ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

母の祥月命日、20年

2025-02-13 20:24:19 | 生き方

10年ひと昔、というが、近ごろの私は「20年ひと昔」というような感覚になっている。

10年ひと昔は、

時のたつのが早く、世の移り変わりが著しいということ。

わずか10年という期間でも、振り返れば、遠い昔のように思われるという意味。

となっている。

私の言いたいのは、使い方が間違っているが、要するに20年という歳月が、非常に早く過ぎたという感じを言いたいのだ。

20年。

それは、母が亡くなってから過ぎた年月を指す。

今日は、母の命日なのだ。

墓参りを計画していたが、2日前になって、天気が崩れるという予報が出たので、1日早いが予定を繰り上げて、昨日の午前中に行ってきた。

 

墓地は、今冬の雪で、長靴でないと歩けない状態だった。

それでも、墓地があるのは海岸部だから、私が暮らしているところよりはるかに雪は少なかったので、歩くことはできた。

鳥や小動物が歩いた跡も残っていた。

墓にたどり着くと、そこもやはり雪。

2月13日は、まだ冬だから、雪があるのが普通かな。

去年はなかったけど。

 

近くの墓には、こんな厚さの氷が張っていた。

やっぱり寒いんだよね。

近くのお地蔵さまも、体を包んでもらうだけではなくて、帽子まで目深にかぶって、寒さをこらえているようだった。

 

実は、母が亡くなった年も、この時期よく雪が降った。

母が亡くなる直近の1週間が毎日雪だったことを思い出す。

だから、雪があった方が母の最期の時を思い出すことができる気がする。

 

20年。

あのころ、20歳前後で学生だったうちの娘や息子も、今やアラフォーである。

地に足を付けて生きなくてはいけない年齢になっている。

だけど、この間には、娘の大病があって、思い通りにはいかないことが起こったりした。

20年前には、40代後半で働き盛りだった自分も、こうして今は高齢者である。

あっという間の20年だったと思うのである。

 

今日は、自分より10歳年上の下条アトムの訃報が流れた。

20年と10年という数字を比べて見ると、今まで過ごしてきた20年という年月よりこれから先の10年の方が短い。

うーん。おいらも先が長くないかもなあ…。

…そんなことを考えてしまった、20年たった母の祥月命日であった。

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1月が行く…

2025-01-31 21:18:39 | 生き方

1月最後の日。

年が明けたと思っていたら、もう最初のひと月が終わってしまう。

以前仕事をしていたときに、1年を考えてみると、3月が年度末になるせいか、1月~3月は、過ぎるのが本当に早く感じたものだった。

俗に、

ち月は、く。

月は、げる。

ん月は、る。

などと言って、時間に追われて仕事が慌ただしいことを表現することが多かった。

今は、仕事はしていないから、慌ただしさはないはずなのだが、日々過ぎていくのは早いと感じる。

まあ、齢とともに時間の過ぎるのは早くなったと感じるようにもなったが。

 

1月の上旬には、たくさんの教え子から年賀状をもらったが、時の流れに驚いたことも多くあった。

私が教えたときには、みな小学生だったはずなのに、

「子どもが3人、みな巣立っていき、夫婦二人の生活になりました。」

「下の子も成人式を迎えました。」

なんと時の流れが早いことだろう。

なかには、「孫ができました。」なんて書かれているものもあった。

私には孫はいない。

あっという間に「抜かれた!」

っていう感じだね。

 

年賀状と言えば、はがき代金が急に1枚20円以上も上がったせいもあって、年賀状じまいを知らせるものも多くあった。

年輩の方々なら、負担が大きいことや終活の一環としてと、必要にかられてのものなのだろうけど、年輩ではない40代の人からもあった。

年賀状文化がすたれていくということなのだろうなあ。

ずっとこの文化の中で生きてきた自分としては、さびしく感じる。

また、急に年賀状じまいを告げられると、今までの付き合いをシャットダウンさせられたように感じてしまう。

まあ、そんなのは自分だけかもしれないが…。

 

…ということで、1月が行く。

明日から来る2月も、逃げるように早く過ぎていくのだろうな、きっと。

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小学校、建物もなくなった

2025-01-21 20:47:54 | 生き方

昨日の記事の冒頭に、

「うわあ。なくなっちゃったんだなあ。」

と書いた。

そして、「その場所とは、まずは、ここなのだ。」

とも書いた。

 

こう書いたということは、なくなっちゃったものが1つではなく、ほかにもあったということを示す。

今日は、その、なくなったものの続編である。

 

