ON  MY  WAY

60代になっても、迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされながら、生きている日々を綴ります。

娘よ(59)

2014-09-26 23:37:36 | 生き方
けいれん止めの点滴もなくなってしまうと、あとは暇なだけである。
娘は、眠たがってばかりいた様子も少なくなった。

4人の大部屋とはいえ、カーテンが引かれて仕切られた病室は、娘にとって、刺激がなさ過ぎて、あまりよい環境ではないと思える。
カーテン越しでは、他のベッドから話しかけてくれる方もいない。
することもなく時間が過ぎると、仕方なくナンプレ(数独)をするか、昼寝をするか、それくらいしかやることがない。
前の病院では、回復に向けて3種類のリハビリをしてくれていたが、この病院は救急救命に大きな役割を果たす病院であるため、今は特に予定されてはいない。
それでも、また入院したという話を聞いて、かつてお世話になったSTの方が、わざわざ顔を見に来てくれたりもしたが、特別なトレーニングは、なされないままであった。

回診で来られた今回の主治医の先生と妻が話し合った結果、先生は、受け入れ可能なら退院して、家で自宅療養することもよい、と認めてくれた。
ただ、会計等の手続きの都合上、土・日の退院はできない。
ならば、と少し急な展開になるのだが、本日金曜日午後、退院させてもらった。

ナースステーションの前で、またお決まりのように、娘はたくさんの看護師さんたちに手を振って、たくさんの涙をこぼした。
これで、この病院の退院が3回目。看護師さんたちとの別れも、3回目になる。
だから、長くいたつもりにもなる。
今回1週間しか入院していなかったなどというのは、娘にはちょっと信じられなかったようだ。
もっとたくさんの時間を看護師さんたちと共有していたような気持ちになっていたようであった。

家に帰ってくると、いつものように仏壇に手を合わせた後は、ずいぶんスッキリしたような様子になった。
だが、家に帰ってきたら、やたら動き出そうとする。
家に来れば来たで、いつもどおりの行動をとろうとするのだ。
郵便が届くと、立ち上がろうとしたので、やめさせるようにした。
まだ足元は多少ふらついている感があるのだから、行動は慎重にさせなければならない。

1週間前の夕方は、全身痙攣に2度襲われて救急車で運ばれ、大変だった娘。
とりあえずは、1週間で家に戻って来ることができた、ということを喜ぶことにしよう。
あとは、様子を見ながら、日常生活の機能回復を図っていきたい。
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娘よ(58)

2014-09-23 22:49:02 | 生き方
ICUでお世話してくれた看護師さんたちは、昨年も2度にわたってお世話になった人たちであった。
知っている人たちだったのは、ありがたかった。頼りになった。
そこでひと晩を過ごした娘は、とりあえず危険な状態を脱したということであろう、幸いにも翌日の昼下がりに、一般病棟に移された。
一般病棟から迎えに来てくれた看護師さんは、娘が昨年入院中に結婚されて、苗字が変わったHさん。
車椅子で運ばれる娘に、「前にもお世話になった看護師のHさんだよ。」と話をすると、娘は思い当たるのかどうか定かではないが、首を縦に振ってうなずいた。
一般病棟のナースステーションには、娘が7月にも抱きついて別れたOさんや、よく漫画化してしまった男性看護師のNさんたちもいた。
知っている顔にこれで3度もお世話になってしまうことに恥ずかしさを感じた。

大部屋に運ばれた娘は、熱が高く、眠たがっていた。
けいれん止めのD剤の点滴や、心電図をみる機械を取り付けられたままであった。
長い入院生活で、娘の腕には、何か所も点滴の針が刺さってきた。
うまく付けられないようで、今回は、左の人差指に点滴針が付けられていた。
この日の夕方、食事がとれるようになった。
しかし、食欲のない娘は、半分も食べようとしなかった。
ただ、ひたすら眠たがっていた。

3日目になっても、眠くてたまらないようであった。
熱が少し下がり始め、立って歩くことができるようになった。
しかし、点滴しながら歩くのだが、その足元は頼りなかった。
点滴の支柱につかまりながら歩くのだが、キャスター付きの支柱が流れていくと足がそっちに向かってよろけるという有様であった。

4日目、D剤の点滴が外された。
熱は下がった。
食欲も出てきて、残さず食べようとしていた。
しかし、まだ何か書いたりする気にはなれないようであった。
頭の働き、手の細かい動きなどに自信がないのだろう。

