ON  MY  WAY

60代になっても、迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされながら、生きている日々を綴ります。

2017年に、さようなら

2017-12-31 20:23:49 | 生き方

昼に、年越しそばをとろろそばでいただいた、大晦日。
2017年最終日。
毎年思うことだけれど、1年が早かったなあ。

今年の自分自身の最大の出来事は、まず、定年退職だった。
今までの自分が積み上げてきた職業が定年ということでストップになる、という人生でたった一度の経験をさせてもらった。
ただ、そのあとまたすぐ再任用職員として勤めるという身の上になったので、なんだか不思議な気分だったけれども…。

次は、というと、自分の身近なところで大きなできごとは、起こらなかった、ということかな?
起こらなかったことが、一番よかった、ということを今年も言える。
それは、娘に発作が今年も起こらなかったということ。
倒れてから4年半余りになる。
過ぎてしまえば早いものだ。
4年前の大晦日は、娘の入院している病院から建物を不安な気持ちで見上げたことを思い出す。

そして、最後の発作から、3年たった。
足腰がしっかりしてきたから、今年は、アルビレックス新潟のホームでの試合に、秋から3試合観戦に行けた。
2,3日前の笑い話を再び言えることもある。
来年は、さらに回復することを祈りたい。

そして、3つ目は、そのアルビレックス新潟のJ2への降格だ。
せっかく定年退職となって、以前にくらべ余計な束縛なく試合観戦に行けたのに、勝利試合を見ることができたのは、私は今年たった3回だけだった。
そのうち1回は、降格の決まった甲府戦だったから、勝利のバンザイは、たった2回しかしていない。
今日の地方ニュースでは、アルビレックス新潟の今年の観客動員数が、昨年を上回ったが平成17年に比べると30万人も減少しているということだった。
しかし、今だって1試合平均2万人が来ているのだぞ。
その来場者たちは、何があってもついていくぞ!という人ばかりなのだ。
だから、減ったのが悪いというだけのようなニュースの伝え方は、おかしいのだ。
と、大きな声で言いたいなあ。
ともかく、来季の新潟の飛躍を祈ろう。


最後に、自分が今年もこうして1年を無事に過ごしてこられたのは、自分を取り巻く様々な人たちのおかげだと思う。
年々その感謝の思いを大きく持つようになってきた。
本当に、皆さんありがとうございます。
来年が、よい年でありますように!
2017年に、さようなら。
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来年のカレンダーを作った

2017-12-30 23:00:34 | 草木花
来年前期分のカレンダーを作った。

(人前に見せられる顔ではないので、ここの写真はぼかすことにした(^_^。))

毎年、前期分として1~6月分を、後期分として7~12月分の、卓上カレンダーを作っている。
エクセルの枠を使って、カレンダーの枠を作り、花や人物を中心に、撮りためた写真をカレンダー内に貼り付ける。
今年のその月に撮った写真を、来年のその月に使う。

人物としては、娘を訪ねてきてくれた伯父さん(娘にとって)や、かつての職場の同僚の方の写真もある。

花の写真については、1月や2月は、普通は雪の季節で花が少ない。
だから、咲いている花じゃないのに、葉牡丹あたりを毎年使っている。
3月4月5月は、待っていたようにたくさんの花が咲くから、どの花の写真を選ぶか、迷ってしまう。

今回の特徴は、春に花束が多いことだ。
私が今までの仕事を辞めることになって、もらった花が多かったからだ。


カレンダーを作ってみたら、来年の前期は、2007年と曜日が全く同じであった。
ただし、8月に「山の日」を入れるのは忘れなかったぞ、と。

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平沢先生

2017-12-29 22:52:47 | ひと
今日の新潟日報紙の地方版「中越」の記事に、写真入りで、平沢健一先生の死亡記事が載っていた。


ご自身でも短歌を詠まれていたということは知らなかったが、私は平沢先生が現職のときに、大きく言って2度ほどご指導を受けたことがある。

1度目は、25年ほど前にある研修会に参加したとき、先生が指導者だったことがある。
その時受けたお話に感銘を受けたのだが、内容的には、受け手の気持ちを考えるということがあったと記憶している。
受け手の気持ちを考えると、提出文書を送る時も、面倒でも送り状をつけるべきだという話もあった。以降、私は簡単でも送り状を、最低でも付箋を付けて送るように努めてきたのは、先生の教えに説得力があったからである。

