ON  MY  WAY

60代になっても、迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされながら、生きている日々を綴ります。

休日を楽しみたくて

2014-05-26 22:57:40 | 生き方


今日月曜日は、土曜日が勤務となった代わりの休み。
昨日日曜日は、娘の通算7回目の外出=帰宅日であった。
体調が今一つ思わしくない娘は、帰宅するなり廊下で足をくじいてしまった。
それでも、ガラス戸に突っ込むことはなかったのが幸いであった。
昨日の昼食で、娘が欲したのは、「父の作ったラーメン」。
…ということなのであった。
妻が具材を用意してくれたこともあり、特別うまいという訳ではないが、インスタントラーメンにいくつか小さいホタテやミックスベジタブルなどを入れて、塩ラーメンを作ったのであった。

前回は、髪を染め直した娘であったが、今回は、左足をくじいたので、特別したことはなし。
動きの少ない滞在となった。
あまり面白い試合にはならなかったが、テレビで阪神とロッテの対戦をぼんやり見ていた娘であった。



娘はともかく、今日は、家族の中で一人だけ休みという私。
家事はあるわ、好きなことを何かしたいわ、娘の病院も訪ねたいわ…。
ともかく、まずは、朝から主夫である。
茶わんを洗い、洗濯物を干し、定番のカレーライス作りにいそしんだ。
カレーが完成したのは10時半過ぎ。

これなら、少しの自由時間ができる!
…ということで、今が旬の花を見たくなった。
簡単に山登りもしたかった。
しかし、疲れから早起きはできなかった。
遠くへは行けない。
でも、旬の花は見たい。
旬の花、旬の花、旬の花…。
そうだ、ヒメサユリ!
三条市下田地区でヒメサユリが見ごろだとのニュースがあったが、そこまではさすがに遠い。
午後から娘の病院を訪ねることができなくなってしまう。
そこで、登り始めて20分もすれば頂上に行ける山、臼が森山を選んだ。

登り始めると、ヤマツツジがあちこちに花を開かせたりつぼみでいっぱいだったりしていた。

アマドコロもいくつか見かけた。

そして、10分余り急坂を登り切ると、見晴らし台があり、そこにはヒメサユリがさっそく2本ほど咲いていた。
もう少し登っていくと、道の両脇にぽつんぽつんと、咲いているヒメサユリを見かけた。
山頂部には、十数本の咲いているヒメサユリと満開のヤマツツジが待っていてくれた。

雨の降る前のくもり空だったため、眺めはよくなかったが、それでも田植えを終えたばかりの田が、眼下に広がっていた。

ヒメサユリ、ヤマツツジ、山頂…。
ふう。気分がよかった。

下山中は、大きなホオの木の花が目に留まった。


花見と山登りを短い時間に楽しんだ。

それから、午後から病院の娘を訪ねた。
訪ねていくと、やはり昨日痛めた足が痛いとのこと。
レントゲンを撮ってもらいに行き、幸い骨に異状はなかったようで何よりであった。
いくら記憶が積み上がらなくても、さすがに足の痛みは忘れられずにいた娘だった。
明日は、夜の会合があり、娘を訪ねることができない。
その分、たっぷり病室で付き添った。
娘と時間を共有できる、そのことをたっぷり楽しんだ。

家事、山登り、病院通い。
今日もあっという間に終わったが、それなりの充実を感じた一日であった。
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娘よ(45)~寂しさが身にしみる~

2014-05-21 23:13:07 | 生き方
ここ2週間くらい、娘の病室は、娘にとってよいと思われる環境になっていた。
「なっていた」と書いたのは、今日その状況が終わってしまったからにほかならない。

約2週間前、同じ病室の向かい側のベッドに、80歳ながらおしゃべりが好きな、結構元気なお婆ちゃんOさんが入ってきたのだ。
そのほかにも前から入っていたもう一人のお婆ちゃんHさんもいたのだった。
そのころは、隣のベッドには、寝たきりでほとんどしゃべらない方もいたけれど。4人部屋のよさが十分に表れていた。

