ON  MY  WAY

60代になっても、迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされながら、生きている日々を綴ります。

Cさんからの電話

2024-07-05 21:50:09 | 生き方

郵便事情もかなり悪化して、集配を急がなくなったものだから、届くのに時間がかかるようになった。

ポストに投函すれば、県内の近いところなら早ければその日のうちとか翌日とかに届いていた距離なのに、今年はそれでは届かない。

少なくとも2日かかるようになってしまった。

 

何を気にしているかというと、火曜日に投函した同級会の案内ハガキだ。

ちゃんと届いたかな、と心配していた。

高齢者の仲間入りをした年齢だから、仕事をやめて取り巻く事情が変わった人もいたはずだ。

中には転居した人がいるかもしれない。

そうすると、せっかくの案内が届かないというケースも出てきてしまう。

そうなってほしくないなあ、と願っているのだ。

 

昨日、夜になってうれしい電話があった。

同級会の案内を送ったら、Cさんから案内が届いた、と連絡があったのだ。

Cさんと話すのは久々だった。

 

同級会の開催は8年ぶりだが、8年前のそのときは、Cさんは交通事故にあって大けがをした直後だった。

だから、参加不参加の返信ハガキも返って来なかった。

大ケガゆえ、とにかく少しでもよい状態になるようにと祈っていたのだが、ずっと心配していた。

ただ、今年、高校時代の同窓生(同い年だが別な組だった)と会ったとき、Cさんの話が出た。

Cさんは、体は元通りには戻らなかったが、今はあちこち一人で出歩けるようになっているということを教えてくれた。

よかったなあと思っていた。

 

そのCさんから真っ先に電話連絡があった。

「いやあ、うれしいなあ。ありがとう。」

と声が弾んだ。

Cさんの話す口調も元気そのものだった。

「実はね、この前、長岡のGさんやNさんと会って飲んだんだよ。その時、今年はオリンピックの年だけど、同級会やるかなあ、どうかなあという話もしたんだよ。」

心配させて申し訳ない。

「新潟市でやるのもいいし、盆や正月でないのもいい。」

そのように、今回の計画に賛成してくれた。

そのほか短い時間でいろいろ話をした。

「じゃあ、近々返事を出すから、よろしく。」

ということで、電話を切った。

 

同級会の参加者を1名ゲットした気分になれた。

なにより、久々にCさんと話せてうれしかった。

高校時代、Cさんはクラスの雰囲気を盛り上げてくれるような存在だった。

その明るさに助けられたよなあ、と今でも思っている。

今回も、会場を予約したり案内状を作って往復はがきで出したりするまでの煩わしさが、Cさんからの電話で報われた気がした。

今回も助けてもらった気分になった。

10数年ぶりとなる、再会の日を楽しみに待ちたい。

 

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新潟県立環境と人間のふれあい館で語り部の話を聞く

2024-07-02 22:06:40 | 生き方

今日は、ある団体の研修で、「新潟県立環境と人間のふれあい館」に行き、新潟水俣病に関する学びの機会を得てきた。

【館内2階から】

新潟水俣病については、今までにも学ぶ機会は何度かあり、知識はあった。

だが、今回は、映像を見たり館内の資料説明を聴いたりするだけでなく、語り部の方の話を聞かせていただくことができた。

やはり現地の語り部の方の話を聞くと、その被害の実際は、我々が考えが及ばないものがあるのだと伝わってきた。

その話の一部を紹介する。

 

水俣病は、熊本で中毒症状が出たときに国が「魚を食べるな」としっかり規制すればよかったのに、「自主規制」としたから、まだ食べる人が続き、その後被害が広がった。

その原因についてメチル水銀にあると分かっていたのだから、もし規制されていたら、被害は拡大せず、新潟水俣病も起こり得なかったはずだ。

 

被害者なのに、認定申請しない人たちはとても多くいた。

うちの親も指が曲がっていたけれども、患者の申請はしなかった。

そんな人がたくさんいる。

周囲の人からいろいろと言われるからだ。

現にそういうことは多かった。

実例を挙げてみる。

第1次訴訟で和解した患者は、1500万円の金額を受け取った。

当時の働く人の初任給は、1万円台だった。

そう考えると、1500万円の金額の大きさが分かる。

だが、今まで貧乏だった人たちが、大金が入ると真っ先にすることは家の改修だ。

それを見て、大金を得た人たちに対する世間の人たちは、ひがみが強くなる。

あそこの家は認定患者だと話し出し、はじこうとした。

 

