ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

「ちびまる子ちゃん ありがとう!アニメ化35周年 笑って歌って福来たる 新春1時間スペシャル」を楽しんだ

2025-01-05 21:27:01 | 生き方

作者であるさくらももこさんも、アニメで主役のちびまる子の声を担当してきたTARAKOさんも亡くなってしまった。

だけど、国民的人気を誇るアニメのテレビ放送は続く。

今日の「ちびまる子ちゃん」は、アニメ化35周年・新春1時間SPということで放送されていた。

今日の『まる子、ドリフになる』の巻では、まる子、はまじ、小杉くん、藤木くん、大野くんがお楽しみ会に向けて3の4(3年4組)ドリフターズを結成することになり、なぜか野口さんの下で特訓をしたりして当日を迎える話。

たしかに、ドリフターズの「8時だヨ 全員集合!」はあの時代面白かったものなあ。

今回の『まる子、ドリフになる』の話もよかったけど、ちょっとだけ時代が違っていたのは、メンバーに志村けんが入っていたこと。

まだあのころは、荒井注がメンバーで、志村けんは入っていなかったはずなんだな。

仲本工事の運動のうまさについては、よく心得ていたんだけどね。

まあ、そんな細かいところは気にせず、楽しく見たからまあ、いいことにしよう。

 

そして、『熱唱!ちびまる子ちゃん歌謡祭』の巻では、まる子の両親が司会をして、ちびまる子ちゃんの仲間たちが、楽しい歌謡ショーを届けるという内容。

まる子と友蔵が「てんとう虫のサンバ」(チェリッシュ;1973(昭和48)年)

まる子のお姉ちゃんが「木綿のハンカチーフ」(太田裕美;1975(昭和50)年)

同級生のたまちゃんたち3人が「年下の男の子」(キャンディーズ;1974(昭和49)年)

まる子のおばあちゃんは「真っ赤な太陽」(美空ひばり;1968(昭和43)年)

同級生の永沢くんやはまじたち5人の「学園天国」(フィンガーファイブ;1974(昭和49)年)

それぞれの歌が懐かしいのは、私の高校時代などとからんでくる歌だからだろう。

「てんとう虫のサンバ」は、私が高校2年生の時に流行った歌だった。

人生でたった1度だけ、運動会や体育祭で1位になったことがあったのだが、それは高2の体育祭の1500m走であった。

走っている時に流されていたのが、この「てんとう虫のサンバ」だった。

高1~3年生の15人が走った中でトップとなり、気持ちよく走れたので、高校時代の中でも心に残っている、懐かしい曲だ。

「木綿のハンカチーフ」は、浪人時代の冬に流行った歌だ。

同じ時期に「およげたいやきくん」がバカ売れしていたっけ。

聴きながら、「都会の絵の具に染まりたい」とは思わなかったけれど、早く大学に合格したいとは思ったなあ。

「年下の男の子」や「学園天国」は、高3の2月や3月に出された曲。

自分が卒業する時だったから、あまりお落ち着いて聴いた覚えがない。

ヒットしてからよく聴くようになったというところだ。

そして、「真っ赤な太陽」だけ少し時代が違うが、この歌が出た1968年のころは、グループサウンズ全盛の頃。

この曲を編曲したのは、ブルーコメッツの井上忠夫。

「学園天国」の作曲・編曲も実は井上忠夫によるものだったというのが面白い。

 

まあ、こんなふうにちょうど1970年代の私の高校時代の前後の曲ばかりが扱われていたので、とても楽しかった。

 

そして、「ちびまる子ちゃん」は、「サザエさん」同様に、これからも長く続いていくのだろうなあ。

12年前に清水を訪ねたときに、清水はちびまる子ちゃんだらけだったことを思い出した。

これからもこのアニメを見て、自分が若いころのことを思い出しながら、童心に帰って楽しませてもらうことにしよう。

 

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2025新年のごあいさつ

2025-01-01 18:08:52 | 生き方

元日から青空が拝めるというのは、当地では、なかなかない。

いつも荒天か、よくて曇天だ。

だけど、今日の午前中は青空が広がる時間もあり、うれしい年明けであった。

 

