何時も来る、先輩からの年賀状が届かず、少し気がかりだった。
年が明けそして、正月も終えた二月に入り先輩からのはがきが届いた。
その葉書には、簡単に奥様が年末にお亡くなりになり、年賀を欠礼しました。と、あった。
もう、長い間お会いしていないので、事情も分からなかったけれど、
取りあえず、短い手紙を添えてユリの花の宅配を「滝沢種苗」さんに託した。
しばらくすると、宅急便で先輩からの荷物が届いた。
開けると、大きなお菓子の箱が三個も重ねて入っている。
休みに帰宅した娘達は「このお菓子、ラスクって有名なものよ」と言う。
うーん、先輩らしいな、豪気なお返しだな。
上州人を代表するような、豪快で男気の強い先輩だった。
すぐに先輩に荷物を頂いた旨の連絡をしようと、気の重いところも有ったが、電話を入れた。
電話口からは、昔と変わらぬ元気な先輩の声が響いた。
「綺麗なユリを沢山ありがとうな、手紙を読んでな、涙が出ちまったよ」
なんて、相変わらず威勢の良い、歯切れのよいお話。
でも、その後の話には驚かされ、そして、悲しくなってしまった。
奥様は暮の二十五日に、突然お亡くなりになられたと言う。
心臓の具合が悪く、定期検診には通われていたそうです。
その日は、定期健診の日に当たり、朝から行く準備をしていると、
「今日は体調が良くないから、後日にします」と先輩に告げられ、
その会話のわずか五分後には、先輩の見守る中、心筋梗塞で息を引き取られたとか。
本当に、お慰めの言葉も見つからないお話でした。
新潟、群馬県県境の温泉の町「水上町」には五年間滞在した。
独身時代の最後の頃から、結婚して初めてアパート暮らしまでその町で経験した。
仕事も出来たけれども、悪戯も含む遊びも一生懸命だった。
仕事の最中にからかわれ「スベルべ!ちょっと来い!」なんて呼びつけられ、
先輩のデスクに行き、何の話かと思い、脇の椅子に座ると、
「ちょっと、これ飲むか」なんて、机の下でウイスキーを注ぐではないか。
ま、飲んだかどうかは、忘れたしまった。と、言うことにしておこう。
水上町の温泉の歓楽街「湯原」にもよく、連れて行って頂いた。
地元で、どこにでも、誰にでも顔が広かったなー。
賑やかな事が大好きで、女性の多いバーにもよく繰りこんだっけ。
そして、度重なるお誘いに「先輩、今日は私にお勘定させて下さい」と切りだすと、
「なに!スベルべ!じゃなにかい、俺の酒が飲めねーんってのかー!」ってこれですからね。
先輩の伝法な口調が今でも耳によみがえる。
登山を好んだことも話が合う所以の一つでも有ったなー。
谷川岳の主と言われた「中島喜代志」さんとも知己で有り、一ノ倉沢などにも明るかった。
昭和三十年代の後半だと思われるが、谷川岳一ノ倉沢の「衝立岩」と呼ばれる難所で、
クライマーが遭難死して遺体はザイルで結ばれたまま、岩壁の空中に、
吊り下げられた形のままとなってしまい、オーバーハング状態の地形での収容作業は困難を極めた。
最終的には、自衛隊が出動して、ザイルを銃撃して切断すると言う、
未曾有な収容作業となったのだったが「あれを提案したのは俺だよ」、事も無げに言ったっけ。
「一ノ倉もな、フリークライミングできるコースが有る、マチガ沢よりも、
上部にガレ場が無いから登りやすいぞ、今度連れて行くからな」なんて言われたけれども、
とうとう、実現せずに今日まで来てしまった。
気の合う二人の除雪車、ロータリーの作業なんて凄かったなー。
だって、皆が怖がって作業しない場所まで、このコンビは突っ込んで行くのですから。
とうとう、最後は固い雪に阻まれて、機械を壊したことさえ有ったっけ。
「先輩、春になって暖かくなったら、こちらにも来て下さい」と、結んで電話を置いた。
遠くなった歳月が、昨日のことのように、脳裏に浮かぶ、
甘酸っぱい、切ない思いの出来事では有りました。また、近いうちに水上に行こうかな。