ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

人生の隣にいつも谷川俊太郎氏の詩が…

2024-11-23 17:45:30 | ひと

今週、自分にとって、自分のいろいろな時代に影響を受けた人たちの訃報が相次いでいる。

ゆるいけど、ほかの人の人生を思い出を知ることができた「こころ旅」の火野正平さん。

われわれが少年時代に横綱を務め、引退後も角介で活躍した北の富士勝昭さん。

そして、子どもから大人まで楽しめる詩を書いていた詩人の谷川俊太郎さん。

 

私にとっては、谷川俊太郎さんのことが一番思い入れ深い。

初めて谷川さんのことが気になったのは、学生時代に聴いていた歌からだった。

あの頃、吉田拓郎・井上陽水・泉谷しげるらと一緒にフォーライフレコードを設立した小室等の曲には、谷川俊太郎氏の詩が多かった。

4人の中で、最初にフォーライフレコードから曲を出したのが小室等だったが、その曲「お早うの朝」は、谷川俊太郎作詞、小室等作曲だった。

小室等がその後発表する多くの曲は、谷川俊太郎作詞だった。

私が持っているLPレコードには、小室等の「23区コンサート〜東京旅行」というライブレコードがある。

その1曲目は、谷川俊太郎氏による「かっぱ」で、曲が付いていないのに、語呂がよく口ずさみやすかった。

たしか、それは、谷川俊太郎氏自身がゲストで唱えていたような気がする。

「かっぱ」

かっぱかっぱらった

かっぱらっぱかっぱらった

とってちってた

かっぱなっぱかった

かっぱなっぱいっぱかった

かってきってくった

 

学生時代が終わって、「育」業についた。

始まりは、小学校1年生相手に教える仕事だったが、そのとき同僚の先輩から勧められたのが、「にほんご」。

これは、「学習指導要領にとらわれない、小学校1年生のための国語教科書(私案)」として谷川俊太郎氏が安野光雅らと編集したもので、興味深かった。

仕事をしているなかで出合ったのが、谷川俊太郎氏の「わらべうた」という本。

文字ばかりで絵のない文庫本だったが、「おならうた」など子どもに大うけする詩がたくさん入っていて、子どもたちに読まれてボロボロになった。

「おならうた」

いもくって ぶ

くりくって ぼ

すかして へ

ごめんよ ば

おふろで ぽ

こっそり す

あわてて ぷ

ふたりで ぴょ

 

そして、秀逸だったのが、「のみのぴこ」。

 

これはのみのぴこ

 

これはのみのぴこの

すんでいる ねこのごえもん

 

これはのみのぴこの

すんでいる ねこのごえもんの

しっぽふんづけた あきらくん

 

これはのみのぴこの

すんでいる ねこのごえもんの

しっぽふんづけた あきらくんの

まんがよんでる おかあさん

(以下略)

 

…こんなふうに延々と続いていく。

この詩は、よく低学年の子どもたちへの読み聞かせに使ったものだった。

絵本があると知ってからは、ページをめくりながら、子どもたちにもくり返し最初から唱えさせて、一緒に声を出させると、みんなノリノリになった。

最後の「のみの ぷち」まで行くと、子どもたちは満ち足りた笑顔になるのだった。

 

最高学年の6年生の教科書(光村図書)には、「生きる」の詩が載っていた。

(詩はこの後まだ続くが以下略)

私は、この詩を使って、卒業間近の彼らによくメッセージを送ったものだ。

そのときには、必ず小室等の「いま生きているということ」の歌を教室内に流して聴いてもらいながら行うのだった。

詩の一部が違うが、「生きる」に曲をつけたのが「いま生きているということ」だった。

 

生活を楽しくすることから、命を考えることまで、谷川俊太郎氏の詩は幅の広さや深みがあった。

 

そして、このブログでも紹介したとおりに、娘の家でのリハビリでは、詩「明日」を暗唱に使った。

娘は今でもこの詩をそらんじることができる。。

 

「明日」(谷川俊太郎)を暗唱する - ON  MY  WAY

娘のリハビリの一環として、詩の暗唱を行ってきた。最初は、落語の「寿限無」次が、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」。そして、清少納言の「枕草子春はあけぼの」。いずれもクリ...

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小室等の「プロテストソング2」を聴いて、谷川・小室両氏が健在であることを喜んだときもあった。

 

「プロテストソング」(小室等・谷川俊太郎著;旬報社)を読む - ON  MY  WAY

「プロテストソング」。そういう書名の本が、谷川俊太郎、小室等の共著で、5年前に出ているのを知った。その本を取り寄せて、読んでみた。私が学生だった頃、小室氏の歌には...

