畑に吹く風

 春の雪消えから、初雪が降るまで夫婦二人で自然豊かな山の畑へと通います。

悲しい話

2012-03-22 04:57:13 | 暮らし

 何時も来る、先輩からの年賀状が届かず、少し気がかりだった。
年が明けそして、正月も終えた二月に入り先輩からのはがきが届いた。

 その葉書には、簡単に奥様が年末にお亡くなりになり、年賀を欠礼しました。と、あった。
もう、長い間お会いしていないので、事情も分からなかったけれど、
取りあえず、短い手紙を添えてユリの花の宅配を「滝沢種苗」さんに託した。

 しばらくすると、宅急便で先輩からの荷物が届いた。
開けると、大きなお菓子の箱が三個も重ねて入っている。
休みに帰宅した娘達は「このお菓子、ラスクって有名なものよ」と言う。

 うーん、先輩らしいな、豪気なお返しだな。
上州人を代表するような、豪快で男気の強い先輩だった。

 すぐに先輩に荷物を頂いた旨の連絡をしようと、気の重いところも有ったが、電話を入れた。
電話口からは、昔と変わらぬ元気な先輩の声が響いた。

 「綺麗なユリを沢山ありがとうな、手紙を読んでな、涙が出ちまったよ」
なんて、相変わらず威勢の良い、歯切れのよいお話。
でも、その後の話には驚かされ、そして、悲しくなってしまった。

 奥様は暮の二十五日に、突然お亡くなりになられたと言う。
心臓の具合が悪く、定期検診には通われていたそうです。

 その日は、定期健診の日に当たり、朝から行く準備をしていると、
「今日は体調が良くないから、後日にします」と先輩に告げられ、
その会話のわずか五分後には、先輩の見守る中、心筋梗塞で息を引き取られたとか。
本当に、お慰めの言葉も見つからないお話でした。

 新潟、群馬県県境の温泉の町「水上町」には五年間滞在した。
独身時代の最後の頃から、結婚して初めてアパート暮らしまでその町で経験した。

 仕事も出来たけれども、悪戯も含む遊びも一生懸命だった。
仕事の最中にからかわれ「スベルべ!ちょっと来い!」なんて呼びつけられ、
先輩のデスクに行き、何の話かと思い、脇の椅子に座ると、
「ちょっと、これ飲むか」なんて、机の下でウイスキーを注ぐではないか。
ま、飲んだかどうかは、忘れたしまった。と、言うことにしておこう。

 水上町の温泉の歓楽街「湯原」にもよく、連れて行って頂いた。
地元で、どこにでも、誰にでも顔が広かったなー。
賑やかな事が大好きで、女性の多いバーにもよく繰りこんだっけ。

 そして、度重なるお誘いに「先輩、今日は私にお勘定させて下さい」と切りだすと、
「なに!スベルべ!じゃなにかい、俺の酒が飲めねーんってのかー!」ってこれですからね。
先輩の伝法な口調が今でも耳によみがえる。

 登山を好んだことも話が合う所以の一つでも有ったなー。
谷川岳の主と言われた「中島喜代志」さんとも知己で有り、一ノ倉沢などにも明るかった。

 昭和三十年代の後半だと思われるが、谷川岳一ノ倉沢の「衝立岩」と呼ばれる難所で、
クライマーが遭難死して遺体はザイルで結ばれたまま、岩壁の空中に、
吊り下げられた形のままとなってしまい、オーバーハング状態の地形での収容作業は困難を極めた。

 最終的には、自衛隊が出動して、ザイルを銃撃して切断すると言う、
未曾有な収容作業となったのだったが「あれを提案したのは俺だよ」、事も無げに言ったっけ。

 「一ノ倉もな、フリークライミングできるコースが有る、マチガ沢よりも、
上部にガレ場が無いから登りやすいぞ、今度連れて行くからな」なんて言われたけれども、
とうとう、実現せずに今日まで来てしまった。

 気の合う二人の除雪車、ロータリーの作業なんて凄かったなー。
だって、皆が怖がって作業しない場所まで、このコンビは突っ込んで行くのですから。
とうとう、最後は固い雪に阻まれて、機械を壊したことさえ有ったっけ。

 「先輩、春になって暖かくなったら、こちらにも来て下さい」と、結んで電話を置いた。
遠くなった歳月が、昨日のことのように、脳裏に浮かぶ、
甘酸っぱい、切ない思いの出来事では有りました。また、近いうちに水上に行こうかな。



 
コメント (8)
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