5日目。昼寝もするが、起きていられるようになってきた。
ただし、まだぼうっとしている時間が長い。
手首近くにできた青あざを、「どうしてこんなふうになっているんだろう?」と、何度もつぶやく。
そのたびに、「点滴の跡だよ。」「今は指先にしている点滴をそこにしたあとなんだよ。」と教えると、「ふうん。」とうなずいて納得する。
だけど、その納得はしばらくすると消えてしまうようで、また手首を指して「ここ、青くなっている。」などとつぶやく。
やはり、けいれんが起こると、このように記憶・認識が定まらなくなるのだ。
そのことがやはりせつない。

前の病院を退院する時、医師から「最近調子がいいから、調子がいいとまたけいれんが起こりそうで不安ですよね。」と言われた。
そのとおりになってしまった。
再三今の病院に救急車で運ばれて、再三同じ人々にお世話になってしまっている。
仕方がないとはいえ、もう少しなんとかならないものか、と思ってしまう。

しかし、けいれん止めのD剤も外された訳だし、「ここは、どこ?」と聞くと「病院。」と答えている。
記憶は相変わらず積み重ならないが、以前に比べたら、多少はましだと考えたい。
深刻さも少しは薄れているかもしれない。
娘の現状、ありのままを受け入れながら、少しずつの回復を祈っていきたい。
それしかわれわれができることはないから。
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娘よ(57)~発作 救急車 ICUへ…~

2014-09-19 23:24:04 | 生き方
本日夕方、職場に妻から電話が入った。
娘が、家で入浴中にけいれんを起こして倒れたという。
意識は戻ったが、寝かせている。早く帰ってきてほしい、とのことだった。
職場では、若い職員の相談に乗っているさ中だったが、事情を話して、職員の判断に任せることにした。
書類を作って遅くなっても届けるはずだった所に、おわびしながら届けるのは来週になると、伝えた。
ほかにも、退勤後に寄るはずだった所に断りの電話を入れた。
焦りながら、極力冷静な運転を心がけながら、家へと車を飛ばした。

家に帰ると、妻から連絡を受けた息子が、娘を風呂場から脱衣所に移動させたと言う。
救急車を呼ぶか、どうしたらいいのか迷っていると、妻は言っていたが、まずは病院に相談することを勧めた。
妻が病院に相談し、救急車を呼ぶことにし、電話を切ったとたんに、私の眼前で2度目のけいれんが起こった。
手足が勝手に動き、白目をむいた。
幸い、口で息はしていた。
救急車が近づく音がしたので、私は、外に出て救急車に向かって誘導の手を挙げた。
救急隊員が3名駆け付け、娘に向かって名前や生年月日を問うた。
名前はかろうじて言えたが、生年月日に返答はなかった。
救急車に妻が同乗して、最初に入院した病院へと娘は運ばれた。
私と息子も、自家用車で病院に向かった。

脳のCTでは異常はなかったらしい。
そう教えられても、なかなか家族は呼ばれない。
救急外来の待合室で待つこと約2時間。
ようやく名前を呼ばれ、さらに10数分待たされ、集中治療室ICUへ。
ICUでも20分近く待たされ、ようやく娘と面会できた。
ICUの病室は、1年余り前、最も長く滞在した病室であった。
「眠い。」と娘は言った。
「(家族が)みんな、いる。」と、うす目を開けながら、家族の存在を認めた。
「いいんだよ。ゆっくり休みなさい。」
そうわれわれは言って、娘を安心させることに努めた。
娘は、われわれが持って行った「ガチャピン」のぬいぐるみに顔をうずめて、寝ようとしていた。
看護師の方は、1年前に入ったことも覚えてくれていた。
とりあえず2週間くらいは入院となるらしい。
7月1日以来の発作。
去年の5月末から始まった病院生活を終え、やっと退院したのが一昨日。
まだ家での暮らしも、3日目でしかなかった。
かわいそうと思うばかりだ。
今日の午前中は、親戚からシュークリームや花など、たくさんいただいた。
ところが、娘も食べたがっていたシュークリームも、今日は食べさせることができずに終わってしまった。
悔しいかぎりだ。
いったい、どこまで娘は苦しまなくてはいけないのだろうか。

