捧します。
 6月東京の聖伝のごミサに行くことになりました。主日には友人と4人で参加します。せっかくですのでグレゴリア聖歌の練習にも参加したいと思っています。よろしくお願いします。



【報告】
5月のロザリオは10環です。

【報告】
Onoda Shinpusama, konnichi wa.

O genki desu ka.
Kyou wa chotto rosario no ban no jouhou o dasundesu. Go gatsu no rosario no ban wa 58 desu.

In Jesu et Maria

【報告】
トマス小野田神父様

5月最後の日です。ロザリオの報告をします。5/1~5/31まで31環です。
聖母月にわたしが捧げられるのは、・・・苛立ちをこらえることくらいです。



【報告】
+J,M,J, Ave Maria ☆!

小野田神父様、こんばんは。
聖務に超ご多忙なのに、日々のブログをありがとうございます!

アジア管区の聖なる召命の意向で、つたなくも唱えました
ロザリオの数をご報告いたします。

マリア 50
マリア 76
マリア 31
パウロ 10
ファチマ 30
ルルド 35
マリアたち 85
 合計 317


イエズス様の御心の月となりました。
ロザリオをたくさん唱えます。

天主イエズス様の御心よ、われらをあわれみたまえ。
天主の聖母マリア様、小野田神父様のご健康、ご活動をお守りください。
無現在の御宿りよ、われらのために祈りたまえ。
聖母の汚れなき御心よ、われらの祈りをききいれたまえ。


【報告】
アヴェ・マリア!

トマス小野田神父様
アジアにおける召命のロザリオのご報告をさせていただきます。
5月23日~6月6日22時現在(日本時間)
15環捧げました。
天主様の祝福が豊かにありますように!


+ + +


愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次

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聖ピオ十世会(SSPX)創立者 ルフェーブル大司教の伝記 19.4.3.勝利

2010年06月10日 | ルフェーブル大司教の伝記
勝利

 大司教は、侮辱や懇願を通り過ぎ、ガンタン枢機卿が突きつけて来た警告を穏やかに無視した 。

 6月25日、大司教はカンポスの引退司教であり、自分の司祭たちの幾人と一緒に来た友人アントニオ・デ・カストロ・マイヤー司教を、微笑みを浮かべ、晴れやかに、くつろいだ様子でエコンに喜びの内に迎え入れた。それから6月29日、彼は15名の司祭叙階を挙行した。

 その日の午後、大司教は友人のギトンと会見し、友好的ではあるが確固たる態度で彼に耳を傾けた。
 「私は閣下の平静さに感服しております。」とギトンが言った。
 「私を穏やかにしてくれるものは」大司教は続ける、「自分は天主の聖旨を行っていると感じているからです。それは何よりも重要な事です。ですから、すべて成る様に成るのです。私は天主の聖旨を行うつもりであって、何もペトロの教会から自分自身を引き離そうというつもりはないからこそ、平和なのです。」
 それから2人は「A-Dieu、天主様の御許で」と別れを言った。

 その夕、教皇大使から送られた一人の使者が、ラッツィンガー枢機卿からの電報を持って来た。
「教皇聖下は、父親らしくも断固として、本日すぐに閣下がローマへ出発するよう要請されております。云々」
 大司教はコッタール神父に打ち明けた。
「もし今日でさえも、彼らが適切に署名した教皇聖下からの司教聖別の命令書を私のところに持って来るなら、この司教聖別を8月15日まで遅らせる事にして、明日それについて知らせたでしょう。」
 しかし、彼はもうそれについて考える必要はなかった。

 翌日の1988年6月30日の朝、エコンの野原は、世界中至る所からやって来た1万人に及ぶ信徒たちで満ち溢れていた。

 報道記者たちは特設舞台上に溢れんばかりに収容され、そこから至聖所の広範囲にわたる視界を治めていた。

 聖ピオ十世会神学校の全6校から来た神学生たち、次に数百名に達する司祭と(ドン・ジェラールを含む)修道者、さらに式長たち、そして司教受品予定者たち【consecrandi】、また助祭、副助祭ら聖職者たち、最後に、司教聖別を行う2人の司教たちの順で行列が出発した。しばらく上空を旋回していた一機のヘリコプターが、突然この行列に向かって急降下して来たが、それは単により鮮明なカメラ撮影をする為であった。

 この式典は【司教用儀式定式文に従って‐訳者】教皇命令書の朗読から始まった。
「あなた方は使徒的命令書をお持ちですか?」
「持っています。」
「読み上げて下さい!」
「私たちは、使徒たちから受けた聖伝に常に忠実なローマ教会の命令を受け(…)」

