ON  MY  WAY

60代になっても、迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされながら、生きている日々を綴ります。

若手選手が続々とレンタル移籍してしまう…

2011-12-28 21:57:37 | アルビレックス新潟
アルビレックス新潟の若い選手たちの他チームへのレンタル移籍(期限付き移籍)が、次々と決まっている。
2年在籍したMF加藤大選手は愛媛へ。
2年前に入団したMF奥山武宰士選手は、2年連続でシンガポールのアルビレックス新潟・シンガポールへ。
2008年入団で、今季J1の試合にも出、途中J2愛媛にレンタル移籍していたDF大野和成選手が、来季はJ2湘南へ。
さらに、同じく2008年入団で、今季23試合に出場し、ブレイク間近と言われていたFW川又堅碁選手が、J2岡山へ。
皆、20歳~22歳。
今日発表された、大野、川又両選手は、ほぼレギュラーだった千葉選手やチョヨンチョル選手たちに代わって、来季の活躍を期待していた選手だった。
それが、何とも言えない「放出」。
応援していた若い選手たち。
早く大活躍を、と願っていたのだが、新天地でのさらなる活躍を期して、出ていくことになってしまった。
つい少し前まで、いや今さっきまで応援していたのに…。
寂しい。

若手のレンタル移籍。
どんなメリットがあるのだろう?
こんなところこんなところで、わかりやすく説明されていた。

しかし、新潟にいてほしかったし、新潟でもっと花開いてほしかった。
新潟での経験を、新天地で生かすとともに、試合経験を積み、新潟に戻って来てほしい、あるいはそのチームになくてはならない選手に育ってほしい、と願っている。
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オフ恒例、つらい移籍続出の事情

2011-12-26 22:45:52 | アルビレックス新潟
アルビレックス新潟は、J1に昇格して10シーズンを戦ってきた。
10年間、一度もJ2落ちがないのは、すばらしい。
しかしながら、この10年間の順位の推移は、6位~14位。
ここ数年は、新潟からレギュラー選手の他チームへの移籍が目立つ。
今オフも、アルビレックス新潟のレギュラー選手たちの他チームへの移籍が続々と決まっている。
その理由は、移籍先のチームの方が、
① 活躍の場がある
② 年俸が高い
③ 注目度・知名度が高い
などの利点を持っているからだ。

今季は、DF千葉和彦選手が、サンフレッチェ広島へ。
FWチョ・ヨンチョル選手が、大宮アルディージャへ。
そして、DF酒井高徳選手が、ドイツ・シュツットガルトへ。
いずれも、スピードのある、新潟になくてはならない選手たちだった。
それぞれが、初めて大活躍をしたのが、このアルビレックス新潟というチームに所属してからだ。
サポーターたちに愛され、期待も大きかった選手たちだ。
新潟にいて、活躍したから、それぞれU-22の日本や韓国代表に選ばれたりした。
活躍の場はあるのに、彼らは、新潟を去って行く。
だから、理由は①ではないことが多い。

この中では、②や③の理由が多いようだ。
日本の地方都市のクラブである。
選手やチームスタッフ人件費を見よ。
平成22年度のデータで、J1の各チーム平均は、14億2400万円。
鹿島20億400万円、浦和22億8200万円、大宮18億5000万円、名古屋21億3300万円、ガンバ大阪17億7300万円…などと、並ぶ。
昨年はJ2、今年はJ1で、史上初の連続優勝を飾った柏レイソルは、昨年はJ2であったが、14億8500万円をかけている。
新潟は、9億1000万円。
ここより少ないのは、仙台8億5800万円、山形7億8700万円、湘南6億4600万円でしかない。
仙台は、この年再昇格したばかりであったし、湘南は昨年、山形は今年、いずれもJ2降格となってしまった。
いずれも地方都市である。
大都市は、大企業がスポンサーにつきやすい。
しかし、地方に大企業は少ない。
大企業がスポンサーについていると、やはりその広告収入は多い。
必然的に、選手への人件費、年棒も高くなる。
選手生命は、長くない。
だから、より年棒の高いところへ行って仕事をするのは、プロとして当然のことだと思う。
また、そういうチームの方が、普通は良い選手が集まり、必然的に活躍するとさらに上のカテゴリー(海外など)から声がかかる。