12月の上旬に通ったら、さら地になっていた。

8月に通ったときには、こんな建物があった。

想像がつくだろうけど、この建物は、小学校だった。

そして、その小学校は、私の出身小学校だった。

 

ここにあった鉄筋2階建ての建物は、昭和42(1967)年、私が小学5年の時に改築されたものであった。

そして、その35年後、平成14(2002)年に127年の歴史を閉じて閉校となっていた。

建物は、それ以降も20年余り残っていたのだが、この夏に通りかかったら、解体工事をする旨の看板が立っていた。

いくら昔自分がいじめられてつらい思いをした小学校とはいえ、閉校した上に建物まで完全になくなってしまうなんて、感情が揺れる。

 

ならば、と急いで建物がある写真を撮ったのだった。

その4か月後、久々に通ったら、完全に何もなくなっていた。

小学5年生の時に、木造校舎に代わってこの鉄筋の建物ができたときには、この小学校がなくなるなんて思ってもみなかった。

少なくとも、自分の命より早く、学校も、鉄筋校舎も失せてしまうとは考えられなかった。

 

さびしいな。

無常を感じるよ…。

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30年前のこの日からの大地震頻発

2025-01-17 20:59:16 | 生き方

50年近く前の学生時代、1月17日といえば、山口百恵の誕生日というのが1つのニュースだった。

サークルの後輩もこの日が誕生日だったのだが、「同じ誕生日だなんて、山口百恵がかわいそうだ」とかなんとか言われて、からかわれていたのを思い出す。

 

だけど、30年前から1月17日は、とても悲惨な災害の日として記憶に残る日となった。

阪神・淡路大震災から、今日で30年。

今日は1日そのニュースばかりを見かけた。

 

当地では、遠く離れていたせいで、少しも被害はなかったのだが、次々と報道されるテレビ画面に言葉を失ったのだった。

倒れた阪神高速道路、下の階がつぶれたり倒れたりしてしまったビル、長田区の大規模な火災など、忘れられないひどい光景など、今でも目に焼き付いている。

震度7という、今まで聞いたことのない大きな地震で起こったこの震災で、6000人を超える人が亡くなったのだった。

 

私の感覚では、この阪神大震災から、日本はずいぶん大きな地震に襲われることの多い国になったような気がする。

阪神大震災の次は、新潟県の2つの地震が連続した。

2004年の中越地震。

2007年の中越沖地震。

震源に近いところの被害は大きかった。

震源地が県内だから、当地もそれなりには揺れたが、被害は幸いに出なかった。

それでも、日本が、この2つがかすんでしまうほどの大きな地震に襲われるとはだれも考えていなかったことだろう。

 

2011年の東日本大震災。

震度7の大地震だけでなく、太平洋岸一帯を襲った大津波、さらには福島第一原子力発電所の事故で、未曽有の大きな被害を生んだのだった。

2万2千人を超える人が亡くなったり行方不明になったりしている。

隣県ということで、当地にもたくさんの人が避難してきたりしたのだった。

 

それからも、2016年には、大きな地震が2日連続と言ってもいい間隔で起こった熊本地震があった。

そして、昨年正月に起こった2024年の能登半島地震。

 

まだほかにもいろいろな地震が、この30年の間に起こっている。

しかも、日本の北から南まで、様々なところで。

先日も日向灘沖を震源とした地震が起こった。

それ以外にも、「南海トラフ地震」の発生の可能性とかが声高に言われている。

 

これだけ頻繁に大地震が起こっているのをみると、現代の日本のわれわれは、大地震がいつ起きてもおかしくない時代に生きているのだと考えてもいいのだろうなあ。

できれば大地震にはあいたくない。

だけど、地震はいつ来るか分からない。

そんな怖さを覚えつつ、生きていかなくてはいけないなあ。

だから、そう考えて警戒して生きること、備えを万全にしておくことが求められているということを忘れてはいけない。

自戒しよう。

そう思わせてくれた、今日の「あの日から30年」であった。

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今年の運勢は…?

2025-01-13 21:15:21 | 生き方

初詣は、元日に近くの神社に行きはした。

だけど、人もいないし、御守やおみくじもなかった。

ただ賽銭をあげて拝んできただけ。

なんだか、ちょっと味気なかった。

おみくじ引きたいな。

 

そんな訳で(?)、今年の運試しというか今年の運勢を占ってみたくなって、やはり大きな神社へ。

今さらかよ。

…とは思うが、この時期になって初詣らしきお参りに行く人は、私だけではなかった。

自分たちの前にも後にも家族連れで訪れている人たちがいた。

彼らもしっかりおみくじを引いていた。

ひょっとすると、おみくじを引くのが目的だったか!?