 次に【説教が始まり】、単純かつ強烈な語り口で、ルフェーブル大司教は自分が置かれている緊急事態と、司教職を授与する自分の義務について見事な解説を披露した

「私は、カトリックの教義を伝え続けているカトリック教会の一司教にすぎません。私が思うに、そしてきっとこれはそう遠くない未来のことでしょう、皆様方は私の墓石に聖パウロのこれらの言葉を刻み込むであろう事です。“Tradidi quod et accipi --- 私は受けた事をあなた方に伝えた【コリント11:23】だけである。そしてそれ以外の何物でもありません。」

 親愛なる兄弟の皆様、私には、グレゴリオ十六世を始め、ピオ九世、レオ十三世、聖ピオ十世、ベネディクト十五世、ピオ九世、ピオ十二世の声が、これら全ての教皇たちが私たちにこういうのを聞いているようです。「どうかお願いだ、私たちはあなたに懇願する、あなたたちは私たちの教え、説教、カトリック信仰をどうしようとしているのか? それを放棄するつもりなのか? 地上からそれが消え去るままにさせておくつもりなのか?信者たちを見捨ててはならない! カトリック教会を見捨ててはならない!カトリック教会を続けなさい! 実に、第二バチカン公会議以来、過去において断罪されていた事を、現在のローマ当局は、抱擁し公言している」
と。


 ところで、信仰を無傷でそのまま伝える為には、司祭たちが存在しなければならず、「司祭は司教なしには存在し得ないのです。」一体誰から神学生たちは品級の秘蹟を授かるのか? 近代主義者の司教たちからだろうか?

 「私は、将来に備えて何もせずに死を迎え」彼らを孤児のままにして置くことなど出来ません。「そんな事をすれば私の義務に反するでしょう。」

 従って、大司教はこれらの教皇たちの声なき懇願に応じるのだ。さらにデ・カストロ・マイヤー司教と共に自分がかつて受けた司教職を授けるだろう。こうして、彼らはカトリック聖伝の“生き残り作戦”を遂行するのである。将来、この聖伝がその然るべき地位をローマで奪回する時、
「私たちはローマ当局から抱擁され、さらに彼らは私たちに、信仰を守ってくれてありがとうと感謝することでしょう。 」

 説教の途中で、悪戯っぽい笑みを浮かべ、大司教はメディアを冷やかした。
「メディアは間違いなく、やれ離教だ、破門だ!という類の見出しを付けることでしょう。しかし私たちは、身に降りかかるこれら全ての非難と処罰は完全に無効であると確信しています。」

 大司教が座ると、今度はデ・カストロ・マイヤー司教の番となり、彼は大司教と変わらぬ司牧的で神学的で簡潔な力強さで語り始めた。

「私たちは教会において先例のない危機を生きています。つまり、カトリック教会をその実体 それ自体においてでさえも害を及ぼしている危機です。カトリック教会の実体に触れるものとは、本質的に一体なる二つの玄義、つまり聖なるミサの犠牲とカトリック司祭職です。何故なら司祭職なくしてミサの犠牲はなく、その結果として、何であれ公的な礼拝の形がなくなるからです。同様に、私たちはこの基礎の上にこそ、聖主イエズス・キリストの社会的君臨を構築するのです。(…)」
「私がここに居るのは自分の義務を果たす為です。それは公に信仰告白する事であります。(…)私はここで、ルフェーブル大司教閣下の立場に心から甚大な支持を表明する事を望みます。ルフェーブル大司教の見解は全時代に亘る常なるカトリック教会に対する忠誠を通して命じられているものです。私たち2人は同じ源泉から飲んでおります。つまりそれは聖なる、公の、使徒継承の、そしてローマの教会の源泉です。 」



 友人である同僚司教から受けた、この全面的一致団結を表明するこの言葉を聴いた大司教の顔つきは、緊張がほぐれて明るくなり、さらに彼の心も軽くなった。そう、彼はもう一人きりではなかった。

 この朝、カトリック教会が、そこで働いていた。彼を動かし、前進させ、そしてその全ての行動において彼を支えたのはこのカトリック教会だった。

 大司教は10日もの間「私の頭は昼夜別なくガンガンしています。」と話していた。式典が終わってから香部屋に入ると、彼は自分の補佐たち【共同聖別者マイヤー司教、助祭役司祭、副助祭役司祭、式典進行役たちなど‐訳者】に言った。「終わりまでは持ち堪えないだろうと思っていましたよ。」

 しかしこの少し前、彼が自分の子供達【新司教たち‐訳者】の頭にミトラを置いた時、そこに居合わせた者は皆、勝利の微笑みで輝いたその顔つきを通して、大司教が抱く晴れやかな喜びを目撃した。司教聖別式の前夜にあった穏やかな堅固さは、心からの喜びに取って代わり、彼の疲れ切った身体を丸一日支えてくれた。