好天のときに、年始に出かけられてよかった。

親類への年始回りも、今は1軒だけ。

本家への年始は、いとこに当たるそちらのご当主夫婦も高齢化により体がきつくなったので、互いに年始や盆の行き来をやめることになってから2年になるだろうか。

 

高齢化と言えば、同年代の人たちから、けっこうたくさんの「年賀状を控えさせていただく」「年賀状を卒業する」という「年賀状じまい宣言」をいただいた。

たしかに、高齢化も進んだこともあるし、年賀はがきの大幅値上げもあるだろう。

「控えるのは年賀状だけですので、今後も変わらぬお付き合いをお願いします」

とか、

「卒業は年賀状だけですので、これからはメールや電話などで御挨拶をさせていただければと願います」

とかの言葉が添えてある場合も多いけれど、時代の移り変わりを感じ、やっぱりさびしいなあ…。

自分も多く出していた方だから、今回のハガキ大値上げによる出費は痛いなあとは思ったけどね。

今後も値上げが予定されているそうだから、自身の高齢化と合わせて考えなくてはいけないのかもしれないと思ったりもした。

 

さて、夕方になって、ちょっとした初詣に出かけた。

その神社にあった門松飾りが可愛いかった。

 

では、気を取り直して(?)、年賀状を使って、新年の挨拶を。

今年もよろしくお願いします。

 

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2024年大晦日

2024-12-31 21:18:33 | 生き方

大晦日。

昨日の予定通り、今日は大掃除。

茶の間、神棚、仏壇、床の間は念入りに。

ついでに、トイレやふろの掃除、台所のワゴンの陰や天袋と言える上の棚のほこり取りも。

やったときにはきれいになって気持ちがいいのだが、終わってからよくよく見ると雑に感じられるのは何故だろう…???

 

例年なら厨房は、妻が中心となって娘が助手となっておせち関係の調理をするのだが、今日は妻が不調。

だが、娘が一日中がんばっていた。

それならアタシがやる、と自分で決めて、やろうとする意欲があるのはいい。

もう感覚的なものとか思いとかは、まったく常人だ。

30代は無駄にしてしまったが、もう40代。

でも、人生はまだまだ続くから、前向きに元気でいてほしいと願う。

だから、もう台所は完全に任せて、私は掃除活動に専念していた。

妻も夕方復活できてよかった。

 

毎年恒例の半年分の写真カレンダーも製作した。

写真を見ながら、個人的に今年を振り返りながら作った。

1月は、雪は少なかった。

だから、庭の枯れた小菊を刈る作業なんかしたら、腰痛を引き起こしてしまった。

2月下旬は、年が明けてから初めての埼玉行きで、ジャガイモの種イモを畑に植えた。

3月は、非常に寒い中、新潟シティマラソンを完走したのはいいが、あのCOVID-19感染症についに感染してしまい、苦しい時間を過ごした。

4月上旬、練習不足も甚だしかったが、燕さくらマラソンを完走できたのはうれしかった。

でも、下旬に同様の感染症に陥り、またしても熱と咳に悩まされたのだった。

6月、埼玉の畑を借りたいという人が現れ、ぜひということで話が進んだ。

埼玉で刈払い機を使っての除草作業が、この月で最後となった。

 

ついでに、7月以降でもいくつかピックアップしてみる。

7月、千葉県に住む弟夫婦と久しぶりに会った。

埼玉から千葉まで高速を使いながら行くのは初めてだったが無事に往復できてほっとした。

10月、息子の結婚式があった。

両家の家族だけしか呼ばない形だったが、それは2人とも素直に家族に感謝の気持ちを伝えたいからだというのが分かった。

また、この月には、幹事として高校時代の同級会を催した。

体調不良などで参加者は減ったが、旧交を温め、次回は古稀となる2年後としたのだった。

11月、アルビレックス新潟のホーム最終戦、12月はアウェイで今季最終戦が行われた。

11月初めには、ルヴァン杯の決勝もあったが、準優勝に終わっていた。

まさかの最終節まで残留争いだったが、なんとか来季もJ1で戦えることになった。

まさかの「初のJ1監督」、樹森大介新監督がどんなチームをつくり上げるか、非常に楽しみだ。

 

今年もいろいろあったが、とりあえず、1年を生き抜くことができた。

年越しそばもいただいた。

 