急に親近感がわいたぞ。

 

参拝して、家内の健康安全を祈った。

そして、待望(?)のおみくじを引く。

私が引いた今回のおみくじの運勢は、「小吉」。

あせればあせる程 苦しみ多く 騒げばさわぐ程損をする災い添う運です

けれど何事も控え目にして心静かに身を守り信心怠らなければ却って後は大の幸福あり

…だそうだ。

騒がず控え目、それが大事ということですな。

そのせいか、願望(ねがいごと)は、「あせるな 人に任せれば吉」

旅行(たびだち)は、「急ぐな 利益なし」

相場は、「山気を起こすな」

…などと言う表現は、さすが小吉だけある。

 

そんななかで、気が引き締まったのは、次の2つ。

病気(やまい) 「信心せよ」

あきらめずに治癒することを信じよ、ということだね。

学問 「自己の甘さを捨て勉学せよ」

いやあ、そこを突かれるとはまいったなあ。

もうこの年になると、勉学する必要もないか、などと思っていたのだが。

そう思うこと自体が甘さか。

いくつになっても、向上を目指さなくてはいけないよな。

 

おみくじ引いて今年の運勢を占って、小吉だけど、ちょっとほっとした。

大吉とかになると、そのよさに甘えてしまい、いろいろな判断を間違えそうな気がする。

小吉の方が、いい気にならずに慎重に日々を過ごしていけるように思うのだ。

よし、今年も着実、堅実に前に進んで行くことにしよう。

 

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「ちびまる子ちゃん ありがとう!アニメ化35周年 笑って歌って福来たる 新春1時間スペシャル」を楽しんだ

2025-01-05 21:27:01 | 生き方

作者であるさくらももこさんも、アニメで主役のちびまる子の声を担当してきたTARAKOさんも亡くなってしまった。

だけど、国民的人気を誇るアニメのテレビ放送は続く。

今日の「ちびまる子ちゃん」は、アニメ化35周年・新春1時間SPということで放送されていた。

今日の『まる子、ドリフになる』の巻では、まる子、はまじ、小杉くん、藤木くん、大野くんがお楽しみ会に向けて3の4(3年4組)ドリフターズを結成することになり、なぜか野口さんの下で特訓をしたりして当日を迎える話。

たしかに、ドリフターズの「8時だヨ 全員集合!」はあの時代面白かったものなあ。

今回の『まる子、ドリフになる』の話もよかったけど、ちょっとだけ時代が違っていたのは、メンバーに志村けんが入っていたこと。

まだあのころは、荒井注がメンバーで、志村けんは入っていなかったはずなんだな。

仲本工事の運動のうまさについては、よく心得ていたんだけどね。

まあ、そんな細かいところは気にせず、楽しく見たからまあ、いいことにしよう。

 

そして、『熱唱!ちびまる子ちゃん歌謡祭』の巻では、まる子の両親が司会をして、ちびまる子ちゃんの仲間たちが、楽しい歌謡ショーを届けるという内容。

まる子と友蔵が「てんとう虫のサンバ」(チェリッシュ;1973(昭和48)年)

まる子のお姉ちゃんが「木綿のハンカチーフ」(太田裕美;1975(昭和50)年)

同級生のたまちゃんたち3人が「年下の男の子」(キャンディーズ;1974(昭和49)年)

まる子のおばあちゃんは「真っ赤な太陽」(美空ひばり;1968(昭和43)年)

同級生の永沢くんやはまじたち5人の「学園天国」(フィンガーファイブ;1974(昭和49)年)

それぞれの歌が懐かしいのは、私の高校時代などとからんでくる歌だからだろう。

「てんとう虫のサンバ」は、私が高校2年生の時に流行った歌だった。

人生でたった1度だけ、運動会や体育祭で1位になったことがあったのだが、それは高2の体育祭の1500m走であった。

走っている時に流されていたのが、この「てんとう虫のサンバ」だった。

高1~3年生の15人が走った中でトップとなり、気持ちよく走れたので、高校時代の中でも心に残っている、懐かしい曲だ。

「木綿のハンカチーフ」は、浪人時代の冬に流行った歌だ。

同じ時期に「およげたいやきくん」がバカ売れしていたっけ。

聴きながら、「都会の絵の具に染まりたい」とは思わなかったけれど、早く大学に合格したいとは思ったなあ。

「年下の男の子」や「学園天国」は、高3の2月や3月に出された曲。

自分が卒業する時だったから、あまりお落ち着いて聴いた覚えがない。

ヒットしてからよく聴くようになったというところだ。

そして、「真っ赤な太陽」だけ少し時代が違うが、この歌が出た1968年のころは、グループサウンズ全盛の頃。

この曲を編曲したのは、ブルーコメッツの井上忠夫。

「学園天国」の作曲・編曲も実は井上忠夫によるものだったというのが面白い。

 