 せっかく退院して自宅で暮らし始めたばかりだったのに。
 あれほど望んでいた家に帰れたばかりだったのに。
 本当に悔しい。

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9月上旬、福島潟で花見

2014-09-18 20:18:58 | 草木花
9月の上旬に今年もオニバスの花や潟周辺の花を見るために、新潟市北区の福島潟へ出かけた。
今年は、去年より行くのが少しだけ遅かったのがかえってよかったようだ。
オニバスの花が、去年より多く感じられた。

また、

ミズアオイの花が、オニバスの池の周辺にもよく見られたのだ。

去年も見たミズオオバコ、

不思議なガガブタ、
コウホネなどは、今年も期待通りに咲いていた。
オニバスの繁殖しているエリアの近くには、イヌゴマかな?という花

がたくさん見られた。

福島潟のオニバスのエリアから、今度は、「遊潟公園(ゆうがたこうえん)」なるエリアに車で移動した。
この行程は、今工事中であった。
道が狭くて通りにくいので、少し道を広げようとしているのかな?
遊潟公園では、咲き残っているハスが堂々としている

のだが、それ以外に、ヒシは今が盛りであった。
ほかにも、植物図鑑を開きたくなる野草が結構たくさん見られたのである。
ヒシは、


葉っぱを見ると、本当に「ひし形」だと思うなあ。


これは、オモダカ科のアギナシ、

葉がネムノキに似ているカワラケツメイ、

ツユクサの葉に似た葉でピンクの3枚花びらのイボクサなど。
まだあったけど、名前が調べてもわからない。…。

最後に、福島潟を象徴する建物の「ビュー福島潟」

の近くに車をおいて、潟来亭(かたらいてい)なる古民家風の建物

の近くで、ソバの花を見た。

ソバは、もう刈られ始めていた。もったいない。

こんなふうに、3つのエリアを回って、福島潟の水辺の植物を楽しんだ。
9月上旬の福島潟は、水辺の花見が楽しい。

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娘よ(56)~退院~

2014-09-17 12:33:09 | 生き方

退院の日を迎えた。
幸い良い天気であった。
病院では、今日も9時から40分間、PTを行ってくれていて、病室に娘はいなかった。
妻と荷物を片付けて、大きな荷物は先に車に運んだ。
病室に私が戻ると、PTの担当者と妻が話をしているところであった。
だいぶ足元がしっかりしてきたけど…などと話してくれた。
こうしたリハビリも、退院後は週に1度通うだけになる。
医師、看護師、薬剤師、OT、ST、相談員…様々な方々から話していただいたり説明を受けたりした。
今後は、主治医も変わることになるそうだ。
この病院で3回目の「転医」になるとのこと。
OT、STの方からは、病室に掛かっていたガチャピン・ムックの札を外して、プレゼントしてもらった娘であった。


病室を出た。
食堂となるホールには、おやつの時間としてテーブルについている方々もいた。
娘は、いつも自分が座る座席の向かいの方がいるのを見つけ、サヨナラの手を振った。
以前同室だった方も、看護助手の方に押してもらった車椅子に乗って、見送ってくださった。
娘に、前の病院を退院する時のような涙はなかったけれど、エレベーターの前で見送ってくださる方々を見て、本当にたくさんの方々にお世話になったのだなあ、と改めて感じた。
チームで、患者同士で、患者を支えている病院、ということを実感した。

病院の玄関を出て、両手に荷物を持ちながら、駐車場に止めた車に向かって歩いていく途中、涙が出てきた。
娘の入院以来、何度目の涙だろう。
退院と言ってもまだ安心はできないながら、今度は転院ではなく自宅に戻る退院である。
救急車で運ばれてから、1年と4か月。
様々な山や谷があった。
いや、谷に落とされることの方が多かった。
やっと、ここまで来た。
そう思っていたら、涙が出ていた。


家で、どのような過ごし方をするのか、家でどのような回復が図られるのか、まだ想像ができないが、長年過ごした自分の家で過ごすことは、病院にないリラックスを生むとは思う。

1年前の「救急の日」、ようやくICUから一般病室に移ることができた娘だった。
あの後の回復が順調なら、もう少しシャンとした状態で退院できただろうと思うが、その後も何度か襲われた全身痙攣のたびに、回復は遅れたように思う。
そのうえ、大切な記憶も、さらにさかのぼって失われていったように思う。
それが残念だが、あれさえなければ、などと思っていても、状況がよくなるわけではない。
500日近くの時間をかけて、退院の日を迎えたことをまずは喜ぼう。
まだまだこれから…のところは多いのだけど…。

まずは、
退院、おめでとう、マイ・ドーター!