今まだ訴訟が続いているが、難航している。

本当に患者なのか、見た目では見分けがつかない。

昭和40年代なら、髪の水銀調査をすればすぐにわかった。

だが、今になって、髪を検査したって何も出てこない。

そして、60年前にいつどのくらい魚を食べたか、なんて聞かれたって、正確に応えることは難しい。

 

60年前は、工場の廃液は、水で薄めさえすれば流してもいいという決まりだった。

流された廃液の水銀が、コケやプランクトンを通して小さな魚の体に入る。

食物連鎖により生物濃縮が行われ、大きな魚に水銀がたまっていく。

大きな魚は簡単に死なない。

汚染されても、川ではコイやウグイなどが、海ではマグロやイルカなどが簡単には死なない。

それを人が食べると危険だ。

現に、現在の厚労省のホームページにも水銀のことがちゃんと書いてある。

 

患者の中には、50歳を過ぎてから、自分のしびれやふるえなどの体調不良は新潟水俣病のせいだったと分かる人もいる。

ずっと新潟水俣病だと気づいていたが、家族特に子どもたちのことを考えると、あそこの家は新潟水俣病患者の家だと世間から言われて苦しむだろうから、声をあげずにいた人も多い。

子どもが大人になったから、もう本当のことを言ってもいいだろうと、患者の名乗りを上げた人もいるが、それでも息子や娘夫婦から「やめて」と言われている。

 

本当の苦しみは当事者でないと分からない。

聞いた話の一部にすぎないが、このように、実際に被害を受けた人でないと分からない話、言えない話を聞くことができたのは貴重だった。

 

家に帰ってから、「魚介類に含まれる水銀」の話が気になって、厚労省のHPを調べてみた。

 

・魚介類はこのように利点が多い食材ですが、反面、自然界に存在する水銀を食物連鎖の過程で体内に蓄積するため、日本人の水銀摂取の80%以上が魚介類由来となっています

・また、一部の魚介類については、特定の地域等にかかわりなく、水銀濃度が他の魚介類と比較して高いものも見受けられます。

水銀に関する近年の研究報告において、低濃度の水銀摂取が胎児に影響を与える可能性を懸念する報告がなされていることを踏まえ、妊娠中の魚介類の摂食について以下の注意事項を公表しているところです。

・厚生労働省が実施している調査によれば、平均的な日本人の水銀摂取量は健康への影響が懸念されるようなレベルではありません。特に水銀含有量の高い魚介類を偏って多量に食べることを避けて水銀摂取量を減らしつつ、魚食のメリットを活かしていくことが望まれます。

 

そうか。やっぱり気をつけて食べる必要があるのだな。

そう思ったよ。

ともかく、今日は貴重な研修の機会を得られたことに感謝したい。

 

【館内2階から、すぐ近くにビュー福島潟が見えた】

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五輪年は、同級会開催年だから…

2024-07-01 22:23:19 | 生き方
今年は、オリンピック・イヤー。
フランス五輪は、今月26日に開会式を迎える。
昨日まで新潟市のデンカビッグスワンスタジアムでは、その出場内定を巡って、日本陸上選手権が行われていた。
優勝したのに、五輪参加標準記録に届かなかったという理由で、インタビューで喜びを見せない選手もいた。
この日を迎えるまで、過酷な練習に耐え、けがや故障を乗り越えてきたのに、プレッシャーにも襲われたりもするし、ピークを合わせるのも簡単ではない。
改めて、選手たちは厳しい環境の中でオリンピックを目指しているのだと知った。
種目によっては、今回五輪標準記録を突破できなくても、世界ランクの発表で決められた順位内に入れば出場できるという選手もいる。
気が気でないだろうなあ、当落線上のランクにいる選手たちは…。