まあ、こんなふうにちょうど1970年代の私の高校時代の前後の曲ばかりが扱われていたので、とても楽しかった。

 

そして、「ちびまる子ちゃん」は、「サザエさん」同様に、これからも長く続いていくのだろうなあ。

12年前に清水を訪ねたときに、清水はちびまる子ちゃんだらけだったことを思い出した。

これからもこのアニメを見て、自分が若いころのことを思い出しながら、童心に帰って楽しませてもらうことにしよう。

 

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2025新年のごあいさつ

2025-01-01 18:08:52 | 生き方

元日から青空が拝めるというのは、当地では、なかなかない。

いつも荒天か、よくて曇天だ。

だけど、今日の午前中は青空が広がる時間もあり、うれしい年明けであった。

 

好天のときに、年始に出かけられてよかった。

親類への年始回りも、今は1軒だけ。

本家への年始は、いとこに当たるそちらのご当主夫婦も高齢化により体がきつくなったので、互いに年始や盆の行き来をやめることになってから2年になるだろうか。

 

高齢化と言えば、同年代の人たちから、けっこうたくさんの「年賀状を控えさせていただく」「年賀状を卒業する」という「年賀状じまい宣言」をいただいた。

たしかに、高齢化も進んだこともあるし、年賀はがきの大幅値上げもあるだろう。

「控えるのは年賀状だけですので、今後も変わらぬお付き合いをお願いします」

とか、

「卒業は年賀状だけですので、これからはメールや電話などで御挨拶をさせていただければと願います」

とかの言葉が添えてある場合も多いけれど、時代の移り変わりを感じ、やっぱりさびしいなあ…。

自分も多く出していた方だから、今回のハガキ大値上げによる出費は痛いなあとは思ったけどね。

今後も値上げが予定されているそうだから、自身の高齢化と合わせて考えなくてはいけないのかもしれないと思ったりもした。

 

さて、夕方になって、ちょっとした初詣に出かけた。

その神社にあった門松飾りが可愛いかった。

 

では、気を取り直して(?)、年賀状を使って、新年の挨拶を。

今年もよろしくお願いします。

 

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2024年大晦日

2024-12-31 21:18:33 | 生き方

大晦日。

昨日の予定通り、今日は大掃除。

茶の間、神棚、仏壇、床の間は念入りに。

ついでに、トイレやふろの掃除、台所のワゴンの陰や天袋と言える上の棚のほこり取りも。

やったときにはきれいになって気持ちがいいのだが、終わってからよくよく見ると雑に感じられるのは何故だろう…???

 

例年なら厨房は、妻が中心となって娘が助手となっておせち関係の調理をするのだが、今日は妻が不調。

だが、娘が一日中がんばっていた。

それならアタシがやる、と自分で決めて、やろうとする意欲があるのはいい。

もう感覚的なものとか思いとかは、まったく常人だ。

30代は無駄にしてしまったが、もう40代。

でも、人生はまだまだ続くから、前向きに元気でいてほしいと願う。

だから、もう台所は完全に任せて、私は掃除活動に専念していた。

妻も夕方復活できてよかった。

 

毎年恒例の半年分の写真カレンダーも製作した。

写真を見ながら、個人的に今年を振り返りながら作った。

1月は、雪は少なかった。

だから、庭の枯れた小菊を刈る作業なんかしたら、腰痛を引き起こしてしまった。

2月下旬は、年が明けてから初めての埼玉行きで、ジャガイモの種イモを畑に植えた。

3月は、非常に寒い中、新潟シティマラソンを完走したのはいいが、あのCOVID-19感染症についに感染してしまい、苦しい時間を過ごした。

4月上旬、練習不足も甚だしかったが、燕さくらマラソンを完走できたのはうれしかった。

でも、下旬に同様の感染症に陥り、またしても熱と咳に悩まされたのだった。

6月、埼玉の畑を借りたいという人が現れ、ぜひということで話が進んだ。

埼玉で刈払い機を使っての除草作業が、この月で最後となった。

 

