ON  MY  WAY

60代になっても、迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされながら、生きている日々を綴ります。

半年ぶり

2009-10-27 21:44:59 | 生き方
半年ぶりに、昔通った50km近い道のりを行く。
違和感がない。
この機会を少し楽しみにはしていた。
以前単身赴任していた山間の土地へ。
思えば、3年間の「金帰月来」。
毎週、金曜日夜に自宅に帰り、月曜朝早く単身赴任先へと向かったものだ。

半年では、さすがに道は変わらない。
季節は違うが、3度見た秋の風景。なあに、これも大して変わりはない。
都会だと店が建ったり変わったりしているかもしれないが、田舎ではあまり大きな変化はない。
風景では、懐かしさもあまり感じなかった。

それが、かつての職場で一緒に仕事をした人たちやかかわった人たちに会うと、いっぺんに懐かしさがこみ上げてくる。
思わずこちらから声をかけてしまう。
「わあ、○○さん、久しぶり。」「●●さん、お元気?変わらず何よりですね。」
全然変わらない大人に比べて、子どもの変化は著しい。
背が高くなっている。足が長くなっている。
とにかくタテに伸びているという感じ。
かつて自分がそこにいた、と、自覚させてくれるのが、そこで同じ時間を過ごした「ヒト」なんだなあと、改めて思った。

帰りに、よく日本酒を買った酒屋に行ったが、お気に入りの地酒は、端境期(?)。来月にならないと入らないと聞いて、残念だった。
しかし、ちゃっかり新しい銘柄の地酒を購入。自分だけの土産にした。

帰路、以前2度ほど走ったことがある林道を、車を走らせた。
細い舗道。アップダウンの激しい曲がり道。
めったに車に会わない。
紅葉の進む山の木々。サルの集団とも出会った。
こういう自然が息づいている土地だった。

今回、半年前まで暮らしていた土地を訪れて思ったこと。
もっと懐かしいと感じるかと思った。
そうではなかった。
もうここは、今私の暮らす土地ではないということ。
それをさらに実感した。
過去を懐かしむ自分を感じることはなかった。
現在の立ち位置が、半年前よりも居心地が悪いものだとしても、
苦しいことが多く起こっている中だとしても、
やっぱり前を向いて生きていこうと思っていたのだ。

峠の頂上を過ぎ、眺めのいいポイント(写真)で、もう一度つぶやいた。
さらば、わが単身赴任の地!
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キノコ採り

2009-10-23 18:19:42 | 自然・季節
朝、出勤するとき、職場玄関の松の木の植え込みにキノコをいくつか見付けた。
ハツタケやヌメリイグチに見えたので、休憩時間に近寄って確かめてみた。
残念ながら、ハツタケに見えたものは、触って傷をつけてみても、傷口が青くならなかった。ということは、ハツタケではないということ。
でも、ヌメリイグチは、本物。間違いなかった。
ついでに、職場の人と二人で、あちこちを見まわしながら敷地内と周辺を散策(?)した。
すると、アカマツの多い辺りで、コケの生えた湿気の多い所に、いくつかのキノコを発見した。
ヌメリイグチやアミタケ、そして正真正銘のハツタケ(上の写真)などがあった。
驚いて二人で、キノコ採りを始めてしまった。
懐かしいなあと思いながら、短い時間、キノコ採りを楽しんだ。
こうして、採ろうと思ってキノコを探すのは、ほぼ40年ぶりだった。

私が子どもの頃、集落のある海岸近い松林からは、とてもたくさんのキノコが採れた。
ヌメリイグチは、当時住んでいた集落では「ババタケ」とか「ウマガチャ」と呼んでいた。
アミタケは、「ノノメ」とか「ヌノメタケ」と呼んでいた。
40年くらい前には、松林には、住民がよく入った。枝落としや松葉かきなどを行っていた。
だから、キノコを育てるための上質な(?)コケがよく育っていたのである。