さて、「気が気でない」と書いたけど、この五輪年、自分も務めを果たさないうちは気が気でないものがある。
それは、4年に1度、オリンピック・イヤーにやることになっている同級会の開催。
以前書いたことがあるように、「永年幹事」だったM氏が、亡くなる前に1枚の名簿を私に渡し、「次の幹事は、50fox、お前な」と“遺言”を残して、世を去ってしまった。
その遺言を守り、私が同級会の幹事をやっているというわけだ。

41人のクラスだったが、50代で4人が亡くなった。
8年前のリオ五輪の年に行った同級会だったが、健康上の理由で参加を見送ると連絡をくれたものもいた。
4年前の五輪年は感染症禍で開催を見送った。
そのとき開催見送りの葉書を送ったら、5人の転居先が分からなくなっていた。
そのうち2人はなんとか突き止めたが、残りは不明のままである。
こうして、同級会は、死去、体調不良、行方知れずなどで、参加できる人がだんだん減っていく…。

なんとか参加者を減らさないようにしたい、と思い、今回は
・ やることの多い盆を避けて、秋に行う。
・ 夜の会ではなく、夕方に終わる会にする。
・ 開催地を高校のある小都市ではなく、大都市新潟市で行う。
…などの工夫をしてみることにした。


今の若い人たちなら、連絡もLINEを使ってやっているようだが、われわれ高齢者にはまだ紙ベースが安心だ。
だから、案内状も往復はがきを使って作成した。
だけど、今年は、10月1日から郵便料金が変わるのだよな。
返事は、9月中にもらわなくては…。

今日は、せっせと文章を完成させ、往復はがきに案内を印刷した。
あとは、投函して同級会のメンバーに送るだけだ。

住所がわかる人たち全員に出したけど、
みんなにちゃんと届くかなあ。
また転居先不明者が増えないでほしいなあ。
どれだけの人が、ちゃんと返事をくれるかなあ。
どれだけの人が、参加してくれるかなあ。

…そんなふうに、気が気でない状態は、これからも続きそうだ。
でも、ま、幹事がんばります!
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年中行事の側溝清掃

2024-06-30 20:50:09 | 生き方

タマサボテンが咲くこの時期、年中行事になっているのが、側溝清掃。

今年も、その要請が来た。

おなじ町内でも、下水道が整備されたところは、それをやる必要はない。

だが、わが家を含めた町内の一部は、側溝清掃をしなくてはいけないのだ。

まったく、早く下水道を整備しておくれよ、と市当局に言いたいところだ。

 

まあ、仕方ない。

ここに住んでいる以上、やるしかない。

やるなら、天気が悪くならないうちにやってしまおう。

 

今年も、器械を使って、コンクリートの重いふたをいちいち持ち上げて清掃作業を始めた。

そして、1年の間についたふたの土や砂を落とした後、水で流してふたもきれいにしておいた。

次に、土のう袋に側溝の泥をすくい取って、集めていく。

ある程度取ったら、放水して、残った砂や泥を、流しながらまた集めていく。

そんなふうに作業を進めていった。

 

今年、近所の方から、新兵器を貸してもらった。

その新兵器が、これ。

細くて強い竹ぼうき。

側溝に水を流しながらこれを使ってはいていくと、一気に残った砂や泥を運んでいける。

とってもすばらしいアイテムであった。

 

あとは、またふたを1枚1枚元に戻していく。

器械を使うといえど、うまく挟んで落とさないように注意しながらの作業。

開始から約1時間半余りかかって、ようやく全作業終了。

ああ、さっぱりした。

だけども、年々作業はきつくなるから、早く下水道整備してくれないかなあ…と、もう一度ぼやくのであった。

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あっちは現代、こっちは江戸時代!?

2024-06-17 20:48:42 | 生き方

先週、埼玉の一番小さい畑ではジャガイモを掘っただけではなく、恒例の(?)除草作業をしっかり行ってきた。

2アール程度の畑だから、そこまで大きな畑ではないけど、除草には時間がかかる。

わずか3週間でよく生えるものだ、と雑草の生命力に、ほとほと感心する。

ただ、さすがに雑草にも旬がある。

先月までは、ホトケノザやタンポポなども咲いていて、雑草だけど花はきれいだなあ、などと思いながら刈っていた。

ところが、今月は、この畑に生える雑草できれいな花は少なかった。

かろうじて、アカバナユウゲショウの赤い花がきれいだと思ったけど。

最もたくさん生えていた雑草は、メヒシバだった。

このメヒシバ、根がしっかり土をかんでいて、簡単に根まで抜けない。

乾燥した土では、引っ張って抜こうとしても、根の少し上からブチッと切れてしまう。

茎が残って、またそこから伸びていく。

生き残るために、たくましさを備えているのだなと、それなりに感心してしまう。

 

