ON  MY  WAY

60代になっても、迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされながら、生きている日々を綴ります。

ミヤマカタバミ

2009-04-26 22:55:18 | 草木花
春。春。春。
春は、好きだ。
あちこちに花が咲く。
樹木が、野草が、待ってましたとばかり咲き乱れる。
春の初めに私が好きなのは、キクザキイチゲなのだが、同じ頃咲く花にカタバミがある。
そのカタバミを見に、2週間前、S村のТキャンプ場に出かけた。
カタバミが一面に咲いているのは、見ごたえがあった。
カタバミに混じって、キクザキイチゲも見られた。
なんとうれしい。
うれしいことは、他にもあった。
この花に初めて出合ったのである。
「ミヤマカタバミ」
と後で調べてわかった。
白い花弁。清楚な感じで、地面低く咲いている姿が可憐だ。
この近くでは、ヒトリシズカやイカリソウなども見られた。
春になったのを祝うように、いろいろな野草が咲いていた。

ふう~。
息抜き、息抜き。
新しい職場になり、新しい人間関係づくりで、毎日とても疲れている。
そんな中、休日のこうしたお出かけで、また新しいもの、きれいなものに会えた。
それがうれしい。
こうした心のホッとする瞬間を得ながら、また新しい仕事に取り組んでいくのだ。
よし。また明日からがんばっていこう!
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初めて10kmのロードレースに出た

2009-04-22 21:51:46 | RUN
4月19日日曜日。快晴。青空。陸上競技場を走るなんて初めて。公認コースではないが、50歳以上男子10kmの部に出場した。この部には160名余りが参加。
スタートは10時。ちょっとトイレに行って戻ると、人、人、人。私が並ぶ位置はスタートラインのはるか後方になってしまった。
だから、スタートの号砲が鳴ってから、スタートラインにたどり着くまで、20秒くらいもかかってしまった。先頭は、もう150mくらい先を走っている。
1周400mの陸上競技場を1周と4分の3走って、ロードに出ていく。すぐに、信濃川沿いのやすらぎ堤に上がる。花は、すでにかなり散りつつある桜の樹の下を走る。道沿いのチューリップは、ふっくらとかわいらしく咲いて並んでいる。
そろそろペースが定まってきたので、一人一人と抜いていくことにした。今回のめあては、まず10kmを完走すること。そして、ここからは、自分と同じ50歳以上の男性に抜かれないようにすること。
このコースは、信濃川に架かる橋の下を通る。最初が昭和大橋、次が八千代橋、3番目が万代橋。この橋の下で、知り合いのFさんが競技役員をしている姿に会った。思わず「役員ご苦労さま。」と声をかけた。
4番目の柳都大橋で階段を上り、対岸に渡り、橋の階段を降りる。信濃川沿いの朱鷺メッセという高いビルの麓が折り返し。そのあと、柳都大橋を再び渡り、新潟歴史資料館なる建物を目指す。
この途上で、折り返し点を過ぎた先頭の人々との差が明らかになった。50歳以上のナンバーを示す500番以上のゼッケンはそう多くない。20何人いただろうか?自分で結構いいセンいっているなと思った。
ゼッケン「534番」の人が、目の前にいた。その差は、5mほど。だけど、走力が同じらしく、なかなか追いつけない。
幸い、途中から500番以降の人に抜かれてはいない。
歴史資料館を回って、あとは完全に復路。戻るだけ。
少し無理をして、534番を抜いた。やった!
だが、この辺りで、自分が今まで走ったことのない距離に突入。しだいに足が上がらなくなってきた。
「50foxさん、がんばれ!」役員のFさんに、声をかけられた。手を挙げて応えたが、声で応えることはできなかった。
明らかに自分より年輩と思われる男性3人くらいに次々に抜かれた。悔しい。しかし、走っている気分は、しんどい!なのに爽快だ。スピードが出ないのはどうしようもない。今の自分を楽しむしかない。
ゴール1kmほど手前で、534番に抜き返された。ああ、無情!でも、離されたくない。がんばってついていくが、次第に離されていく…。きつい。
やがて、ゴール。48分20秒。出走163人中20番台後半。
胸がずっと、海水浴の後のような感じ。この体の違和感もまた、ある種楽しい。
誰のためでもなく、自分のために走った。走ることを、めいっぱい楽しんだ。50代にして、初めて10kmを走ることに挑戦した。そんな自分に拍手。
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さようなら 愛しきわが家…

