トロルお爺の”Satoyaman”林住記

生物生産緑地にて里山栗栄太が記す尻まくりワールド戯作帳

尾羽打ち枯らして晩夏

2019-08-20 | 感じるままの回り道
 8月も中旬になると虫の音が聞こえてくる。アオマツムシの煩い音はまだ早いようで、それだけでも救われる思いがする残暑だ。
 フイールドで見るアゲハ等の大型の蝶の傷みが目立つ様になってきた今日この頃でもあるが、チョウの言い方に「てふてふ」と言う様な記憶があるけれど大和言葉では「かわひらこ」と言うのだそうで、これはつい最近に知った。なかなか味わいがある呼び名だと思う。

 トンボも「あきつ」と呼んだ頃もあっただろうが使っている文章は読んだ事が無い。そういえば馴染み深い「あきあかね」が街中や水田の上を風に向かって飛翔している姿も見かけるようになった。
 少年時代、自宅前の通りに雲のように群れていて突っ込めばトンボに当たる程の大群だったし、蛍も農道を走れば顔に当たる程飛んでいたのだ。散布した後、テープで囲い赤旗を表示しなければならなかった劇物農薬「パラチオン」などを使うようになって多くの種が激変したのを覚えている。発生期も終盤で数を見なくなったのとは本質的に異なる現象でもあった。

 余りにも猛毒性で使用中止になった農薬だが、それ以来郷里の生物は回復していない。それどころか本年5月に法事て郷里に立ち寄り水田地帯を歩いてみたのだが田の中に生物は無し、農道や畦は裸地かスギナの群生だけで「なんともはや米工場」でしかなかった。パラチオンの使用を禁止された頃より生物層も環境も酷い有様だった。こんな米を食べて良い訳が無い。

 まだまだ暑さも厳しく秋の感覚にはほど遠いが、虫たちの世界は既に秋は始まっている。季節は巡るものの、あの「沈黙の春」は絵空事ではないだろう。あの「ただ春の夜の夢の如し」の一節は時代を超えた一節に思える。

          オオミズアオ       アカボシゴマダラの翅は大きく欠損している

三日月池のスゲ抜き

2019-08-20 | 水辺環境の保全
 三日月池の周囲を刈り払っての翌日、水域内のカサスゲ抜去に入った。クロスジギンヤンマの羽化用に残しておいたカサスゲの様子は全く無くなって既に池の半分を覆わんとするまでになっている。
 このまま放置すれば水面さえ見えなくなる単なるカサスゲの密生池になりかねない。既にクロスジギンヤンマの羽化盛期は終わったので水域内のカサスゲを全草抜去する決意で池に入った。道具はスコップだけである。
 拡幅して堤の用土を掘った部分にカサスゲの繁殖が著しく、これは日当り良好の結果でもあるのだが、これに連なる池底の粘土質基盤層に入り込んだ根茎は抜きにくい。株の周囲をスコップで根切し掘り揺らしつつ抜くしかないのであった。

 繁殖の最前線では茎も小さく容易に地下茎共々引き上げられるものの、親玉となると楽ではない。腰痛や坐骨神経痛発症に留意しながらの抜去作業だ。幸いにも肩の三角筋の傷みは支障がないものの右脚のじんじん太鼓は相変わらずだ。
 とにかく所定の作業を終えたのだが、他の水域と同様、冬越し前に浚渫ひと浚いしておく必要があるし、なかなか水商売から離れられない。

 魚沼の実家は米作農家だったし祖父、父の日課は水見回りだった。それゆえ水管理は要と承知しているものの小生「愚痴は言うわい、こぼすわい!」となるのはお人柄である。
 まあ、姥捨て山では聞く人もおらずヒグラシは「見ーん、見ーん」と、クマゼミは「池シャーシャー、行けシャーシャー」と連れなく、アブラゼミは油を売っているだけで見向きもしない・・・。
 考えてみるに高齢社会的弱者ともなれば結ばれた赤い糸は来迎図の阿弥陀如来さまだけなのであって観念する事も肝要なのであろう。あの路上確保の見苦しさ情けなさ阿呆丸出しの「スゲー人間破綻振り」は御免である。

 周囲刈り払い終り ➡    抜去終わり  ➡   逆方向から望む