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詩「こどもとおとな」(谷川俊太郎)から思い出したこと - ON  MY  WAY

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自分の人生の隣に、いつも谷川俊太郎さんの詩があったような気がする。

感謝と冥福を祈る気持ちでいっぱいだ。

合掌。

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「一生懸命は、美しい」

2024-09-21 22:33:12 | ひと

今週半ば、先週急逝したAさんの通夜に参列してきた。

Aさんは、私より年齢は1つ上だったが、同じ期の仲間として長い付き合いがあった。

とてもよい人だった。

なのに、70歳にもならないうちに亡くなるなんて、きわめて残念だ。

 

彼は、何事にも真摯に取り組む彼だったから、周囲から高い信頼と尊敬を集めていた。

だから、次々と高度な専門性と人間性が求められる要職についていったのだった。

高いポジションにつきながらも、まったく偉ぶるところがなく、気さくな人柄で相手の年齢の上下に関係なく笑顔で話しかけていくのが常だった。

 

40代前半の頃には、同じ市に勤めたから、私は、彼にはかなり世話になったのであった。

当時の私は、腰椎椎間板ヘルニアで入院したり手術したりして数か月休んだりしてしまい、勤務先こそ違ったが、すごく迷惑をかけてしまった。

だけど、彼は私の分までいらない仕事を抱えながら、陰に陽に助けてくれたのだった。

いつも本気になって心配してくれたり、自分のことを笑いながら話したり、気遣いあふれる言動には、救われたものだった。

同業同期の仲間ながら、とても尊敬できる人だった。

 

通夜の始まる前に、棺の中の彼の顔を拝ませてもらった。

やせて細くなった顔、固く閉じられて開かないまぶたを見ていたら、ふいに涙がこみ上げてきた。

現職の時は様々な要職にあった彼だから、退職後もその名が頼られて、いくつもの団体から必要とされていた。

現職時だけでなく定年退職後も休めなかった彼。

ゆっくりと自分の時間が持てるのはこれからだろうに、と思うと、早すぎる死が本当に悔やまれた。

 

弔辞は、彼が現職時代に彼の部下だった方で、今は彼同様の地位についた方が、心にしみる話をしてくれた。

仕事柄子どもたちの前で話す場面も多かったが、その時彼がよく話していたのは、

一生懸命は、美しい

ということだったそうだ。

いろいろな子どもたちがいるが、その言葉を聞いて元気付けられたり救われたりした子はたくさんいたのではないだろうか。

ほかの人のようにうまくいかない、とか、ほかの人と比べていいところがない、とかを思って、自分はダメだと思う子は多い。

そういう子たちに「一生懸命は、美しい」という言葉は、きっと心に響いたのではないだろうか。

生きる勇気、元気が湧いてきたのではないだろうか。

 

彼は、「一生懸命は、美しい」を職員にも求めた。

子どもたちを教える者であるならば、自らが一生懸命研修に力を入れなければ、教わる子どもたちの心に響かず、納得のいかない中途半端な学びになってしまう。

だから、子どもたちのために、研修に力を入れるようにと職員に強く求めていたのだそうだ。

自ら一生懸命を実践し続ける彼の姿は、職員の背中を押し、子どもたちを励まし続けた。

 

そのようなことを、弔辞で聞き、自分の心も揺さぶられるものがあった。

私は、彼ほど一生懸命にはできなかった。

だから、とても「一生懸命は、美しい」などとは語れなかった。

でも、今回この言葉を聞けて、今後の人生にきっと支えになるだろうなあ、と思った。

 

平日夜の通夜だったが、そんな彼を惜しんで、今どき250人以上の人が参列に訪れていた。

広いホール内に入れず、ホールの外で式に参加している人の姿もあった。

 

佳人薄命。

本当に惜しい人を亡くした。

ご冥福を心から祈ります。

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今日は、何といっても、大谷翔平選手!!

2024-09-20 22:07:25 | ひと

今日は、何といっても、大谷翔平選手!!

日本のプロ野球でもまだないのに、メジャーで史上初の50本塁打&50盗塁の達成だなんて、すごすぎる!!

