4月8日深夜救急車で運ばれ 入院した母は 暫くは食事もでき 今度退院したら車椅子でいいから旅行に行きたい などと言うほどに 一度は回復してみせた だが去年秋口に主治医をして 長くはもたない おそらく2007年の正月が最後のものになる
そう判断させた病魔は確実に母の体を蝕んでいた
昨年12月にもやはり意識不明になり救急車で運ばれた母だが 主治医の厚意で 外泊許可が出て 年末からお正月の間 数日は家で過ごすことができた
そして春の退院からひと月余りで 再び意識不明となり入院
口から食事を摂れなくなり点滴数種類が頼りとなり 腎臓も悪化 しかし体力がないゆえに透析はできない
血圧が下がるようになり 注射型をした薬をずっと入れるようになる
容体の急変に備え 血液中の酸素値 脈拍など3種測定モニターもつけられ
時々は酸素吸入のマスク
母は話すことも意味をなさなくなり
ただ「痛い」「きたない」「おかしいねぇ」 そんな言葉しか言わなくなった
五月連休開けだったか 数字が幾つかゼロになり ここまでか!ともいう状態になったが 主治医の努力 看護師の方々の 頭を下げるしかない 天使もかくや ナイチンゲールの精神 更に進化させたが如き手当て 看護のおかげで 母は持ち直して
しかし一つ良くなれば 別の部分が悪くなる
最初は効果を見せた輸血や血圧の薬も 更に悪化の坂道を転げる母の病状の前には 一時凌ぎ 治療は蟷螂の斧
声も日に数えるしか聞けなくなる
「痛い」「さわらんといて」
片目は失明 片目もうっすらとものの形しか見えなかった母
二重瞼の大きな目を開き たまに瞳を動かしていた
その目に何が見えていたのだろう
飲み込むことも 吐くこともできなくなり こみあげてくる緑色の液を出すチューブを鼻から入れ それでも足りず ごぼごぼ口の中にこみあげるモノを看護師さんが器具かけて吸い出して下さる
何をしても 時期がいつになるかだけで
死は近くで待っているのだった
幾度も幾度も もうもたない
看護師の方々も 泊まられますか? ご家族の方はすぐに来られますか? そんな状態になりながら
数値はよみがえり
でも とうとう 血液中の酸素が機械では測定できない状態になった
どの数字も血圧も どんどん下がっていく
16日は土曜日 学校から直接 長男が病室へ 夜は塾を終えた娘が
その夜は 明日が日曜ということもあり 私は病室泊まり
朝 帰宅し 少し寝てから病院へ戻り 遅くまでいて日曜の夜は家で睡眠とり 家族を会社 学校へ送り出してから病院へ
母の状態は悪化するのみ 昼も帰宅せず父に連絡し病室に詰め 病院の売店でおにぎり二つコーヒーなど買いエネルギーをしっかり補給
夕方 長男が学校からじかに病室へ姿を見せ さかんに声をかける
夕飯支度の為 長男連れて帰宅
おかずだけ作って 病室へ戻る
月曜の二時間ドラマが終わり―少しして数字がゼロに
声を掛けると少し数字が動く
看護師さんが 「来られる方に連絡を」
家に電話すると 長男は来る 夫は長男と一緒に
娘は体調悪い祖父を気遣い おじいちゃんと一緒にいる と
夜間入口まで夫と長男を迎えに行き 病室へ戻る
長男がベッドの傍らにかけつけ 声を掛けるのを待つように
実際 待っていてくれたのだが
ゼロに変わるモニターの数値を見つめ
手順を踏んで 主治医が母の臨終を告げる
自分の無力感を味わっておられるのか 医師の顔は悲痛であった
こちらが気の毒に 何か慰めの言葉をかけてあげたいと思うほどに
精神的に過酷な仕事であろうと思う
幾ら手を尽くしても助からない患者はいるのだ
母のように
看護師の方々が母の体を綺麗にして下さりメイクは 私に手伝わせても下さった
そして会館へも連絡して下さって
運ばれる母を 居合わせた看護師全員で見送って下さったのだ
