ON  MY  WAY

60代になっても、迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされながら、生きている日々を綴ります。

娘よ(78)

2016-04-28 22:09:33 | 生き方
妻が入院している間、家族にはもう一人心配すべき存在がいた。
そう、長い自宅療養を行っている娘である。
妻が入院した日は、その入院事務が完了するまで、娘のことは、仕事を休んだ息子に任せることにした。
それから妻が退院するまでの3日間は、私が仕事を休んで娘の身の回りの世話や家事一切をまかなうことにした。(息子は土曜日も出勤日だった。)

そんななかで、久々に娘の今の暮らしの様子をしっかり見ることができた。
入院した日の夕方、娘を連れて妻のお見舞いに出かけた時のことだ。
桜がたくさん咲いて今や桜の名所とも言っていい場所を車で通った時、
「桜がだいぶ散って来たねえ。」と娘に話しかけたら、「昨日、母と散歩して見たよ。」との返事が返って来た。
おや。覚えているんだ。
そう思い、記憶に残っていることに感心した。
自宅療養中の娘。病気で大きく困っている理由の一つは、何度か書いたように短期記憶が積み上がらないことだ。
それが、こうして、一日前の行動の一部を覚えていることは、うれしいことだった。

妻が入院したのは、娘も入院していた病院だ。
入院した病棟が違うが、造りは同じなので、娘に自分が入院していたことを覚えているかどうか聞いてみた。
「全く覚えていない。」
そう娘は答えていた。

妻の入院中は、私が家事、と書いた。
もっとも気を使ったのは、夕食であった。
妻を見舞った後、スーパーに寄って、いくらか必要な買い物をした。
傑作だったのは、3日目だった。
夕食の献立の一つにどうかと考え、安売りのチラシに出ていた100g98円のポテトサラダを買おうか?と娘に問いかけた。
すると、娘は、「いらない。それなら私が作る。」ときっぱり言ったのだった。
「本当?」と娘に確認し、家に帰った。
私は、作ると言った娘のために、ジャガイモの皮をむいて、適度な大きさに切って、レンジでジャガイモを温め、柔らかくした。
その間、娘は、キュウリを細かく切ってよく絞っていた。
キュウリを細かく切る手つきなどは、私よりもはるかに器用だ。
いいリズムで、大きさも結構均等に切っている。
さすがに以前、グループホームで食事を作っていたこともあっただけはある。
その後、娘は、ボウルに移してジャガイモをつぶし、マヨネーズで味付けをした。
私に最後の味見を頼んだが、結構うまくできていた。
ただ、もう少しマヨネーズを足すことを提案した。
…こうして、娘のおかげで、おいしいポテトサラダが用意された。

妻が入院して4日目の日曜日。
入院後の経過が良好だった妻は、退院できることになった。
その午前中、娘と一緒に、退院する妻を迎えに行った。
家に着く前に、近くの小さな公園のそばを通った。
その時、娘が言った。
「Tさんがいなくなったら、だれが公園の草刈りするんだろうね。」
意外な発言だったので、私と妻は驚いた。
Tさんは、いつも公園の除草を、自分の家の刈払機を使ってしてくれていたのだった。
そのTさんが、次の連休中に引っ越して行ってしまうという話を最近聞いたのだったが、娘がその話を覚えていたのだ。
その話を聞いたのは、妻の入院前だったはずだ。
それを思い出しての発言である。
少しは最近の記憶が残ることもあるようになったということかな。
そうだとすると、うれしいな。
そう思えた瞬間だった。

妻の入院はとても大変だったが、こんなふうに、多少なりとも娘の状態がよい時があるということがわかった期間でもあった。

ただし、この状態が長続きする訳ではなく、数分前に自分が発した疑問を、快勝したはずなのにまたすぐ繰り返すと言うこともあったりしている。
それでも、「母が入院したことを覚えているか?」という質問には、うなずいてみせる娘である。

妻の入院は、大変なことであったが、娘の現状を確認できる、とてもよい機会となったのであった。
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妻の入院と地震の発生

2016-04-27 22:15:07 | 生き方
4月14日夜、熊本で今回の最初の大地震が起こった。
その16時間前、早朝、わが家では、それに先んじて家族の心を揺らす激震が走っていた。

朝5時半、勤務先が変わった息子に起きてもらうため、立ち上がった妻は、猛烈なめまいに襲われた。
自分の周りで地球がぐるぐる回っているような感覚だったらしい。
目を開けていられず、気持ち悪くて吐きそうだと言う。
横になっても、一向に具合はよくならない。
娘も目を覚まし、心配していた。
医者へ行くのなら、やはり脳外科だろうか、などということを妻はつぶやくが、目は開けられない。
これは、もう救急車を呼ぶしかない、と私は判断し、救急車を呼んだ。

妻は、服をなんとか着替え、2階の寝間から階段を座りながら少しずつ降り、茶の間にきた。
心配な娘のことは、先に起きていた息子に任せることにした。
息子も、今日の仕事は休むことにした。