それどころか、今日の活躍なんてマンガやドラマでもありえない。

6打数6安打、3連続本塁打、10打点、2盗塁だもの。

もし、3打席目の記録は2塁打だったが、3塁でセーフになっていれば、サイクル安打だって達成できていたことになる。

そうやって、50ホームラン・50盗塁を一気に超えて、51ホームラン・51盗塁の達成は、すごすぎる。

 

それにしても、高校を卒業するときに、よく日本ハムが彼をドラフト指名をしてくれたものだと思う。

当時の栗山監督の方針が、投手としても打者としても育成する、ということだった。

ともすれば、投手力だけに目を向けていて、打者としての素質については見逃している人の方が多かったのではないかと思う。

今までではあり得ない「二刀流」の選手として、大谷を育ててくれた。

それが認められて、メジャーに渡ったのだから。

エンゼルスでの活躍で、周囲に二刀流を認めさせるとともに、ホームランを大量に打てる打者として超一流であることを示してきた。

栗山監督、日本ハムというチーム、すばらしい先見の明だったね。

 

ただし、そこに本人の不断の努力がなければ、こうして花開くことはなかっただろうと思う。

「50-50」というけれど、後半の数字は盗塁の数字だ。

日本にいたとき、そしてエンゼルスにいたとき、彼の盗塁の数はここまで多くはなかった。

今季ドジャースに移籍して、昨季の手術からのリハビリ期間として投手としての活躍は見られない分、盗塁という新たな活躍の姿を見せてくれている。

盗塁数は、現在51だが、これは6月にベッツが離脱して1番打者としての起用が多くなってから、すごく増えたのだった。

ベッツが離脱する前の70試合では盗塁は15個だったのが、それ以降は80試合で36盗塁と急上昇だなんだとか。

もし、ベッツ離脱&大谷1番起用がなければ、こんなに盗塁数は増えなかったのではないかな?

でも、こんな条件をプラスに転化してしまうのだから、やっぱりすごいと思う。

1番打者としての起用ならば、自分がチームの勝利のために何ができるか、何をするのがベストなのか、を突き詰めているのが大谷なのだ。

野球をして、自分ができることを最大限に追求しているから、盗塁は数だけでなく成功率もすごい。

今日まで、28回連続で盗塁を成功させていて、今季の成功率はなんと92.7%だそうだ。

「絶対の自信がなければ走らない」と言っているから、51個も盗塁を決めているのは、投手の癖や球種などもしっかり理解して臨んでいるからだろう。

プロ中のプロだねえ。

 

今日の1回の3塁盗塁には、驚いた。

日本だと、1回の無死2塁なら普通ランナーは走らない。

走ってアウトになってチャンスをつぶすかもしれないと考えたら、走ってもよいというサインは出さず、走るなというのが、日本では常識のようになっているからだ。

そんなことを考えても、メジャーでプレーしているからこその自由度がある。

それが大谷の個性をいっそう伸ばすことにつながっているように思えるのだ。

 

そして、3打席連続本塁打。

49号を打ってから、次の打席では反対方向のレフトへのホームラン。

連続で打つ勝負強さ。

6打席目の相手投手は、大差だったので野手が投げていた。

緩いボールにタイミングが合わずに打ち取られている打者が多いのに、大谷はしっかり引き付けてライト上段にホームランをたたき込んだ。

右に左に、緩い球にと技術の高さを見せてくれた。

 

とにかく、野球のプレー一つ一つに楽しみながら真剣に取り組んでいるのが見える。

そして、一緒に野球をしてくれる人たちや、プレーを見てくれる人たちに対するリスペクトも忘れていない姿には、感銘を受ける。

 

ケガさえしなければ、これからもきっとたくさん楽しませてくれることだろう。

「ケガさえしなければ」と書いて、また思った。

そういえば、彼はケガをしていない。

肘の手術の影響はあっても、今季は他の選手たちと違ってケガをしていない。

身体の管理も超一流だということだ。

 

歴史に残る大選手、大谷翔平の活躍が見られる幸運に感謝しつつ、これからも大いに楽しませてもらおう。

 

大谷翔平選手、大記録達成、本当におめでとうございます!!