娘は、人が好きだ。
もともと、たくさんの人とおしゃべりしたりかかわったりするのが好きなのである。
それが、たとえお婆ちゃんたちであったとしても。
だから、このお婆ちゃんたちと話をすることは、娘にとっては望ましいことであった。
自分が、くだらない話で笑わせたり、介護施設で働いていたことを話したりして、お婆ちゃんたちの心をつかみ、仲良くなったようであった。
特に、真向かいのOさんは、娘によくかかわってきてくれた。
娘も、Oさんのことを面白い、と言って、すごく気に入ったようであった。
Oさんも、日に日に容態を回復させていった。
その結果、Oさんは、今日で退院となった。
もう一人、前から同室だったHさんも、別な病院で手術を受けるからという理由で今日退院となってしまった。


この間、娘の体に何も起こらなかったわけではない。
記憶障害であることは、お婆ちゃんたちにもわかってもらえたようであったが、以前書いたように、小発作かと思うような症状に見舞われたこともあった。
昨日も、お婆ちゃんたちと翌日の別れを惜しんでいた時、急に左耳付近の不調を訴えた。
幸い、十数分後には、けいれんに至らずに体を起こすことができたけれども。

今日、同じ日に、仲間二人を失った娘の病室は、一気に火が消えたように寂しくなってしまった。
今日は雨が降ったせいもあり、肌寒さも感じたのだが、娘しかいない病室はさらに空気が冷たく感じた。
寂しくなったことを口にしながら、まあまあ元気だった娘だが、日中は寝ている時間が多かったらしい。
やはり昨日から体調不良をひきずっているらしい。
妻の話では、夕食前には頬のあたりのしびれを訴えていたと言う。
妻が帰った後も、娘は右腕のしびれを訴えた。
その時の、娘と私の二人だけの広い病室が、やけに心細く感じられた。
夕方病室を訪れた私にも、寂しさが身にしみるように感じられた。
幸いしびれが広がることはなかったが、「おかしくなりそうな気がする」と頬のあたりを何度も抑えていた娘だった。

その娘が、急にボロボロと涙をこぼして泣き始めた。
具合が悪いのか?
気持ち悪いのか?
病気が不安なのか?
寂しいのか?
…尋ねる言葉に、どれも娘は首を横に振った。
涙ながらに語った言葉は、次のようなものであった。

「病気になってしまったのは、自分の人生だから仕方ないと思うけれど、父や母に迷惑かけていると思ったら、急に悲しくなった。」

そんなふうに言って、何度も大きな涙をぽろぽろとこぼしていた。
不びんだなあ…と思った。
「なってしまったものは仕方ないよ。」
「でも、時間がかかっても、少しずつでも治していこう。」
「まだ若いんだから、よくなると信じてさ。」
私は、そう言って勇気づけた。

まもなく面会時間終了となるので、看護師さんに症状を話して帰ることにした。「ありがとうございました。」
そう言う娘と、いつものようにタッチを交わし、病院をあとにした。
一人だけの病室に娘を残すのは、なんだかとても可哀想に思えて仕方なかった。



思えば1年前の、今日から8日後だ。
娘が病に倒れてから、もう1年を迎えようとしている…。

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ノボロギク~心は錦~

2014-05-16 22:11:45 | 草木花


襤褸。

この字を何と読むか?
読める人は、その漢字力には、高いものがある。

正解は、水前寺清子さんが歌った「いっぽんどっこの唄」の歌詞に出てくる。

ボロは着てても心は錦
どんな花よりきれいだぜ

…と歌っていましたね。(なつかしい!)