一番おいしいキノコとして、「キダケ」というのがあった。
コケの下に隠れて、人の目にはなかなかふれない。発見しにくい。
コケがいつもよりも少しふくらんだように見える。そういうコケの下に、キダケが生えているのであった。
密集して生えているキダケを見つけては、喜び勇んで採ったものだった。

しかし、やがて、当時の新潟県の「100万トン米づくり運動」などで、松が切られ、松林がどんどん切り開かれて畑になっていった。
さらに、切り開かれない松林も変わっていった。
住民が今までのような松林の手入れをしなくなってしまったのだ。
それまでは、松の枝や葉は、風呂の焚き付けに使われていた。松葉は堆肥にも使われた。
風呂は、薪でたいていたのだが、その頃からガス湯沸かしによることが多くなっていった。
手入れがなされなくなった松林は、荒れたりなくなったりして、キノコが生えるような環境はなくなってしまったのだった。

ヌメリイグチあたりは、ちょっとしたところにも生えやすい。そのせいか、今の世でも結構見かけることが多い。
生えるための環境として、まず、松の木があること。そして、下にコケが生えていると、なおよいようだ。今回、それを再確認した。

とはいうものの、今の世では、さすがにキダケは採れない。
私にとって、キダケは、40年来見ていない「幻のキノコ」になっている。
やはり手入れの行き届いた広い松林、上質なコケ。
それらなくして、キダケは生えてこないのだろう。
一度失われた自然は、簡単に取り戻せない。
秋に身近なキノコにも、そのことを感じさせるものがある。
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加藤和彦氏の突然のさよなら

2009-10-20 23:04:30 | ひと
命かけてと誓った日から
素敵な思い出 残してきたのに
あの時 同じ花を見て 美しいと言った二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度 
あの素晴らしい愛をもう一度
 
我々と同じ50代ならだれでも知っている曲、「あの素晴らしい愛をもう一度」。
歌っていたのは、加藤和彦と北山修。
この歌を作曲した加藤和彦氏が亡くなった。先日、自ら命を絶った。
特別なファンというわけではなかったが、「あの素晴らしい愛をもう一度」は、好きな曲だった。ソロで歌っていた歌だと30年ほど前に学生時代に聴いた「シンガプーラ」が、心に残っている。

加藤氏の逝去について、彼の盟友といえるきたやまおさむ(北山修)氏のコメントを知りたいと思った。
ザ・フォーク・クルセイダーズで、加藤和彦氏と組んで「帰って来たヨッパライ」など、数々のヒット曲を生み出した、作詞家で精神科医のきたやま氏。
アマチュアの頃から行動を共にし、近年また共に一時ザ・フォーク・クルセイダーズを復活させたことのある、きたやま氏の思いを知りたかった。

10月19日(月)の朝日新聞に、それが大きく出ていた。
「もはやあの人懐っこい笑顔が見られないかと思うと、本当に心が痛む。」という書き出しで始まった、きたやま氏の文章。
加藤氏の死については、「それにしても、やられた。すべて計算ずくだったと思う。」と、氏ならではのコメントを述べている。
加藤氏は「振り返る」のが大嫌いだったそうだ。
そして、若いころのきたやま氏に、加藤氏は、
「お前は目の前のものを適当に食べるけど、僕は世界で一番おいしいケーキがあるなら、全財産はたいてもどこへだって飛んでいく」と言っていたのだそうだ。
そして、「趣味は一流、生き方も一流だった。」と評している。
最後に、次のように文章を締めくくっている。
「後ろは振り返らない、そして同じことは絶対にやらないというモットーを貫き通した彼は、おいしいケーキを食べるために全財産はたいて、また手の届かぬところに飛んで行った。戦友としては、その前だけ見る戦いぶりに拍手を贈りたい。しかし、昔話に花を咲かせ、共に老後を過ごすことを楽しみにしていた仲間として、そしてこれを食い止めねばならなかった医師として、友人としては、実に無念である。」

さすがに、私らが知らない加藤氏をよく知っていると感じさせる文章である。
きたやま氏は、加藤氏について「前だけ見る戦いぶり」と称賛しながらも、その死については、仲間として、そして精神科の医師として無念であるとも語っている。