では、来る年が皆様にとってよい年となることを祈りつつ、おやすみなさい(-_-)zzz

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ずいぶん近づいているかも…!?と思う年末

2024-12-29 20:36:38 | 生き方

今年も残すところ、実質あと2日。

今朝のTBS系「サンデーモーニング」では、年末恒例の「墓碑銘」の特集をやっていた。

今年もたくさんの著名人が亡くなった。

その人たちの訃報や生前の功績等を見て、ああ、あの人も亡くなってしまったか…などと、しみじみしてきたのだった。

 

子どもの頃、ファンというわけではなかったが、週刊少年マガジンや週刊少年サンデーに連載されていたからよく読んでいた、ギャグマンガの森田拳次(「丸出だめ夫」など)、恐怖漫画の楳図かずお(「へび女」「おろち」など)などのマンガ家も亡くなった。

子どもの頃、マンガ本を読むのが何よりの楽しみだった私だから、その頃に活躍していた漫画家の訃報は悲しい。

 

また、多感な(何に対して?)学生時代に、「激写」と称して篠山紀信氏が撮ったたくさんの若いコの写真には魅せられたものだった。

水着姿の水沢アキとかアグネス・ラムとかのグラビア写真を下宿の壁によく貼っておいたものだった。

後年その篠山紀信氏の奥様になった南沙織の写真も、水着姿ではなかったが、すごく好きだった。

(健康な青少年だったということにしておいてください (;^_^A💦 )

あの当時出された「激写 135人の女ともだち」という大型本の写真集は、捨てられなかったから、たぶん今でも押し入れのどこかに隠れているはずだ。

 

そして、歌でも、「想い出の赤いヤッケ」とか「私に人生と言えるものがあるなら」などが私は大好きだった、大学の大先輩高石ともや氏。

年齢を重ねるほどに円熟味を増して、聴きたくなっていったのが八代亜紀氏の歌。

近年「舟歌」「雨の慕情」などのよさがだんだん分かるようになってきたのだが…。

 

また、社会人になってから影響を受けるようになった、谷川俊太郎の詩の世界。

難しい言葉を使わずに、それでありながら巧みに表現された詩の数々は、見るたび読むたびに様々な感情を呼び起こしてくれたのだった。

 

例年、そんなふうに自分が受けた影響を思い起こしながら惜しむだけだったのだが、今年は、少し違う感情で著名人の死を受け取った。

たとえば、「Dr.スランプ」や「DRAGON BALL」の作者だった漫画家の鳥山明氏、68歳。

ちびまる子ちゃんの特徴的な声を出していたTARAKO氏、63歳。

今年の春までNHKの「こころ旅」で全国を回っていた火野正平氏、75歳。

「もしもピアノが弾けたなら」の歌や「釣りバカ日誌」の映画などで活躍した西田敏行氏、76歳。

先ほど書いた、歌手の八代亜紀氏、73歳。

口に筆を加えて絵や詩を描いた星野富弘氏、78歳。

 

…こんなふうに、亡くなった年齢を見ていると、自分の現在の年齢と10年と離れていない、あるいはそれに近い年齢で亡くなっている人のことを目にする。

しかも、ちょっと前まで元気な姿や声が、テレビ等の画面を通して見たり聞いたりできていた人たちだった。

なのに、訃報が届くなんて、人の命はなんてはかないものだと思うのだ。

そして、同時に、私自身の寿命ということも考えてしまった。

さらに、健康寿命は、令和4年のデータで男性72.57年、⼥性75.45年だという。

…私も、ずいぶん近づいたじゃないか…!?

 

あと何年生きられるのかな?

あと何年体を動かすことができるのかな?