ついでに、7月以降でもいくつかピックアップしてみる。

7月、千葉県に住む弟夫婦と久しぶりに会った。

埼玉から千葉まで高速を使いながら行くのは初めてだったが無事に往復できてほっとした。

10月、息子の結婚式があった。

両家の家族だけしか呼ばない形だったが、それは2人とも素直に家族に感謝の気持ちを伝えたいからだというのが分かった。

また、この月には、幹事として高校時代の同級会を催した。

体調不良などで参加者は減ったが、旧交を温め、次回は古稀となる2年後としたのだった。

11月、アルビレックス新潟のホーム最終戦、12月はアウェイで今季最終戦が行われた。

11月初めには、ルヴァン杯の決勝もあったが、準優勝に終わっていた。

まさかの最終節まで残留争いだったが、なんとか来季もJ1で戦えることになった。

まさかの「初のJ1監督」、樹森大介新監督がどんなチームをつくり上げるか、非常に楽しみだ。

 

今年もいろいろあったが、とりあえず、1年を生き抜くことができた。

年越しそばもいただいた。

 

では、来る年が皆様にとってよい年となることを祈りつつ、おやすみなさい(-_-)zzz

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ずいぶん近づいているかも…!?と思う年末

2024-12-29 20:36:38 | 生き方

今年も残すところ、実質あと2日。

今朝のTBS系「サンデーモーニング」では、年末恒例の「墓碑銘」の特集をやっていた。

今年もたくさんの著名人が亡くなった。

その人たちの訃報や生前の功績等を見て、ああ、あの人も亡くなってしまったか…などと、しみじみしてきたのだった。

 

子どもの頃、ファンというわけではなかったが、週刊少年マガジンや週刊少年サンデーに連載されていたからよく読んでいた、ギャグマンガの森田拳次(「丸出だめ夫」など)、恐怖漫画の楳図かずお(「へび女」「おろち」など)などのマンガ家も亡くなった。

子どもの頃、マンガ本を読むのが何よりの楽しみだった私だから、その頃に活躍していた漫画家の訃報は悲しい。

 

また、多感な(何に対して?)学生時代に、「激写」と称して篠山紀信氏が撮ったたくさんの若いコの写真には魅せられたものだった。

水着姿の水沢アキとかアグネス・ラムとかのグラビア写真を下宿の壁によく貼っておいたものだった。

後年その篠山紀信氏の奥様になった南沙織の写真も、水着姿ではなかったが、すごく好きだった。

(健康な青少年だったということにしておいてください (;^_^A💦 )

あの当時出された「激写 135人の女ともだち」という大型本の写真集は、捨てられなかったから、たぶん今でも押し入れのどこかに隠れているはずだ。

 

そして、歌でも、「想い出の赤いヤッケ」とか「私に人生と言えるものがあるなら」などが私は大好きだった、大学の大先輩高石ともや氏。

年齢を重ねるほどに円熟味を増して、聴きたくなっていったのが八代亜紀氏の歌。

近年「舟歌」「雨の慕情」などのよさがだんだん分かるようになってきたのだが…。

 

また、社会人になってから影響を受けるようになった、谷川俊太郎の詩の世界。

難しい言葉を使わずに、それでありながら巧みに表現された詩の数々は、見るたび読むたびに様々な感情を呼び起こしてくれたのだった。

 

例年、そんなふうに自分が受けた影響を思い起こしながら惜しむだけだったのだが、今年は、少し違う感情で著名人の死を受け取った。

たとえば、「Dr.スランプ」や「DRAGON BALL」の作者だった漫画家の鳥山明氏、68歳。

ちびまる子ちゃんの特徴的な声を出していたTARAKO氏、63歳。

今年の春までNHKの「こころ旅」で全国を回っていた火野正平氏、75歳。

「もしもピアノが弾けたなら」の歌や「釣りバカ日誌」の映画などで活躍した西田敏行氏、76歳。

先ほど書いた、歌手の八代亜紀氏、73歳。

口に筆を加えて絵や詩を描いた星野富弘氏、78歳。

 

…こんなふうに、亡くなった年齢を見ていると、自分の現在の年齢と10年と離れていない、あるいはそれに近い年齢で亡くなっている人のことを目にする。

しかも、ちょっと前まで元気な姿や声が、テレビ等の画面を通して見たり聞いたりできていた人たちだった。

なのに、訃報が届くなんて、人の命はなんてはかないものだと思うのだ。

そして、同時に、私自身の寿命ということも考えてしまった。

さらに、健康寿命は、令和4年のデータで男性72.57年、⼥性75.45年だという。

…私も、ずいぶん近づいたじゃないか…!?