2度目は、20年ほど前のことになる。
指導を受けたというよりも、大きな刺激を受けたというべきか。
平沢先生は、小学校や中学校の校長を務めたのだが、そのいずれでも学校の授業に、積極的に保護者や地域の方々をゲストティーチャーとして招いたのだった。
いや、招くと言うより、当たり前の講師として、学校の子どもたちの学習に参加してもらっていたのだった。
今でこそ当たり前になっているが、その当時は、本が出るほど画期的なことであった。
小学校だけでなく、中学校でもそれを行い、外部に公開したりした。
すでに、子どもたちの個に応じるには、学校の教職員には指導の限界がある、ということがよく言われていた時であった。
だから、身近な外部の人材を呼び協力を仰ぐ、という手法は、文字通り開かれた学校づくりに欠かせないのだ、ということを実践から教えていただいた気がした。
「私も、そんな学校づくりに努力したいと思います。」と、平沢先生に話した記憶がある。

また、勤務時間中に、時間休をとって私的かつ多少利己的なお願いに訪れた後輩同業者たちに、「帰れ!お前たちのような者たちがいるから、学校の先生が悪く言われるのだ。勤務時間中は、教育に専念しろ。勤務先の子どもたちをしっかりみろ。」と怒鳴った、という逸話もあった。

平沢先生が宮柊二記念館の元館長であったとしても、記事によると、館長を務めていたのは、2000年から2010年までの10年間である。
しかも、それから7年余りもたっているのに、こうしてその死去が惜しまれて記事になるというのは、その功績と人柄が立派だったからにほかならないであろう。
ご冥福をお祈りしたい。
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期限付き移籍若手選手たちの、来季の厳しい行方

2017-12-28 22:09:33 | アルビレックス新潟
アルビレックス新潟では、今季ほどたくさんの若手選手たちのレンタル移籍がされたことはなかったように思う。
昨季終了後、若手3人の期限付き移籍が発表された。

MF宮崎幾笑→金沢
MF小塚和季→山口
GK渡辺泰広→ジャパンサッカーカレッジ

そして、今季のシーズンが始まっても、若手選手のレンタル移籍は相次いだ。

3月 DF増田繁人→町田
8月 DF西村竜馬→山形
8月 FW鈴木武蔵→松本
8月 FW平松宗 →長崎

他チームに行って、試合経験を積んで成長につなげる、というのはよいと思う。
そして、シーズンが終わって、期限付き移籍が終了した後にチームに戻り、次のシーズンは付けた力を生かして活躍することができるのなら、チームにとっても選手にとってもよいことである。

さて、この7人の来季の契約はどうなったか?というと…、
MF宮崎幾笑→金沢→金沢(期限付き移籍延長)
MF小塚和季→山口→甲府(完全移籍)
GK渡辺泰広→ジャパンサッカーカレッジ→新潟(復帰)
DF増田繁人→町田→岡山(完全移籍)
DF西村竜馬→山形(期限付き移籍延長)
FW鈴木武蔵→松本→長崎(完全移籍)
FW平松宗 →長崎(期限付き移籍延長)

なんと、新潟に復帰するのは、GK渡辺ただ一人。
半分は完全移籍、あとは期限付き移籍の延長である。
若手選手であっても、結果が出せないと、他への道を探らなくてはいけなくなる、ということだ。
なかには、小塚のように、新潟県出身なのに、他チームへ完全移籍となった選手もいる。
彼は、山口で結果を出していただけに、新潟に復帰するものだとばかり思っていた。
個人的には、すごく残念だ。
その力を故郷のチームのために発揮してほしかった。

しかし、こう一気に「復帰せず」の情報が流れると、新しいフロントの本気度が伝わってくる。
来季のJ1復帰をかけた戦いのためには、温情だけでチームに残すわけにはいかない。
今後は、新潟から他チームへ期限付きあるいは完全移籍する若手選手の情報も出てくることだろう。