このメヒシバらに負けまいとする人間が私だ。

地面に這うように生えているメヒシバを、丸鎌を使ってゴシゴシとしごくようにして根ごとまるごと刈っていく。

ゴシゴシ、ゴシゴシ、ゴシゴシ、ゴシゴシ、………。

強くなった6月の陽射しを受けながら作業していると、あっという間に息が切れた。

仕方なく小休止する。

少し息を整え、またゴシゴシを連続する。

強い陽射しに、汗も噴き出す。

だけど、これをしなくては、畑が単なる荒れ地になってしまう。

除草剤をまけばいいという人もいるが、除草剤を使うと、畑が畑じゃなくなってしまう気がする。

もともと畑だから、また何か作物を作るときがあるかもしれない。

その作物に、害のある薬剤成分が影響を与えるようでは、いけない。

ゴシゴシ、ゴシゴシ、………。

きつい除草作業だ。

 

そうやってゴシゴシ作業している私の、道を挟んで反対側の畑でエンジン音がした。

そこの畑はここより広いのだが、同様に雑草がたくさん生えていた。

エンジン音は、その雑草畑にトラクターが1台入って行く音だった。

トラクターが進んでいくと、雑草畑と化していた土地が、あっという間にきれいに整備された土地に変わっていく。

なんて簡単なんだろう。

人が乗って運転するだけで、広い土地がみるみるうちにきれいな畑になっていった。

私は、こうして器具を使って自力で時間をかけてやっているのに、向こうは、ただ乗って動かすだけで、同じ作業があっという間に、しかも楽できれいに終わっていく。

手作業で遅々として進まぬ私の除草とは大違い。

思わず苦笑いした。

昔歴史で習った「産業革命」で機械の使用がいかに画期的な変化をもたらしたのかが、分かるような気がした。

ついでに脳裏には「家内制手工業」「マニュファクチュア」なんて言葉も浮かんできた私であったが、それらの用語の説明の仕方は忘れてしまったなあ…。

 

そんなことで、落差を見せられて自分のやっていることは、古い時代の住民と同じかと思ったよ。

あっちは現代、こっちは江戸時代か!?。

疲れが出た私も、産業革命にするか、と決断。

あとは機械の使用に踏み切ったのだった。

トラクターの使用はできないけれどね。

…刈払い機見参!

としたのである。

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さようなら、YP―10

2024-06-13 20:38:33 | 生き方

長年一緒に過ごした(?)、電子ピアノとお別れした。

ここ10年ほどは、娘のリハビリ用に使っていた。

指を動かすことは、脳の働きを活性化させるのによいという考えからだった。

もともと子どもの頃からピアノを習わせていたので、娘は、それなりに弾くことができた。

病からの回復を図ることに役立ったと言える。

さて、この電子ピアノを買ったのは、子どものためではなかった。

買ったのは、実に43年も前のことだった。

新採用から2年目、夏のボーナスを使って買ったのだった。

私が採用された頃には、採用試験にはピアノの実技がなかったのだ。

それなのに、小学校教員になれたのは、ラッキーなことであった。

だが、いざ現場に立つと、やはりピアノが弾けないというのは、不便きわまりなかった。

代わりにギターを使って、和音で音を出していたけど、正しい音階を出すのにピアノは欠かせなかった。

ピアノを使って授業ができるよう になりたい。

若き私にはその願望が強かった。

真剣に練習しようと思って、当時の1か月分の給料に近い金額を支出して買ったのが、YAMAHAのElectronic piano YP―10であった。

 

買ったときには、それなりに自分で練習もしたのだが、私の音楽指導に疑念を抱いた上司が、音楽の授業から外してくれた。

また、低学年担当のときには、子どもたちは、ピアノよりギターの方がノリがよかったりした。

そんなもんで、この電子ピアノが部屋の飾りになるのに多くの時間はかからなかった。

 

そんなことで、この電子ピアノが本格的に活躍するのは、自分の子どもたちがビアノをならうまでなかった。

そして、娘のリハビリに使われるのが、最も重要な使われ方だった。

私は、結局、その後40年余りこの電子ピアノに触れることはほとんどないまま、定年を迎えてしまった。

 

長い年月がたったために、音の出ない鍵盤があるようになってしまったから、新しい電子ピアノを買った。

金額は、あの43年前に比べて、半分以下!

