誕生日を迎えた。
60代のちょうど半ば。
いよいよ高齢者の仲間入りである。
年金受給者というわけだ。
朝の早々に、一昨年の9月以来久しく会っていない弟から祝いのメールをもらった。
それをはじめとして、何人かからラインやフェイスブック、ショートメール、電話などで「おめでとう」と祝ってもらえた。
こんな私のために…と、ありがたく思った。
大学の後輩、Aさんからのものがあった。
先輩、お誕生日おめでとうございます。
今後も、楽しく実りある日々を過ごされますようお祈りしています。
大学時代、この時期に誕生日を迎える者にとっては、ちょっとつまらない思いをした。
なぜなら、今の時期は受験の時期であり、大学はもう春の休みに入っていたからだ。
サークル活動も休みとなっており、活動中なら仲間たちから祝ってもらえるのだが、この時期はさびしく一人で過ごすことが多かったっけ。
その意味で言うと、こうして40数年たってからの今でも祝ってもらえるのは、すごくうれしい気がする。
(チョットマテ。50ネンチカクムカシノダイガクジダイノオモイヲ、オマエハ、マダヒキズッテイルノカ?)
それにしても、ありがたいなと思ったのは、このポンツクな私にメッセージなどをくれる、かつての教え子の方々だ。
あんな、どうしようもないTeacherだった私に…。
Bさんは、言ってくれた。
後期高齢者になってもまだ四半世紀ありますよ!
むしろこれからです
Cさんは、メールのやり取りの中で言ってくれた。
今日、誰かが無くなる。(原文のまま)
今日、誰かが産まれる。
貴方は生きて、今日この日を迎える🤗
ハッピーバースデー🎉
そうなのだ。
同じことを思っていた。
今の今、ロシア侵攻で奪われている命がある。
自分はこうして65の誕生日を迎えているのに、ウクライナでは、家族を守るために決死の思いで銃を取る人たちがいる。
銃を取る父と別れて、母国を離れようとしている子どもがいる。
涙を流しながら、父の無事を祈りながら…。
そのニュース映像を見ながら、涙がこぼれ出た。
自分の意思とは無関係に奪われる命がある。
Bさんの言うとおり、今日、誰かが亡くなっている…。
同じ地球上で、私は、今日の誕生日を家族から祝ってもらえている。
娘や息子も30代の後半ではあるが、こうして一家みんなそろって一緒に食事ができるだけで十分に幸せだと思える。
65歳。
自分を取り巻く人たちに感謝しながら、今後は今までの自分とは違った範疇での生き方を探っていくことが必要なのかもしれない。
今あるささやかな幸福の中で、そんなことを考えている。
(文頭の写真は、予想もしなかったCさんが贈ってくれた花束。ありがとう、Cさん。)