今日は、新潟の選手に関して、一気に5人もの移籍発表があった。
新加入選手が2人、あとは、小塚、増田、西村の3人の発表だった。

一線で活躍できるのは短い選手生活である。
縁があって新潟に入団して、がんばってきた選手たちだから、これから先のチームでも大いに活躍してほしいと思っている。
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気をつけたい冬の雪道

2017-12-27 23:12:10 | 新潟
昨夜は、強い風の音で、ぐっすりとは眠れなかった。
そのせいか、朝は外からのパリパリという音で目が覚めた。
この音は、とけかかった雪が冷たい風で凍ってしまい、その上を車が割りながら通って行く音。
…この音が聞こえるということは、雪はそんなに積もっていないということだ。
しかし、相当冷えているのだろうな、と思いながら窓を開け、外を眺めた。

屋根にもそんなに雪は積もっていない。
路面は白いが、昨日の車のタイヤの跡がそのまま残っている。
やはり、ひどく冷え込んだのがわかった。

こんな日は、路面が凍りついているのが怖い。
今日は休みをとっておいてよかった、と思った。
こんな路面だと、思わぬ事故に巻き込まれやすいからだ。

案の定、午前中に買い物に行くと、JRの線路の下を通る地下道で、軽自動車と軽トラが止まっていた。
接触事故を起こしたようで、ヘッドランプやテールランプをチカチカさせていた。
どちらかが滑ってしまい、対向車線にはみ出してしまったようだった。

凍った道はもちろんだが、雪道は雪道で非常に怖い。
社会人となって車を運転するようになって初めての冬は、結構豪雪であった。
12月上旬の土曜日、3時の約束である家を訪問することになっていた。
ところが、午後になって、雪が降り始めた。
なんとかその家にたどり着いたものの、訪問を終え、車を運転して道路に出たら驚いた。
車が思うように進まないのである。
冬用タイヤは家に準備して置いたものの、まだ交換していなかったのであった。
なんとか家まで運転して帰るしかない。
恐ろしい思いをしながら車を運転して、幹線道路をのろのろと走って行った。
大きな道路なら、車の往来があるので、少しは走ることができたのであった。

国道に出るための交差点で、赤信号だから止まった。
青になったので、車を発進させようとしたら、タイヤがスリップして国道に出られない。
前に進まないのである。
そこは、国道に出るために、緩やかながら上り坂になっていたのだった。
非常にあせった。
後ろには車が連なっているのに、自分の車は動かず、迷惑この上ない。
仕方がない。
後ろから来た車には、先に行くよう手で合図をして、すべて通り過ぎて行くのを待った。
後ろが空いてから、バックなら少しできるので下がりながら道の左に寄せ、近くの建物の横に付けた。
幸いそこは食堂の横だったから少しは車が止まっていてもよさそうだった。
中に入って店の人に、車が動けないから置かせてほしいと頼み込んだ。
「横じゃなくて、国道わきの正規の駐車場に止めてほしい。」と言われたが、「国道に上がることができないから、頼んでいるのです。」と言って置かせてもらったのだった。
路線バスを乗り継いで、やっとの思いで家に帰ったのであった。
翌日に、親類に頼んで冬用タイヤを積んでもらった車で、一緒にそこに行き、タイヤ交換を行って帰ってやっと帰ることができた。
今思い返すと、普通タイヤで雪道の運転とは、危ないことをしたものだと思う。

まだまだ冬の雪道の失敗は多い。
単なる失敗ならいいが、自他の生命や安全を脅かすような失敗はしないようにしたいものだ。
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卓球に夢中だった頃があったと思い出す

2017-12-26 22:51:00 | スポーツ
今でこそ、自分自身が最も多く行うスポーツが長距離走となっている私ではある。
しかし、何度かここで書いたことがあるが、自分が高校・大学時代に行っていたのは、卓球であった。
卓球は、中学校時代に夢中になった。
それも、部活ではなく、いろいろな友達とあちこち卓球台が置いてあるところを回って、打ち合うのだった。
50年前のあの頃は、あちこちの会社で卓球台を置いてあるところがあった。
昼休みや勤務終了後などに社員が遊べるようにという、厚生の一つの施設設備としてあったのだった。