 大司教は、不安と心配にまみれてこの司教聖別式を挙行したのではない。私たちは【聖イグナチオの霊躁に基づいた‐訳者】霊の識別の規範に基づいて、この穏やかな喜びの向こう側に、やましい所のない良心の平和を認める事が出来る。さらに【同じ規範に基づいて‐訳者】間接的に、成された行為に含まれる道徳的善を判断する事さえ出来る。

 ルフェーブル大司教は、今や自分のNunc Dimittisを歌うことが出来る。「みことばどおり、主よ、今こそ、あなたのしもべを安らかに死なせてください。私の目は、もう主の救いを見ました【ルカ2:29-30】」。

 彼は、まさしく、御摂理が選んだ時に早すぎることも遅すぎる事もなく、また必要な手段・権能を完全に所有しつつ、伝えるべきものを伝えた。さらに1988年から1991年3月25日の死去までの、天主が自分に残して下さった3年間、彼は四名の補佐司教たちに精神的に付き添い、これら遺産相続人たちに対し司教職に伴う様々な責務を手引きすることになる。その時以来、大司教は彼らに司祭叙階を行わせ、自らは静かに参列しながら、今度は彼らこそ司祭職を伝えることが出来るようにと、自分の子供たちの挙動をその鋭い視線で追っていたのだ。

 この謙遜な身構えの内にある高貴な霊魂の上には、自分の様々な決断に対して責任を取り、最後までこの決定事項をやり抜く事への強度な願望があった。 しかも、将来に備えて彼が下したこれらの決断の重要性について、激しく燃え上がる信仰の炎によって輝くあの悲しげな注視における、聡明さの何と深遠なることか!



聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 19.4.2.如何にして歴史的行為に取り掛かるか?

2010年06月09日 | ルフェーブル大司教の伝記
如何にして歴史的行為に取り掛かるか?

 ヨハネ・パウロ二世が6月9日付けで書いた、ルフェーブル大司教の計画を“離教行為”呼ばわりする手紙は、大司教を止める事など出来なかった。

 大司教の確固不動さを目の当たりにさせられたローマは再び後退し、デュルー神父はローマ委員会構成員の再検討を提案した。ラッツィンガー枢機卿の秘書は、6月10日に大司教との長い会議をエコンで行った。しかし一切の成果はなかった。

 6月3日に自分の修道院の【ルフェーブル大司教からの-訳者】独立の動機を弁護しにやって来たドン・ジェラールは、空手でル・バルーに戻ることになった。

 徐々に自分の選びを決めてきた大司教は、四名の司祭からの同意を獲得した。時折彼は、運転手が誰であろうと尋ねた。「貴方なら誰を選びますか?」つまり彼は【選ぶべき候補者たちの‐訳者】名前が欲しかったのだ! 神学生たちの間では、【誰が選ばれるかと‐訳者】予想が駆け巡った。四名の候補者たちが揃ってエコンに現れたのは6月13日であった。

 北米神学校の校長で英国人のリチャード・ウィリアムソン、南アメリカ管区長のスペイン人アルフォンソ・デ・ガラレッタ、青少年時代をエコンのふもとで過ごした会計長 の若きスイス人ベルナール・フェレー、そして事務総長でフランス人のベルナール・ティシエ・ドゥ・マルレであった。上述の後者2名は、シュミットバーガー神父総長と共にリッケンバッハ在住だった。総長神父は「司教閣下」と彼らを良く冷やかしたものだ。それに対し、彼らお決まりの返事が「ここには司教閣下など一人もいません!」であった。

 ことは敬称の問題ではない。彼らは「カトリック教会の補足の高位聖職者」となり、やがては破門つまり破門された者として見なされる運命にあった。しかし彼らは大司教に信頼し、自らの職務を進んで遂行した。
「大司教様には決断する恩寵があり、私たちには彼に従う恩寵があります。」

 ルフェーブル大司教は入念にこの式典を準備した。司教聖別用のテント、そして諸々の【司教用の‐訳者】儀式定式文が収められた大判の儀式書、さらにこの将来の司教たちによって捧げられることになる4本の小樽に入ったワインなどがあった。大司教は【新司教たちの為に‐訳者】胸掛け十字架を購入しようとローマへ向かい、そこで司教指輪を作らせると共に、【司教用の‐訳者】紫のスータンを仕立てさせた。彼はエコンとフラヴィニーの神学生たちに、自分が行おうとしている行為を説明するために時間を割き、さらには起こっている事態を信徒たちに説明する記事及び小冊子の作成を承認した。彼は6月15日の記者会見の為にと自分でエコンに招いたメディアの使い方を完璧に熟知していた。この記者会見は、ちょうど別の外出から戻って車から降りるとすぐに始まった。

