3学年だより№27(海を見に行く自由2)
渡辺校長先生がこの文章を書かれたのは震災の直後だった。
何万人もの被災者が避難所暮らしを続けていた。
家族も家も職場も失った人がたくさんいた。
食べるものがない、暖をとれない、家族の安否がわからない、これからどうなっていくかわからない。
自分を束縛するものは何もないのに、何をすることもできないのだ。
そういうとき、自由とは何かと聞かれたなら、まず水であり、毛布であり、おにぎりであり、燃料だと答えるだろう。
「海を見てきたよ」と声をかけたくても、かけがえのない人がそこにいない「自由」。
二度と会うことのなくなったかけがえのない人に、もう一度自由を与えてあげられるなら、自分の自由なんて生涯1%もいらないという思いにうちひしがれた人がどれだけいたことか。
それを思えば、「ひとりで海見てきたよ」と言う相手がいないのではなく、言いづらいという状況に生きていることは、ものすごくぜいたくな状態だ。
時間が自由になるかどうかなんて、ほんとにささいなことではないか。
時間に束縛されない自由とは、寝食の心配がなく、生命の維持に気を遣わなくてもいい人にもたらされる貴族的な自由だ。
そんな程度の自由をあがめ奉る精神は、不自由とさえ言える。
自由な時間は何ごとかをなすために使われてはじめて、自由であることの価値をもつ。
一見不自由とも見える時間も、誰かの自由を支えるために使われているなら不自由ではない。
時間的、物理的、身体的に不自由であっても、精神が自由であることはありうる。
ただたんに好きなことをして、享楽的にすごす時間なら、それは自由とは言いにくい。
自由であることと、自分で好きにできる時間があることとは同じではないのだ。
川越東高校を卒業するみなさんにはあえて言いたい。
大学に入ったからといって、「海を見に行ける程度の自由を喜んでんじゃねえよ」と。
渡辺先生はおっしゃる。
~ 時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。 ~
立教新座高校の生徒さんはこの言葉で巣立っていった。
川東をまもなく去るみなさんには、こう言っておきたい。
「自分を直視するな。自分を探すために海など行かなくていい。
問わねば気づけないほどの夢なら、もともとなかったのだ。
学生という役柄に甘えてまだ何も生み出していない自分をこそ直視せよ。
何事かをなそうと思っても、それをなす知恵も技も人脈も地位もお金もないことが不自由なのだ。
一刻も早くそれを手に入れるために、海に行く間も惜しんで学べ。
与えられた自由ではなく獲得する自由を求めよ」(今日かっこよすぎる?)