学校の放課後などは、まだ会社は勤務時間中であるから、卓球台が空いていることが多かった。
空いている卓球台がある会社は、4つほどあった。
友達と回って、空いていないと、先客(だいたいは同じ中学生だった)に「入れて。」とお願いしたりして、半コートずつで打たせてもらったりもした。
一緒に試合をすることもあった。
だが、「ダメ。」と断られたら、別な卓球場を探して移動することもよくあった。
また、入り込んで打ち合っていると、会社の人が怒鳴り込んできて、「勝手に卓球台を使うな。」と叱られたところもあった。

中学校では、定期テストの1週間前になると、部活が活動禁止になった。
だから、卓球台は卓球部員だけのものではなく、やりたい人が自由にやることができた。
楽しんでやっていると、だいたい先生が見回りに来て、「テスト前だというのに、いつまで遊んでいるんだ!帰れ!!」と、大声を出されたものだった。

その当時、名古屋で世界卓球選手権大会が行われた。
私は、卓球部員でもないのに、世界卓球の選手たちのプレーに引きつけられた。
特に、その大会では、文化大革命以降世界の舞台から隠れていた中国が、7年ぶりに参加したことで注目されていたのだった。
アメリカと中国の間で「ピンポン外交」が生まれたのがこの大会だった。
その頃、過去に世界卓球選手権で何度も優勝した人に、荻村伊智朗という人がいたことを知った。


いろいろと卓球の思い出を書いてきたが、急に書きたくなったのは、今読んでいる本が「ピンポンさん」(角川文庫;城島充)だからだ。

この本は、何度か世界チャンピオンに輝いた荻村伊智朗選手の人生と、彼を支えた卓球場を経営した女性とのかかわりを重ねて書かれてある。

今でこそ卓球は注目されるスポーツになったが、荻村が卓球を始めたばかりの戦後の時代は、スポーツとして認められていなかったのだ。
そこから、荻村の波乱の人生が展開されていく。

ようやく本の半分ほどまできたが、卓球が大好きな自分としては、卓球だけでなく昔の暮らしとがクロスしているので、興味深く読めている。
そこで、自分の中学時代、卓球に夢中だった頃のことを思い出したしだいである。
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MF小川佳純の完全移籍加入など朗報…は、X'masプレゼント?

2017-12-25 22:58:03 | アルビレックス新潟
今日は、アルビレックス新潟にとって、選手の朗報がいくつかあった。
サポーターには、X'masプレゼントのようだった。

何と言っても、大きいのは、鳥栖から期限付き移籍で活躍した小川佳純選手の完全移籍での加入だ。

今季、彼が移籍してきて、試合に出るようになってから新潟の戦いが変わってきたのだった。
10試合で1得点という数字を見ると、大したことがないように思うかもしれない。
が、出場した試合は、5勝2敗3引き分けである。
間違いなく、終盤のMVPであった。
新潟日報紙のコラムでは、担当した黒河・内田の2人がこう言っていた。 

黒河 新しい選手が前線に来てチームが変わった。タンキ、富山から河田。チアゴがいなくなって小川。
河田の成長も大きいけど、小川はこんなにもいい選手だったのかと思った。
内田 小川がいなかったらここまで踏ん張れなかった。

各方面で高い評価の彼だから、来季のために是が非でも、彼が必要だとみんなが思っていた。
フロントから、鳥栖へ獲得オファーを出していたのだが、それが今日朗報となって届けられた。

発表された彼のコメントは、

来季もアルビレックス新潟でプレーすることになりました!
1年でJ1に戻るために、選手、スタッフ、ファン・サポーターが一丸となって闘いましょう! 応援よろしくお願いします!

すごく生き生きとしたコメントだ。
うれしい!