弱気にはなっていないが、つい、そんなことを考えるようになってしまった。

考えても仕方のないことかもしれないが、父56歳、母75歳が享年だったことを思うと、改めて「終活」はもう少し力を入れておく必要があるのかな、などとも考えてしまう。

こんな思いで迎えている、2024年の年末である…。

 

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ゆったり気分でカレー作り

2024-12-17 22:14:49 | 生き方

今日の夕食はカレー。

この献立は、わが家では月に1回。

1回と言いながら、実は3日連続で夕食はカレーとなる。

1回作ると、家族3人分が3食分できるということだ。

カレーを作るのは、私の担当。

私が担当するからといって、特別な作り方をするわけでも何でもない。

用意するルーは、写真に写ったとおりの当たり前の市販のもの。

材料だって、カレーで定番のじゃがいも、にんじん、玉ねぎに豚肉…とごく普通。

 

でも、私は台所に立って、このカレー作りをする時間は、自分が好きなひとときである。

このカレー作りは、学生時代からやっていた。

3年間お世話になった下宿には台所がなかったけど、大家さんに許可をもらって、部屋で電熱器を使ってカレーを作ったものだった。

結婚してからも、カレー作りだけはもっぱら私の役目だった。

 

カレーを作るときには、必ず、何か自分の好きな曲などを音楽を流しながら、調理作業をする。

最も多いのは、なぜか松任谷由実だったが、前回は小田和正、前々回は小椋佳…と、昔懐かしいシンガーや曲を選んで聞いて作っていた。

そういう懐かしい曲だと、心が落ち着く気がする。

この夏まで、月イチで行っていた埼玉でも、カレーを作り、パソコンにデジタルで入れた曲を流しながら作っていたのだった。

今回は、先日作ったX’mas曲集を流しながら、それぞれの歌をよく聴いていた頃の思い出に浸った。

 

さて、つたない作業手順。

とっておいたじゃがいもは、この時期になると、さかんに芽を出すから、丁寧に取って、しぼんでしわしわになった皮をむく。

一部腐ったりしているところがあるから、そこは包丁で取り除く。

にんじんも皮をむいて切る。

私は、カレーの時には四角く切ったにんじんが食べるのにいいと思っているので、小さいさいころのような形に切っていく。。

そして、玉ねぎはなるべくタテの筋に合わせて切っていき、大きければ半分に切る。

切ったものは、じゃがいももにんじんも玉ねぎも、それぞれ大皿に載せて、ラップをかける。

そして、500Wの電子レンジで、それぞれ4分半くらいずつ加熱して、炒めたり煮たりする前にやわらかくしておく。

レンチンした方が、甘味が出てくるのだ。

 

ほどよい大きさに肉を切ったら、カレー用の鍋に油を敷いて炒める。

肉が炒め終わったら、レンジで温めた野菜を、玉ねぎ、にんじんの順番に入れて炒める。

所定の量の水を入れ、野菜を煮込む。

油や肉などのアクが出てくるから、それを丁寧に丁寧にすくい取る。

にんじんが完全にやわらかくなったら、じゃがいもを入れ、型崩れしない程度に煮込む。

 

そして、量に応じたルーを入れて溶かす。

ここからは、隠し味。

ひと口チョコを2個、インスタントコーヒーも適量、その順に入れて溶かす。

最後に、チューブのチャツネをひとしぼり入れて、溶かしながら7分ほどかき回して、出来上がり。

 

これらの手順で作るが、ジャガイモの皮むきから始まって、だいたい2時間かけて作るのが私流。

作っているこの間に、気に入った音楽をかけながら、結構昔のこととかいろいろなことを思い出し、ああでもないこうでもない、と雑多なことを考える。

非常に気持ちのいい時間だ。

私にとって、カレー作りの時間は、心を落ち着かせ気持ちを整えるのに最良の時間かもしれない。

 

読み返してみると、今日は、ちょっとだらだらと書いてあるなあ。

でも、こんな感じでゆったり気分のカレー作りが、私は大好きなのだ。

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ユネスコの無形文化遺産、日本の『伝統的酒造り』;杜氏の里;「無窮」

2024-12-16 20:54:37 | 生き方

今月初旬、「日本の『伝統的酒造り』ユネスコの無形文化遺産 登録決定」というニュースが流れた。

ユネスコの政府間委員会が、日本酒や焼酎、泡盛といった日本の「伝統的酒造り」を無形文化遺産に登録することを決めたということだった。

日本酒、焼酎、泡盛などの酒造り、というが、その「伝統的酒造り」は、日本で500年以上前に原型が確立したのだという。

★米や麦などを蒸す

★こうじを作る

★もろみを発酵させる

たしかに、こうした技法を使って酒を造る。

自然や気候が違うから、地域によって作るものが違ってきたりした。

とにかく、伝統的に培われてきた技術が、各地の風土に応じて発展しながら伝承されてきたということだ。

そのおかげで、今のわれわれが、おいしい思いをして味わえるというわけだ。

酒造りに取り組む人たちに感謝、ですな。

 

