ON  MY  WAY

60代になっても、迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされながら、生きている日々を綴ります。

保育園の運動会に招かれて…

2013-09-28 17:34:58 | 生き方

保育園の運動会に招かれ、見に行った。
好天。青空の美しい、いかにも秋の運動会日和。

さすがに、園児たちは、自分の親を探し、見つけては手を振っていた。
親も、自分の子どもを見つけては声をかけ、手を振る。
3歳児や4歳児の子どもたちは、レースの勝敗には無頓着だ。
障害物競走をしても、目の前に2列になって跳び箱などがあっても、空いている方を跳ぼうなどと考えず、ちゃんと並んで順番を待っていた。
子どもも、この頃はいいよなあ、と思う。
勝敗が分かるようになってくると、卑屈な思いを味わう子も出てくる。
昔の自分は、そういう卑屈さの塊だったなあと思い返す。
勝敗でしか優劣を見ない周囲の子どもたちや大人たちに対しては、強い憤りを感じていたものだ。
やりたくないことをやらせておいて、そのあげく、お前は遅いのグズだのと責めてくるのだから、たまったものではなかった。
だから、運動会は大嫌いであった。
そんな父の思いを払拭してくれたのは、娘の運動会の姿であった。
足が速かった。
短距離走も長距離走も。
運動神経もよかった。
運動会ではないが、跳び箱や雲梯なども得意であった。
それが、今は、病気の影響で、立って歩くのもつかまりながらのよたよた歩きである。
ちょっと悔しい。

始まりのころから、小さい子どもたちの姿を見るにつけ、自分やわが子のかつての姿を思い起こし、時々目元がうるっと来ていた私であった。

最後の最後に、子どもたちに一日(半日)がんばったごほうびを配る役をやらせていただいた。
「がんばったね。」
と言って渡すと、
「ありがとう。」
と言ってくれる子が、年長児になるほど多くいた。
この素直な子どもたちの未来に、幸せ多くありますように。
そんなことを、何度も何度も思った、保育園の運動会であった。
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娘よ(15)

2013-09-24 22:03:01 | 生き方
だしの風―向かい風の強い日だったが、無性に走りたくなった。
新潟シティマラソンが近づいてきたせいもあるが、心の中のもやもやも晴らしたかった。


この1週間ほどは、娘の気持ちがだいぶ正気に近づいてきていると実感していた。
ただ、娘はここ2,3日頭痛を訴えていた。
その結果は、…やはりけいれんの発作だ。
土曜日に軽く出たが、日曜日にはそれよりも重く発作が見られた。
そうなると、娘のそれまでの正気はご破算となる。
ただ、著しい後退とはいかないのが幸いだが、マイナスに進んだことは間違いない。

娘の口から、「私、自分が入院していると自覚したのは、この1週間ぐらいだよ。」と言う言葉が飛び出すようにまでなっていたのに。
この日は、前の職場で仲の良かった人が見舞いに来てくれることになっていたのに。
そのお見舞いも断らざるを得なくなった。

いい感じでいたのに、発作の後は、「今日、私、ここに泊まるの?」とまた現在地が分からなくなってしまった。
10日に1回くらい発作が出ているように感じていたので、そろそろまたあるのかと警戒していたのだが…。

閉塞感でいっぱいの気持ちを抱えて、夕方、走ることにした。
強風で走りづらいはずが、顔を上げられないので、無心にひたすら走った。
サイクリングロードを8kmまで。
往復すると、16km。
プラス約3km。
走りながら、「仕方ない。またやり直しだ。」と思えるようになった。
帰り道は、すごい追い風だった。
走りたくなくとも走らされてしまう。
往路1km7分くらいだったのに、復路5分台で数kmを走れてしまった。


今日月曜日の娘は、すっきりした顔をしていた。
それが救いだった。
残念ながら、また様々なことを忘れてしまっていた。
それでも、頭痛がとれているなら、何よりだ。
きっとまた少しずつ回復してくれるはずだと信じていよう。

