どこまでが演技で、どこからが本気なのか――。
「暗黙の了解」が存在し、お互いの技を受け合って初めて成立するのがプロレスだ。
時に、それを逸脱しているのではないか、いまのパンチはガチで入ったよね、やばくね? 猪木さん、人間的に危ないよねと、見ている人がつい思う試合をしていたのが新日本プロレスの試合、とくにアントニオ猪木のそれであった。
村松友視は、そんな猪木のスタイルを「虚実皮膜」と評し、当時ファンの心をわしづかみにした猪木プロレスを理論的に説明した。
虚実皮膜論。その昔、近松門左衛門が唱えた演劇理論の一つだ。
真実と虚偽との境目にこそ人間の真実が現れる。
だからお芝居は、純粋なリアリズムであってはならず、しかし完全なフィクションでもなく、作り物と写実のほどよい境目を表現しなければならないという考え方だ(で、たぶん合ってると思うけど)。
しかし、おもしろかったな、全盛期の新日本プロレスは。
本校に赴任して一年目、初めていただいた夏のボーナスで部屋に電話をひき、冬のボーナスでビデオを買ったのは、プロレスを録画して観るためだった。
人間関係のトラブルで、本当に暗黙の了解を越えたセメントマッチ(本気の試合)になってしまった、アンドレザジャイアントVS前田日明という試合がある。テレビ放映は見送られることになったその試合のビデオを持っていると「週刊ファイト」の読者投稿欄に書いてた人に手紙を送り、数千円でビデオを購入して観たりもした。
なるほど、本気になると試合は成立しないのだ、それにしてもアンドレを戦意喪失させる前田日明という選手はとんでもなく危ないやつだとわくわくしたものだ。
前田日明が新日本を飛び出してつくったUWFは、格闘技色が強くなり、「暗黙の了解」をさらに高次元で越えた戦いぶりに見えて、猪木のプロレスに食傷気味になりつつあったファンを虜にした。
そののち、UWFも、UWFインターも、リングスも、純粋なリアルファイトではあり得ないことがわかってくる。
だからといって、アメリカを中心に広がり始めた純粋なリアルファイトの殺伐さにも心は惹かれない。
猪木、馬場、鶴田、藤波、長州 … 。時代の寵児とも言えるレスラーたちが年をとったあと、前田、高田、橋本、蝶野、武藤といったエリートレスラーたちの試合を面白く観戦したものの、前者のように「プロレスが生き方」であった人たちの戦いほどにはのめりこめなかった … 。
ちょっとまって、ちょっとまって、おれ。プロレスの話の予定ではなかった。
「虚実皮膜」だ。映画「バードマン」を観てまず感じたのは、この理論だった。
どこまでが虚で、どこまでが実か。
どこからが虚で、どこからが実か。
映像も、役者さんの演技も、登場する人名も、設定も、音楽も、そのすべてが、虚と実のあわいに存在するように感じた。
このセリフってガチじゃね? 的な。