酒造りに取り組む人たちと書いて思い出したが、初めて正式に採用された勤務先で、子どもたちの父親や祖父たちには、杜氏の仕事をする人たちが多くいた。

俗にいう「越後杜氏」たちである。

地域的にそこは「N…」という地域だったから、彼らは「越後杜氏」より細かく「N…杜氏」と呼ばれていた。

彼らは、地元で酒造りの仕事をするだけでなく、冬が近づくと新潟を離れて違う地域に行って、酒造りに励むのだった。

だから、主要な学校行事の運動会は6月の第2日曜日、学芸会は10月の第3日曜日と決まっていた。

その前後が、出稼ぎに行って他地域で酒造りに取り組む期間だったからだった。

杜氏の方々は、子どもたちの姿を見て、まぶたに焼き付けて出かけて行ったり帰ってきて成長を感じたりしたというわけである。

そして、冬には子どもたちが、作文を書いて全校文集を作った。

できた文集は、杜氏など冬季県外に出稼ぎに出て働く父や祖父に送るのだった。

そんな杜氏の里だから、家庭訪問に行った際に、私に、「爺ちゃんが作った酒だから」とか「父ちゃんが岐阜県で作っている酒だから」とか言って、帰り際に強引に瓶に入った酒を持たせて寄越す家もあった。

学校行事も様々に杜氏と関係していたのであった。

そんなふうな経験をした、杜氏の里に勤めていたことを思い出した。

だけど、当時でも杜氏の仕事を選ぶ人は少なくなり、私の教え子の父親がおそらく出稼ぎに出る最後の杜氏だろう、と言われていた。

だから、あれから40年以上たった今、杜氏の里だったそこも、ほとんど杜氏はいなくなっているのではないか、と推測するが、どうだろう。

 

さて、昨日イオングループのスーパーに行った際、酒を陳列しているコーナーを見て回った。

そこで、純米大吟醸なのに、1升瓶で2,000円もしない日本酒を見つけた。

加藤酒造という上越の酒造会社で作った酒だった。

丁寧に紙の袋に入っていた。

スマホでササッと検索すると、ホームページに自らをこう紹介していた。

加藤酒造は新潟県上越市に位置する蔵元です。1864年の創業以来、飲んで頂くお客様の側に寄り添って、酒造りを行ってきました。手軽に買えて、気軽に楽しめる最高の晩酌酒を目指すからこそ、品評会用のお酒は造らず、毎日飲んで美味しい酒造りに力を注いでいます。

このお酒「無窮」は、日本酒のベーシックを掘り下げることを目指しています。

派手さ、マニアックさとは対極の普通であることの奥行をお楽しみください。(一部略)

 

そうか、じゃあ買ってみようかと、この「純米大吟醸 無窮」という酒を買ってきた。

今日、さっそく飲んでみた。

冷やして飲むのがおすすめのようだ。

今の当地は気温が低いから、冷やさなくてもちょうどいい。

すっきりした辛口の酒で、飲みやすくていいな、と思った。

 

やっぱり、日本酒、新潟清酒、好きだなあ。

 

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今年の漢字は「金」 私が選ぶなら「変」だな

2024-12-12 20:22:20 | 生き方

そうですか。今年の漢字は「」ですか。

パリ五輪のメダリスト、政治の裏問題。をねらった犯罪、佐渡山の世界遺産決定…。

たしかに、いろいろありましたね。

さっそく各局のニュースでは、「あなたの今年の漢字は?」と市民に聞いてまわる映像がたくさん流れていた。

その流れに沿って、自分の今年の漢字一字を考えてみた。

 

私が選ぶ今年の漢字は、

」だな。

 

世界的に見ても、よくないと持っても、「」なことが続いている。

長引くロシアのウクライナ侵攻、そこに北朝鮮軍の参加。

ガザ地区だけでなく周辺諸国へのイスラエルの攻撃。

アメリカ大統領選挙のトランプ氏の復活勝利と今から行っている世界各国への政策アピール。

先日起こった突然の韓国の戒厳令騒ぎ。

…世界中で、なんだか、ちゃんと説明できないような「」なことばかりが起こっている。

 