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町内会夏祭りに見る、裏方の人々の尽力

2024-08-25 15:58:34 | ひと

夏の終わりの日曜日、今年も、町内では、自治会夏祭りが行われた。

町内の一員として、今年も少しだけ開催に協力。

それですごいなあと思うことは、町内会祭りの開催実行委員の方々の奮闘ぶりだ。

実行委員は、町内会の役員と子ども会の役員とで構成されている。

特に、町内会の方は、子どもたちや町内の方々が喜ぶようにと、裏に回って計画に実行にと尽力している。

昨夜の前夜祭では、子どもたちが楽しめるようにとよくある祭りのゲームや、焼きそば・フランクフルトなどの食品販売も行う。

その射的をはじめとするいくつものゲームができるようにとそのセットを作ったり、わたあめやポップコーン作りの機械を準備したりした。

その前夜祭は夕方からわずか3時間しかないのだが、そのための準備に労力をかけてがんばる方々がいることには敬意を表したい。

ゲーム用の仕掛けやセットも、食品も、手作りだ。

ゲームは無料だし、販売物品はどれもこれも100円。

今年は、野菜販売もあって、キュウリが4,5本で100円、玉ねぎが3,4個で100円などと、今の市価では考えられない安さであった。

ただ、PR不足だったせいもあってか、残念ながら野菜の売れ行きは芳しくなかった。

まあ、集まっている方々が、子どもや保護者であんまり野菜には関心がない方が多かったようだから仕方ないか。

それでも、子どもも楽しんでいたし、大人もその様子を見て楽しんでいるのが分かった。

こんなふうに、子どもや大人が楽しむのをみたい、楽しませたいという気持ちで祭りを支える人たちってすごいなと思った。

 

今日は、祭りの本番。

山車と当地独特の金魚台輪の町内巡行だった。

心配された雨に当たることもなく、具合の悪くなる人もなく、無事に巡行ができた。

終わった後には、後片付けがあったのだが、テントはじめ昨夜使ったものも含め、いろいろと片付けるだけでも2時間では終わらなかった。

片付けが2時間で終わらないということは、準備でいったい何日かけたのかとここでまたその労力の多さを感じた。

長机やいす、テントなどは、よそから借用してきたものだから、明日以降の返却になる。

重いものを移動させるのは大変だ。

たくさんのゴミも出た。

それでも、町内で夏祭りを開催する。

なんでもない地域の人々のすごさ、すばらしさを感じた、町内会祭りの2日間であった。

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フォークシンガー&ランナー、高石ともやさん逝く

2024-08-20 22:02:35 | ひと

今朝の新聞で、フォークシンガーの高石ともやさんが亡くなったことを知った。

17日、病気のため82歳で死去したとのことだった。

1941年生まれの彼が、私の同じ大学の出身者だったことを知ったのは、かなり後のことだった。

「おいで皆さん聞いとくれ ぼくは悲しい受験生」で始まる受験生ブルースが累計90万枚を超える大ヒットとなったのは、1968年。

私はまだ小学生だったし、高石ともやさんはテレビ出演して歌うことはなかったから、その頃あまりこの歌には親しみは持てなかった。

その後、71年、フォークバンド「ザ・ナターシャー・セブン」を結成してからが、むしろなじみの深い曲が多かった。

「いつの日にか 君にあえると きっときっと信じてた けど もう やめた やめた」と歌う、「想い出の赤いヤッケ」は、何度か聴いて、初めていい歌だなあと感じた曲だった。

 

「私に人生と言えるものがあるなら」は、アメリカ民謡だったそうだが、この歌も好きだった。

本当に好きだった人とやり直せるものならばやり直したいのに、やり直せない人生。

その切なさが、若いときには分からなかったが、今は以前に比べよくわかるようになってきた。

高齢化してきてから、なぜかたまにこの歌を口ずさむこともある。

 

一番好きだったのは、「街」 という曲だった。

これについては、以前ここに書いたことがある。

 

「街」(高石ともや)~昔の歌だが心地よい曲~ - ON  MY  WAY

たしか大学のはるか先輩にあたるのだったよな…。ただのマラソンだけじゃなく、ウルトラマラソンやトライアスロンもしていた人だったよな…。そんなことを考えながら、手元に...

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歌も好きだったが、それ以外にも好きだったのは、彼がランナーだったことだ。

マラソンやトライアスロンに積極的に挑戦していた。

公式サイトによるとマラソンの最高タイムは79年の京都マラソンの2時間47分7秒。93年には米の約4700キロを走る「トランス・アメリカフットレース」を完走したのには、びっくりした。

ホノルルマラソンには1977年の第5回大会で初参加し、2019年まで43回連続で出場し、一昨年2022年にコロナ禍明けで3年ぶりに出場したのが最後だったそうだ。

自分には到底真似できない、「シンガーソング・ランナー」と称されるほどのランナーであった。

 

 今回、彼が亡くなったことで、有森裕子さんが秘話を公表している。

1996年にアトランタ五輪で銅メダルを獲得したときの名言、「初めて自分で自分を褒めたい、と思います」は、高石さんがランナーのために作詞・作曲した「自分をほめてやろう」という曲から来ていたのだそうだ。