結果として、新潟は、育てた選手が、外から引き抜かれるという憂き目にあう訳だ。
仕方がないとはいえ、応援する側としては、ここ数年、オフにはつらい思いをしているのである。
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難を転じる~ナンテン~

2011-12-21 22:35:03 | 草木花

この写真も、昨日の最後の写真もナンテンである。
5日とか29日の、12月の誕生花にもなっている。(違うのは、調べたサイトの違いによる)

ナンテンと言えば、「難転」。
つまり、「難を転じる」ということで、「縁起木」として、好んで栽培される。
そんなふうに、手元の樹木図鑑に書いてあった。
そうか、そういうことがあって、正月の松飾りなどにも、ナンテンが入ることが多いのか。
と、改めて得心!

さらに調べてみると、家の鬼門と呼ばれる方角に植えるということであった。
一般に、鬼門は、丑寅の方角、つまり北東の方角を指すようである。
わが家のナンテンは、かつて母が植えたものであろうか?
確かに、北東に植えてある。
だが、種が落ちたせいなのか植えたのかわからないが、南東にもある。
わが家では、日当たりがよいためか、「南天」のごろがよいせいか、南東のナンテンの方が育ちがよい。

ちなみに、花言葉は?
・「私の愛は増すばかり」
・「よき家庭」
・「機知に富む」
だそうである。
私には、上の2番目の意味が、家に植えるということで、ピッタリだと思う。

きれいな赤い実がなり、緑色の濃い葉と合わせて、この時期、クリスマス・カラーの味わいが美しい。
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雪つりしておけばよかった…(反省)

2011-12-20 21:53:08 | 自然・季節


 今週月曜日、急に、しかも一気に降った雪の重みで、庭木がいくつも被害にあってしまった。
 新潟など雪の降る地方の各家庭では、普通11月中~下旬に、雪対策として冬囲いをしたり雪つりをしたりする。
 わが家は?
 油断していて(暖冬小雪を願って?…実は面倒くさくて?)、そういう雪の準備はしないままにしてしまった。
 冬の初めの雪は、水分を多く含んでいて、重い。
 たちまち、ナンテンやユキヤナギ、ハナモモ、ジンチョウゲ、ハクチョウゲなどの枝が折れたり折れ曲がったりしてしまった。
 折れ曲がった枝に積もった雪を払いのけようとしたら、しなっていた枝は、雪の重みのために逆に決定的に折れたりしてしまった。
 これ以上折れないように、あわてて何本かをぐるぐるっと細い荒縄で束ね、今後の雪の被害が少ないようにした。
 予報では、22日以降また雪が降り続くということである。


 ホワイトクリスマスなど、いかにもきれいそうなしゃれた言葉はあるが、降り続くのはカンベンしてもらいたいと思う、師走後半である。
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雪が来た、冬が来た

2011-12-17 23:04:37 | 自然・季節
3日前は、青空がきれいだった。

朝は、初氷だったのだが、暖かくなった。
日当たりのよいところには、
オオイヌノフグリ
や、
ヒメオドリコソウ

が咲いていた。
まるで、一足早く春が来たようだ。
小春日和というのだろう。
柿の実の色が青と重なって、きれいだと思った。


そのわずか2日後の昨日、朝から雪が降り始めた。



あっという間に、午前のうちに、柿の木にも真っ白な雪が降り積もった。


帰る頃には、車の上に10cm以上の雪が…。
道沿いの竹や木々の枝が雪の重みに負けてたわんでいた。
道路もすでに真っ白。
暗くなり雪が正面からフロントガラスにぶつかってくる。
50km制限の道も、車は40kmで走っていく。

さあ、いよいよ本格的な冬がやってきた。
あと3カ月余り、耐え忍ぶ季節となる。
覚悟を決めた。

明けて今朝もまだ暗い頃、家の外を除雪車が大きな音を立てて何度か往復する音がした。
雪の季節、新潟に本当の冬がやってきた。

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あと一歩だけ、前に進もう ~progress~

2011-12-16 22:19:43 | うた
今週1週間の勤務は、精神的に結構きつかった。
明らかに困っている人がいるのに、何の助けもできないのだ。
手伝えればよいのだが、そこは専門的な仕事内容、とって代わることはできない。
自身の無力さを感じていた。
きついけれど、一歩でも前へ。

そんな時に、ピッタリな歌、“progress”
この歌は、結構みんな知っている。
なぜなら、NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」のテーマソングだからだ。
スガシカオ作詞・作曲の歌だ。