正解は、「ボロ」。

大阪で生まれた女やさかい
東京へはようついていかん

…「大阪で生まれた女」。
それを歌った人は、BORO。
(単なるダジャレです。すみません

さて、「ボロ」の名がついた野草がある。
漢字で書くと、
「野襤褸菊」。
その読みは、ノボロギク。

「ボロ」とはかわいそうなのだが、きっと綿毛がついている姿が、ボロ切れのかたまりに見えたからの命名に違いない。


勤務先の建物の外、3か所で、この野草が咲いているのを見かけた。

花は、たんぽぽのような舌状花ではなく、筒のような形の筒状花だけの集まりだという。
春から秋の遅くまで咲いているのをよく見かける。
派手な美しさは、ない。
しかし、見かけた3か所のノボロギクは、どれもコンクリートのすき間に生えたものだ。
たくましい。

いっぽんどっこの唄が、もう一度よみがえる。

ボロは着てても心は錦
どんな花よりきれいだぜ

ボロという名はついているが、どんな花にも負けない根性はしているのだぜ。
…そういう主張を花から感じ取った。

ノボロギク。
細く、しなやかであるが、したたかさも兼ね備えた草花である。

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走ってみたくなって

2014-05-14 22:54:36 | RUN

久々にどうしても走りたくなった。
娘が転院してからというもの、ますます時間に余裕がなくなった。
勤務先が、自宅と正反対の方向にあるのだ。
だから、勤務先から自宅まで帰った後、それと同じくらいの距離を反対方向に走らないと、娘の入院している病院にたどり着かないのだ。
勤務時間が終了したからといって、すぐに退勤できるわけではない。
だいたいは、職員から何らかの相談があったり、打ち合わせをしたりしている。
それが終わってから、病院まで行く。
午後8時の面会時間終了の後、家に帰ると、だいたい午後8時半である。
それから、空腹を満たすために夕食。
そうなると、平日、勤務終了後に走ることは難しい。
そこに、最近の足腰の不調が来ているから走らずにいた。

ただ、この日は、前日のちょっとしたショックもあって、どうしても走りたくなった。
幸い、出張先から自宅に帰ることにしたから、ほんの少しだけ早く帰れた。
準備運動を念入りに行って、ふくらはぎや腰の痛みが出ないようにセーブしながら、スピードを上げないスロージョギングで行くようにした。
走った場所は、近くの運動公園を大きく周回するコースであった。

実は、前日は、娘の5回目の帰宅外出があった。
家で日中の半日を過ごした。
ただ、娘は、前回書いた日から引き続き不調であった。
食べた物も、数分と覚えていられない。
したことも、尋ねると、…???である。
やはり、この前の不調は、全身けいれんにまでは至らなかったが、発作と考えてよいものであったのだろう。
動作も鈍く、多少よろけたり、足の運びがおかしかったりしていた。
そんなわけで、注意して見ていたつもりであったが、家で、足がよろけて2度も倒れてしまったのであった。
1回目は、トイレに立とうとしたときである。
ふらついたため、とっさに座椅子につかまろうとしたが、軽い座椅子に体重をかけてしまったために座椅子ごと前に倒れ、娘は、頭をガラス戸に打ちつけた。
このときは、幸いガラスは割れなかった。
ガラスが割れず、頭にガラスが刺さる、なんてことがなくてよかったと、妻と胸をなでおろした。
ところが、それから2時間ほど後、2回目の転倒が起こってしまった。
その時、洗濯物をたたんでくれていた娘が、不意に立ち上がった。
洗濯ばさみを上のハンガーに戻すためだ。
ところが、娘は、立ち上がった脚に力が入っておらず、ふらふらとよろけてバランスを崩した。
さっきは大丈夫だったが、今度は、湯呑み茶わん等の入った食器戸棚へ、背中からもろに突っ込んだ。
ガッシャーン、という戸棚のガラスが、大きな音もろともに割れ、粉々になった。

「動くな!」と娘に対し大きな声で叫んだ私は、娘の着ているカーディガンを脱がせ、妻とともに娘を安全な場所に移動させた。
幸い、ガラス片は娘の髪や内側の衣服には付いていなかった。
掃除機で、外側の衣服に付いた細かいガラスの破片を吸い取り、大きなものは、別に集めて処理していった。
戸棚や周辺にガラスが残らないよう、丁寧にきれいにした。

