3学年だより№26(海を見に行く自由)
~ 池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。
「今日ひとりで海を見てきたよ。」
そんなことを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。(渡辺憲司「卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ」) ~
なるほど社会人には自由がないなあ、学生さんはいいなあと当初思った。
これから大学生になるみんなを心からうらやましく思うとともに、今の自分にはどの程度の自由があるのかを考えてみた。
学生時代と今とでは、どちらが自由か。
学生時代は夕方まで寝ていることも可能だった(かなり実行もしていた)。
脳裏に波の音が聞こえているわけでもないのに、海に行ってしまったこともある。
自由といえば自由であった。
ただし、その自由とは、強く求めたすえに手に入れた類のものではないせいか、よく言えば自由の享受、はたから見ればたんに惰性で過ごしているだけの学生にすぎなかった。
大学生になったばかりのとき、実家を離れた開放感にめくるめく喜びを感じたのもつかのま、その後はただのんべんだらりと過ごす怠惰な学生であり、その自覚もあった。
それに比べて今はどうか。
仕事はしている。とくに今はけっこう働いてると思う。
では社会人としての今の自分に、渡辺先生がおっしゃるように、海に行く自由はないだろうか。
ひょっとしたら、そんなことはないかもしれない。
休暇の許可をもらって、授業の振り替えをして、電車に乗れば海に行ける。
お金はあるから、どうせなら故郷の冬の暗い日本海を見に行きたい。
日帰りすれば家族にはバレないし、悲しいかな学校業務には何の支障もない。
実際には行かないけど、どうしても行きたい時には行けるから、別に不自由ではないのだ。
そう考えると、「脳裏に波の音が聞こえた時」「途中下車して海に行ける」ことが、そこまでありがたがるほどの自由とは思えなくなってくる。
この程度の自由をありがたがるのは、尾崎豊が「卒業」で歌うレベルの自由とそう変わらないのではないか。
それが自由だというなら、ニートになって、家族もつくらず一人で世を渡っていくのが一番の自由ということになりはしまいか。
「今日ひとりで海を見てきたよ」と妻や子供の前で言えないかな。
かりに勝手に海に行ってしまい、家族から「どこ行ってたの?」と問いつめられたり、職場で「勝手に休んでじゃねえよ」と叱られたりするのは、実は「不自由」にはあたらないのではないかと思える。