「定型は内容の濾過装置」という言葉が気に入っている。
気に入っているというか、見方が変わったというか。
現代文の教科書に「定型があってこそおもしろい」という評論が載ってて、それで読んだ。
~ ある内容を三十一文字の器に盛ること、それが短歌の表現である。ところが、言いたい内容の量は時によって大小があり、いつも同じとは限らない。それを一定の器にぴたりと収めるのだから、無理がある。しかし見方を変えれば、短歌の作者は、一定の器に収めるために内容の余剰分(必要度の低いもの)を削ったり不足分を補ったりする行為を通して、繰り返し内容を吟味していることになる。つまり、定型は内容の濾過装置としてのはたらきをするのである。 ~
蓮実重彦氏が、映画監督ゴダールにインタビューするときに、限られた時間で何を聞こう、ありきたりな質問だと答えてくれるかどうかさえ分からない、どうしようと悩んだ末、発した質問はこうだった。
「監督の作品はどれも90分に収まってますが、切るのが大変でしょう」
記憶だけで書いてるので、ぜんぜん違う人だったのかもしれないけど。
すると「そうなんだよ、そこを誰も尋ねてくれないんだ」と言って話がはずんだという話だ。
やたら長尺の映画がある。
自分の言いたいことを表現したら必然的にそうせざるを得なかったという場合ももちろんあるだろう。
でも、商業作品として映画館でお客さんに観てもらうことを前提にしたなら、たとえば3時間はぜったい長い。
映画にかぎらず、休憩なしジャンルなら2時間そこそこが目安だろう。
だってお手洗いいきたくなってしまうもの。
お客の都合を考えず、表現したいことを表現したいだけつくるのは、傲慢な行いだ。
演奏会にも同じことが言えるから、気をつけないといけないと思うけど。
今年観た映画で言えば、「アンストッパブル」「ミッション8ミニッツ」は、90分ぐらいの作品で、一瞬のダレ場もなく集中させ続けて、さくっと表現しきる素晴らしいものだった。
ぎゃくのイメージのもいくつかある。
時間は自分で切らないといけないのだ。
表現には枠がある。
枠の中でどれだけ勝負できるか。
コンクールも同じだ。
演奏の時間制限だけでなく、今目の前にいる生徒さんが、いついつの期間までにどれくらい上手になれるか。
時間は決められている。
そういう意味では定型だ。
内容と定型を照らし合わせて、その枠のなかで、内容にあったことをせいいっぱいやりきること。
無限になんでもできるわけはないし、やれることをやらないのももったいない。
何をやるべきかは、むしろ枠が決める。
もっと大きく考えると、自分に残された人生を考えた場合、あれもこれもやろうとするのではなく、内容を濾過することも必要かなとふいに思った。
「人には無限の可能性がある」というウソを教育関係者はときおり口にする。
ひょっとしたら、ウソじゃないかもしれない。
無限の可能性はあるのかもしれない。
でもそれを試してみるための人生自体があまりにも有限すぎる。