ガラス片の片付け作業をしながら、食器戸棚の中に合った2つのトロフィーに目が行った。
これは、小学生時代の娘が、小5・小6と2年続けてSBちびっ子健康マラソン大会で3000mを走って優勝した時のもの。

あれから20年近くたって、こうやって走るどころか立ち上がるだけでもよろけてしまい、ガラスを割ってしまうなんて…と、ちょっぴり悲しくなった。
また、走れるようになる日は来るのだろうか…?


前日にそんなことがあったせいか、走りたいな、と思った。
走って、うつうつとした気持ちを少しでも晴らしたくなった。
20年前、娘と毎朝のようによく走った近くの運動公園へ行き、公園内を数周走った。
準備運動はしっかり行った。
久々なので、速くは走れない。
速過ぎると、またふくらはぎや腰が痛くなるような気がして、いつもよりスローなジョギングで、駆けていく。
元気な時なら1周5分余りで走れていたのだが、平均で6分半ぐらいかけて走った。
最後の1周を走っている時、コースに小3くらいの女の子とお父さんらしい人が飛び出してきた。
あえてアップダウンのあるコースを走っているらしい。
ポニーテールに髪を束ね、スリムな女の子。
きっと、走るのが好きな子なのだろうなあ。
お父さんと、ちびっ子マラソン等を目指して走っているのだろうなあ、と思った。
ああ、なつかしいなあ。
20年前、私と娘もそうだった。
毎朝、3㎞弱のコースを走っていたのだった。
息子はごくたまにサボることもあったが、2歳年上の娘は走るのをサボることはなかった。
ちびっ子健康マラソンでの優勝インタビューでは、「毎朝、お父さんと走っています。」と答えていたことが思い出された。

最後の1周と決めて走っていると、後ろから、先ほどの父娘が次第に背後に迫ってくるのを感じた。
やがて、横を抜いて行った。
いい走りだ。
腕を適度に振って、ストライドが伸びる。
走るのが得意なのだろうなあ。
がんばれ、がんばれ。
がんばれ、お父さんと。
心の中でそう念じながら、私は家へ帰るための道へと別れて走って行った。

久々の復活ラン。
32分20秒。
タイムを見直すと、4周の1周ごとの走りは、6分02秒,6分12秒,6分29秒,6分32秒。
さすがに速くないなあ。
でも、自分がわずか30分余りだけれど走れたこと、昔の自分たちを思わせる父娘が走っている姿を見たことなどが、気持ちをさわやかにしてくれていた。

今までの自分の人生、子どもとともに歩んできた人生は貴いものだ。
私にとって、走ることには、昔のわが子たちとの思い出がよみがえることも心地よさがある要因の一つなのかもしれない。
そんなことも思った、6週間ぶりのRUNであった。

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娘よ(44)~不調~

2014-05-09 22:38:55 | 生き方
今週がやっと終わった。
勤務日は、水木金と3日しかなかったのだけれど、疲れてしまった。

連休が明けた水曜日のことだ。
病院に着いたら、すでに娘は夕食を終えていた。
だが、薬を飲んだことも忘れ、まだ薬を飲んでいないと主張した。
看護師さんに聞いてみると、確かに飲んだということだった。
また、食事の献立はいつもノートかどこかに書き付けているのだが、今日は極めて珍しく、どこにも書いたものがなかった。
おかしい。
今日の娘はおかしい。
そう思った。
表情は変化に乏しく、体調の悪さを思わせた。
最近ここ何か月かは、具合が悪くても食事もメモはとっていたし、毎日何かノートに書きつけていた娘であったから。