国内でも、正月元日早々に能登半島地震が起こった。

いまだ復興が進んでいないのが残念というか、地元の人たちにとってはたまらないだろうと思う。

異常で「」だったのは、地震以外の自然災害もそう。

動かない台風というのもあったなあ。

降ると短時間の集中豪雨で被害を受けた地域が日本全国どれだけあったことか。

「金」に関係するけど、白昼堂々の金属店強盗とか高齢者世帯強盗とか起こるのは、今までの日本じゃ考えられなかった。

やっぱ、「」だよ。

日本も「」な国になってきたのかもしれない。

 

でも、「を起こしたものがスポーツ界にはいろいろある。

大谷翔平は、本塁打50本・盗塁50個の「50-50」を達成し、メジャーの歴史を塗り替えた。

オリンピックでは、女子やり投げで北口榛花選手が優勝し、日本人女子選手初の栄冠に輝いた。

アルビレックス新潟も、ルヴァン杯で決勝まで進み、地方都市のクラブとして「」革を起こしかけたのだが、準優勝に終わった。

だから、準優勝のチームなのに残留争いを最終節までやっているなんて、「」なチームになってしまった。

 

さて、「」を自選したのは、自分に「」なことがいろいろ起こったからでもある。

まずは、3月、新潟ハーフマラソン後に感染したCOVID-19感染症。

一度治したのに、ひと月後の4月末に同様な症状になり、咳や熱が出てまた苦しんだ。

また、1月と11月に腰痛を発症して苦しんだり、脚や膝、股関節などに急に痛みが出てきたりして、体が今までになく「」になってきた。

11月には、このブログにも書いたけど、24時間に4つも「」なことを体験したこともあった。

そして、暮らしも、化があった。

ここ何年も毎月のように埼玉に行って、畑と家の管理作業を行ってきたのだが、夏から埼玉の畑等を借りてくれる方が現れて、行く頻度は減った。

われわれの生活も「」化したのだ。

 

私にとって、いろいろな異「」があった年だった。

さて、皆様にとっての今年の漢字一字は、どんな文字を選びますか?

 

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ブログ開設6000日

2024-12-06 21:08:55 | 生き方

はて!? 今日のブログ、何を書こうかなあ、と考える。

今日は、天気が悪かったけど、20年近く前に亡くなった伯母の墓参りに行ったから、そのことにしようか。

それとも、アルビレックス新潟の最終節の試合が2日後に迫ったからそのことにしようか。

明日から天気が冬型となり、雪が降るかもしれないから、それに関することにしようか。

…などと、いろいろ考えていた。

 

だけど、ブログの編集ページを開いたら、こんな数字が目に入った。

「ブログ開設から6,000日」だって!?

「6,000日」ねえ…、なんかすごいな。

そんなに時間がたったのか、とちょっぴり感慨にひたった。

6,000日というと、16年と5か月余りだものなあ。

 

ブログを開設したのは、2008年7月だった。

あの当時、自分は51歳。

仕事も充実していたし、50代となって1年、まだまだ自分の人生これからだ、と前向きだった。

そこでブログタイトルは、「五十路 ON MY WAY」と名付けたのだ。

そして、このタイトルは、50代から60代になったときに、「五十路」をカットして今に至っている。

 

書く内容も、当初は「草花」「アルビレックス新潟」「ひと」「うた」などのカテゴリーで始めた。

だが、書いていくうちに、だんだん細分化していく必要が生じてきた。

現在は、こんなカテゴリーになった。

草木花(574) アルビレックス新潟(687) お出かけ(240) 生き方(646) RUN(494) スポーツ(167) 自然・季節(255) 新潟(140) ひと(113) うた(132) 「育」業(101) 読む(203)

ちなみに、(  )内の数字は、そのカテゴリーの記事数を表す。

多いものから順に見ていくと、今や最多はアルビレックス新潟に関する記事なのである。

日常の自分の生活や考え方を書いていくつもりの「生き方」を抜いてしまった。

アルビ関係がこんなに増えていくとは思わなかったなあ。

野草などの花見が好きだから、「草花」も多くしたかったが、途中から木の花も多くなり、「草木花」と名を変えた。

だけど、自分の移動範囲が広くならないと、新しい花との出合いは増えない。

新しい種類の花に会えるとうれしくてたまらないのは、今も変わらないのだが。

 