ずっと探していた 理想の自分って
もうちょっとカッコよかったけれど
ぼくが歩いてきた 日々と道のりを
ほんとは"ジブン"っていうらしい
世界中にあふれているため息と
君とぼくの甘酸っぱい挫折に捧ぐ...
"あと一歩だけ、前に 進もう"

このサビの部分が、よく番組では流される。

そう。
カッコよい理想の自分との格差があるけれど、
今まで自分が歩んできた道、経験は隠しようがない。
それは、自分だけしか知らない自分のもの。
それこそが自分。

だから、今まで歩んできた経験を力に変えて、未来に向かうしかない。
あと一歩だけ、前に進もう。

無力だけど、小さい一歩でもいいから、前に進もう。
“progress ”を聴きながら、自分を勇気づけていたのであった。
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「55歳からのハローライフ」

2011-12-13 21:23:09 | 生き方
徳島新聞や愛媛新聞、静岡新聞や当地の新潟日報など…。
今日から、全国の地方新聞で、一斉に村上龍氏の小説の連載が始まった。
その小説の名は、「55歳からのハローライフ」。

この当地の地方新聞、新潟日報では、朝日新聞なら「天声人語」にあたるコラムに、「日報抄」というのがある。
今朝は、日報抄は、このことにかかわってのものだった。

 村上龍さんの連載小説「55歳からのハローライフ」が、きょうから本紙朝刊で始まった。「どんな展開になるのだろう」。職場でも話題になった
▼「55歳、つまり初老に差し掛かった人たちが主人公で…」。担当者から仕入れた知識を披露する。すると「異議あり」の声が続いた。見回せば、まさにその年代の同僚たちが口をとがらせている
▼初老とは一体何歳を指すのだろうか。辞書には「老人の域に入り掛けた年頃」とある。さらに「40歳の異称」という記述に目が留まった。しかし、寿命が延びた現代の感覚からすれば、40代はもちろん、50代でも初老とされることに違和感を持つ向きが多いのではないか
▼戦後間もない1947年、男性の平均寿命は50・06歳だった。56年には石川達三の小説「四十八歳の抵抗」が出版された。55歳定年が普通だった時代である。会社員人生の終わりを意識した男の微妙な心理を描き、流行語となった。当時なら、「40歳=初老」という考え方は不自然ではなかったかもしれない
▼数えで42歳の男の厄払いを「初老祝い」と呼ぶ地域が残っている。金沢市がその代表格だ。地元菓子店によれば、神社でお払いを受け、紅白の餅を知人らに配る。人生80年時代の今なら、残りの半生の無事を祈る意味合いも込められていよう
▼20代のころ、50代が落ち着いて見えた。ところが、いざその年齢になると、じたばたとすることが多い。が、喜んだり悲しんだりも悪くない。幾つになっても、未知との出合いに満ちた人生、「ハローライフ」を送りたい。
新潟日報2011年12月13日
..

日報抄では、戦後間もない1947年の男性の平均寿命は、50.06歳だったことを紹介している。
なるほど、「人生50年」なら、40歳になれば「初老」とも考えられるだろう。
1947年の20年くらい後の頃でも、自分はまだ子どもだったのだが、「55歳」くらいの人々は、確かに「初老」、というより「中老」に近い気さえしたものだ。
私の父方の祖父は、確か60代で亡くなっていたはずだ。
父自身は、56歳で突然亡くなっている。
確かに、時代が変わったのだな。
高齢化社会になるわけだ。

日報抄は、次のように結んでいる。

 20代のころ、50代が落ち着いて見えた。
ところが、いざその年齢になると、じたばたとすることが多い。
が、喜んだり悲しんだりも悪くない。
幾つになっても、未知との出合いに満ちた人生、「ハローライフ」を送りたい。

そうなのだ。
いまだ落ち着いていないのだ。
じたばたしている。
でも、それが自分なのだ、仕方がない。
そう思いながら、過ごすことにしている。

「55歳からのハローライフ」
新聞小説も、自分の生活も、これからどのように展開していくのかを楽しみにしながら、毎日を過ごしていきたい。
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卓球をしようとすると…???

