一気に人生を凝縮してみせたかと思うと、ディテールを積み重ねて人物を浮かび上がらせる描写もうまい。
幸夫は、夏子と旅行先で亡くなった「ゆき」の家を訪ねる。
~ 四人がけのダイニングテーブルの上には、公共料金の領収書や学校や保育園から出された保護者宛てのプリント、買い置きのレトルト食品やら洗剤やらが、雑然と積み重ねられている。台所とその奥の居間との間の鴨居に噛みついた洗濯ハンガーには、衣類がみなくっきりと洗い皺をつけたまま、天地の規則性もなく吊り下げられ、その重さのあまりハンガーの横軸が弓なりに撓んでいる様子は、まるで今の我が家を見るようだと幸夫は思った。 匂い立つほど不潔というわけではないが、明らかに女手が抜け落ちたとわかる行き届かなさである。しかし鈴なりの洗濯物をかき分けて奥の六畳間に入ると、背の低い棚の上に新品らしい小さな白木の仏壇が据え置かれ、ネズミのキャラクターの描かれたパールピンクの写真立てに飾られた「ゆきちゃん」は、その中で、はじけるように笑っていた。彼女のそばに寄り添うように置かれた子供用のマグカップには、ほのかに青臭い香りを放つシロツメクサが三本、生けられている。幸夫は、自分の書斎の机の端に、天井を見上げたまま放置された夏子の立派な遺影のことを思い、胸が差し込んだ。 ~
トラックドライバーの父親とまだ幼い子供達とが、懸命につくっている暮らしが目に浮かんでくる。
経済的には何の不自由もない幸夫との対比も鮮やかだ。
幸夫が、この大宮一家を食事に誘うシーンも象徴的だった。広尾とかだったかな、店名の看板が出てないような隠れ家的なフレンチのお店に誘うのだ。なんでも好きなものを食べていいと子供たちに言ってもどしようもできない。幸夫の、悪気のない無神経さが端的にわかる。
そんな幸夫が、この家族といつしか深く関わるようになり、彼の生き方の大きな変化が生まれる。
父親が長距離に出ているとき、妹の灯(あかり)を幼稚園に向かえにいったり、夕食をともにするようになったり。同時に夏子が、この家族とどんなつきあい方をしてきたかも明らかになっていく。
もちろん、幸夫がただいい人になっていく、妻への仕打ちを反省するようになる、といった単純な話にはならない。灯や兄の真一とも、また父親とも時にぶつかりながら、しかし(「だから」かな)離れられない関係になっていく。
大事な人を失ったあと、人はどう生きていけばいいのか。
生き残ったことに罪悪感を感じてしまうのは、日本人の心性だという文章が、昔東大の二次試験に出たことがある。太平洋戦争の遺骨収集を今も続ける人、戦友の慰霊をし続ける方の存在は、端的にそれを表しているのだろう。
他者の死が、生き残った自分をそこまで規定するということは、逆に自分もうかつに死んでは申し訳ないという事実にも気づけるのだ。
気づいたからといって、自分ではどうすることもできないのだけど。
~ 死は、残された者たちの人生に影をさしこませる。その死の成り立ちようが、痛ましければ痛ましいほど、人々は深く傷つき、自らを責め、生きる意欲を奪われ、その苦しみは、また別の死の呼び水にもなり得る。俺みたいなやつがくじけることで、真ちゃんやアーちゃんを、この上一瞬でもそんな気持ちにさせるのはいやだと思った。あの子たちはもう十分失い、そして闘っている。俺の死を完全に無視するには、彼らとは、すでに関係を持ち過ぎた。
「生きてるんだから、生きててよ」って、そんな簡単なもんかねと思うけど、案外そんなもんかもね。あのひとが居るから、くじけるわけにはいかんのだ、と思える「あのひと」が、誰にとっても必要だ。生きて行くために、想うことの出来る存在が。つくづく思うよ。他者の無いところに人生なんて存在しないんだって。人生は、他者だ。ぼくにとって、死んだ君が今の今になって、「あのひと」になりつつあるような気もするよ。遅いかあー。 (西川美和『永い言い訳』文藝春秋社 ~
すぐに二回読み直したほど文章はすごいし、登場人物のキャラの立ち方、視点をかえながら進めていく語り口、そして人間の弱さと傲慢さを浮き彫りにしながら、一筋の希望の光を見せて終わるストリーも、現代小説の頂点の一つがここにあるのではないか思えた。