 神学校校長のアラン・ロラン神父により準備されていたメディア向けの配布資料は、なんと【五年前の】1983年10月19日に書かれて以来、自分の書類の合間に残されたままになっていた大司教による「公的宣言文」を含んでいた。
それにはこう書かれている。

「カトリック教会は、偽りの諸宗教や異端とのいかなる交わりをも嫌悪します。(…)カトリック教会が認めるたった一つの一致とは、カトリック教会のもとにおける一致です。(…)姦通の教会などではなくカトリック教会を永続させるカトリック司祭職を守る為には、カトリック司教たちが存在しなければなりません。」

 彼は常に変わる事のない‐簡潔で、的確、力強くて、誠実な‐文体で文書を著した。この宣言文には1988年3月29日に大司教が書いた長い文書が付いていた。さらにマインツの教会法教授ゲオルグ・マイ(Georg May)神父による、カトリック教会内の緊急事態を扱う法律に関する研究論文“カトリック教会の永続か、あるいは活動が脅かされる場合に適用される法律上の規則群”も付随していた。

 大司教が自分の解説を終えると直ぐに、大教室に詰め掛けていた百名以上の報道記者たちからの質問がドッとあった

  「離教は貴方の元から多くの信徒たちを立ち去らせることになりますよ。」
  「まあ、どうなるか見てみましょう。仮にそれが10年や20年続こうとも。」
  ルフェーブル大司教は、全報道記者たちを驚嘆させる親切を尽くし、冷静に彼らの質問全てに答えた。しかしこれは記者団の一人が教室を退室する時に、ある神学生に公然と自白するのを妨げなかった。
  「僕は君の親分を撃ち落すよ!」  

 なるほど、翌日になって全新聞の見出しは皆一斉に声を合わせていた。
「ルフェーブル大司教:離教宣告」(ジャン・ブルダリア氏記事、ル・フィガロ紙、6月16日発行)、「地獄の門に立つルフェーブル大司教」(ル・コティディアン紙‐Le Quotidien)、「ヨハネ・パウロ二世に挑む」(トリビューヌ・ド・ジュネーヴ紙)そして、より奇抜な見出しもあった。例えば、「聖戦」又は、「ミトラ戦争【司教冠戦争、司教による戦争‐訳者】」などである。さらに、より平凡な見出しとして「離教計画」あるいは「分裂」などがあった。

 時折インスピレーションがほとんどないアンドレ・フロッサール氏は、自分に基本知識が欠けていることを隠さずに、読みやすい文体でコメントを書いた。
「最も悲しい事は、離教の道を下って行くのを止める為に、どこまでも、何でもずっとやるであろう教皇の寛大さを認識できないエコンの高位聖職者の頑固さである。彼は、恐ろしく柔軟性のない思考の捕囚であり、彼の知性にほんの僅かな場所しか残してはくれないのである。彼は己が組織の捕囚である。恐らくその不従順の論理を断絶まで推し進めることしか出来なかっただろう。しかし、不条理にまで推し進める必要なかった。 」

 大司教の友人であって自由主義者のジャン・ギトン氏は、彼に6月21日付けの手紙を書いた。それは血の様に赤いインクで書かれた最後の手紙であった。

「私は何時も閣下を弁護してまいりました。閣下は‘反抗者(mutin)’であって‘突然変異(mutant)’ではなく、さらにその本質において変わる事の出来ない真理の為に閣下は戦っておられるのだと私は申し上げました。(…)私の人生において、6月30日は他の何よりも私をさらに深く傷つける日となるでしょう。私は6月30日よりも前に、私一人との会見をしてくださるよう閣下にお願い申し上げます。(…)人が今生の別れにおいて言う、希望と神秘に満ちたこの言葉を(子がその父に言う様に)私が閣下に言う事が出来るように、ア・ディュー【さようならば】!と。」


聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 19.4.1.唯一この決断が出来る者

2010年06月08日 | ルフェーブル大司教の伝記
Ⅳ.司教聖別


唯一この決断が出来る者

 協議したルフェーブル大司教は、今度は決断しなければならなかった。熟考には時間をかけるが、決断には迅速であるのが正に賢明の徳である。彼は一人でこの決断を下すだろう。

 バチカンは、彼が“側近の囚われ人”であると信じ、あの司教聖別の前日、大司教をその想像上の看守から救い出そうと、わざわざエコンに大型のメルセデス・ベンツを一台差し向けた。