機能も増えているし、ビックリであった。

 

処分するのが惜しくて、ずっととっておいたけど、終活を考えると、決断せざるをえないと思うようになった。

 

今日は、娘が練習用に使った。

そのあと、数十年ぶりに鍵盤に触れてみた。

低学年担当だった頃の「きらきらぼし」や「チューリップ」は、片手だけだけど弾けた。

「ふじ山」は、何度もつっかえた。

 

もう、子どもたちと歌うこともない。

さようなら、YAMAHAのElectronic piano YP―10。

若い日の夢をありがとう。

 

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Holidayは、掘りデー

2024-06-11 20:31:59 | 生き方

埼玉の畑に、3月に種イモを植えたジャガイモ。
収穫期を迎えた。


月曜日は雨が降るとの予報に、その前に掘らなくては。
前日の休日、日曜日のうちに掘ることにした。
「Holidayは、掘りデー」となった。

今年は、畑で植え付ける場所を変えてみた。
なにしろ、去年は2年続けて同じ場所で育ててみたら、取れたのは小さなイモばかりだったから。
場所を変えてみたら、今年は1つの茎にできたイモの数は多く感じたし、時々は大きなイモも出てきて、うれしかった。

例年2kg、30数個の種イモを2つに切って植え付けるのだが、さすがに取れたイモはいっぱい!

植え付けるときに草木灰を付けたり、芽が出てから少しだけ追肥したことがあったりしたくらいで、だいたいほったらかしだったのに、ちゃんと収穫が得られた。


ござ2枚分に並んだ大小さまざまなジャガイモたち。
さっそくゆでたり、カレーの材料にしたりして、おいしくいただいているのでありました。


掘った夜中に雨になったから、やっぱり「Holidayは、掘りデー」にしてよかったよ。

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同級会の準備を始めなくては…から一歩前進

2024-06-03 21:33:25 | 生き方
さてさて、そろそろ開催に向けて準備を始めなくちゃな…。
なにしろ、8年ぶりになってしまうから…。
この話題について書いたのは、もう4年も前のことになってしまうのだ。
齢をとると、年月の過ぎ去るのが本当に早い。
準備しなくてはと思いつつ、この2か月余り、COVID-19などの感染症に苦しみ、そのことについて考える余裕がなかった。

何の準備かといえば、4年前のこの記事を読んでもらえば分かってもらえるかな?
そう。幹事として高校時代の同級会をしなくてはいけないのだ。
高校時代の同級会は、いつからか4年に1度、オリンピック・イヤーに開催するのが慣例になってしまった。
ずうっと幹事をやってくれていた「永年幹事」のM氏が最後に幹事を務めたのは、2012年のロンドン五輪の年だった。
その翌年、彼は亡くなった。
亡くなる前に、住所が書かれた名簿一覧を私に寄越して、「オレの次の幹事は、お前」といった言葉は、遺言になってしまった。
Mの遺志を継ぐしかないな、と思い、幹事としてリオ五輪の年に「還暦記念」の同級会を企画実行した。

そして、前回の東京五輪。
2020年も2021年も、COVID-19感染症のパンデミックの真っ最中であった。
だから、メンバーには、残暑見舞いの形で開催延期の知らせを送り、実質的に中止せざるを得なかったのだった。

「この感染症が収束するまで延期したいと考えておりますが、いかがでしょうか?
この難局を乗り越えたときに、ご案内を差し上げたいと思っております。」
と書いてから、あっという間に4年がたってしまった。
その間に私たちは年金受給者=高齢者のカテゴリーに入ってしまった。
高齢者はまだ注意が必要、と言われても、世間的にはもう全面的に自粛は解禁されている様相だ。
さすがにパリ五輪の今年は、同級会を開催しなくてはいけないだろう。
だけど、一人で企画するには心細い。
そう考えて、今日は身近で信頼できる同級生の一人に会って、同級会について相談に乗ってもらった。