2011-12-11 20:25:22 | 生き方
ずうっとしていないから、卓球したいなあと思っていたところ、11月に「市民卓球大会」があるという。
住んでいる住民でなくても、勤務先がしないであればよいという。
しかも、50歳以上には「シニアの部」がある、という。
おいしい話だ。
そう思って、参加申し込みをした。

久々に卓球ができる。
この日を楽しみにしていた。

ところが、なんということだろう。
先週末の金曜日、勤めを終えて、車に乗ろうとした時のこと。
車に乗って、最後に右足を車内に乗せようとした時、ツンとした痛みが右脚の太もも上部に襲ってきた。

あれ?
ちょっと変な痛みだなあ。

家に帰る途中でも、アクセルやブレーキペダルを踏むのが少し難しかった。
踏むたびに痛みが少しあるから。

ま、いいや。
ひと晩寝れば、治るだろう。

ところが、夜寝ている時、寝返りする時も、痛まずにするのが難しかった。
翌朝は、階段を上がるのも痛いし、立ってズボンをはく時も、右脚を上げようとすると脚の付け根がズキンと痛む。
家族で買い物に出かけようと車に乗ったが、乗ろうと脚を上げ下げするだけで痛みが襲ってくる。

だめだ、こりゃ。
買い物の途中で、自分だけ整形外科医の前で下ろしてもらった。
整形外科医は、土曜日だけあって、人の、山、山、山…。
「診察までに、たくさん待ちますよ。」
という受付嬢の話。
「仕方がないです。」
と答え、待つこと2時間。
ようやく診察室に。
医師は、「レントゲンをとりましょう。」とわずか1分間の診察。
レントゲンを撮って、また1時間。
「股関節、骨はきれいですね。そこに疲れがたまったのでしょうね。まずは、今月いっぱいくらい静かに過ごしてください。そこは、皮膚が薄くてかぶれやすいので、貼り薬もダメですね。薬を出しておきますから、1週間飲んでください。改善しなかったら、1週間後、また来てください。」
…ということで、3時間かけて、飲み薬をもらってきた。

当然ながら、卓球の試合はキャンセル。
残念無念。

1日たって、今朝の仕事は、電話で体育館へ欠席連絡。
幸い、薬が効いて来ているようで、昨日に比べて右脚は上がるようになった。
ひねると痛みがあるけれど、普通に近い感じで歩けるようになった。

そう言えば、昨年も、卓球の大会に出ようとしたら、右脚のハムストリングの辺りを肉離れを起こしたっけ。
それで、大会は棄権。
参加を見送ったのであった。

あれ?
ここのところ、卓球をしようとすると、体に変調が起こるみたいだなあ…。
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明日は、12月8日

2011-12-07 22:53:51 | ひと
12月8日。
真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まったのが、70年前。
ジョン・レノンが暗殺されたのが、31年前。
そんな歴史的なできごとがあった日。
だけど、自分にとってみると、5年前の伯母の命日、というのが、12月8日の一番大きな出来事と言ってもよいと思う。

一時は、同じ家に同居していた伯母と従姉。
やがてかつてのわが家の隣に、小さな家を建てて、伯母と従姉の親子2人は移り住んだ。
そんなことがあって、隣同士だったから、気楽に行き来していたものだった。
隣に行っては、平気で上がり込んで、菓子などをいただいたものだった。
さらに、伯母のことで最近よく思い出すのは、「食」のことなのだ。

伯母は、朝早くから自転車に乗って、魚の行商に出かけるのだった。
帰ってからは、夕方畑仕事に出かけ、野菜などを作っていた。
夏は、スイカを作っていた。
遠くから来た私の友達に、そのスイカをふるまってくれたものだ。
ふんだんに食べられることを、彼らはうらやましがったものだ。
だから、自分が作った訳でもないのに、なんだか鼻が高かったものだ。
同じ夏の新潟の食べ物と言うと、「なす漬け」がある。
伯母の作ってくれたなす漬けは、うまかった。
母の作るものより、数段上の味がした。
母も、それは認めていた。
私は、学生時代の夏の帰省では、なす漬けで、新潟のうまいご飯をさらにお代わりして食べるのが楽しみだった。
秋のものというと、同じ漬物でも、なすのように単品で漬けるのではない、複数の具材(?)が入っている、みそ漬けが好きだった。
新潟や山形では、菊の花を食べる習慣がある。
伯母が作るみそ漬けには、その黄色い食用菊とシソの実などが入っていた。
少しくらいは大根やニンジンも入っていたが、この菊とシソの実のみそ漬けが、本当においしかった。
新米の季節に、さらにご飯が進んだものだ。

