ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

雪が育む新潟県人気質

2010-02-23 21:45:23 | 生き方
新潟から高速を使って、福島県いわき市に行ってきた。
高速だと250kmの道のりも、実にすいすいと3時間半ほどで行ける。
道中、ずっと雪の降る悪天候だったが、幸い路面に雪は大してなく、よく除雪してあった。
猪苗代を抜けると、雪もどうということはなくなった。
路面もぬれてはいない。
それでも、小野やいわき三和を過ぎるあたりまでは、積雪が見られた。
同じいわき市でも浜通り地方に住んでいる人たちは、黒潮の影響か、ほとんど雪を見ることはない。
それが、話を聞いてみると、「今年は2度も積雪した」そうである。
また、「(ノーマルタイヤでは)運転が怖いので、勤めを休んだ」という人もいたと聞いた。
でも、たった2度じゃないか。
いいよなあ、雪が降らなくて。積もらなくて。
心の中でそう思った。
わが居住地域では、まだ道路わきや田んぼは雪で真っ白である。
生活するとき雪を避けられない新潟県人。
冬の大半は、重く暗い雲が立ち込める鉛色の空。
そして、生活を圧迫する降雪・積雪。
何億円も必要とする除雪費用、雪害対策費。
半年間近くも天候に恵まれない暮らしを強いられる。

こんな暮らしを続ける新潟県人。
こういう中で形成される性格は、雪のない土地の人たちとは絶対違ってくると思う。
降り来る雪・積もり来る雪との戦いが強いられる。
雪という災害は、自然がもたらす。
雪の猛威に耐え、人々は、早朝除雪し、道足の悪い中を仕事に出かける。
仕事から疲れて帰っても、日によっては家の周りの除雪が待っている。
場合によっては、家の屋根まで除雪しなければ、屋根が重くなり、扉が開かなくなったりつぶれたりする。
雪との戦いは避けて通れない。
覚悟を決めて、雪と対峙しなくてはならない。
しかし、雪に勝とうなんてことは考えていない。
自然に逆らっても勝てっこない、どうしようもないということを知っている。
黙々と雪との戦いを受け入れ、春の来るのを待つ。

かくして、新潟県人は、概して我慢強くなる。
耐えて粘り強くなる。
同時に、受容的になる。
世間には、自分の思い通りでなければ気がすまない人がいる。
ルールを変えてでも、自分の思いを成し遂げようとする人がいる。
自分の力で何でも変えようとする、野心的な人がいる。
しかし、新潟県人には、そういう人はあまり多くないような気がする。
これも自分の運命と、甘んじて受け入れている人が多いように思える。
それは、こうした雪との戦いで培われたものだと考える。
自分の力で変えられないものもあるのだ、ということがわかっているからこそである。

…と言うが、まあ、一般的にということである。
私の周囲には、もちろん、我慢強くない人もいるし、野心的な人もいる。
自分だって、あまり粘り強くはない。
でも、今回、新潟県人ではない多くの人々と話をしていたら、日頃こんな考えの人とあまり会わないよな、という人が何人かいた。

さて、久々に2日間連続してよく晴れた。
やはり雪解け、春が待ち遠しい。
改めて自分は、新潟県に住む者だなあと再確認したしだいである。
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よくやった、上村愛子選手。4大会連続の入賞!!

2010-02-14 17:42:33 | ひと
「満足…、ちょっと悔しいですけど。何で1番違いなんだろうって思いましたけど、全力を出すことが第一ということをクリアできたと思うし、いい滑りをしたというのか、みんなに見てもらえたと思います。」
涙ながらの痛々しいような、競技終了後のコメント。
12年間、4度の五輪に挑戦。
そのたびに毎回入賞。
順位も、7位、6位、5位、4位と上がっていった。
確かに、メダルの獲得はならなかった。
でも、毎回入賞、毎回上位進出の成績はすばらしい。
周囲からの期待が大きく、報道も過熱。
メダル、メダルとそれ以外は認めないような、プレッシャー。
しかし、その1つ1つに丁寧に誠意をもって答えていた。
それがどんなに大変なことだろうかと同情しながら思っていた。
耐えてよくがんばった。
精一杯のチャレンジをしたことは、よく伝わってきた。
本当にお疲れさま。
貴女の健闘した姿、出場したどの大会にも入賞を果たしたその功績は、かつてスピードスケートで活躍した全種目入賞を果たした橋本聖子団長にも劣らない。
夫婦そろって世界の4位。
実に立派だ。
ありがとう。
胸を張って、日本に帰ってきてほしい。
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あれから5年、母の命日

2010-02-13 23:11:15 | 生き方
今年の新潟は、久々に豪雪となった。
例年、1月下旬から2月初旬にかけて最も冷え込み、大雪となりやすい。
今年も、2月の第1週が大雪となった。地吹雪で車が何十台も身動きがとれなくなったりもした。

大雪と言えば、父が亡くなったばかりの冬もそうだった。
そして、5年前、母が危篤の状態となっていた時の冬もそうだった。
「あと1週間もたない。」
と言われていたのが、この時期だった。
すでにもの言わぬようになってからの数日間、母の病室から街にたくさん雪が降っているのを見ていたのだった。
そして、亡くなったのは、5年前の日曜日、2月13日だった。
その日の真夜中、午前2時。病院から電話が入った。
母の血圧が下がってきた。いよいよだ。そう告げられた。
寒い病室の床で、妻と弟と私の3人で、肩を寄せ合いながら母の命を見守った。
やがて、朝が来て明るくなった。気づくと、母の息の間隔が少しずつ次第に長くなっていった。
3秒間隔から5秒間隔へ。そして10秒、…30秒。やがて1分…。
やがて、午前9時台には、3分以上息をしなくなった。
午前10時過ぎ、医師から確認された。本当に別れの時が来てしまった。

今日は、そんなことを思い出しながら、墓参りに行った。
墓のあるところは、新潟県では雪の比較的少ない海岸に近いところなのだが、今年は、20cmくらいの積雪があった。
誰も通ることのない、墓への坂道。
長ぐつにはき替え、道をつけながら、母の眠る墓へと坂を上った。
雪の時期の新潟は、湿った風が吹く。
線香に火をつけようとしても、ろうそくの火が風にあおられて、すぐに消えてしまう。
それでもなんとか、悪戦苦闘しながら線香に火をつけ、家族とともに、祈りをささげた。

今日は、バンクーバー五輪の開会式があった。
前のトリノ五輪は、4年前。
母の死が5年前、ということは、母は、浅田真央も、荒川静香の金メダルも知らずに亡くなったのだなあということも、改めて思った。

墓参りを終え、雪に足を取られる下り坂を、その鳴き声に振り返ると、カラスがすでに数羽、供えた団子をくわえて飛び去って行った。
枝だけが暗い空に向かって立っている木々。
冷たい雪の上に立つ墓石。
静寂を破るようなカラスの鳴き声。
新潟の冬だなあ…と思いながら、もう一度母の眠る墓石の方角に目をやり、「また来るよ。」と心の中でつぶやいた。
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