今から31年前の12月、こんなことを考えていたのか…という、おはなし。
月日のたつのは早いもので、ついこのあいだ、旧知の友や過去お世話になって最近無沙汰がちの先輩諸兄に、暑中見舞いを出したと思ったら、もう年賀状をそろそろ書き始めなければならない季節になった。
暑中見舞や年賀状を書くシーズンが来るといつも思う。
これは虚礼なのだろうか、信義ある良俗なのだろうか……と。
特に年賀状の場合、350億円という気が遠くなるほどの大金が、ハガキ代として消費されることなどを耳にすると益々迷ってしまう。
省資源とか節約ムードが叫ばれる昨今では、確かに馬鹿げているかも知れない。が、紙・パルプ産業に従事する一員としては、双手を上げて反対もしないし、必要以上に奨励もしないというところか。
いずれにせよ筆者自身は、新年の慶びを素直に表したい。それには本来ならハガキに意を託すのではなく、直接相手を訪問し、手の一つも握って、祝詞と今年もよろしくといった挨拶を述べたいのだが、現実的にはそうも行かない。 責めて相手に気持ちを伝えるという意味で、毎年せっせと年賀状をしたためている。
我々一般人には年賀ハガキの一枚によって、自己PRしたり印象づけたりする必要はさらさらないわけである。ごく自然に・素朴にこちらの意を汲んでもらえればそれで事足りる。
日頃手紙もロクロク書かず、音信途絶えがちな友人・知人・親戚に、責めて年の初めにこと寄せて、挨拶をする一枚のハガキに価値はあると思っている。
また受け取る立場になると、思わぬ相手からもらったり、オヤッと思う人から届いた黒々とした墨跡に接すると一段と心が洗われる思いがする。
要は、出す人・受け取る人の気持ちの持ち方一つで、虚礼になったり信義の良俗になったりするのだと思う。
この暮れも単なる虚礼に終わらせないよう、精一杯年賀状を書いてみようと思っている。
(1977年12月1日発行 工場機関誌掲載「やぶにらみ随筆」)
今年は、年賀状の代わりに喪中ハガキを出した。年賀状の届かない、ある意味寂しい年始を迎える。
( 写真:今年届いた年賀状 )
月日のたつのは早いもので、ついこのあいだ、旧知の友や過去お世話になって最近無沙汰がちの先輩諸兄に、暑中見舞いを出したと思ったら、もう年賀状をそろそろ書き始めなければならない季節になった。
暑中見舞や年賀状を書くシーズンが来るといつも思う。
これは虚礼なのだろうか、信義ある良俗なのだろうか……と。
特に年賀状の場合、350億円という気が遠くなるほどの大金が、ハガキ代として消費されることなどを耳にすると益々迷ってしまう。
省資源とか節約ムードが叫ばれる昨今では、確かに馬鹿げているかも知れない。が、紙・パルプ産業に従事する一員としては、双手を上げて反対もしないし、必要以上に奨励もしないというところか。
いずれにせよ筆者自身は、新年の慶びを素直に表したい。それには本来ならハガキに意を託すのではなく、直接相手を訪問し、手の一つも握って、祝詞と今年もよろしくといった挨拶を述べたいのだが、現実的にはそうも行かない。 責めて相手に気持ちを伝えるという意味で、毎年せっせと年賀状をしたためている。
我々一般人には年賀ハガキの一枚によって、自己PRしたり印象づけたりする必要はさらさらないわけである。ごく自然に・素朴にこちらの意を汲んでもらえればそれで事足りる。
日頃手紙もロクロク書かず、音信途絶えがちな友人・知人・親戚に、責めて年の初めにこと寄せて、挨拶をする一枚のハガキに価値はあると思っている。
また受け取る立場になると、思わぬ相手からもらったり、オヤッと思う人から届いた黒々とした墨跡に接すると一段と心が洗われる思いがする。
要は、出す人・受け取る人の気持ちの持ち方一つで、虚礼になったり信義の良俗になったりするのだと思う。
この暮れも単なる虚礼に終わらせないよう、精一杯年賀状を書いてみようと思っている。
(1977年12月1日発行 工場機関誌掲載「やぶにらみ随筆」)
今年は、年賀状の代わりに喪中ハガキを出した。年賀状の届かない、ある意味寂しい年始を迎える。
( 写真:今年届いた年賀状 )
今年も年賀状を用意する時期になりましたね。
今年こそ、早めに取り掛かり「墨痕あざやかに」と思うのですが、つい間に合わなくなり、パソコンで皆さんに同じものを送ってしまうはめになります。性懲りもなく毎年同じことの繰り返しです。
年々、1枚、2枚と減っていく年賀状、虚礼とは思いながらも、せめて年一回のお付き合いで、お互いの消息を確かめると共に励ましあっていきたいものだと思います。
これって、昔から文才があったというべきか、はたまた若くして上り詰めていたというべきか。
そして今年は、特別に喪中葉書を多くもらったようです。
虚礼でもいいですね、多くの年賀状に囲まれて賑やかに新しい年が迎えられる方が幸せですね。
早くも年賀状のシーズンですよ。今年はというか、お正月に年賀状が上げられなくて残念!
良きにつけ悪しきにつけ、日本人ならではの年賀状の風習は残していきたいですね。
やはり、心が暖かくなります。たとえ年に一度だけの音信でも、無いよりあった方が遙かに楽しいですね。
まさにおっしゃる通り、35歳の時も今も大きく変わらないということは……??
自分ではあの頃より随分丸くなっているなーと思うことはあります。
ただ、あの頃も同じように、何かに引っかかりながら生きてきたのでしょうか。そしてその頑固さを今でも手放せないのでしょうかねー…。
すべてを手書きでしていた時期がありました。
3人が手分けをして。しかし、さすがにそれは降参!
印刷に回しますが、一言添えることに楽しみを味わいつつ、です。
何かしらでお世話になっているものです。
気持ちがとても伝わります。
どーやったら、あんなエッセー書けるかなあ。
手っ甲・脚絆に三度笠や、海水浴の腹巻の頃から10年ちょっと過ぎた頃のことなのに、えらく大人ぶってますね。気持ちの底にある思いというのは、基本的には大きく変わらないんでしょうか。
それとも、あの頃に一気に成長して、そのまんま止まっちゃったのでしょうか。
でもあの頃から、一丁ヤッタローです。
準備万端!明日の夜を待つばかりです。
送迎、大変でしょうが、気を付けてね。よろしく。