有森さんとその曲の出合いは、彼女が高校2年の時。

彼女は全国都道府県対抗女子駅伝の岡山県代表に選ばれながらも、補欠に決まった。

気落ちして参加した開会式で、高石さんの「自分をほめてやろう」という詩を聞いて、号泣してしまったのだそうだ。

そして、その言葉がずっと心の中に残っていたからこそ、五輪のレース後、自然と口に出たのだということだ。

 

その「自分をほめてやろう」は聴いたことがなかったので、検索してみた。

高石ともやさん本人が歌ったものではないが、YOUTUBEでどんな歌なのかを聴くことができた。

 

自分をほめてやろう    高石ともや 詞・曲

 

この大会に選ばれたことを もう一人のあなたに

よくここまで来たねと ほめてやってください

自分で自分をほめるのが とても自然なこと

頑張ったのは君だから 自分で決めた道だから

練習のつらさ 負けた悔しさも それでも走り続けた訳も

君だけが覚えてる 今夜は自分をほめてやろう

見えるだろう ひとすじ道 君が選んだ長い道

見えるだろう ひとすじ道 みんなが君を待っている

 

明日のレース 目標通り うまく走れたら

おめでとうって自分に声かけて 心から笑えばいい

明日のレース 失敗しても もう一人のあなたに

悔しいねって声かけて 涙流せばいい

ケガした足に誓ったはずさ 最後まであきらめないと

君だけが覚えてる 今夜は自分をほめてやろう

見えるだろう ひとすじ道 君が選んだ長い道

見えるだろう ひとすじ道 みんなが君を待っている

 

高石ともやさんの歌には素朴さ、誠実さ、爽やかさを感じる歌が多かった。

聴いていて元気をもらうことが多かった。

そして、年齢を重ねても走る、憧れのランナーだった。

ご冥福をお祈りいたします。 合掌 

 

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大谷のMLBオールスターでホームランに、あっぱれ!!!

2024-07-17 22:18:27 | ひと

 

すごいね、大谷。

MLBオールスターで、期待どおりにホームランをかっ飛ばすなんて。

いくら、昨季のホームラン王で、今季もナショナルリーグのホームランランキングでトップに立っているとはいえ、実際にホームランを打つのは簡単なことではないだろう。

MLBでは、オールスター戦は1試合しかない。

しかも、立てる打席はせいぜい2回、どう多くても3回しかない。

なのに、少ない回数でそこでホームランを打てるか?

難易度が高いと思っていた。

だいたい、3回打席に立って、ヒットを1本売っただけで、打率が3割3分3厘。

この割合でいって、首位打者が取れそうな打率となる。

おまけに、単なるヒットではなく、ホームランを打つ確率って、どれだけ低いのだろう?

さらにいえば、オールスターだぞ。

相手投手だって、実力のある選手ぞろいのはずだから、ホームランどころかヒットも難しいはず。

そんなことを考えていたから、大谷はホームランでなくてもヒットが打てればいいさ、と思ってテレビ画面を見ていた。

 

1打席目は四球。

じっくり見て打ち急がないだけでも、オールスター戦というお祭りの舞台でもしっかり真剣に勝負しているのが分かって、さすがだと思った。

そして、2打席目。

前の打者2人がヒットを打って、無死1,2塁のチャンスで大谷の出番となった。

ここでヒットを打てば先制だ。

ぜひタイムリーを打ってくれ。

そう願っていたら、2ボールからの3球目だった。

大谷がスイングすると、打った瞬間、ライトへのホームランだと分かる一撃となった。

 

いやあ、すごい。

まさに、スーパースターだね。

この難易度の高い場所で、よく打てるもんだ。

タイムリーヒットを打てるだけでもすごいと思っていたのに、みんなが望んでいたホームランを打つなんて。

われわれだと、「うわあ、無死1,2塁だ。ヒット打てなかったらどうしよう。」と、マイナスのことも考えるものなのだけれど、大谷はそんなこと考えないのだろうね。

きっと、自分の力を信じられるのだろうな。

改めて彼のすごさを感じた。

心技体そろわないとここまでの活躍はできないよなあ。

 

あっぱれ!!!