…さよなら、病室の暮らし。





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娘よ(55)~試験外泊~

2014-09-10 22:25:10 | 生き方
初めての外泊。
試験外泊。
家で土日を過ごす。
何もなく無事に過ごせればいいのだが。
そう思いながら、土曜日午前10時半、妻とともに、娘を病院に迎えに行った。
外出となると、娘は、目もとや頬に化粧して待っていることが多い。
なんとなくアンバランスな印象を受ける化粧なのだが、本人は外出する時の当たり前のこととして、行っている。

家について、娘がいつもまずすることは、仏壇に手を合わせること。

これは、病気前から習慣化していたことだ。
昔からの習慣は、忘れていない。

まもなく昼食。
娘は、そうめん以外なら、と言っていたのだが、暑い日でもあり意向を無視してそうめん。

食後には、千葉県在住の「おじちゃんち」(弟夫婦)から送られた梨を食す。

病院ではテレビを見ることはほとんどないのだが、家では、ついているとぼうっと見ている。

やがて、3時を過ぎ、家から最も近いスーパーに、夫婦で娘を買い物に連れていくことにした。
娘は、買い物が好きなのだった。
ただ、今までの試験外出では、大勢の人がいる場所に出ることが悪く働くことを懸念して、スーパーに買い物に出たことはなかった。
娘にとって、このスーパーに入るのは、1年3か月以上の久しぶりのことであった。
いつもなら、カートは妻が押すのだが、今回は娘が押す。

足元が時折ふらつく娘としては、絶好の手押し車となった。
スーパーの大勢の中を歩くということも、少々怖いことだったので、今までの外出(一時帰宅)ではさせていなかった。
何もなく、無事に買い物ができてよかった。

帰宅後は、最近ずっと口癖だった「アイスが食べたい」を実現。
先週同様のチョコミントアイスほかのおやつを食べる。
カロリーが高すぎないように。

夕食前に、風呂に入れた。
本来なら病院では、入浴日。
家で入浴することも、入院以来初めてのことだ。
浴室で一人にさせるのには怖さがあった。
ところが、娘は長風呂であった。
何度も、脱衣所からガラス越しに「大丈夫か?」と声を掛け続けるはめになってしまった。
やっと出てきたと思ったら、コンディショナーが落ち切っていない、と言って、再び浴室に戻ってシャワーを浴びる始末。
はらはらした。
幸い、体の不調は起こらず、夕食の時間となった。

家族4人で、夕食となった。
家族4人の夕食は、1年4か月ぶりとなる。
にぎやかなのは、何より。
皿の上のものも、結構あっという間になくなった。
私がその後驚いたのは、夕食が終わって、食器洗いを終えてもまだ8時になっていなかったことだ。
いつも仕事の後病院に寄って娘に会ってから家に帰って食卓に着くのは、9時近くであった。
食器を洗い終えるのは10時を回っているのが常であった。
なのに、すべてを終えてまだ8時である。
ああ、休日はこれが普通だったのだな、と改めて普通の生活を尊いなと思った。

わが家の娘のベッドは1階にあった。
だが、夜寝るに当たって、もし突然痙攣が起こったりした場合、同じ部屋でないと対応ができない。
そう考えて、われわれ夫婦と同じ2階の部屋で、娘と合わせ3人が、「川」の字になって寝ることにした。
もっとも、本来の「川」は、子どもが真ん中のはずだが、わが家では今一番体が小さいのは妻である。
娘が「ノ」となり、妻が真ん中、私が右側のふとんで寝た。
そのせいか、妻は、娘の様子や私のいびきが気になって、よく眠れなかったようだ。
夜中過ぎ、起き上がってトイレに娘が向かったのは、私にもわかった。

朝も、普通に起きることができた娘。
ほっとした。
午前中は、妻と娘で一緒に今日も2か所買い物に出た。
昼食後は、病院なら昼寝するのだが、この日もせずに過ごした。
フジサンケイ男子ゴルフの中継をだらだらと見続けていたのだが、野球よりもこちらを面白がって見ていた娘であった。
この日のおやつは、チョコミントアイスではなく、抹茶アイス。
そして、せんべい。