娘は、私たちに、頬の辺りの違和感―ぎゅっと絞られるような感覚―を訴えた。
様子を見ていたが、顔つきはどよんとしたままだ。
生気がない。
今日は、明らかにおかしいから、看護師さんに伝えていく、と言って妻が先に帰って行った。
そのあと、私は、娘と娘の病気について話を始めた。
私と話をしながら娘は、「家に帰りたい。」と、次々と涙を流した。
私は、娘に、
最初は大変だったこと、
大変さを乗り越えてここまできたこと、
やっとひと月前にけいれん止めの点滴がとれたこと、
1年かけてようやくここまで回復したこと、
記憶にはなくとも4回外出して家に帰れるようになったこと、
…などを話して伝えた。
娘は、うなずきながら話を聞いてくれていた。
…が、しだいに動きが鈍くなり、視線が止まることが多くなってきた。

おかしい。
私は、娘をべッドに寝かしつけた。
仰向けになって、薄目で視点が定まらない娘だった。
生つばを何回か飲むようにのどを鳴らしていた。
これはよくない兆候だ。
かつて娘は、この様子を見せた後、けいれんを起こす姿を見せた。
見たくもないのに、何度見せられたことか。
もう、あの姿は見たくないのだ。
それが起こらないことを願いながら、娘の左手を握りしめた。
そして、反対の手で、看護師を呼ぶためのブザーを押した。

最初は看護助手の方が来てくれたが、様子を伝えると、看護師さんを呼びに行ってくれた。
駆け付けた看護師さんは、さっそく血圧を計ったが、平常どおりの値だとのこと。
少し目の開き方が大きくなった娘に、気持ち悪くないかを聞くと、首を小さく横に振った。
しだいに目の開き方がしっかりしてきて、まばたきの回数も増えてきた。
頬がおかしくないか、口の中が苦くないか、と聞くと、首を横に振った。
どうやら少し改善したらしい。
看護師さんは、
「また来ます。今夜は、気をつけて見るようにします。」
そう言って他の病室に行った。

改めて大丈夫かと何回か聞くと、そのたびに今度は首を縦に振って応えた。
まずは、ちょっとほっとした。
10分間ほど手を握っていたが、話しかけるたび反応する姿になってきて、落ち着いてきた様子がうかがわれた。

面会時間が終わりそうなので、もう一度「帰るけど、具合が悪くないか。」と聞くと、大丈夫だと言う。
目が宙をさまよっているように感じたのだが、「父を見ていると、泣きそうになるから。」との言葉が返ってきた。
これなら大丈夫かもしれない、と面会時間終了の直前に、後ろ髪を引かれる思いで病室をあとにした。
全身けいれんは、幸い起こらなかったが、小さな発作が久々に起こったのではないか、と思った。
なんとか、全身けいれんには陥らないでほしいと、強く願った。

ひどく疲れて家に帰った。
早めに寝たのだが、夜中に目が覚めてしまった。
なかなか寝付けなかったため、翌日木曜日は、一日中頭痛でまいった。
夕方訪ねた娘は、食事の献立メモは書いたものの、ノートには一文字もなく、相変わらず不調の様相。
しきりに眠いと訴えた。
それでも、前日よりははるかにましに見えた。
顔の表情は、前日に比べればよいが、眠そうでたまらない様子だった。
やはり、昨日来の影響なのだろうか。
前日の姿は、小発作が起きたことを意味するのだろうと思った。
そう考えて、早めに寝るようにさせた昨日だった。

今日の夕方も眠さを訴えていた。
今日もノートには、献立を書いただけだった。
だから、本調子ではないと判断した。
ただ、だいぶ表情は豊かになってきていた。
冗談も飛び出すようになってきたので、どうやら回復してきたようだ。
ナンプレ(数独)をさせてみたら、結構素早くかなり正確な答えを多く導き出していた。
これなら、今週末も家に外出させてもよさそうだ。