 

これからも、その活躍に心躍らせてもらおう。

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ほぼ同年代、Tさんの訃報を知って

2024-03-06 19:23:00 | ひと
有名人でなくても、届いた訃報に驚くことがある。
ましてその人が、自分とほとんど同じ年代の人だとなおさらである。
今日は、Tさんが亡くなっていたことを知り、ちょっとショックだった。

Tさんとは、私が長岡で単身赴任していた当時に知り合った、同業の方だった。
仲良くなったのは、同じ職務の研修で全国大会に出かけたときだった。
当時香川県高松市で開催された2日間の全国大会には、市内から6人が参加した。
私もTさんもそのメンバーだった。
同じ市内からまとまって行くということで、宿泊先も同じ宿だった。
当然のように、夕食時には懇親会が行われた。
酒が入ると、互いの心的距離が縮まる。
Tさんは、現職に就く前には、東京で、芸能プロダクションで音楽にかかわっていたという話をしていた。
その頃多くの人に知られたアイドルグループが解散することになったのだが、バンドメンバーが足りなくなった。
「あの解散コンサートで、ドラムをたたいていたのは、オレだったんだよ。」
…衝撃の告白だった!!!?
「へえ~、すごいじゃん。」
「なんでまた、新潟に戻って、まったく関係ないこの仕事してるんだよ!?」
一同から驚きの声が次々と上がったのだった。

懇親会後は、当然のごとく、2次会へ出ようということになり、高松の街にくり出した。
当時40代の私たちは、飲みながらカラオケをたっぷり楽しんだ。
さすが元音楽関係者だけあって、Tさんの歌はうまかった。
特に、松山千春やTUBEの歌が得意であった。
「長い夜」や「あー夏休み」などは、確かにうまかった。
浜田省吾や村下孝蔵で対抗(?)した私に、
「50foxさん(私)も、TUBE歌わない?アンタの声に、絶対合うよ」
などと薦めてくれたりもした。
高松で楽しい時間を過ごした私たちに、Tさんは、「長岡に帰ってからも、このメンバーで会をやろう」と、提案した。
全員異論なし!となると、Tさんは、この6人会の名前は、高松で仲良くなったのだからそれにちなんだ名前にしよう」と、話を進めた。
高松市には栗林(りつりん)公園という著名な公園があって、日中、研修会後に皆でそこを訪れていた。
「それにちなんで、この会の名称は、『ゼツリン会』とする!」と叫ぶTさんの声に、一同ズッコケたのであった。

その「ゼツリン会」は、長岡に帰ってからは、「長岡の奥座敷」である蓬平(よもぎひら)温泉の旅館で行ったりした。
そして、その1年後の夏には、私も含めて何人かは中越地区の長岡ではなく、上越や下越の方へ異動になってしまったのだが、Tさんから電話が来た。
「今夜、長岡でまたゼツリン会やるんだけど、50foxさんも来ないか!?」
「おいおい、急だなあ。」
「来るだろ。会場は、6時半から駅の近くの○○だから、待ってるよ。」
ガチャン。
まったく、なんて誘いだ。
ブツブツ言いつつ口元に笑みを浮かべながら、私は在来線から新幹線に乗り継ぎ、長岡まで急ぎ駆けつけ、旧交を温めたのであった。
その後は、残念ながらメンバーの都合が合わず、ゼツリン会は開かれなくなってしまったが。

とにかく周囲の人を楽しくさせることが好きで、それができるTさんの明るさには、人を引き付け元気にする力があった。

…高松から15年余りがたって、定年退職後の年賀状には、「これからは好きなことをします。年賀状も終わりにします。」と連絡が来た。
好きなことって、なんだろう?きっと音楽関係だろうな…?なんて思ったのだった。
まだあれから、何年もたってないように思えるけれど、…残念だ。
私より1歳年上なくらいだったはず。
Tさん、楽しい時間をありがとうございました。
ご冥福をお祈りします。  合掌。
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準決勝で敗れたBさんへ ~高校野球~

2023-07-23 22:42:26 | ひと

Bさん、お疲れさまでした。

よくがんばったね。

高校野球県大会準決勝。

あなたのチームは、甲子園まであと2勝に迫っていた

だけど、残念ながら、今日の試合であなたのチームは敗れてしまった。

そして、Bさん、あなたの出場もかなわなかった。

控えメンバーとして、出場メンバーを支えることしかできなかったのは、歯がゆかったかもしれないね。

それでも、そこに、あなたのすばらしい成長を見ることができたとも思っているんだよ。

だって、あなたの所属した野球部には、何十人もの部員がいた。

それなのに、あなたはちゃんとベンチ入りを果たした。

出番は回ってこなかったけれど、大事な戦力として認められていたということだ。

 