 後日彼は言った。

「側近者たちをこの司教聖別にまで行くように励ましているのはこの私だというのに、何時も私の側近について彼らが語るのは不思議です。」

 それは事実だった。あの不屈のシュミットバーガーも、活気に満ち溢れたオラニエも大司教を司教聖別に追いやらなかった。聖別するかしないかの決断はルフェーブル大司教だけが一人することができた。

 ローマの神学校で勉学に勤しんで此の方、カトリック教会の感覚に満たされ、その上、アフリカにおける教皇ピオ十二世の使節かつ相談相手でもあり、さらに第二バチカン公会議開催期間中には信仰の布告者だった彼をおいて、一体誰が、カトリック教会の真理に対する当局の裏切りを判断することができるというのか?


 彼は、カトリック司教、つまり使徒の後継者の任務を40年間生きて来た者として、自分の両肩に恐ろしい責任が負わされているのを痛感した。公共の救いのために彼が取ろうと考えている異例な手段が、合法的かつカトリック的であり、さらに非合法から程遠いものであるという事を判断する立場にいるのは自分だけであると彼は気づいていたのだ。さらに彼は、この聖別の行為が罪ではなく、むしろ公正かつ高潔であると考えた。

 だからこそ彼はこの司教聖別の後に言ったのだ。
「私がもし自分の良心にかけて罪を犯していると考えていたとしたら、この司教聖別を挙行しなかったでしょう。」

 1988年6月2日、キリストの御聖体の大祝日にも、彼は自分の下した決断を書面に記し教皇宛に送った。

「私たちが提示させて頂いた要請の検討拒絶を受け、さらにこの和解の目的が、聖座の観点から見るものと、私たちの観点から見るものでは全く異なっている事は明白なので、私たちはローマが聖伝への帰還する為により適した時節を待つ事が好ましいと考えております。」
「よって、ラッツィンガー枢機卿閣下による5月30日付けの手紙によって、司教聖別の許可が8月15日までに与えられているので、この司教聖別は聖座の意志に反していないと保証されておりますから、私たちは御摂理が自分たちにお委ねになったこの事業を遂行する手段を自らに与えるでしょう。」
「私たちは、近代主義に犯された近代主義のローマが、もう一度カトリックのローマに戻り、その二千年に亘る聖伝を再発見するよう祈り続けます。その時、和解という問題は存在理由をもはや失い、カトリック教会は新たな若さをもう一度見いだすことでしょう。 」




聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 19.3.7.ル・ポワンテで開かれた会議

2010年06月07日 | ルフェーブル大司教の伝記
ル・ポワンテで開かれた会議---話し合いの打ち切り

 何年もの間大司教は、照らしを求めて聖霊に祈り、導きを願って童貞聖マリアに祈り続けてきた。1987年3月には、毎晩、彼は眠る事が出来ず、祈りに起き上がった。彼はしばしば声に出して言った。

「おお!私が何をすべきかを私に教えてくれるために、聖母マリアさまが私に現れてくださるなら!」しかし彼は、信仰によって照らされた自身の理性を最後の拠り所にしなければならなかった。

 後の数ヶ月は、親しくする運転手たちに彼はあっさりと質問した。「貴方が私の立場にいたら何をしますか?」
「何と答えたらいいのか?」マルセル・ペドローニは独り言を言った。「ルフェーブル大司教に私の忠告なんぞ必要ないのに。」

 「天主の御摂理は何をお望みだろうか?」これは彼が一番好きな問いだった。1988年5月25日のアルバノで、彼は自分の司祭たちに尋ねた。「私は何をすべきでしょうか?」その次に彼は加えて言った。「私は総長ではありませんから、シュミットバーガー神父様にこの問題を委託しなければなりませんね。」アメリカで電話による連絡を受けた総長神父は、カナダ行きを取りやめ、素早くローマに戻った。

 1984年、インダルト【特別許可】・ミサという問題に関しても、聖職者抵抗運動の“指導者たち”に大司教は意見を求めている。モンシニョール・デュコ・ブルジェ(Mgr Ducaud-Bourget)や、アンドレ神父、コアッシュ神父、ヴァンソン神父、ドン・ギユーなどの司祭にだ。同様に彼は聖ピオ十世会の「ル・ポワンテの聖母」支部小修道院に、1988年5月30日、信仰の大擁護者の司祭たち、並びに盟友の諸修道会の長上たを招集することを決意した。