やはり水曜日の姿は、けいれんの発作の一種だったのだと考える。
だから、そのダメージの影響が残った2日間だったのだろう。


相変わらず短期記憶は積み上がらないままだ。
ならばせめてけいれんだけは起こらないでほしい。
そんなことを考えた。

この3日間、どうなってしまうのか、不安にさいなまれた日々だった。
これからも、まだ続くのだろう。
改めて、体のことだけでもまだまだ簡単ではないと思い知らされた。
でも、支えるわれわれがめげずにいたい、と強く思う。

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奥会津方面へ花見ドライブ

2014-05-04 23:22:52 | お出かけ
去年のゴールデンウイークは、世界遺産の登録直前の富士山を見たい、ついでにサッカー新潟のアウエー清水戦を応援したいということで、夫婦で静岡に出かけたのだった。
まさか、その数週間後、娘が倒れ、こんなに長い入院生活を送ることになるとは思わなかった。
あれから、1年。そんな事情で、最近は「お出かけ」ができない。
夫婦で泊を伴うお出かけはできないでいる。

ならば、日帰りであっても、いろいろな種類の花が見られる所へ行ってみたい。
前回も書いたが、それだけでも、少しでも花を見ることができると、いい気分転換になる。
息子の厚意で、日中の娘の世話を任せて、久しぶりに県外へと夫婦でドライブに出かけた。
花見で検索した中に、福島県三島町の桜・カタクリまつりがヒットした。
もう見頃は過ぎただろうけど、そこへ出かけてみよう!

三島町の西方地区、大林ふるさとの山が、そのポイントであった。
たどり着いてみると、さすがに桜は散り果てていた。
カタクリも、かなり多くが咲き終わっていた。
ただ、そんな中でも、場所によってはまだカタクリがたくさん咲き残っている所もあった。

桜は、八重桜が満開の場所もあったし、しだれ桜が咲いている場所もあったので、そこはよかった。

全体に、カタクリが目立つように、小木の枝などは刈り払われていた。
よく手入れされていた。
出入口地点には、環境維持のための協力金300円をお願いするポストが設置されていた。

われわれは、桜やカタクリだけでなく、それ以外の山野草の花々が見られることが喜びとなる。

山を下りてからも、ヒトリシズカを見つけて喜んだ。

この日は、どこに行っても道路沿いにキケマンの花をたくさん見かけた。
ある場所では、明らかに「栽培」されていた。
土は黒いマルチ・シートに覆われ、明らかに「キケマン畑」。

ここのキケマンは、背丈も大きく、花も茎も堂々としていた。

この後は、昭和村を経由して、とある湿原に行こうとしたのだが、山の方に行くにつれて雪が多くなり、これでは絶対に雪が残っていて、植物など見ることはできないだろうと、夫婦の意見が一致。
残念だが、帰路につくことにした。
ただ柳津町まで戻ったとき、今日、このドライブの機会を提供してくれた息子に感謝して、土産を買うことにした。
買ったものは、柳津、と言えば、これ。
粟まんじゅう~!
どうしても、K店のものが買いたくて、珍しく行列に加わって、並んで購入したのであった。

息子よ、ありがとう。

帰路途中、ニリンソウやルリソウ、ホウチャクソウやレンゲソウなどを、見つけるたびに車を止め、写真に収めたのであった。

目指す湿原までは行けなかったが、春を感じさせる花々をあれこれと見ることができた。
楽しくドライブを終えた。

帰宅後少したったら、改めてハンドルを握り、病院の娘を訪ねた。
この日は、息子のほかに、前の職場で同僚(先輩&上司)であった、TさんとYさんが、娘のお見舞いに来てくれたとのこと。
Tさんからは、これまでにもたくさんいただいていたのだが、またまたガチャピン・グッズをいただいた。
今回のそれは、タオル。そして、額に入ったこいのぼりの飾り。
病院で、退屈を覚えるようになった娘。
退屈を覚えるということは、感覚が少し回復しているところがあると感じられる。
この4連休、こどもの日には、4度目の外出を予定している。

病院から、家に帰る運転で、この日の走行距離は、400km近く。
久々のドライブ走行であった。
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