3学年だより№14(何のため)
ちょっと想像してほしいのだが、これから頑張って、第一志望の大学に受かったとする。
そのとき、誰からも「おめでとう」と言われなかったら、さみしくないですか?
もちろん、自分が頑張ったことに対する満足感で、その時はそんなにさみしくないかもしれない。 でも少し落ち着いた後は、やはり「よくがんばったな」と誰かに言ってもらいたくなりそうな気がしないだろうか。
もっと言えば、難関大学に入って、そのあと有名企業に就職し、給料もたんまりもらえるようになったとする。
その一つの達成が、純粋に自分のためだけのものであったとき、つまりそのことによって自分以外の誰をも喜ばせていないと知ったとき、ちょっとさみしくなるような気がしないだろうか。
おそらくほとんどのみんなは、この想像をできないだろう。
つまり自分の成功を誰も喜んでくれない状況に自分がおかれることを想像できないだろう。
それはそうだ。これだけ、周りの人たちから頑張れと励まされ続けているのだ。
みなさんの親御さんは、合格という結果を必ずよろこんでくれる。
ご家族や親戚、もちろん友人から祝福される。
みんなを思う気持ちにおいて、親御さんの足下にもおよばない私たちも、みんなが目標をかなえてくれる姿を心から祝福する。
大学で学ぶとはどういうことか?
「自分の将来の夢をかなえるためです。そのために、しっかり勉強します」
すばらしい!
まもなく面接の練習も始まる。目をきらきら輝かせて上のように答えるのが、まず大切だ。
では聞くが、その夢をかなえるのは何のためか。
なぜ、将来それをやりたいのか。
それは純粋に自分だけのためなのですか?
先日の才能の話を思い出してもらえるとありがたいのだが、みんなには勉強する才能がある。
そして、望みさえすれば大学に行かせてもらえる経済的裏付けもあるはずだ。
決して全ての人に与えられるものではないくつかの条件をクリアしている。
~ 能力や努力(できる能力)というのははっきり言って先天的なものです。「背が高い」とか「視力がよい」とか「鼻がきく」というのと同じ種類の天賦の資質です。それは天からの「贈り物」です。自分の私有物ではない。だから、独占してはならない。
… 能力というのは「入会地」のようなもの、みんなが公共的に利用するものです。それがたまたまある個人に「天が授けた」。だから、背が高い人は高いところにあるものを手の届かない人のために取ってあげる。眼の良い人は嵐の接近や「陸地が見えた」ことをいちはやく知らせる。鼻のきく人が火事の発生に気づいて警鐘を鳴らす。そのようにして天賦の能力は「同胞のため」に用いるべきものなのです。(「WEB内田樹研究室」より) ~