 「何があろうとも、6月30日に4名の司教を聖別する方に私は傾いています。私の年齢と衰えている健康は、天主様が私を御許にお呼びになる前に、‘私の事業’ではなく、司祭職の復興及び、カトリック信仰の保存を目的とする、この慎ましい事業を守る保証をせよと駆り立てるのです。私が5月20日、ヨハネ・パウロ二世に書いたように、‘近代主義の誤謬から完全に隔離された環境に身を置く’‘カトリック信仰を自由に生き返らせる事の出来る司教たちに’この司教職を授与する事によってこそ、私はこれをやり遂げる事が出来ます。皆さんがどうお考えなのか教えて下さい。」

 大司教から滲み出る行き届いた心遣いと、彼らが続けて情報に通じているように施す配慮、さらに、老齢の司祭たち同様より若い修道会長上の司祭たちの中にも統一見解を見出したいという希望に、そこにいた誰もが心を動かされた。4人の司教聖別後に、制裁と中傷の雨が降り始める時には、聖伝が共に一致団結して持ち堪えると保証しているこの会議の持つ重要性を一人残らず理解した。

 ドゥ・シャラール神父は、アルバノから電話を通して、同日に書かれたラッツィンガー枢機卿による手紙の内容を伝えた。それによれば、ルフェーブル大司教によって指名された候補者達には満足が行かない、彼ら候補者たちは、正当な“プロフィール”を持っていない、であった。ローマは、聖ピオ十世会の中から正当なプロフィールを持った司教受品候補者、つまり扱い易くて優柔不断、さらにはすっかり自由主義にのめり込んだ候補者一名を見付け出そうとしているのか?この脅しは単なる空想ではなかった。何故なら、モンシニョール・ペルルは、使徒的視察訪問でエコンへ来た際に、このことに関して【おあつらえ向きの司教受品候補者を】入念に探っていたからである。

 そこで、この小さな聖伝会議の参加者たちは、正直に自分の意見を各自述べた。
 ルカルー神父、カプチン会の司祭たち、コアッシュ神父、ティシエ・ド・マルレ神父たちは、例の同意に賛成であった。ドン・ジェラールも同様であった。
「もし断絶が生じれば、私たちは、二度と大教会に戻らない‘小教会’のような宗派に、社会的になってしまうでしょう。」
大司教が言及した危険に関しては
「自分で自分を守るのです!どうか教義的である私たちの強さを過小評価しないように致しましょう。私たちの共同戦線を損なったり、私たちの兄弟たちの中で不一致を作り上げたりするような事は一切しないというカトリックの協定、愛徳の憲章を私たちの間で築き上げようではありませんか。」

 アンドレ神父がそれと全く反対の意見を言った。
「私たちの要求を維持しましょう。さらに、私たちの自由を保ち、数々の非難と破門のレッテルを耐え忍ぼうじゃありませんか。」

 オラニエ神父は慎重に語った。
「ローマには、カトリック教会の思考に反する神学的かつ哲学的思考体系というものがあります。私はこの同意を恐れています。それが、私たちの敵である、悪魔の悪巧みを恐れます。リュスティジェや、ドクルトレ、そしてアシジの教皇と討論したいとは思いません。聖別される司教には精神的な権威がないでしょう。私はローマの官僚主義が恐ろしく思います。‘私はカトリックであるローマには固執しますが、近代主義のローマは拒絶’します。後者のローマは、私たちを貪り食うレビアタン【旧約聖書ヨブの書、第3章8節などに登場する水中に生息する巨大獣‐訳者】である危険があります。」

 修道女達は殆ど一致して断言的であった。
「信仰を失った司教たちを交渉相手にすることはできません。」とはファンジョのドミニコ会修道女たちの言葉である。

 ブリニョールの修道女たちは、官僚的事務所への従属は、“今や近代主義に染まった母体修道会との接触”を取るように自分たちを追い込むかも知れないが「それは出来ない」と考えた。

 聖ピオ十世会の修道女会の修道女たちは、“信仰に対する危険と聖伝の団結の危険”に言及した。

 最後に、カルメル会修道女たちは、この同意は“聖伝陣営内に持ち込まれたトロイの木馬である”と言った。

 例の同意がもたらす利益と不利益を客観的に説明して来たルフェーブル大司教は、最後に天秤が今やどちら側に傾いているかを明らかにした。その【判定の-訳者】原理は明快なものであった。
「近代主義のローマとの公式の繋がりは、信仰の保存と比べたら何でもない!」

 会議が終わると、「私たちは大司教の決定を支持します。」と全員が約束した。

 しかし、すでにドン・ジェラールは大司教を一人脇に呼び出して言った。「【世界中で展開している聖ピオ十世会を率いるルフェーブル大司教とは異なり‐訳者】私たちの条件は特殊ですから、我々の正常化の試みは聖ピオ十世会ほど危険では御座いません。」