6時半過ぎに救急車はやって来た。
救急車から降りてきた人は、容態を聞いたり確認したりして、手際よく体温や血圧を測定した。
ストレッチャーに乗せられ、妻は救急車に乗った。
やがて、病院に運ばれた妻は診療を受け、様々な検査をしてもらったらしい。
もっとも本人は、ずっと目を開けられず、気持ち悪い状態がずっと続いていたから、何がどうなっていたのかはよくわからなかったようだ。
私は、その間2時間ずっと待合室で待っていた。
2時間後診察室への入室が許され、付き添っていた医師の説明によると、CT検査によると脳の異常はなかったらしい。
そのため、次は、耳鼻科で診察を受けるということになった。
耳鼻科で診察してもらうと、救急の診察の時には、眼球がやたらと動いていたそうである。
そこでは、それほど大きくはないが、まだ眼球が動く様子が見られた。
そして、本人の容態が安定し、立って生活ができるようになるまで、入院し点滴を中心とした治療を行う、という医師の説明を受けた。

この後、ベッドに乗ったまま病室への移動が行われた。
病棟に移り、どの階に行っても、病院の各階のつくりはほとんど同じである。
この病院への入院―。
それは、娘のことで何度も味わって来たことだった。
この1年半、娘は入院生活から遠ざかることができている。
しかし、今度は妻が入院することになるとは―。
思いもつかないことであった。
病棟や病室のにおいは、娘がたびたび入院したときとまったく同じものであった。
懐かしい、という訳ではないが、まだ忘れていない、忘れないにおいが流れていた。

こうして入院した妻は、まず水を欲しがった。
朝から水も食事もとらずにここまで時間が経過したのだから、無理もないことであった。
エレベーターで売店まで降りて水を買いに行き、ペットボトルを渡した。
私は、木・金と務めを休むことにして、入院の準備を整えることにした。

幸い、初日の夕方から次第に回復した。
少しは食べ物を口に入れることができるようになった。
2日目は、少し体を起こせるようになり、置いてきた携帯電話でメール通信もできるようになった。
この時、熊本を中心とした九州での地震があったことを伝えることができた。
それまで、妻は全く熊本の地震のことを知らずにいた。
地震の映像を見たのは、退院した後のことであった
そして、4日目の日曜朝、医師から退院の許可が下り、4日間の妻の入院生活は終わりを迎えることができた。

妻の病の診断名は、「良性発作性頭位めまい症」というものであった。
とりあえず、悪性のものではなく、命に別条がなくてよかった。

妻が以前、腱鞘炎の手術で入院したときは、新潟で中越地震が起こっている。
今回入院した時は、九州で地震が起こった。
めったに入院などしないのに、入院するたびに大きな地震が起こるとは…。
偶然の一致とはいえ、なんだか不思議な気分になってしまう…。


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早い復興を祈る

2016-04-21 20:26:25 | お出かけ

大きな地震が頻発している九州、熊本地方の惨状には、目を覆いたくなる。
ほとんどつぶれた家屋や、土砂に埋まった家屋などからは、生きている人の営みがしてこない。
こんな風景は、近年では2度見たことがある。
10年余り前の新潟・中越地震の後、専門学校の寮に娘を連れて行った時、ぺシャンとつぶれてしまった木造家屋の数々を見たことがある。
また、東日本大震災の翌月に福島に行った際には、壊れたり津波で傾いたりしている家を見たこともある。

それにしても、悲しいのは、熊本城の姿だ。
あんなにりりしく立っていた城。

そして、城壁の曲線のすばらしさ。

それが、今は、なんと悲惨な姿になっていることか。

今から8年前、私たち夫婦は、九州へ旅行に行ったことがあった。
行き先の一つが、熊本だった。
熊本城と阿蘇山を目的地にしていたのだった。
熊本城は、まさに市のシンボルだった。

街のあちこちから、その姿を見ることができた。
このようなすばらしい城をシンボルにできる街がうらやましく思えたものだった。
それが今は、…絶句である。

今の悲惨な姿は、ここには載せたくない。
かつて行った時の美しい城の姿を載せておきたい。
早く余震がおさまり、復興へと向かってほしいと思う。



ばかなことをしていると思いながらも、この1週間は、復興を願い、くまモンのネクタイを着用している。



これで世の人の関心が熊本をはじめとする九州地方にだけ向いてしまうのではいけない、とも思う。
東日本大震災で被災した地方の復興も、福島を中心に、まだまだのところが多い。
東北も、九州も、大変な状況が続く。
私たちは、自分の暮らしが大丈夫なことに安堵するだけでなく、同じ日本人としてそれらの地方の人々の苦悩を感じ、分け合って生きていかなくてはいけない、と改めて思う。
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桜の季節の終わりと異動の挨拶状

2016-04-14 21:04:09 | 生き方

異動の挨拶状が舞い込む季節となった。
今年、特徴的なことがある。
すでに14通の挨拶葉書をいただいたのだが、そのうち7通が、退職の挨拶なのである。
今までは、そのような方の挨拶状は少なかったのだが、半分を占めているとは。
しかも、それらの人々の年齢は、私の年齢±1の範囲内である。
そして、定年退職あり、それ以前の退職あり、である。
非常に感じるものがある。