二人であれこれと話し合った。
・毎回だいたい盆の時期に行ってきたが、盆の時期はむしろ忙しいのではないか?
→別な時期の開催も考えてみたい。
・毎回高校のある町(市)で開催してきたが、現住所が市外にある人の方が多い。親が亡くなって泊まれる実家がなくなった人も多いのではないか?
→宿泊できるホテルの多い新潟市などを開催地にしてみたらどうだろう。
・だいたい夜の宴会を中心に開催してきたが、夜遅いと帰れなくなる人もいるのでは?
→夕方より前に始めてはどうだろう?

自分と同じような考えをもっているのだなあ、と思い、やっぱり相談してよかった、と思った。
まだ詳しいことが決まっていないが、一人でくよくよ悩むより、二人で考えを出し合うのが大事だな、と改めて感じた。
8年ぶりの同級会開催に向けて展望が開け、1歩前に進んだ感じ。
体が少し軽くなった気がした。

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5月15日に思う

2024-05-15 14:19:37 | 生き方

5月15日。

目覚めてから、この日は何か過去に大きな出来事があった日だったよな…。

そうだ、自分の頭の中には3つくらいのことが浮かんだ。

 

1つめは、少し古くなったできごとから。

5月15日、5・15、五・一五…と数字を並べて思い出したのは、歴史的事件。

五・一五事件。

1932(昭和7)年5月15日、武装した陸海軍の青年将校たちが反乱を起こし、総理大臣官邸に乱入し、時の内閣総理大臣・犬養毅氏を暗殺した事件だった。

当時は、3年前に起こった世界恐慌の影響で、日本でも大不況の煽りを受け企業の倒産が相次ぎ、社会不安が増していた。

そんな状況下で、政党や財閥を倒し, 軍部中心の政府をつくろうとしたために起こったのだった。

襲撃を受けたのは、首相官邸ばかりではなく、日本銀行・警視庁・変電所などもあった。

この事件以降、軍部がさらに力を強めていったのであった。

そして、日中戦争、太平洋戦争と、戦争の泥沼の中に日本は突っ込んでいった。

 

2つ目は、沖縄の本土復帰記念日だということ。

沖縄は、戦争中、全国の中で唯一アメリカをはじめとする連合国軍が上陸し、民間人を巻き込んだ戦いが行われた場所であった。

そしてその戦争後、沖縄は長くアメリカ軍の統治下におかれた。

ようやく本土復帰を果たしたのが、戦後28年もたってからの1972年5月15日だった。

あの当時、人気アイドル歌手として活躍していた沖縄出身の南沙織が週刊誌の表紙を飾り、本土復帰についてのインタビュー記事が載っていたのをよく覚えている。

実は、私らの新婚旅行の行先は沖縄で、行ったのはその10年後の1982年の5月のゴールデンウイーク期間だった。

空港などで、「本土復帰10年」という文字が多少見られたかな、という覚えがある。

その旅行の際には、かつて戦場となって、いまは慰霊碑が立つ摩文仁の丘を訪れたりもした。

碑には戦争で犠牲になったたくさんの人の名前が刻まれていた。

案内するタクシーの運転手が、戦争のことにはあまり話題に触れようとしないで、本土から来た新婚さんを「ここで写真を撮りましょう」「ここもいい写真が撮れますよ、笑ってください」などと言っていた。

だが、鎮魂の場所だけに、私らは平気で笑顔を作ることなんてできず、ちょっとむっつりした顔で写るしかなかった。

今にして思えば、地元の運転手にとって、「どうせ本土から来た新婚さんなんて、沖縄人の悲しみなんかわからないでしょう。遊び半分で来たのでしょうから、記念写真でも撮ってお帰りください」と、そんな気持ちだったのかもしれない。