やがて、5時となり、病院に戻る時間となった。
体調に異変は起こらず、何よりであった。
仏壇に手を合わせ、長い祈りを捧げた後、「行ってきます」と言って、玄関を出た娘だった。


病院に着いて、行先を娘に判断させてみると、入院している病棟に足は向かなかった。
エレベーターに乗って、病室は何階か、ボタンを押させると、3階を押した。
エレベーターを降りて歩いてみると、違いを感じた様子。
再びエレベーターに乗って、上の階のボタンを押す。
扉が開いて、けげんそうにキョロキョロする娘。
通りかかった看護助手の方が、「お帰り。」と声をかけてくれたら、ホッとしたらしい。
せかせかと歩き出した。
病室番号は言えなくても、室札の下にかけられたガチャピンの絵を見つけ、自分の病室だと確信していた。

家に帰って来たこと、一泊してきたことは、なんとなく覚えているのだが、他の記憶はすでにあいまいなものになっていた。
3時間ほど前に食べたアイスをチョコミント味だと言っていた。
この昼に焼きそばパンを食べたことも、忘れていた。
いろいろなことを話すたびに、返答に困っていた。
やはり、記憶障害の改善はなかなか簡単ではない。

娘は、今日の記録の最後の欄に「家に帰りたい」と書いていた。
2日間にわたって帰って来たばかりであったのだけれど、それゆえやっぱり家がいいということだ。
だけど、PTの成果が出ているようで、つまずいたりふらついたりすることは少なくなった。
階段の上り下りも確実にできた。
体調不良さえ起こらなければ、家で生活していく方が、精神的にはきっと落ち着いて過ごせることだろう。
家で実生活を送りながら、改善を図っていく。
その方向で進もう。
近いうちに退院させてもらい、家で家族みんなと共に暮らしていこう。
そう決心も固まった、初めての外泊であった。


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ヤブツルアズキの花…かな?

2014-09-06 22:32:00 | 草木花

先日、勤務先から100km以上離れた長岡市に出張があって、高速を車を飛ばして行ってきた。
長岡市には、14,5年前に単身赴任で勤めていたことがあった。
あの当時は、完全週休2日制ではなかったから、1週間の勤めを終えて家に帰る道のりは遠かったが、とてもうれしい時間であった。
ただ、あの頃は、山野草などには興味がなかった。
だから、季節の移ろいを感じることは合っても、咲いている野草が何かなどとは考えたことはなかった。

用務を終えて帰る時には、高速代がもったいないので、平野部ではなくぐるりと山道を通って帰ることにした。
山道と言っても、ちゃんと舗装してあり、車の通る量もそこそこである。
見附第二小学校から折れて、旧下田村(現三条市)の駒込地区につながる道を行こうとしたら、道端からあふれるようにツルを伸ばしながら、黄色い花を咲かせている野草があった。

がくなのか花びらなのかわからない黄色い花。
独特に丸くなっている花。
よく見るとなんともユニークだ。

ツル状に巻き付きながら伸びているし、実がインゲンに似ているようにも見えるから、マメ科の植物だと思う。
しかし、今まで意識して見たことはない野草だった。
長岡には3年間勤めたのだから、見たことがあっても不思議はないのだが、関心がないと目には入らないものだと、改めて思う。
自分の住んでいる周辺にも見かけないものだから、私にとって、新しい野草の発見であった。

この後、加茂市の西山地区を走っていると、大量のツリフネソウが目に入った。

じっくり見ようと車を降りたら、2年前に初めて見たツルボが、ひと株花を咲かせて始めているのを見つけた。


こんなふうに野草に興味を持つようになってから、新しい草花の発見や久々に見つけた野草との再会が本当に楽しい。
家に帰ってから、件の黄色い花の野草を調べた。
手持ちの「新潟県野草図鑑」には載っていなかったが、さらにあれこれ調べていくと、どうやら「ヤブツルアズキ」らしいとわかった。
道端に自然に咲いている野草であっても、場所によって全く見かけないものは多い。
住んでいる人たちにとっては当たり前の雑草でも、そこを通りかかった人たちにとっては、珍しい花となる。
どこに行って見つけた、とか、どこで初めて知った、とかいうことも思い出になる。
時には、こんなふうに、昔普通に見ていたはずでも、何ら気付かなかったものもあるのだ。
楽しい発見の多い、野草の花見である。
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