62歳。私の1つ上の世代という気がする。
私たちの1歩前でメッセージを出し続け、私たちに大きな影響を与えた世代、「戦争を知らない子供たち」と自覚した世代である。
その大切な先輩たちの一人が、急に眼の前からいなくなった。そんな気がした。
様々な人の訃報を聞くが、いつにない複雑な思いを湧き立たせた加藤和彦氏の、突然のさよならだった。
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新潟は、ますます強くなる途上にある

2009-10-17 22:39:39 | アルビレックス新潟
悔しいことは悔しいのだが。
開始0分のミスパスから入れられた1点だけ。
それが決勝ゴールとなってしまった。
ホームで、7月上旬以来8戦勝ち星なし。
でも、悔しさはあるけれど、いいサッカーをやっていたと感じた。
昨年は、降格争いに巻き込まれていて、何らかのラッキーがなければ得点は奪えない感じだったけれど、今日の浦和戦なんか見ていると、いい形でゴール前まで持っていくものなあ。
見ていて楽しかった。
そして、うれしかった。
得点王争いをしていたペドロ・ジュニオールがガンバに引き抜かれても、それを感じさせない試合ぶり。チャンスは自分たちで作る、といった主張が見える試合展開ぶり。

今日は、浦和戦だった。
実は、自分が初めてJリーグを観戦したのが、ジェフ市原の主催ゲーム。相手は、浦和だった。場所は、まだビッグスワンなどない、新潟市陸上競技場。
あの試合は、当時新人だった城彰二のゴールなどで、市原が勝ったのだった。
あの頃は、Jリーグという場でサッカーを見せられる市原や浦和というチームをうらやましく思ったものだった。
雪の降る新潟には、とうていサッカーだの野球だのが強くなることはありえない。プロチームができるなんて、ありえないと思っていた。
それが、今、新潟にもプロサッカーチームがあり、J1リーグで上位争いをしている。高校野球では、今夏甲子園で日本文理高校が準優勝を果たした。
そして、今や浦和と対等に戦えるサッカーチームが、新潟にはある。

今日のサッカーは、負けた。
でも、よい試合をしたと思う。
個人技で劣っていても、一人一人がよく動いて相手からボールを奪い、組織的に一気に攻撃に転じる。
チャンスはそれなりに作った。
あと一歩だった。
でもその一歩を、決められるか決められないかが本当の強さの違いになって現れる。
後半になると、個人技に優れた浦和のボールさばきについていけなくなった。
残念ながら、新潟は最初の1点が取り返せなかった。
でも、強くなった。
誰がいようと、いなくなろうと、現状維持ではなく向上している。それがすごい。
本当に強くなるのは、これからだ。
新潟は、今、強くなるための階段を、1つ1つ登っていっている。
そう感じさせる、今日の敗戦だった。
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「サラシナショウマ」(晒菜升麻)

2009-10-16 22:09:47 | 草木花
先日の角田山で見つけたサラシナショウマ。
漢字で書くと、「晒菜升麻」。
そうは読めないよ。

ネットで検索すると、
名の由来は、春先に、まだ花茎(かけい)が伸びないころの若葉を、1~2日間小川の清流などでよくさらして、アク抜きをしてから茹でておひたしなどの山菜料理にするところから「晒(さら)し菜(な)升麻(しょうま)」という和名がついたという。

広辞苑によれば、
キンポウゲ科の多年草。高さ数十センチメートル。葉は複葉。晩夏白色の小花を総状に密生。春、若葉を食用。根茎は肥大し、乾燥したものは生薬の升麻で、解毒・解熱剤。また、うがい薬にする。

白くてきれいな「試験管ブラシ」という感じ。
それが、食用になったり、解毒・解熱剤になったりするなんて、面白い。
多少季節外れになったかと思ったが、見ることができた。
もっと高い山でないと見られないかと思っていた。
さすが花の百名山、角田山!
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山に登って海を感じる