それからさらに41年がたち、今日で復帰から52年を迎える。

去年の玉城知事のメッセージの中には、

「復帰後51年を経た現在もなお、国土面積の約0.6%である本県に全国の米軍専用施設面積の約70.3%が集中しており、県民は米軍基地に起因する騒音や事件・事故、環境汚染の問題など、過重な基地負担を強いられ続けています。

さらに、普天間飛行場の辺野古への移設については、県民の理解が得られないまま工事が強行されている状況にあります。」

という内容があった。

本土の人たちからすれば、離れて遠いことから、「自分ごと」ととらえる感覚が鈍いような気がする。

不穏な世界状況を考えると、日本人として誰でももっと沖縄のことを考えていかなければいけない、と思う。

 

最後の3つ目、今日はJリーグの日。

1993(平成5)年5月15日、日本初となるプロサッカーリーグJリーグが開幕した。

大きなJリーグのマスコットキャラクターが、セレモニーでぐんぐんふくらんで大きくなっていったのは、今もよく覚えている。

その開幕戦は、ヴェルディ川崎対横浜マリノスだった。

その試合は1対2で横浜マリノスが勝利を収めたのだった。

当時は10チームしかなかったが、その後、「Jリーグ百年構想」に基づいて、全国各地に「おらがチーム」ができ、今はJ1・J2・J3のリーグで、各20チーム、合計60チームが戦いを行っている。

開幕した頃は、「いつか新潟にも、Jリーグのチームが…」と思っていたら、その後10年余りでJFL➡J2➡J1とカテゴリーを上り詰めたチームが誕生した。

それが、「アルビレックス新潟」だった。

 

そのアルビレックス新潟が、Jリーグの日である今日5月15日に、奇しくも31年前にJリーグの開幕戦を戦った横浜F・マリノスと試合を行う。

歴史を積み重ねたマリノスは、先日ACLの決勝第1戦で2-1と見事に逆転勝ちを収めた。

現在アルビレックス新潟は故障者も多く、苦戦が予想されるが、今夜の試合はホーム戦だ。

なんとか、いい試合を見せてほしい。

そう期待している。

 

5月15日。

首相の暗殺事件があったり、戦争からの復帰を果たしてもまだ残る課題があったりと、心に留めておかねばならないことが起こった日である。

そんな中で、Jリーグの試合が行われるのは、日本が平和だからだということも思う。

その平和が永久に続くことも、世界中が平和であることも、願わずにはいられない。

そんなことを考えた、今年の5月15日…。

 

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5,6年ぶりの酒を伴う懇親会

2024-05-13 21:30:31 | 生き方

何年ぶりだろう。

懇親会と称する宴会、つまり飲み会に参加したのは。

この4月からある団体に週1くらいのペースでお世話になっているのだが、そこでも宴会はずうっとやっていないということ。

宴席では、そこで6年目を迎えた方と隣だったが、その方の言うには、自分が入ったとき以来の酒を伴う会だとのことだった。

ということは、前にこの会が行われたのは、令和元年だということだ。

酒を伴う懇親会なんて、本当にしばらくやっていなかったから、多少はしゃいでしまった。

もっとも、今日はその会の幹事の一員だったから、盛り上げようとしたのだけれどね。

懇親会。

こんなだったねえ。

ビールを注ぎ合う間に言葉を交わし、見つかる話題の共通点に驚く。

特に、この年齢まで来ると、だいたい知っている誰か一人を間におくと、縁がないと思っていた人とつながってしまう。

例えば、その人のお姉さんが先生だとすると、親戚の子がそのお姉さん先生に教わっていたりする。

今のこの団体とかかわりのある外部からのゲストが、息子が以前働いていた職場の上司だったりする。

そんなことが、酒間の話で分かってきたりする。

人の縁は面白い、そう思ってしまう。

以前は、「宴会なんて堅苦しいばかりで面白くない」と思っていたけれども、今夜は「たまにはいいもんだ」と思った。

体調が不安なので気をつけて飲んだこともあって、具合が悪くなることはなかった。

飲み過ぎた年輩の輩が、送りのマイクロバスが出発してから気付いたため、マイクロバスがUターンしてもう一度迎えに行くというハプニングもあったが、まあご愛嬌と笑うことができた。

 

とにかく、私にとっては6年ぶりくらいの酒を伴う懇親会を、自分でも意外に楽しんだ今夜であった。

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