水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

誰がやるか

2015年04月02日 | 日々のあれこれ

 

 若かりし談春が、談志の命令でビートたけしを案内したことがある。一緒にタクシーに乗ってくれた高田文夫が、「タケちゃん、この子談春ていってね、落語一生懸命やってるんだよ」と紹介してくれる。その時たけしが、「あんちゃん、落語ってのはさ、何をやるかより、誰がやるかだよな」と語ったことを今もはっきり覚えていると談春は語る。
 それから幾星霜を重ね、談春は最もチケットのとりにくい噺家と言われるまでになった。五日連続で行われた談春独演会の楽日のチケットをぴあでとれたので出かけてきたが、そのたけし師匠がゲストで一席うかがうというサプライズがあり、お得な気分になった。
 開口一番で談春師があいさつを述べる。今日は特別ゲストですといい、めくりがあがるとそこに「梅春」と名前がある。ビートたけしが立川一門芸能人コースに入会していた時の名前だ。そのめくりを見たとたん、うそっ、まさかと多くの人が驚くというコアな客層ではあった。
 中入りのあとの、お目当ての談春「百年目」は、本人が主張されるように、実に談春落語だった。
 生で聞くのははじめての大ネタだが、活字で知った高校生の頃から好きな噺で、円生師匠、米朝師匠のCDは何度もきいている。
 正直に言うと、まんまが好きだ。サゲ(おち)も変えずにそのまま演ってほしかった気持ちがないではない。
 でも、それじゃあ立川流じゃなくなるか。同じ古典落語を演じても、徹底的に万民に分かりやすくしてくれる志の輔師匠、狂気を増加させる志らく師匠、換骨奪胎し現代の作品にしてしまう談笑師匠、いづれも「ただじゃおかない」方々ばかりだ。
 「古典を昔の口調でそのままやって、何の意味があるんだ」という師匠の教えをそれぞれに具現化した姿だろう。
 古典を一番もとのままの形でやっているように見えて、実は一番古典でなくしてるのは、談春師匠ではないのか。 そんなふうにまで思う。
 主人公の大店の大番頭が、己の存在価値に哲学的考察を加え始めるのだ。もちろん、直接そんなむずかしい言葉を用いるわけではないが。落語を聴いているより、どっぷり純文学の世界にひたっている気分になる。そうか談志の理屈っぽいところが好きだったファンは、談春にいくのかなとも。
 
 今日から、練習再開した。入学式後の歓迎演奏会用に機材搬入を行ってから、いつもの全員ロングトーン。個人練習をはさんで、みんなで課題曲を一通り聞いてみる会。
 何やろうかな。うちのバンドにだけぴったり合っていて、他校さんが演奏しても効果があがらない曲があればいいと一瞬思うけど、あるはずがない。となると、うちの苦手な要素が少ない曲はどれかなという観点で考えてしまう。そうやって選んだ曲が、自分の好きな曲であれば何の問題もないのだ。
 「今年はこれかな」「うん、この曲なら勝負できそうだ」と毎年決めるものの、なかなか思ったとおりの展開にはならない。
 極論を言えば、なんでもいいのだ。「これは作品として弱くないかな」と思う曲もないではないが、それも圧倒的なサウンドで演奏しさえすれば、間違いなく評価される。
 「この曲はうちには無理だな、いや他の学校さんでも難しいのでは … 」と感じた曲が、コンクール本番で見事に演奏されているのを聴いたことは多々ある。
 結局は、どのバンドが演奏するかだ。
 何をではなく、誰が。
 どの曲を選ぶかよりも、いい演奏ができるバンドになることがよほど大切だ。

 「前座噺」と呼ばれるネタがある、「寿限無」とかね。そんなに長くなくて、口調の練習のような要素もふんだんに含まれている。寄席に行くと、最初に出てくる前座さんが練習のように話す。
 当然笑いはとれないし、お客もそのネタでそんなに笑おうとは思ってない。
 ところが、そんなネタでも、上手な噺家が演じると実におもしろいのだ。中身もサゲもみんな知っていて、それでいて大爆笑させられる。
 課題曲には、「つまんない」曲、「完成度の低い」曲もあるかもしれない。これはちょっとと思われる作品でも、たとえば埼玉栄さんが演奏すれば圧倒的なサウンドの大曲になる。伊奈学園さんが演奏すれば実に美しく繊細な曲になる。
 「何をよりも、誰が」の「誰」を鍛えないといけないのだ。

コメント
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