 大司教はこの意見を容認した。
「貴方にとって、ことは同じ事ではありませんね。あなたには自分の周りに修道士たちがいるだけです。私は80の小修道院と500の聖堂を持っています。分裂が起こるでしょう。」

 しかし、大司教が仄めかしていた分裂とは、あなたと私たちの間に、ル・バルーとルフェーブル大司教との間にあった。ドン・ジェラールはそれを理解していなかった。自分の言っていた協定や共同戦線についてあっという間に忘れてしまう彼は、6月21日になるや否や、個別の合意をローマ当局と協議するであろう。


聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 19.3.6.一か八かの賭け

2010年06月06日 | ルフェーブル大司教の伝記
一か八かの賭け

 「マルセル、お前は一体どこに行くのか?」大司教は、聖堂で行われるロザリオと聖体降福式の間ずっと両手で頭を抱えて、時折ため息をつきながら祈った。その後、彼は何も言わず自分の部屋へ退いた。その夜、彼は眠りに就くことはなかった。大司教は考えていた。

「彼らは日付を提示しようとしない。私たちに司教を与えたくないからだ。」

 彼は疑念に捉えられ、一人つぶやいた。「司教の任命がどうなっているのかどんなことがあっても知らなければならない。」

 後日彼は、腹心の運転手ジャック・ラニョとこの夜の事を打ち明けた。
「もし貴方が、例の【議定書に】同意の署名した後の、私が過ごした夜を知りさえしたら!ああ!自分が夜中の間に書いた撤回の手紙をデュ・シャラール神父様に渡すことができるように、どれだけ私は朝を待ち望んだでしょう。」

 翌日のミサと一時課の後、彼はその手紙を書き終え、朝食時にデュ・シャラール神父にこれですからと見せた封筒の中に入れた。「神父様、出発前に、この手紙は間違いなくラッツィンガー枢機卿の元に届けられなければなりません。それは小型爆弾ですよ。」

 それは【司教聖別の日付に関する-訳者】新たな最後通牒だった。

「6月30日という日程は、以前私が書いた手紙の中で、最終期限としてはっきり伝えられています。既に私は、推薦候補者たちに関する書類を貴方に提出しております。この司教聖別の命令文書を準備する為に、未だ2ヶ月近くあります。(…)この命令文書が6月の中頃までには送付される事が出来るように、教皇聖下はこの手続きを容易に短縮する事がお出来になります。」

「仮に聖下からの回答が否定的なものだっとすると、私は良心にかけて、聖ピオ十世会所属会員から司教1名を聖別する事に関する議定書の中において聖座が与えた合意に基づかせ、司教聖別を遂行しなければならないと考えるでしょう。」

「聖ピオ十世会所属会員の司教への聖別に関して、閣下の手紙の中で、或いは直接の会話の言葉で、言及を避けた沈黙のために、私には日程が遅らされると恐れる正当な理由を持つに至りました。」


 ルフェーブル大司教にとって、聖別の日付を決める事はローマの誠実さを確かめるテスト、つまり彼は騙されているのではないという証拠であり、スペインの諺がMuerto el perro, se acabó la rabia【犬が死ねば狂犬病も終わる】そして日本語では「死人に口なし」というように、ローマがただ彼の死を待っているだけではないことを証明するテストであった。

 残念ながら、ラッツィンガーは理解しなかったようた。彼は単に予定されていた報道発表を中止しただけだった。5月6日の夜、彼は教皇聖下と会見し、大司教が5月5日に教皇宛で書いていた手紙を手渡したが---これは「良く受け入れられた」---、最後通牒に関しては一切言及しなかった。

 自分は教皇に何かしてくれと言う事など出来ないし、自分が練り上げた計画に従わなければ成らないと彼は考えたのだ。つまり最初に、大司教が(おそらくヨハネ・パウロ二世をぎょっとさせた“風刺漫画による公教要理”のために)赦しを懇願した後に、聖職停止処分の撤回、その次に、ローマ委員会の設置、そして正常化の計画だ。この計画全ての実現には時間がかかるだろう。教皇との会見を待つ事さえせず、ラッツィンガーは大司教に手紙を書いて、“自分の立場を再検討して下さい”と大司教に要求した。

 大司教がエコンに戻ると、運転手は彼が“何時もになく悲しげで物静か”であることに気づいた。5月10日、聖ニコラ・ドュ・シャルドネ教会で、彼は状況を細部に渡って自分の司祭たちに説明した。

「ボールは彼らのコートにあり、私は彼らが打ち返してくるのを待っているところです。6月30日が最終期限です。私は自分の人生の終焉に到達しているように感じます。私の力は衰えています。車での移動が困難に感じるのです。ですから、これ上私は司教聖別を延期出来ません。延期することは、聖ピオ十世会や、私たちの神学校の継続を危険に曝すことになります。ドイツのテレビで言ったように、ローマからの同意の有無に拘わらず、6月30日には司教聖別式があるでしょう。」

