記憶が少し薄れかけてはいるが、日本大相撲界を揺るがせた「力士の野球賭博事件」や「八百長相撲メール事件」の当時、大相撲協会の理事長を務めたのが、岩国市出身で、現役では大関を張った「魁傑將晃関」。放駒理事長その人である。
大関昇進のお祝いの引き出物に「内祝い」として配られたのが、分厚い字引だったという話が残っている。
謹厳実直を絵に描いたようなお相撲さんらしい・・・と、当時の逸話になった。
大相撲の大関昇進祝いとなれば、ひいき筋の各界の名士がお祝いに駆けつける。その内祝いといえば、我々素人考えでも華美や豪華さを旨としそうである。ところが、その正反対であったところに魁傑関らしい人柄がにじんでいるように思う。
あの大揺れに揺れた理事長時代、親方や現役力士を大量に相撲界から追放するという一大事の責任者の立場は如何ばかりであったろう。
そんな心労が重なったのか、などと簡単には言えないが、66歳という若さで急ぎすぎの感を残したまま亡くなった。
岩国出身と言っても、「あのお店が魁傑のお母さんがやっているんよ・・・」といった程度の、特に何のかかわりがあったわけではないが、如何にも素朴な田舎町出身という、ふるさと力士らしい礼儀正しさを感じるお相撲さんではあった。
大相撲5月場所も明日で終わる。口の悪い人は「大相撲モンゴル場所」と陰口をたたく3横綱そろってモンゴル出身。
もっとも、強いのだから仕方がない。彼らに対抗できる強い日本人力士が出てこないだけのこと。
そんな相撲界ではあるが、もとをただせば神様に奉納する、言うなれば芸能の一つであったことを思い出してみたい。
いまさら何を、と笑われるかもしれないが、神事であったという事実は曲げられない。
だからどうなんだ、という話になるが、今や神事であった昔は忘れ去られ、勝ちさえすれば称えられる。
自分が勝ったことは明らかで、土俵の外に出ている相手を、さらに一突き土俵下に落とす。そんな横綱の意地汚さ。
たとえ勝負に徹する世界ではあっても、人格・品格など無視しては、かつての神事が嘆くだろう。
こんな現状を、「休場は試合放棄と同じ」という信念で、現役937場所皆勤で終えた魁傑関、放駒親方に感想を求めたかった。
まあ所詮ないものねだりの勝手思考と笑われるのが落ちかもしれない。落ちないのがお相撲さんの本当の強さではあるのだが。
本当の強さとはなんじゃろう。この世の中に、本当の強さ・うその強さなどあるものか。いつの世も勝てば官軍・・・かな。