でも、そのような何気ない食べ物でも、今となっては手の届かないものになっている。
伯母が亡くなると同時に、様々な出来事ばかりでなく、おいしかった食べ物のことも、すべて今となっては幻となってしまった。
そのように食をはじめとして様々なことで、幸福な気分にさせてくれた伯母。

明日、12月8日。
まる5年になる命日を迎える。

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2011 Jリーグ最終戦

2011-12-03 23:06:34 | アルビレックス新潟

J1リーグ最終節の試合が終わった。
新潟の最終戦の相手は、昨シーズン優勝、今季も首位柏に勝ち点差1で逆転優勝を狙う名古屋。

ホーム最終戦でもあった。

試合結果は、0-1。
押されている場面の多い試合ではあったが、選手はひたむきにプレーしてがんばっていたのが伝わってきた。

でも、結果的には、ホーム最終戦で負けは負け。
優勝は、今日浦和に3-1で勝った柏。
J2から上がったばかりで、即優勝、とは、「あっぱれ!」である。
2位が、今日新潟が対戦した名古屋。
3位は、ガンバ大阪。
それぞれ、1位・2位・3位と、勝ち点差1ずつで続いた。
驚くべきことに、この3強の下、4位に仙台が入った。
大震災を乗り越えての上位は、本当にすばらしいと思う。
柏の優勝、仙台の4位は、誰も想像しなかった結果であった。

今日の最終戦は、新潟は、たった1点が取れなかった。
いい試合であったが、負けは負け。
今季は、いい試合をしていても、最後の最後にひっくり返されたり同点に追いつかれたりすることが多くて、勝ち切れなかった。
今日の新潟の試合は、まさに今季の象徴のような試合と言えた。

今季の新潟の選手たちは、ガツガツくるチームに弱い。
強いプレッシャーを受けるチームには、なかなか勝てなかった。
人のよさが表れてしまうような試合が多かった。
攻撃もきれいに攻めて点を取ろうとするところがある。
だから、比較的攻めが遅い。
攻めが遅れているうちに、相手が守備に戻っている。
だから、新潟のサッカーには、怖さがあまりなかった。
残念だ。

ただ、今日は、2011シーズンがこれで終わってしまうのか、と少し残念に思いながら、冷静に見ていた私であった。
見ていた席は、名古屋のサポーターが多数来ているビジター席の近くであった。
優勝争いを繰り広げるチームに羨望のまなざしを向けつつ、日本の頂点のチームを決める試合の近くにいられるということが、新潟に住む者として、これはこれで幸せな気分でもあったのだ。
選手たちは、本当に一生懸命やっている。
他チームの優れたプレーぶりをみると、時々新潟の選手たちが貧弱に感じることもあったけど、「おらがチーム」。
そして、その勝利を願って応援ができる。
優勝争いを繰り広げるチームに対しても、ボロボロにやられるのではなく、接戦ができる。
まして、今日は、試合の終盤、ミシェウがイエローカード2枚で退場になってしまったのに、何とか追いつこうと、残った10人がとてもよく走っていた。
そして、サポーターたちは、最後まで、よく声を出し、選手を鼓舞していた。
こういうことが、うれしいのである。

最終戦セレモニー

の後、場内を一周した選手・監督はじめスタッフたちの顔は、不完全燃焼そのもの

ということが表れていた。
今日は、すでに長谷部や岩崎といった若い選手たちの退団のあいさつがあった。
何人かの選手が去り、来季はまた新しい顔ぶれを迎えることになる。
最後に、Nスタンドのサポーターの前で話した選手会長の三門

や主将の本間

のあいさつは、来季の捲土重来を期す思いに満ちていた。
来年の新潟の活躍に期待しよう。

未曾有の大震災、原発事故のあった1年だった。
第1節の初戦だけ行われて、ひと月以上試合ができなかったシーズンであった。
もう一度言うが、震災の被害から立ち上がった、仙台の4位は、本当にすばらしい。

さて、3か月後には、どのチームもまた新しい顔ぶれとなり、2012年の新しい年の戦いが始まる。
その前に、まず、今年の新潟の選手やスタッフに、「お疲れ様。」と言いたい。
そして、「今季も、ありがとう。」とも。
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