2009-10-15 23:15:52 | 自然・季節
難しい選択③も書けるのだが、気が重いことばっかり。
書くのは、や~めた!
三連休の三日目、そのストレスを晴らすことも目的にして、角田山に登ってきた。
角田山は、481.7m。コースもいろいろあり、軽く登るのにいい山だ。
いつぞや登ったら、毎日登っているという年輩の女性や、トレーニング代わりに走って登っている男性に会ったりもした。
今回登ったのは、灯台・角田岬コース。まさに日本海の砂浜から上っていく。
角田浜の海岸、海抜0mから、すぐにある灯台を通り、約482mの頂上を目指す。
インターネットHPの登山ルート紹介によれば、上り120分・下り90分ということだったが、そこを上り70分・下り55分で行って来てしまった。歩けること、登れることが楽しかった。
こういうと一心不乱に登ったようだが、そうではない。
花を見つける、紅葉を見つけるという楽しさも味わってきた。
いや、むしろそれを楽しみに登ってきたのだ。
角田山は、特にこの灯台コースは、季節の花もいろいろ楽しめる。
この時季だと、ノコンギク、アキノキリンソウくらいで、花は終わりかなと思っていたら、途中でいくつか楽しい出合いがあった。
ヤマトリカブト、サラシナショウマ、ツリガネニンジンなどが、まだきれいに咲いているところがあった。うれしかった。

ところで、今回、海から登るコースを通ったことで、また自分のことを再確認した。
それは、自分はやっぱり海が好きだということ。
実は、泳ぐのはあまり得意ではない。むしろ不得手だ。
だが、海の近くで育ったから、海が好きなのだ。
海を感じるのが好きと言ってもよいのかもしれない。
角田山を登りながら、時折山頂近くでも海鳴りが聞こえた。
潮騒ではない。海鳴りである。
懐かしい、と思った。
かつて自分が育ったところは、夜になるといつも海鳴りが聞こえていた。
それを思い出した。
山に登って、海のことについても味わってきたのだから、大変おトクな山登りだった。
よく晴れていた。空も青、海も青。
広い海原の向こうに、大佐渡・小佐渡が見えた。
汗びっしょりになったが、心にはすっきりさわやかな青空が広がった。
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難しい選択 その②

2009-10-14 21:34:00 | 「育」業
佐渡出張の帰りのフェリーは、上下に大きく揺れていた。
午前に来た時とはまったく違うくらい、波が高くなってきていた。
2つの連絡が入っていた。
1つは、波を高くした原因だ。
非常に強い勢力の台風18号が、間違いなく明日日本に上陸するという。
もう1つは、やがてはと思っていた(新型)インフルエンザの来襲だ。
学年の違う2名がインフルエンザA型を発症したということだった。

携帯電話から、台風の情報を得た。
台風の影響で、九州南部が風速25メートル以上の暴風域に入っていた。
7日午後2時現在、中心気圧は945hPa、中心付近の最大風速は45m。暴風域は中心から半径220km以内で、中心の東側560km以内と西側430km以内では風速15m以上の強風域となっていた。
翌8日朝には暴風域を伴ったまま紀伊半島周辺に上陸し、列島を縦断するとの予報。ここ10年では最も強い勢力で上陸するだろうと予想されていた。
台風の進度はさらに速さを増していた。
当県に接近もしくは通過するのは、昼頃だろうと言われた。
子どもたちが学校生活を送る時間はよいが、問題は登下校だ。強風や豪雨に見舞われると、子どもたちが危険だ。

子どもたちを危険な目にあわせるわけにはいかない。
ニュースでは、非常に大きな勢力。過去10年で最高だと言われていた。
近隣の他市町村の教育委員会では、早くも管内の学校に翌日の臨時休校を指示したところも多くあった。
しかし当教育委員会では、対応は各校に一任、とのことであった。
任されてしまった以上は、対応を決定し、最善の措置をとらなくてはいけない。
臨時休校、登校時間を遅らせる、下校時間を早くする、…いろいろ考えられた。
スクールバスの配車や留守家庭などの問題もある。
どれが最善の策なのか。
迷いに迷った。
ただ、当校と隣接する小中学校はどうするのか?それが気になった。
自分の学校だけが、周囲の各校に比べて浮いているような対応をするわけにはいくまい。
さすがに、隣接小中学校ともに、どう対応するか、迷っていた。
中には、学校で通り過ぎるのを待てばよい、とだけ答えるところもあった。
ただ、台風がいつ来るのかわからない。子どもの登校時あるいは下校時に重なったらどうするのだ?
翌朝早く判断し、家庭や関係方面に素早く連絡する。
どんな状況にも対応できる態勢を整えられるのは、これしかない、と判断した。