その他に、大学から入団する新人選手の評判がいい。

筑波大の戸嶋祥郎選手は、リーグ戦のMVPに選ばれている。

流通経済大の渡邉新太選手は、こんな記事があった。
来季が待ち遠しくなってきたぞ。


今日は、柏への移籍濃厚と言われる、新潟・小泉慶選手の突然の発表があった。
ところが、移籍ではなく、結婚「入籍」の発表だった。
思わず、くすっと笑ってしまったのであった。

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家族のつながりを味わう日

2017-12-24 22:48:23 | 生き方
12月24日。
クリスマスイブ。
日本だと、なぜクリスマスを祝うのか、その理由も定かでないまま、騒いでいるという気がする。
私たちが子どもの頃は、サンタが来る・来ないということなど関係なし。
いつもは食べられないケーキが食べられ、親からプレゼントをもらって喜んでいた。
家族で過ごせることの幸せを子どもながらに感じていたように思う。

日本の学校で英語を教える人たちを、ALT(Assistant Language Teacher)というが、その方たちは、キリスト教を信じている人たちが多い。
その人たちから、クリスマスから年始までの間を家族と過ごす大切にしている時間だということをよく聞いた。
プレゼントは、親から子だけでなく、子から親へも渡すのだという話をしてくれた人もいた。

今は、どうなのだろう?
「うちの子はサンタクロースを信じているから、子どもを裏切りたくない。」
などと言う方もいる。
サンタクロースを信じる子どもの夢を壊したくないのだと言うのだ。
だから、プレゼントを用意したのが親だと気付かれないようにするのが大変だと言う。
「ばれたら、うちの子は泣き出すかもしれない。」
「サンタはいないと教えたら、親への不信感が高まってしまう。」
などと言う方もいた。

なんだか子どもに気兼ねしすぎで、家族なのに堅苦しい気がする。
家族の絆を確かめ合えることが一番なのではないかなあ、と思ったりする。

そんなことを思う私だから、家族の者たちは、「ケーキなんて別になくてもいいよ。」と言うのだが、今日は、ショートケーキを家族4人分買って来た。
そして、夜には、種類の違うショートケーキを4人で取り替えっこし、4種類を味見しながら食べたのであった。

4年前は娘が入院中で、この団らんはなかった。
今は、こうして家族みんなでいられることが何よりのことだと思うのである。

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全日本フィギュア2017、女子フリー

2017-12-23 23:01:15 | スポーツ
全日本フィギュアスケート選手権2017、女子フリー。
オリンピックの代表を決める戦いに、目が離せなかった。
ケガからの復活を果たした宮原知子、今季好調の樋口新葉、昨年すばらしい演技で一気に躍り出た三原舞依、ここ数年実績を残して来た本郷理華、昨年度世界ジュニア女王の本田真凛…。
どの演技も、緊張感、緊迫感に包まれていた。
それなのに、2度とないこの決戦の場で、自分の力を出し切ろうとする選手たちの姿に、胸が熱くなった。

先だって行われたショートでは3位となった、本郷理華の演技に心震えた。
コーチの交替等もあって今季振るわなかった彼女がベストの演技をした。
自身でも涙を流すほど、よいパフォーマンスだった。
観客は正直だ。
最も湧いて、スタンディングオベーションと拍手で彼女を讃えていた。
フリーでは2度転倒してしまい、6位に順位を落としてしまったが、今日も豊かな表現力で魅せてくれた。
彼女は、21歳。
上位に名を連ねた選手たちは、皆、十代である。
以前に比べて、フィギュアスケートで上位となる適齢期(?)は、日本も世界もどんどん若くなっている。
オリンピック出場のために、後がない戦いとなっていたのかもしれない。
プレッシャーも相当あっただろう。
2度も転倒しながら、最後まで心を込めて滑り切った彼女の姿に、今日も感動した。

感動したと言えば、ショートで7位と出遅れた三原舞依の演技も素晴らしかった。
自分でできる限りの力を発揮しようと、ほぼ完ぺきなフリーを披露した。
今日の観客も、彼女の演技終了後には、わきにわいた。
フリーだけで140点を越える高得点を獲得し、200点を越えたが、ショートの得点が低かったために5位に甘んじた。
感極まりながら涙をこらえる姿に、おじ(い)さんの私は、泣けてしまった。

泣けたのは、宮原知子の表情豊かな演技も同じだ。
緊張感に満ちながらも、顔が驚きや微笑みでその時その時の感情を表していた。
ケガが長引いて、思うような練習もできなかっただろうに、このような圧倒的な演技力を発揮できる。
今までの苦しみを、逆に力に変えてしまったように今日はすばらしいできばえで、逆転優勝したのは圧巻であった。