病院から母を乗せた会館の車が出ていくまで主治医の方 主な看護師さんが見送りを
母を運ぶ車には長男が乗り 私と主人はそれぞれの車を運転し後を追った
その駐車場まで見送って下さった看護師さんは 4月8日夜 いらした方でもありました
今回の入院の最初の夜から最期の夜まで
ずっと温かな優しい看護をして下さいました
ずっと入院退院を繰り返してきた母
数多くの看護師さんのお世話になりました
葬儀をお願いした会館へ向かう道は 待っていたかのように 信号がずっと青に変わっていきます
小雨降る深夜 走る車も少ない国道
少し信号待ちして心を落ち着けたいのに こんな時には 青になるんだな
急ぐ時 時間の無い時は 意地悪するように赤になる信号が
どの交差点でも青に変わるのです
そして会館
入口で長男が待っていました
夜のこと
会館の支配人氏が母を迎え部屋の準備をして下さったのでした
担当の方が来られるまでは 横になって休ませて下さり
夜の間に決められることの手配を済ませ
初めての家族の死
判らないことばかりの中 下さるアドバイスは本当に有難かったです
迷うと「これでいいですよ」 勇気づける為か「大丈夫ですよ」と言って下さる
湯灌する前に駆け付け お経をあげて下さった会館が手配して下さったお坊様
湯灌して下さる女性二人の見事な手際
母の希望と父の家族だけで見送る
だから親戚にも知人にも葬儀を終え帰宅するまでは 連絡しませんでした
お通夜も火葬場も全て家族だけで
通夜の席で心ない悪口など言われること 身内同士の喧嘩 揉め事が起きることなどを 母は嫌ったのでした
かつて他の身内の通夜葬式や法事では そういう残念なことがありましたので
初七日まで済ませ帰宅
話が前後しますが―通夜の朝は主人が長男連れて帰宅 着替えなど準備し父と男3人で会館へ
入れ替わりに私が帰宅 娘と着替え済ませ 会館での宿泊荷物 葬儀向けの準備 犬と猫に不在の間の水 ご飯の用意をし 戸締まりをして家を出ます
長男からおじいちゃんにのど飴とメールあり コンビニでのど飴 軽くつまむ食料を買い込み あ帰宅した際にふりかける塩も購入し会館へ
あと火葬場から母の骨持ち 会館へ戻る途中も 留守にした家に異常ないか見に行きました
初七日終えて帰宅して あと会館の方が室内飾り付けに いらして下さったあと やっと夕食です
もうご飯炊いてないし おかず作るのも面倒で出前とり 父は風呂に入り その間届いた夕食を 入浴後とりはじめ
私は 見舞いに行ったら「もう お亡くなり―です」状態を避ける為 母の近い親戚になる叔父叔母達に上から順に電話を入れました
叔父とその息子二人は 連絡からすぐに家を出たらしく 神戸から駆け付けてくれました
母の一人置いた妹が この叔父の妻になります
その叔母は昨年九月に脳梗塞で倒れ手術をしずっと意識不明が続き今年に入って暫くしてから 会話もできるようには なりましたが 以前から腎臓の透析も受けており 麻痺も残っていて 夫である叔父が つきっきりで看護をしております
頼りにしている叔父ではありますが
互いに病人を抱える身
傍らを離れているうちに何かあっては?と不安な気持ちもよくわかるのです
今日は母の末の妹夫婦が午後から来てくれました
母は今 何を思っているのでしょう
日に幾度も今日まで学校を休んだ長男が線香をあげています
母の死が一番こたえているように見えます
多感な年頃 ずっと傍らにいて 何かと言葉かけ 可愛がってくれた祖母の死 その不在は
ふとした瞬間にこみあげ涙とまらなくなるものであるらしく 一日中 赤い目をしているのです
私はと言えば こうして あれこれ書くことで 何やら整理をつけようとしているような部分があります
写真は通夜準備中の様子です ひっそりと・・・・・