書いているうちにどうしても長くなってしまうのが、レースに出たときの「RUN」。

そして、どこかに出かけたときの「お出かけ」だ。

やっぱり感じたことや思ったこと、起こったことなどが多いからなのだろうなあ。

 

6,000日の中で、記事を書いた回数は、3,752回であった。

仕事をしていたときには、月に何日かしか書かないことも多かった。

それでも、よく書いた時期は、11~10年前の「娘よ」のシリーズだった。

とてもつらい思いで書いていたが、原因不明の難病に苦しんでいる姿は書かずにおれなかった。

毎日、なんとかよくなってほしいという願いや祈りもむなしく、発作を起こしたり悪化したりする姿を見せられ、本当につらい日々だった。

 

さて、6,000日で、このブログを覗いてもらった、トータルアクセス回数は2,319,927回。

トータル訪問数は995,247となっている。

今まで、およそ232万回のアクセスと100万回近くの訪問かあ。

そう思うと、すごいな。

ちりも積もれば山となる、だな。

 

60歳で退職してからは、「毎日更新」を心がけてやってきた。

少しでも老化の防止になればとの思いもあるが、過去のものを見ると、すっかり忘れてしまったものも多い。

読んでつまらないものも多い。

その辺りは、どうかご容赦を。

でも、まあやれる限り「毎日更新」を続けていきたい。

それが、6,000日を迎えた今日の、新たな誓いなのであります。

 

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スマホの機種変更に行く

2024-11-22 21:12:23 | 生き方

4年と1か月愛用してきたスマホ。

よく見ると分かるように、表面下部に無数のひびが入ってしまっている。

あちゃー、やってしまった。

そう思ったのは、10月の初めだった。

小屋から自転車を取り出そうとしたとき、引っ掛かったはずみに、ポケットからスマホが滑り落ちてしまった。

パシャン!

いやな音がした。

スマホには、割れないように保護カバーを付けていたので、今まで何度も落としたが、割れずに済んでいた。

だが、今回はスマホが、角からではなく表面を下にして真っ平らに落ちた。

これは、ひょっとして…と思って拾い上げてみると、このように表面のガラスにひびが入っていたのだった。

 

ひびが入って多少凸凹が生じたが、タッチ画面はなんら支障がなかった。

予定がいろいろあったので、しばらくはこのまま使おうか、と決めた。

そうやって、10月は新潟シティマラソンや高校の同級会で使ってきたのだった。

腰痛になって、今月も行く余裕がなく、回復して埼玉などに出かけてきたのだった。

 

そして、今日になってようやく新しいスマホを求めに店に行った。

だけど、店は混んでいた。

2時間待たされたあげく、2kmほど離れたところにある、店の出張所に行くことを求められてしまった。

出直すのも面倒だから、出張所に行った。

まあ、そこでは店員にいろいろと親切にしてもらえたから、たくさん待ったのも仕方なかったことにする。

テキパキと処理して、データやアプリのほとんどを新機に移し替えてくれた。

自分にはできないことだから、すごいなあと思って、その手つきを見守っていた。

世の中にはそういう技術を持った人がたくさんいる。

専門的な知識や技術を持った人がいるから、自分たちの生活ができたり豊かになったりするのだ。

そのことは知ってはいたけれど、今日またその思いを新たにした。

 

店に行ってから終わるまでに4時間近くかかってしまった。

出費も少なくなかったのだから、新しいスマホは、不用意に落としたり、ウエストポーチのように忘れたりしないように気を付けよう。

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とんだ災厄4連続(後編)

2024-11-21 17:57:27 | 生き方

(前編からの続き)

3 

翌朝は、熱湯風呂のショックと蚊による寝不足が大きかったせいか、体に変調が起こっていた。

なんと、お通じが通じなくて困ったのだ。

「門」の近くまで来ていて出したくてたまらないのだが、そこを突破できないのだ。

そこでたまっていて痛くて苦しくて困ってしまった。

 