2009-04-14 23:03:53 | 生き方
わが家のことを夢に見ることがある。
不思議なもので、夢に見るとき出てくる家は、子ども時代に過ごした家である。

私は、30歳過ぎまで、日本海まで歩いて10分くらいで行ける集落に住んでいた。
住んでいた家は、父と母が結婚した翌年に建った家であった。
さらに、私が生まれたのは、その家の建立の翌年となる。
その家でのまだ小学校にも上がっていない私の白黒の写真が、数枚残っている。
そして、父と母と弟と私の4人家族。一時期伯母・従姉の2人が同居し、6人で住んだこともあった。
少年時代を過ごした思い出の家…。

やがて、私は大人になり、勤務先が家から遠いので、勤務先に通える所に居を構えた。やがて、結婚し子どもも生まれた。妻と子どもとともに、この家を離れて暮らしていた。

私が28歳の時、父は、その家で亡くなった。
いつものように、仕事から帰って来て、いつものようにまず風呂に入り、そして晩酌をするはずだった。
しかし、父は、風呂場で倒れ、そのまま還らぬ人となった。

それから3,4年の後、勤務先も変わった私たち夫婦は、交通に不便な私の生地を離れ、10数キロ離れた少しだけ都会の住宅地に家を建て、移り住んだ。
私の生家は、その半年後、ある家族がどうしても住まわせてほしいと言ってきたので、住んでもらうことにした。

そうやって、20年が経過した。
貸して住んでもらっていたので、傷み方はいくらかましだったかもしれないが、もう屋根の一部は、だいぶ朽ちてしまっていた。

そこへ、新しい話が持ち上がった。
隣に住む従姉夫婦の息子が結婚して子どもも生まれたので、新しく家を建てたい。ついては、あの家と土地を譲ってくれと言う。
どうせ私たちはもうそこに住む気はないのだから、快諾した。
住んでもらっていた家族にも、事情を話し、気持ちよく出てもらった。

そして先日、押し入れに残っていたわずかな荷物の処理のために、20年来入ったことのなかった「わが家」に、入った。
父だけでなく、4年前に母も亡くなっていた。

しかし、家に入ると、父そして母のことが、いやおうなしに思い浮かんできた。
この家で、父と母は、家庭を築いてきた。
この家で、私は、生まれてからずっと育ってきた。
この家で、私は、父と母に育てられてきた。
この家で、私は、弟と遊び、育ってきた。
泣きそうになった。いや、少しだけ泣いていた。
どこを見ても、昔の思い出がよみがえってくる。

もうすぐこの家そのものがなくなる…。

30枚近くの写真を撮って、この家に別れを告げた。

そして、今日、その家が取り壊され始めたことを、従姉から知らされた。
さようなら、父と母との思い出の家。
さようなら、愛しきわが家。
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さようなら 単身赴任

2009-04-10 22:16:04 | 生き方
3月から4月。
人事異動で、単身赴任と別れを告げた。
50代ということを考えると、きっと最後の単身赴任であっただろうと思う。
バタバタと慌ただしく転居の準備、仕事の引き継ぎなどを行った。
例年、3月に、職場を去る人を見送るのは寂しいものだが、こうして送られる側になると、いっそう寂しい。
わずか3年間の勤務であったが、今までよく知らない土地での勤務は、また様々な出会いがあった。
県境に近い土地であった。車を15分も走らせると、他県に入ってしまった。
山紫水明という言葉がぴったりだった。風光明媚な景色、豊かな自然に目が奪われた。
道端に咲いている野草の花々も、山地に咲くもので、平地ではあまり見かけないものが多かった。さりげない美しさに心がいやされた。

さようなら。大好きな土地だった。
さようなら。たくさんの出会いをありがとう。
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