夜中は、台風が気になりあまり眠れないまま、4時半起床。5時半過ぎに出勤。
台風情報を集めると、勢力はあまり変わらず、昼頃本県最接近とのこと。
そのうえ、登下校時も暴風雨圏内に入るとのこと。
そうなると、子どもたちは風雨にさらされる。体が濡れ、体が弱る。
はやり始めたインフルエンザの感染拡大が懸念される。
仕方がない。臨時休校を決定。
近隣の学校とも連絡を取り合い、臨時休校が望ましいという話を交わし合う。
あとは、手分けして、他の職員に連絡。そこから、連絡網を通じて各家庭に連絡してもらう。
他に、教育委員会、バス会社、学童クラブ等考えられる各方面への連絡を行った。

幸いにも、何時になっても風雨はさほど強まらなかった。
拍子抜けするほどだった。
皮肉にも、休校など大した措置をとらなかった学校が、授業もでき、もっとも得をした形になった。
しかし、この判断に悔いは残していない。
なぜなら、子どもたちが無事に過ごせる、ということが一番大切だったから。
そして、職員皆で、次なる危機、インフルエンザA型の流行対策にもしっかり取り組む態勢を整えることもできたからだ。
日々危機管理、難しい選択の連続である。
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難しい選択 その①

2009-10-13 21:25:35 | 「育」業
ここのところ、難しい選択を迫られることが多い。
まず、1つ目は、全校登山遠足である。
当日は、午前20%、午後90%の降水確率。
6時に、判断に迷ったが実施を決定。当時はもちろん、8時の段階でも晴れていた。
当日の保護者ボランティア等のバックアップ体制の充実度や近づく新型インフルエンザの脅威などを考えると、この日の実行しかないと考えられた。また、雨を体験するかもしれないが、近頃の子は雨の日に活動することは極端に少ない。
降雨となったとしても、充実したバックアップ体制があれば、雨の中での体験も有意義になると考えられた。

どうか晴れ続けてほしい、という願いは通じ、12時を過ぎるまで、雨は落ちて来なかった。
しかし、12時半を過ぎて雨が普通に降るようになってきた。
覚悟していたとはいえ、雨の音に子どもたちの身を案じずにはおれなかった。それからの時間は、とても長く感じた。
やはり、何件か案じる電話がかかってきた。
なかには、「雨が降るとわかっていたのだから、登らせないでほしかった。なぜ決行したのか。」というものもあった。
やがて、びしょぬれになりながらも、無事に帰ってきた子どもたちに、ホッとした。
彼らは、口々に言った。
「泣き言を言わないで登ってきた。」
「すべって転んだりしたけど、かえって楽しかった。」
「高学年として、小さい子を助けた。リュックを背負ってあげた。」
子どもたちは、たくましい。
体育着を泥だらけにしながらずぶぬれで帰った姿を見て、「学校は、大事なわが子をなんとつらい目にあわせたのだ。許せん。」と憤慨した方も多くいたようだ。
本当は、せつない思いをしたのは、家の人たちだけではなかったのだが。こちらも、雨の音に身を切られるような思いをしていたのだが。
しかし、悪天候に負けずに、弱音を吐かずに、1~6年生の班員同士が助け合って無事に帰ってきた。協力し合ってたくましく帰って来た子どもたちだった。
その子どもたちを誇りに思った。笑顔で支えてくださったボランティアの皆様には、心より感謝申し上げたい。

そう思ったのもつかの間、明けて次の週は、2つ目、3つ目とまたまた難しい選択に迫られていたのである…。(続く?)
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