3学年だより№18(何のため5)
なぜa側に立つべきなのか。
それは、なんと言っても、大学は学問をするところだからだ。
学問とは何か。大学で学ぶとはどういうことか。研究するとは何をすることか。
研究者とオタクの違いを、みんなは説明できるだろうか。
「オタク」の定義自体に諸説あるが、研究者である大学の先生をオタクとよぶのは憚られる。
でも、オタクも、大学の研究者も、やっていることの性質は極めて似ている。
この二つは、外に開かれているかどうか、未来に開かれているかどうか、という点において性質を異にすると言える。
簡単に言うと、自分が徹底してこだわって収拾して分析して愛玩した対象物について、その研究の成果を自分で楽しむことに価値をおくのがオタクだ。
それが他人からどう思われようと関係なく、価値づけるのはあくまで自分である。
結果的に多くの人々に影響を与えることもあるが、それが目的ではない。
一方、研究の成果を、外部にさらすことによって、その価値を決めようとするのが研究者だ。
もちろん、自己満足のみの研究に没頭されている理系の研究者の方や、10年間論文を1本も書いていないという文系の先生がいらっしゃるのも現実だ。
しかし、根本的に研究というのは、その成果が世に問われ、何らかの形で世のため人のためになろうと志向する。
くりかえすが、大学の先生は研究者である。
人の役に立つこと、人々を幸せにするものを生み出すために、研究はある。学問はある。
だからこそ、大学には(私立大学にも)莫大な公金が支出されている。
学問は、少しでもいい考え方はできないか、もっと良い方法はないか、を考えるところからスタートする。現状の肯定は学問につながらない。
たえず自己否定、現状否定し続けるところからしか、新しい知見は生まれない。
そういうのが学問だとしたら、そういう場に行こうとしている人間だったなら、「格差社会ってどう思う?」って聞かれたとき、どう答えるべきだろう。
自分のとぼしい知識によるイメージだけで、「収入の少ない人は努力不足だ」と結論づける姿勢は、ふさわしくないことはわかってもらえるだろうか。
学問研究の道へ歩み出そうとしている人間なら、「格差社会」の現実を実感した時、それをなんとかできないかと発想すべきなのだ。
現状をそのまま受け入れよう、諦めようとする姿勢は、学問とは逆の方向性ということになる。
現状のままでいいのなら、経済学や政治学など学ぶ必要がないではないか。
理学や工学の研究など必要なくなってしまうではないか。
学問をこのように理解したなら、純粋に自分のために大学に行こうとするのは、実は「了見が狭い」ということにも気づいてほしいと思う。
やっと「何のため(1)」の話にもどる。ものすごくベタな結論だけど、みんなは大学に行って自分の才能を駆使して、世のため人のためになる人間になってほしい。
いや、そうするのが、大学進学という僥倖を手に入れられた人の義務なのだ。