保育園の運動会に招かれ、見に行った。
好天。青空の美しい、いかにも秋の運動会日和。
さすがに、園児たちは、自分の親を探し、見つけては手を振っていた。
親も、自分の子どもを見つけては声をかけ、手を振る。
3歳児や4歳児の子どもたちは、レースの勝敗には無頓着だ。
障害物競走をしても、目の前に2列になって跳び箱などがあっても、空いている方を跳ぼうなどと考えず、ちゃんと並んで順番を待っていた。
子どもも、この頃はいいよなあ、と思う。
勝敗が分かるようになってくると、卑屈な思いを味わう子も出てくる。
昔の自分は、そういう卑屈さの塊だったなあと思い返す。
勝敗でしか優劣を見ない周囲の子どもたちや大人たちに対しては、強い憤りを感じていたものだ。
やりたくないことをやらせておいて、そのあげく、お前は遅いのグズだのと責めてくるのだから、たまったものではなかった。
だから、運動会は大嫌いであった。
そんな父の思いを払拭してくれたのは、娘の運動会の姿であった。
足が速かった。
短距離走も長距離走も。
運動神経もよかった。
運動会ではないが、跳び箱や雲梯なども得意であった。
それが、今は、病気の影響で、立って歩くのもつかまりながらのよたよた歩きである。
ちょっと悔しい。
始まりのころから、小さい子どもたちの姿を見るにつけ、自分やわが子のかつての姿を思い起こし、時々目元がうるっと来ていた私であった。
最後の最後に、子どもたちに一日(半日)がんばったごほうびを配る役をやらせていただいた。
「がんばったね。」
と言って渡すと、
「ありがとう。」
と言ってくれる子が、年長児になるほど多くいた。
この素直な子どもたちの未来に、幸せ多くありますように。
そんなことを、何度も何度も思った、保育園の運動会であった。