でも、出発しなくてはいけない時間になったので、仕方なくお通じできないまま、宿から出発。

熱湯風呂に、相次ぐ蚊の襲来と、熱烈歓迎していただいた、思い出深い宿になった。

おまけに、今度は自分の体に変調が起きるとは…。

 

向かった先が袋田の滝。

そこでは、光のトンネルや大きな滝など素晴らしかったから、下の痛みも少し軽減していた。

見終わった後、苦しくなったので、公衆トイレでまたがんばってみたけど、ダメ。

やっぱり苦しい。

 

約2時間の車運転の後、また別の公衆トイレでがんばったが、ダメ。

持ち合わせていた胃薬を飲んでみたが、改善の気配はなかった。

苦しい、苦しい。

 

 

この後、親類宅を訪問した。

懐かしいいとこや、伯母に会えてうれしかった。

伯母は90代だが、はきはきしていて元気な口調なのがうれしかった。

訪問中は、幸いトイレに行きたいとは思わなかった。

そこを辞して、あとは新潟に帰ることにした。

 

高速道路に乗って、サービスエリアで小休止。

当然のように、トイ活(トイレ活動)をした。

努力を重ねたせいか、昼に飲んだ胃薬が少しは効いたのか、ずっと塞がっていた一部が「開門」。

すっきりとまではいかなかったが、一部出たことによって、ようやく苦しみから解放された。

7時間も、この苦しみと戦っていたので、解放された喜びは大きかった。

ああ、完全じゃないけど、やっと楽になったぞ!

うれしいなあ。

…3つ目の災いは、この開門しない苦しみであった。

あとは、気持ちよく運転して帰るだけだと思ったのに、まさかこのサービスエリアのトイ活が、もう一つの悲劇を生むことになるとは思わなかった。

 

3時間高速を走って、下道に降りると、目の前はゆっくりと乗用車が走っていた。

多少イライラしそうになりながら、私の車の後ろにも何台も車がつながっているのが確認できた。

可能なら抜きたいのだけど、すでに日は暮れているし、道も広くなく危ないから、ずうっと30分以上、後ろを付いていった。

やっと前のゆっくりな車と別れることができ、イライラから解放され、10分ほど走って、ようやく家に着いた。

 

いろいろあったけど、やっとわが家に着いたよ。

さて、荷物を下ろそう。

その前に、運転の邪魔だからと外しておいたウエストポーチを持って、…と。

…ない!ない!?ない!!??

え~!!?そんなバカな!!

ウエストポーチがない!!

ウエストポーチには、財布も入っていた。

現金だけでなく、キャッシュカードやポイントカードなども、たくさん入っている。

うわあ~、どうしよう!!!?

どこでなくした?

そうか、サービスエリアのトイレだ。

思い出した。

用を足すために外して、棚のようなところに上げて置いたのだった。

なのに、「開通の喜び」が大きかったものだから、それに紛れて、ウエストポーチをとり忘れてしまったのだ。

なんてこった!!!

心臓バクバク、冷や汗ダラダラ。

あれからたくさんの時間がたっている。

悪い人に拾われていたら、もう返ってこない。

カードを悪用されたらどうしよう?…⤵

 

それでも、まずはサービスエリアに電話だ。

スマホで検索するにも、もどかしくて時間がかかった。

やがて、電話がつながると、「ありますよ」という話。

すぐには信じられなかったが、トイレ掃除の作業員の方が見つけて、届けてくれたのだそうだ。

入っている物を確認すると、何も取られてはいなかったことが分かった。

ホッとした。

着払いで荷物を送ってくれるように頼んで、住所や名前などを告げた。

 

2日後、小さな段ボール箱が届いた。

丁寧に梱包材でくるんであった。

開けてみると、アルビ選手のキーホルダーがついた黒いウエストポーチ。

まぎれもなく私が置き去りにしてしまったウエストポーチだった。

さっそくサービスエリアに電話をして、大きな感謝の気持ちを伝えた私であった。

 

 

…熱湯、蚊、閉門、置き忘れ。

わが身が招いたものもあるけれど、24時間の間に4つも災厄に見舞われた私だったのである。

なんだかね~…(タメイキ)

でもね、4番目の、置き忘れたウエストポーチが手元に返ってきたということは、幸運だったのだから、これからいいことが続くと思いたいね。

コメント (2)
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