3年生として最後の大会だから、きっとチームメートと力を合わせて、自分ができることをしっかりとやってきたのでしょう。

だって、あなたの高校は、各種のスポーツで強豪校。

野球だって、かなりの強さをもっている学校でした。

そのチームで、背番号をもらってベンチ入りまでできたのだから、よくがんばってきたよ。

ただ野球がいくらかうまいだけで、自分のことしか考えられないようなら、多人数の中でベンチ入りまではできないはずだ。

だから、人間的にも大きな成長を見せているのだろうなあ、と思っていたよ。

 

Bさん、あなたとかかわりがあったのは、11年前からの3年間。

あなたが小学校1年生から3年生までのきわめて子ども子どもした時代でした。

あなたは、気持ちをうまくコントロールできず、自分の感情をほかの人にすぐぶつけてしまうことがよくありましたね。

そして、そんなことをする自分や注意する周囲の大人が嫌いでしたよね。

だから、人とのかかわりではよくトラブルを起こしていたあなたでした。

 

そんなあなたが好きだったのが、野球というスポーツでした。

小学校に入学してから地域の野球チームに入り、野球はいつも真剣にがんばっていました。

野球は、チームスポーツですから、自分のことだけでなくほかの人のことまで考えられなくては、そのチームは強くなれません。

あなたは、きっと野球に一生懸命に取り組むことで、野球の技術だけでなく人とのかかわり方や人間性も高めていったのでしょうね。

 

8年前、別れのときが来たとき、あなたから花束を受け取ることを切望した私でした。

あのとき、「ガンバレ」という私の言葉に目をうるませながらうなずいてくれたあなたでした。

そして、この夏、高校野球のチーム紹介の雑誌にあなたの名前を見つけました。

それだけで、この8年間、あなたが自分にできる努力を続けてきたことがわかりました。

 

今日の試合で、高校野球生活は終わりだと思います。

でも、野球で努力してきたことが、きっとあなたのこれからの人生の力になるはずだと信じています。

これからきっと、さらなる活躍をしてくれることと信じています。

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卓球の石川佳純選手、現役引退

2023-05-01 21:23:58 | ひと

今日は、2つの引退報道があった。

1つは、アイスダンスの村元哉中・高橋大輔。

この種目で五輪には出られなかったが、今春の世界選手権での日本最高順位達成など、年齢が上がってから、よくチャレンジしたと思う。

本当に、よくがんばったと思う。

 

そして、もう1つは、卓球の石川佳純選手。

14歳で代表入りしてから、よくここまで日本の第一線で活躍して来たものだと思う。

特に、世界選手権やオリンピックの団体戦では、日本チームに欠かせない存在だった。

 

特に、ロンドン五輪で、平野早矢香や福原愛と初の銀メダルを獲得したのは思い出に残る。

その後も、2016年のリオデジャネイロでも、福原愛、伊藤美誠と銅メダル。

2021年の東京五輪では、チームの中心として、伊藤美誠、平野美宇を引っ張り、再びの五輪銀メダルに輝いた。

 

世界選手権では、2017年のデュッセルドルフ大会で、吉村真晴と組んで日本勢48年ぶりの金メダルを獲得したことは、すばらしい快挙だった。

 

全日本卓球選手権では、なんと5回も優勝を遂げている。

2010年度の大会で、17歳で初優勝してから、2013~15年度の3連覇もあった。

さらに、若手の台頭でもう石川佳純は勝てないと思われていたのに、2021年の大会で決勝では伊藤美誠を破って、女王の座に返り咲いた。

その根性たるやすごいと、当時はもらい泣きした。

 

根性がすごいといえば、東京五輪の個人戦の出場権を巡る戦いもし烈な中、平野美宇に負けずに、その参加資格を勝ち取ったのは、執念を感じた。

当時は感染症禍で大会出場も大変だったのに、世界を回り、ポイントをかせいでいった姿は忘れられない。

今年も国際大会に出て戦っていたから、まだまだがんばるものだと思っていた。

 

それにしても、ここまで第一線を維持するのは大変だったと思う。

進化する世界の卓球についていくために、自身のプレースタイルを前陣で戦えるように意識して変えた時期もあった。

それができたのは、猛練習の賜物だったはずだ。

もっとも、福原愛の次に天才卓球少女と呼ばれた彼女だった。

でも、天才と言われるのは、それだけの猛練習をして力を培っていたからだ。

それがなければ、普通の卓球選手だったはず。

 

いずれにしても、今まで本当によくがんばって、日本卓球界を支えてくれた。

その功績と努力を称えたい。

笑顔も魅力の石川佳純選手、長い間お疲れさまでした。

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「もういいかい 小椋佳ファイナル『歌創り50年 青春に帰る』」(NHKBSP)を見て知る彼の引退