 5月17日、ラッツィンガーはルフェーブルに手紙を送った。教皇聖下に対する和解と赦しを求める“謙虚な懇願”の手紙は喜んで受け入れられるだろうこと、聖ピオ十世会のための司教1名の要請は、“一切の日程の要求なしで”提案され得ることを伝えた。5月20日に教皇に直接手紙を書こうと決断した時、ルフェーブル大司教は既にこの手紙を受け取っていたのだろうか? 教皇への手紙では自分にとって6月30日とは、“自分の継承者”を保証する最終期限であると彼は強調しただけではなく、「数名の司教を持つ事が必要である」とも考えた。

 5月23日、彼はローマに向けて出発した。
「この面会が最後のチャンスでしょう。」と彼は運転手のマルセル・ペドローニに言った。彼の目には、24日朝の大司教が疲れていて悲しげに映った。
  「ご気分が優れないのですか、大司教閣下?」
  「眠らなかったのです。数ヶ月間、私は殆ど寝ていないのです。」

  5月24日のローマで、大司教はラッツィンガー枢機卿に自分の最終要請を渡した。
「6月1日より前に、6月30日に計画されている三人の司教の聖別と、ローマ委員会において聖伝のメンバーが過半数を占める事に関する聖座の御意向をお伝え下さい。私が教皇聖下に書いたように、司教1名だけでは私たちの使徒職全てを遂行するには十分ではありません。」

 ラッツィンガーは“やや不意を討たれた”が、この要請を伝えた。
 ヨハネ・パウロ二世はラッツィンガー枢機卿を通して、5月30日の手紙で回答し、ローマ委員会に関する問いには、聖ピオ十世会は過半数を占めない。その必要性がないと却下した。

 司教3名の聖別に関しては、「教皇聖下は、この司教聖別が8月15日の前に行われるように(…)聖ピオ十世会所属会員の中から1名の司教を任命する用意はあります。」 とある。この目標に向け、大司教は「より多くの資料を送り、教皇聖下が例の合意で予測されたプロフィールを持つ1名の候補者を自由に選べるように」しなければならない。大司教は「教皇聖下と聖主とを信頼しなくてはならない」とあった。

 この“信頼せよ”との招きがこれ以上に場違いなものではありえなかった 。大司教は何よりも先ず「聖伝の家族を守ろう」と心がけて来た。「ありとあらゆる近代主義の誤謬、あるいは公会議後の改革との妥協、聖伝の団結からの離脱から守ろう」と努めた。

 ルフェーブル大司教は次のようなメモを書いた。
「【ローマ代表者との-訳者】会議と対話の雰囲気、会話の中で多くの人々により表明される思想は、明らかに聖座が私たちを公会議とその改革に同調させ、公会議後の教会の懐に連れ戻すのを望んでいる。 」
「そうなると、私たちの事業の「教会法上の正常化」及び「典礼と私たちの会員らの養成との保証、司祭と信徒たちを聖伝に改心させるためのより容易な宣教的接触、そして最後には、聖座の同意による司教1名の聖別」などという「利点」は、本当に釣り合いのとれる物なのか?」



御聖体の祝日! ドイツのフライブルクで聖ピオ十世会が行った御聖体行列などの写真紹介

2010年06月05日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、、

 6月3日は御聖体の祝日でした! そこで、ドイツのフライブルクで聖ピオ十世会が行った御聖体行列などの写真を少しご紹介します。
 詳しくは、上のリンク先をご覧下さい。

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ピオ十世会(SSPX)ドイツ管区の御聖体の祝日の御聖体行列 フライブルクの修道院

聖ピオ十世会(SSPX)ドイツ管区の御聖体の祝日の御聖体行列 フライブルクの修道院

聖ピオ十世会(SSPX)ドイツ管区の御聖体の祝日の御聖体行列 フライブルクの修道院

聖ピオ十世会(SSPX)ドイツ管区の御聖体の祝日の御聖体行列 フライブルクの修道院

聖ピオ十世会(SSPX)ドイツ管区の御聖体の祝日の御聖体行列 フライブルクの修道院

聖ピオ十世会(SSPX)ドイツ管区の御聖体の祝日の御聖体行列 フライブルクの修道院

聖ピオ十世会(SSPX)ドイツ管区の御聖体の祝日の御聖体行列 フライブルクの修道院

聖ピオ十世会(SSPX)ドイツ管区の御聖体の祝日の御聖体行列 フライブルクの修道院


聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次
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