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娘よ(14)

2013-09-12 21:39:08 | 生き方
やっぱりか―。
不安が的中した。
転室した娘は、翌日午前中早くもけいれんに襲われたのだと看護師さんから聞いた。
そのせいか、夕方行ってみると、娘の姿からは後退した感がたっぷりうかがえた。
やたら怒りっぽくなっており、看護師さんが、名前、年齢、現在地などを訪ねてみると、名前は言えても、年齢が一歳上を言っているし、現在地にいたっては、「北海道」とか近くの温泉地の名を言うようでは、いやはや何とも…。
前夜は、環境が変わったせいか2時間くらいしか寝ていなかったという話だ。
だから無理もないとも言えるが、やはり個室でけいれんが起きているのは、怖いことだ。

状態が悪くなると、娘が無意識に点滴針を抜いたりすることがあるものだから、日中、腕や体の拘束帯の処置をされてしまっている。
そうすると、「いじめられている」「ひどい仕打ちをされている」という意識しかもてなくなってしまう。また、手が使えないから頭の働きも鈍る。
そんなことを思ってしまう。

昨夜は、会合があって出席しなければならず、病院に行けないので、日中わずかの休みをとって、娘の様子を見に行った。
やはり娘は、拘束されており、本人いわく「いじめられている」状態であった。
看護師さんに解いてもらい、リラックスしてから、拘束されている訳を伝え、今病気で入院しているのだということを伝えた。

娘は、(毎日そうなのだが)入院していることを知っても、自分のどこが悪いのかわからない。
だから、けいれんが来る病気だということと、そのために記憶がなくなる病気になっているということを話してあげている。
そして、5月下旬から3か月半も入院しているのだということを伝えるのだ。
悲しいことに、娘に伝えたことは、翌日には持ち越さない。
必ず忘れてしまっている。だから、私は、またていねいに娘に説明することになる。
これは、私の毎日の仕事(?)になっている。

一般病棟に移ってよかったのは、家族以外とも面会が可能になったということだ。
昨日は、3月まで娘が勤めていた職場の、一番仲が良かった方に来ていただいた。
その方からは、「思っていたより、全然普通」という言葉をいただいた。
娘も、最初は久々の再会に泣いたけど、途中からは結構はしゃいだりもしたらしい。

こうした再会が、娘の記憶の機能によい影響を与えてくれることを期待したいのだが…。
今日は、それもやはりうろ覚え。
だが、本人は、うれしかったのだということを認識していたいようには見えた。
でも、もっと期待していたのだが…。ちょっとね…。
少しずつでも上向いてほしいなあ。
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娘よ(13)~救急の日に転室

2013-09-09 22:37:05 | 生き方
今日は、9月9日。

…皆さんは9月9日が何の日かご存じですか。
 9(きゅう)と9(きゅう)で「きゅうきゅうの日」、すなわち「救急の日」です。
 「救急の日」は、救急業務及び救急医療に対して皆様の理解と認識を深めていただくともに、救急医療関係者の意識の高揚を図ることを目的に昭和57年に定められました。以来、毎年9月9日を「救急の日」とし、この日を含む1週間を「救急医療週間」として、全国各地において応急手当の講習会を中心とした救急に関する様々な行事が実施されています。
…総務省消防庁救急救助課では、HPでこんなふうに今日のことを紹介している。

そう、今日は救急の日である。
その救急の日に、娘は、集中治療室を出て、一般病棟に移ることになった。
大部屋ではなく、個室である。
本来なら、回復へのうれしい歩みとなるのだが、今一つ不安がある。

娘は、食事は今や普通に自分でとれるようになった。
両手ききで、左手でも右手でも箸を持てる娘の姿は、ナースの皆さんを変に感心させたりしのであった。
また、「足が重い」と言いながら、キャスター付きの点滴の支柱と共に、あるいは車椅子を手押し車の代わりとしてつかまりながら、いくらか歩くこともできるようになった。
これらの姿は、確かにすでに集中治療室に入る患者としてはふさわしくないほど元気な姿である。

