ON  MY  WAY

60代になっても、迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされながら、生きている日々を綴ります。

新潟国体の歌 今昔 時代背景がわかる

2009-09-29 18:35:27 | うた
今年の国体は、新潟で行われている。
新潟で国体が行われるのは、昭和39年以来とのこと。
県下各地で、さまざまな種目のスポーツが行われている。
私の住む近くでも、サッカーや軟式野球、ボートにラグビーなど、様々な市町村でその地域性が生かされたものが行われている。
観戦にも行きたいのだが、開催期間中の土日は何らかの仕事関係の予定が入ってしまい、ほとんど見に行けない。
昭和39年というがいったい何年前かというと、45年も前になってしまう。
1964年。東京オリンピックの行われた年である。
オリンピックが行われるということで、国体が6月に行われたのだった。
当時小学校低学年児だった私。国体の競技の話題は、何も覚えていない。
しかし、恐るべし。国体について、たった一つ覚えているものがある。
それは、当時の「新潟国体の歌」である。

1.弥彦の山から 輝きくだる
  燃え立つ聖火に 気もはずむ
  陽炎けりあげ 走れよ跳べよ
  伸びゆく力 試すのだ
  越路の大地に 勇まし愉し
  若人のうたげぞ 新潟国体 新潟国体
(2番3番略)

たぶん私と同じ50代の新潟人たちは、かなりの人が歌えるのではないかと思う。
小学生の頃の自分が覚えたほどの歌。なぜ歌えるのだろうと思ってしまう。
TVやラジオで繰り返し流されただけでなく、きっと学校でも何度も聞かされた(歌わされた?)のかもしれない。
歌詞をみると、意気上がる感じだ。
歌ってみると、確かに、いっそう勇ましい感じになる。

今国体にも、歌はある。
イメージソング「ガムシャラな風になれ」がそれである。
前半を紹介する。

君にしか出来ないことが
未来へとつながるファンタジー

ため息ばかりで
なぜうつむいているの
見上げればほら
青空が広がってる

叫べばいいのさ
この空に触れたいと
そうさその手は
何だって出来るはず

勇気ひとつだけ抱きしめ
小さなハートためすのさ

ガムシャラな風になるのさ
その胸の情熱だけで
どこまで行けるのかさえも
知らずに君は駆け出す
まだ見えないのに感じてる
ときめきが導く未来を
心はそう白いままの
ページを自由に駆けて行く

「ガムシャラ」を曲名にしているが、柔らかさや優しさを感じさせる。
優しく支えようとしてくれるように感じる。

歌詞や曲。歌の性格の違いが、そのまま時代を映しているような気がしている。
あの頃の東京オリンピックは、戦後日本のたくましい復興を表していた。
同年の新潟国体も、そのたくましさ、勇ましさを持っていた。
だから、国体の歌にそれが表れていた。

今は、たくましさ、勇ましさだけを強調すればよい時代ではない。
競い合う相手とだって、支え合うような、心の優しさが求められている。
そんな気がする、新潟国体の歌、今昔である。
コメント (3)
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首が回らない…右首痛に悩む…それだけではないが。

2009-09-09 22:44:34 | 生き方
人生50年、とかつては言っていたのだが、今では50代はまだ若い気がする。
しかし、金属疲労は隠せないもので、本当に体のあちこちが傷んで(痛んで)いる。
一昨日からは、右首痛が悪化して、痛みが増し、通院して薬をもらってきた。
椎間板ヘルニアというほど、頸椎は悪くないようだが、頸椎が痛みのもとであることは疑いようがない。
文字通り、首が回らない。
何かひどいきっかけがあったのならわかるが、今回は、思い当たる節もない。
こんなところが、肉体の老化現象なのであろう。
平均寿命は延びても、痛みを抱え、苦痛が増すだけ、痛いだけの老後なら困ってしまう。
右首痛、左肩痛、胃痛、胃のポリープ、左右の腰痛、股関節痛、痔、左膝痛、左ふくらはぎのけいれん、左足の感覚の鈍り、…枚挙にいとまがない…。
おまけに、目は老眼が進み、字がぼやけるので、最近は読書があまり好きではなくなっている。
さらに、子どもの頃から持っていた健忘症の度が、どんどん高まっていくことこのうえないため、大切なもののありかがわからなくなり、なんだか情けない。
うーん。いろいろと考えてしまう。
しかし、こうして生きていると、だれでもこんなものなのだろう。
誰でも、きっと体のどこかしらおかしくなっているのが、50代なのだろうなあ。
先日、3年ぶりで久々に話すことができたかつての同級生は、野球大好きな男なのだが、五十肩で投げられなくなって2年になるという。
私の場合、痛みはあっても、走るということが好きだから、また痛みが緩和したら、走れるうちは走っておきたいと思う。
あと、やりたいことは何だろう?
痛くても、体が動くうちに、自分が思い切りやりたいことはやっておきたいなと思うのだが。
とりあえず、首の痛みよ、飛んで行け~!
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高校時代の同級生から、久々の電話だったが…

2009-09-02 23:14:42 | 「育」業
先日、昔の高校の同級生から、何十年ぶりかで、突然電話がかかってきた。
「明日の選挙で、もしよかったら○○党に入れてくれないか。」
と言う。
そうか、十数年前から彼は、その団体の考えを支持していたのだったなあ。
と思いながら、聞いていた。
「前までは、自民党に入れていたけど、今度は、どうも民主党が勝ちそうだから。そこは、日教組が支持しているから、学力がますます下がるよ。だから、自分たちでなんとかしなきゃならんと思って、立ったんだよ。」
教育で学力だけを問題にする彼の口調に、カチンときた。

今、数値で表す学力だけが問題にされている。
そのために、環境が整備されているかどうかということは、ちっとも話題にされていない。
子どもはおとなしく座って授業を受ける者、弱者である。
対するに教師は大人で権力者。強者である。
という思い込みが、世間にはある。
とんでもない。昔と今は、子どもが育っている環境が違うのだ。
今の子どもは、大人が育ってきたときの昔の子どもとは違うのだ。
子どもたち一人一人に身に着くようにものを教えていくのは、容易ではない。
まず、じっと話を聞いていられない子、自分の思い通りにならないと怒り出す子やふさぎきってしまう子、などがいる。
なかなか心が育たないのだ。
そういう子ども一人一人に対応しようとすると、今までのように教師が居丈高に語るだけでは、通用しないのだ。

全国学力テストなどで教育により激しい競争を持ち込み、子どもたちを追い込み、教員免許更新制などで教師に多忙さの追い打ちをかける、今の日本。
教育の現場は厳しい。
ベテランが、対応しきれず通用しなくなって悩み、心の病に陥る教師も少なくない。
だから、学力を高めるのは、簡単ではない。
子どもたち一人一人に対応できるようにするような環境の整備が必要なのである。
日教組であるかどうかが問題なのではない。
30,40人も1学級にいては、子ども一人ひとりと教師は向き合えない。
現代では、15人くらいが上限である。
今の、数値で表すだけの学力が、果たして日本の子どもの将来の幸せにつながるものなのだろうか?
心を育てることの方がもっと大切なのではないだろうか?

電話の向こうの彼に、いつの間にか訴えていた。
「まあ、とりあえず、よかったら、○○党に入れてくださいな。」
最後に彼は繰り返し、電話は終わった。

衆議院選挙は、民主党の圧勝に終わった。
特に大きな期待はしていないが、少しでも、子どもと教師が人間らしく過ごせる学校になるような、そんな環境を整えてくれるような政策の実行を、やはり、期待してしまうのだ。
コメント (1)
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