2023-01-08 21:14:24 | ひと
今日、昼に何気なくテレビをつけていたら、午後1時からNHKのBSPで、「もういいかい 小椋佳ファイナル『歌創り50年 青春に帰る』」という番組が始まった。
これによると、小椋佳は、2年前にラストアルバムを制作し、コンサート活動もやめるとのことだった。
ただ、この感染症禍に陥ってしまったために、ラストコンサートが延び延びになってしまっているのだという。
だから、その代わりに、この番組で自分の人生に深くかかわった厳選した8曲を歌っておくことにしたのだということだった。

番組は、小椋佳が初めてのコンサートを開いたときの映像から始まって、彼の人生をたどりながら、8~9曲を歌う姿を見せていた。

彼が選んだ曲は、
○白い一日
○俺たちの旅
○木戸をあけて
○流されはしなかった
○時の始め、空の果て
○美しい暮らし
○愛燦燦
○ラピスラズリの涙
○もういいかい

彼が、レコードデビューすることになった話から、
生い立ちの話、
銀行員として働いていたときの逸話、
曲作りに関するエピソード、
2年前に制作されたラストアルバム録音の現場での様子
…などが織り込まれながら、番組の1時間半があっという間に過ぎた。

小椋佳の名前を初めて知ったのは、私が、高校時代だった。
小椋佳作詞、井上陽水作曲の「白い一日」のヒットによってだった。
高校生向けの雑誌に、見開きでその歌が紹介されていたのを覚えている。
その後、布施明に提供した「シクラメンのかほり」が大ヒットした後、空前の「小椋佳ブーム」が起こったのだった。
私が学生時代のころには、「めまい」や「揺れるまなざし」など自身のヒットや、中村雅俊に提供した「盆帰り」「俺たちの旅」など、彼の歌には引き付けられたものだった。
その魅力は、曲よりもやはり詞だった。
番組内でも扱っていたが、中村雅俊の「ただおまえがいい」では、曲名に「ただ」がついているとか「放物線の軌跡の上に」とか、歌詞ではなかなか使わない言葉を使っていた。
そんな詞に抒情的なものを感じ、引き付けられた歌が多くあったことは確かだ。
まあ、時々、妙に理屈っぽく感じられてしまったこともあるけれども…。

私の学生時代が終わってからも、「愛燦燦」や「愛しき日々」など他者に提供した楽曲がヒットした。
五木ひろしが熱唱する「山河」も、小椋佳の曲だった。
コンサートツアーもずっと続けてきていた彼だった。

その小椋佳も喜寿を迎え、自身の声が出なくなったことや、作品作りが難しくなったこと、肉体的な衰えなどから、来る1月18日の最終公演をもって大規模なツアーは終わりとするのだそうだ。
残念なのだが、これも人の人生なのだと思った。

番組の終わりの方で歌った、「もういいかい」という曲。
自分の人生や日本のことを歌っていた。

この国に生まれて この国に育って
随分長々生きたものだと 喜寿を超える歳に至り想う


という事実を歌いながら、

この国はそもそも いい加減が大事
神と仏とキリストないまぜ 平等理念に背く憲法
ふと思えば 信頼する政治家には 会わずじまい

という部分には、笑ってしまった。

でも、歌声を聴くとうまく声が出きらず、やはり今が引き際なのかなあ…と思った。
だけど、味わいのある声だな、惜しいなと思いもした。

それはともかく、もう少し最後のアルバムの曲を聴いてみたくなった。
アマゾンで小椋佳のアルバム「もういいかい」の注文をポチッと押してしまった。



この番組を見た後、今日、小椋佳の記事がネットに出ていた。
小椋佳が最愛の妻と別居し“週末婚”を選んだ理由 タバコは1日2箱、毎日コーラを飲む「不健康人生観」 | デイリー新潮

小椋佳が最愛の妻と別居し“週末婚”を選んだ理由 タバコは1日2箱、毎日コーラを飲む「不健康人生観」 | デイリー新潮

ポリコレが溢れ、“正しいこと”が跋扈(ばっこ)する令和の世。ゆえに健康こそ正義となるわけだが……。…

デイリー新潮

 

番組で聴いた内容も多かった。
まあ、ちょっと目を引こうとしている内容も前面に出ていたけれども。

吉田拓郎、小椋佳、財津和夫もそうだったかな…。
青春時代から今まで自分を支えてくれたシンガーたちが、次々と引退していくのは、やはりさびしさを感じざるを得ないなあ…。
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