ただし、ということで懸念する内容が2つある。
1つ目は、けいれんの発作である。
ほぼ10日間に1回くらいの割合でけいれんが起こっている。
このひと月、けいれん止めのD剤を薄めていくと、けいれんが起こるという繰り返しである。
けいれん止めの点滴は、まだ継続している。
濃度を薄めるのが急過ぎて、それが悪くてけいれんが起こるのかもしれない。だから、長い日数をかけて少しずつ薄めていくという手法を取る。
…という主治医の話である。
個室で、人が見ていない時にけいれんが起こらないか、と不安がある。

2つ目は、記憶が積み重ならないことである。
昨日も、私と看護師さんと車椅子に乗った娘とで階上の展望室に行き、景色を眺めたが、そのことは、30分後には忘れてしまっていた。
昼下がりには、娘の弟である息子と看護師さんと共に売店に行ったのだが、コーラや菓子などを買ってもらったことも、忘れてしまっていた。
このひと月近く、娘の食事の付き添いに行くたびに、私は献立や娘の様子などを紙にメモ書きして置いて来ている。
時折、娘は、それを読んでは、自分の記憶がないことにがく然として涙を流している。
娘は、4月からの記憶がないそうだ。
そのうえ、昨日まで変わらぬICUの部屋のベッドを、毎日珍しそうに見ていた。
「父、髪切った?」と「今日、初めてここに寝る」ということを、毎日口にする。
案の定、今日、転室後も同じ言葉を言った。
転室で再会したこの病棟の看護師さんたちから、「久しぶり」と言われたが、本人は何も覚えておらず、少々戸惑っていたらしい。

そんな娘であるが、昨日は前日から昨朝になっても記憶が残ったことが1つだけあって、私はうれしかった。
覚えていたのは、「辛子ナス」をこぼしたことである。
一昨日、夕飯時に付いた辛子ナスの一つを、娘はコロリと下に落としてしまった。
それが、パジャマのすそやズボンに付いて、拭いても、黄色いしみになって残ってしまった。
その黄色いしみはどうしてできたのか、を昨日午前中に問うと、「ナス。辛子ナス」と答えた。
極めて珍しく、記憶が残っていたのである。

こんなちょっとしたことでもいいから、少しずつでも、記憶が残っていってほしい。
一般の人が会いに来ても、まったく記憶に残らないことが予想される。
記憶が少しずつでも蓄積してほしい。
そのために、今日9月9日の転室がよい方に働いてほしいと願っている。
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娘よ(12)  ~「髪切った!?」

2013-09-04 21:32:56 | 生き方
「髪切った?」
ここのところ、1週間以上、毎日娘に会いに行くたび、彼女は、私にこう問いかける。
昔のことは覚えていても、最近の記憶、短期記憶がない。
だから、彼女は、毎日自分が思ったことを言う。

昨日も聞かれた。
でも、昨日の聞き方は少しだけ違っていた。
「あのさ、ひょっとすると、私、前にも聞いたかもしれないけど、…。」
という前置きがあった。
ははあ、あれだな、と思ったので、娘の口調に合わせて、私も言葉を発してみた。
「髪切った?」
娘の声と、私の声が重なり、思わず二人で笑い合った。

私が散髪に行ったのは、8月16日であり、娘が初めて気づいたのは8月21日だったこと。
その後具合が悪くなって、また言い出したのは26日あたりからだったこと。
その後ずっと、毎日顔を合わせるたびに聞かれていること。
こういうことを毎日説明していること。
などを、娘が悲観的にならないように配慮しながら話してやった。
「でも、今日は、『前にも聞いたかもしれないけど』って言ったね。そんな気がしたの?」
「うん。私、全然記憶がないの。」
「そうだよなあ。それで困っているんだよね。記憶がなくなるから、入院しているんだけどね。」
その言葉に、娘はうなずく。

