水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

「水の東西」の授業 7自然観の違い

2015年04月25日 | 国語のお勉強(評論)

 

〈9・10段落〉

9 言うまでもなく、水にはそれ自体として定まった形はない。そうして、形がないということについて、おそらく日本人は西洋人と違った独特の好みを持っていたのである。「行雲流水」という仏教的な言葉があるが、そういう思想はむしろ思想以前の感性によって裏づけられていた。それは外界に対する受動的な態度というよりは、積極的に、形なきものを恐れない心の現れではなかっただろうか。
10 見えない水と、目に見える水。

Q23 「理由」を表す文を指摘せよ。
A23 「そうして、形がないということについて、おそらく日本人は西洋人と 違った独特の好みを持っていたのである。」

 ☆ ~のだ。 ~のである。 … 何らかの事情・理由を述べる言い方

Q24 この文は何についての理由・事情説明か。
A24 日本人が噴水をつくってこなかったことについて

Q25 「独特の好み」とあるが、日本人のどのような心のことをこう言っているのか。9段落から抜き出しなさい。
A25  積極的に、形なきものを恐れない心

Q26  「そういう思想」とは何を指すか、抜き出しなさい。
A26   行雲流水

 日本人の独特の好み
         ∥
 行雲流水  … 思想以前の感性
         ∥
 積極的に、形なきものを恐れない心

 ☆ 行雲流水 … 空を行く雲、流れる水のように、何事にも執着を持たず、
         成り行きにまかせることがよいとする考え。

 日本人は、物事を自然のなりゆきにまかせるんです。
 なんでもかんでも人の手を加えて支配したような気になるのは神をもおそれぬ行為なんですね。
 それにあれこれ苦労したって、人知を超えた部分てあるじゃないですか。
 最後はなりゆきにまかせるしかないよ、っていう感覚を心の底にもってるんですよ。
 その感覚を端的に表す言葉が「行雲流水」です。
 じゃあ「なりゆきにまかせる」という意味とイメージの近い語は? 「受動的」ですね。
 しかし作者が言いたいのは、「行雲流水」は「受動的」ではなく実は「積極的」な態度だ、といいたいんですね。

 日本人は「形なきものを恐れな」かった。逆に考えると、西洋人は、「形なきものを恐れ」たのです。
 その結果、たとえば庭一つとっても全部人の手をいれます。メディチ家の写真みてみよう。きちっとしてませんか。全部人工的でで左右対称になっています。
 人間の暮らしの前に立ちはだかる厳しい自然を対象(オブジェクト)化し、自分達で造型して、支配下に置きたいと考えました。
 その結果、西洋の庭は人工的な対称(シンメトリー)的なものに作られます。

 日本の庭はちがいますね。いかに自然らしさを出すか。優秀な庭師は一生懸命庭をつくります。そしてある日「これで終わり」って言うんです。「師匠なんか足りなくないですか」と弟子が聞く。「この木は小さすぎませんか」とか。すると師匠は、「馬鹿やろう。二百年経つとちょうどよくなるんだ」とか言うんです。
 最後の仕上げは「積極的に」自然にまかせるのが日本の庭造りです。

 西洋の庭は完成したときに、完全な美をつくろうとします。対照(コントラスト)的ですね。
 西洋人にとって自然は対象化するものであり、日本人にとって自然は一体化するものだったのです。


  (日本)自然と一体化 ←→ (西洋)自然を対象化


 これから読んでいく評論にこういう話はよくでてきます。そういう意味でも「水の東西」を基本中の基本としてマスターしてください。


      日本               西洋

   形なきものを恐れない ←→ (形なきものを恐れる)
            行雲流水 ←→ (自然のなりゆきにまかせない)
           自然と一体化 ←→ 自然を対象化

      見えない水 ←→ 目に見える水

コメント (2)
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