 

あと何年生きられるのかな?

あと何年体を動かすことができるのかな?

弱気にはなっていないが、つい、そんなことを考えるようになってしまった。

考えても仕方のないことかもしれないが、父56歳、母75歳が享年だったことを思うと、改めて「終活」はもう少し力を入れておく必要があるのかな、などとも考えてしまう。

こんな思いで迎えている、2024年の年末である…。

 

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ゆったり気分でカレー作り

2024-12-17 22:14:49 | 生き方

今日の夕食はカレー。

この献立は、わが家では月に1回。

1回と言いながら、実は3日連続で夕食はカレーとなる。

1回作ると、家族3人分が3食分できるということだ。

カレーを作るのは、私の担当。

私が担当するからといって、特別な作り方をするわけでも何でもない。

用意するルーは、写真に写ったとおりの当たり前の市販のもの。

材料だって、カレーで定番のじゃがいも、にんじん、玉ねぎに豚肉…とごく普通。

 

でも、私は台所に立って、このカレー作りをする時間は、自分が好きなひとときである。

このカレー作りは、学生時代からやっていた。

3年間お世話になった下宿には台所がなかったけど、大家さんに許可をもらって、部屋で電熱器を使ってカレーを作ったものだった。

結婚してからも、カレー作りだけはもっぱら私の役目だった。

 

カレーを作るときには、必ず、何か自分の好きな曲などを音楽を流しながら、調理作業をする。

最も多いのは、なぜか松任谷由実だったが、前回は小田和正、前々回は小椋佳…と、昔懐かしいシンガーや曲を選んで聞いて作っていた。

そういう懐かしい曲だと、心が落ち着く気がする。

この夏まで、月イチで行っていた埼玉でも、カレーを作り、パソコンにデジタルで入れた曲を流しながら作っていたのだった。

今回は、先日作ったX’mas曲集を流しながら、それぞれの歌をよく聴いていた頃の思い出に浸った。

 

さて、つたない作業手順。

とっておいたじゃがいもは、この時期になると、さかんに芽を出すから、丁寧に取って、しぼんでしわしわになった皮をむく。

一部腐ったりしているところがあるから、そこは包丁で取り除く。

にんじんも皮をむいて切る。

私は、カレーの時には四角く切ったにんじんが食べるのにいいと思っているので、小さいさいころのような形に切っていく。。

そして、玉ねぎはなるべくタテの筋に合わせて切っていき、大きければ半分に切る。

切ったものは、じゃがいももにんじんも玉ねぎも、それぞれ大皿に載せて、ラップをかける。

そして、500Wの電子レンジで、それぞれ4分半くらいずつ加熱して、炒めたり煮たりする前にやわらかくしておく。

レンチンした方が、甘味が出てくるのだ。

 

ほどよい大きさに肉を切ったら、カレー用の鍋に油を敷いて炒める。

肉が炒め終わったら、レンジで温めた野菜を、玉ねぎ、にんじんの順番に入れて炒める。

所定の量の水を入れ、野菜を煮込む。

油や肉などのアクが出てくるから、それを丁寧に丁寧にすくい取る。

にんじんが完全にやわらかくなったら、じゃがいもを入れ、型崩れしない程度に煮込む。

 

そして、量に応じたルーを入れて溶かす。

ここからは、隠し味。

ひと口チョコを2個、インスタントコーヒーも適量、その順に入れて溶かす。

最後に、チューブのチャツネをひとしぼり入れて、溶かしながら7分ほどかき回して、出来上がり。

 

これらの手順で作るが、ジャガイモの皮むきから始まって、だいたい2時間かけて作るのが私流。

作っているこの間に、気に入った音楽をかけながら、結構昔のこととかいろいろなことを思い出し、ああでもないこうでもない、と雑多なことを考える。

非常に気持ちのいい時間だ。

私にとって、カレー作りの時間は、心を落ち着かせ気持ちを整えるのに最良の時間かもしれない。

 

読み返してみると、今日は、ちょっとだらだらと書いてあるなあ。

でも、こんな感じでゆったり気分のカレー作りが、私は大好きなのだ。

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