娘は、調子がよさそうな時、時々自分の状況について、すばらしい表現をする。
「夢の中にいる自分が夢を見ている感じ。」
「頭が、働いてほしい時は働かないで、働かないでほしい時は勝手に働いている。」
「今、これは現実だな、と思ったけど、でも今は学生ではないから、やっぱり現実ではないことを考えていたみたいだ。」

昨日は、だいぶよい方の会話ができた。
「じゃあ、私はさっき車の運転をしていて、ガソリンスタンドでポイントカードにはんこをもらっていたけど、それも夢ってこと!?」
「今年、長岡花火を見に行った気がする。」
「8月2日・3日は、ここに入院していたのだから、今年は行っていないんだよ。」
「でも、行った気がする。」
娘が入院したのは5月29日であることや、その日のカレンダーに、「朝頭痛 職場で倒れる→救急車で病院入院」と書いてあることなどを見せると、食い入るように文字を見つめていた。

その後も、入院中についての様々な話をしたのだが、
「でも、私、ここで寝るのは、今日が初めてだよね。」
などと言う。
「いや、もう2か月以上ずっとこのベッドで寝ているんだよ。」
と応える私の言葉に、信じられないような顔をするのだった。

でも、およそ2週間ぶりに、まともな会話が多くできたと思う。
車椅子に乗せられ、数メートル先の洗面台まで歯みがきをしに行って戻ると、もうその場所が新しい場所に感じてしまう娘。
少しずつでも、短期記憶が積み重なっていってほしいと願う。
「前にも聞いたかもしれないけど…」などという前置きをできるようになったのは、自分の現状を認識できているからだと思う。
けいれんが起きずに、こうした感覚が、少しずつ増えていってほしいと願っている。
けいれんさえ起きなければ、一般病室に移れるのだ。
少しぐらい混乱が見られても。


さて、けいれんは…。
今日4日、午前中また全身けいれんが起きたのだということを、看護師さんから聞いた。
歯磨き中に、急に起こったのだとか…。
最近は、気持ち悪さや吐き気を訴えることが多かったのである。
がっかりである。
そのせいか、今日の夕飯時に行くと、食欲がなく、御飯だけ3分の一くらい食べただけで終わってしまった。

…。
…。

でも、でも、娘は、今日も私に聞いてきた。

「ねえ、髪切った!?」



明日で、娘は、入院100日目を迎える。
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福島潟で水辺の花見をたんのうしたよ

2013-09-01 22:20:42 | お出かけ
最近は、なかなかお出かけはできない状況だ。
でも、気分転換に花見をしたい。
…ということで出かけた先は、福島潟。

新潟市北区にある潟である。
オニバスの北限、ということで、この潟の一部にオニバスが、栽培(?)されている。
娘のことがあるので、近ごろはあまり遠くへ出かけられない。
…ということで、福島潟へ出かけた。
ここには、オニバスの花が、咲きほこっていた。
水面に出たとげのある大きな葉を突き破って、紫色のオニバスの花が、あちらこちらに咲いていた。

現地には、8月中の土日には、このオニバスの花の案内所が設置されてあった。
そこで花のにおいを嗅がせていただいたところ、南方系の不思議なにおいがした。


去年、新しい魅力的な水辺の花を見つけた。
ガガブタである。

この花のことは、去年ここにも書いた。

ミズアオイも、咲いていた。


ここでの楽しいのは、また新しい水辺の花を見つけられたことである。
今年は、次の2つ。
1つは、ミズオオバコ。


もう1つは、タヌキモ。

花ではなく、水中から全体を引っ張り上げると、タヌキの尻尾のように垂れ下がるからだとか。

この後、「ビュー福島潟」まで行く途中、咲き残っていたハスの花や、ヒシの花が見られる場所もあった。



ビュー福島潟の近くは、ソバの花でいっぱいであった。
ソバもそばまで(!?)寄って見ると、なかなか可愛い花である。


あー、見た、見た。
いっぱい花を見たぞ。


満足した私たちは、娘の昼食の時間に間に合うよう、およそ80分間の花見を終え、病院に向かったのであった。

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