最終演技者となった坂本花織もすばらしかった。
ダークホースのように、ショートで首位に躍り出た彼女。
演技前の6分間練習では、ジャンプが安定していなかったのに、本番ではミスなくすべてのジャンプを成功させていた。
ジャンプ以外にも、すべて伸びやかに演技している姿は、ショートの首位がまぐれではなかったことを証明していた。

それにしても、ほとんどが十代。
それなのに、人生かけて挑んでいた。
その過酷さにつぶれてひどい出来になったような選手はいなかった。
すばらしい演技の数々を見せてもらった。
さすがに日本の代表を決める戦いだったなあ…と今、余韻にひたっている。

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2人の完全移籍

2017-12-22 22:29:25 | アルビレックス新潟
アルビレックス新潟に長く在籍した選手2名の完全移籍が発表された。

17.12.22トップチーム 大野 和成選手 湘南ベルマーレに完全移籍のお知らせ

17.12.22トップチーム 鈴木 武蔵 選手 V・ファーレン長崎に完全移籍のお知らせ


大野選手については、新潟県上越市出身だし、今季はキャプテンだった。
おまけに、去年は、真っ先に契約更改し、選手の慰留に努めたという行為もあった。
それなのに、なぜ今度は出て行くのだ、裏切られた、という思いを抱いたサポーターも多い。
だが、私個人の意見としては、これもまたやむを得ないことだろうと思う。
前にも書いたことがあるが、スポーツ選手、サッカー選手として活躍できる時間は、人生の中では非常に短い。
だから、他から乞われて声がかかるのなら、それはそれで仕方がないのではないか、と思う。
移籍先の湘南ベルマーレは、かつて2年在籍したチームであり、今度はJ1に昇格して戦うチームだ。、新潟に残るよりも、格が上のところで試合ができることになる。
ステータスが違う。
あれだけのことを言って、新潟に対する責任感を持っていた彼だ。
コメントは、次のように発表されている。

今シーズン、J2降格という結果に対し、たくさんの皆さんを悲しませてしまったことに対して、非常に申し訳なく思っています。自分自身、キャプテンという立場を任せていただいたにも関わらず、自分のコンディションも整わず、チームに対して十分な貢献をできないまま、シーズンを終えてしまったことに、後悔と責任の重さを痛感しています。
現在の自分、そして今後の自分について、たくさん考え、悩み、多くの方々に相談もさせていただきました。新潟という故郷、アルビレックス新潟というクラブには、深い愛着や思い入れがありますが、もっと選手として大きくなりたい気持ちが強くなり、この決断をしました。
サポーターの皆さん、自分に関わっていただいたクラブ関係者の皆さん、本当にありがとうございました。

よけいな言葉を省いて、淡々と述べている。
そこにかえって、コメントに言い表わせない思いを感じる。
彼は、移籍しても、きっと故郷新潟、アルビレックス新潟のことは忘れることはないだろう。
どうか、存分に湘南で活躍してほしい、と願うばかりだ。


鈴木武蔵選手についても、仕方がないと考える。
2017年のカレンダーの表紙の中心は、鈴木武蔵だった。
彼のブレークを、みんな期待していた。
ところが、17試合に出場しながら、あげられた得点はわずかに1.
今年は、途中で松本山雅に期限付き移籍したが、そこでも9試合で得点なし。
昨年だって、14試合で得点0(ゼロ)。
移籍先のV・長崎は今度J1に昇格するが、そこでものにならなければ、長崎のスポンサーである、ジャパネットたかたの前社長のモノマネでもして、CMに出ることくらいしか役に立たなくなることだろう。
いつかは、と、川又のようにブレークする日を待ちわびた新潟のサポーターたちだった。
長崎で、やっぱりあいつは大したヤツだったと思わせるような活躍をしてほしい。

さて、出て行く選手たちの情報は、きっとこれからもあるだろう。
だけど、「今までありがとう。そして新天地でがんばって。」と心から思うばかりだ。

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