職場にいて、今年の桜が散るのを見て思った。
来年、自分は、この桜をここで見ることはないのだということを思い、非常にさびしくなった。
「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」
とは、林芙美子の言葉であったか。
本人の伝えたかった詳しい意味は知らないが、「花」の指すものを何ととらえるか、によって、この言葉には人生の深みが出るような気がする。
「花」を「若さ」と考えてみたり、女性の人生と考えてみたり、人生の充実期と考えてみたりしてみても、この言葉は当てはまるような気がする。

退職。
職を退くということは、何やら、自分が世の中からいらないと言われているような気がする、ということを言った人がいた。
確かに、自分にもそれが近づくと、そのような気がしてくる。
異動の挨拶状が次々と届き、桜の季節の終わりを見ると、今までにない感情がわいてきている今である。
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28年

2016-04-13 22:50:07 | 生き方
先日、もう28年にもなるのか…、と感慨にふけった。
妻の母が亡くなってから、それだけ長い時間が経過したということ。
私の父も突然死だったが、義母も突然死だった。
余りにも急なできごとに、声も出なかった。

その頃、もうすでにうちの娘、息子は4歳、2歳となっていて、「埼玉のおばあちゃん」にずいぶんと可愛がってもらったものだった。
年末・年始やゴールデンウイークの時には、「孫たち」の顔を見せによく行ったものだった。
娘や孫の顔を見たかったせいか、突然連絡もなしにはるばる埼玉から新潟まで来たことがあって、驚いたこともあった。
それは、亡くなる前の年のことだっただろうか?
自分の寿命を知っていたはずはないのだが、遠いところを訪ねて来てくれたのは、それだけ娘や孫への愛情を抱いていたからに相違ない。

亡くなった28年前のその日は、日曜日だった。
私は、近所の家の人の結婚式があったため、日中に酒が入ってしまっていた。
だから、急きょ埼玉まで駆け付ける車を運転することはできなかった。
娘を抱いたまま助手席に座り、ハンドルを握る妻の思いはいかようなものか、哀しみはいかばかりなものか、と想いながらも、酔いが疲れを呼び、道中車の中でうたた寝をしたことを覚えている。

28年がたち、娘も息子も30代である。
あの頃の、30代になって1,2年だった私たち夫婦の年齢に、彼らが、もうなっている。
確実に世代が変わってきているのだ。

ただ、今でも娘と息子には、小さい頃からの、寝る前の習慣がある。
仏壇に手を合わせることだ。
「おじいちゃん、おばあちゃん、おやすみなさい。埼玉のおじいちゃん、おばあちゃん、おやすみなさい。」
とつぶやきながら…。
もう、すでに祖父母4人とも鬼籍に入ってから、久しい。
だけど、私も、仏壇の前に手を合わせながら、祈る。
声には出さないが、
「4人のじいちゃん、ばあちゃん。孫2人をどうか、守ってください。」
と…。
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福島潟の菜の花満開

2016-04-10 21:46:42 | お出かけ
先週水曜日、仕事は忙しくて仕方なかったのだが、サッカー・ナビスコ杯予選リーグ、新潟-川崎戦を見に行った。
ホーム戦なのに、0-5の大敗であった。

実は、今日も、J1リーグの新潟-磐田戦の試合が行われた。
ホームで先制するも、なんとPK2本を与え、むざむざ逆転負けした。
でも、試合内容は、負けなくてもよい内容だった。
それなのに、負けているから悔しいのだ。

こういう日は、気持ちよく眠れない。
何か気持ちよくなる材料を見つけておかないと、気分が悪いままである。
…ということで、0-5で負けることになる日の夕方に見たものではあるけれど、菜の花の風景を思い出すことにしよう。


新潟市北区にある福島潟に、気持ちがホッとする菜の花畑が、今一番の見頃である。

はるか向こうに見える山々は、まだ雪をかぶっている。

水のある風景もいい。

すぐそばにある潟来亭(かたらいてい)も、絵になる。

潟の方から見ると、潟来亭とビュー福島潟の建物も、菜の花を引き立てる役目を果たす。
今は、あちこちで桜が満開であるけれど、ここでは菜の花も満開なのである。

満開の菜の花畑を思い浮かべ、今夜は眠ることにしよう。
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花見RUNに出かける

2016-04-09 23:16:04 | RUN
桜が満開の時期を迎えた。
こんなに早く桜が満開になったのは、60年近い人生の中で初めてである。
この時期、皆は桜が見られる所へと場所を移動する。
花見、ですな。

私も、花見に行きたくなった。
ただ、私の花見は、桜ではない。
足元の山野草である。
春になると、たくさんの種類の山野草が花を咲かせる。
今頃は、きっといろいろと咲いているのじゃないか?
矢も楯もたまらず、走りに出た。
花見RUNである。
3kmほどの距離にある、池もある自然公園には、いろいろな山野草の花が待っているはず。

足首&ふくらはぎサポーターをはき、LET’S GO !
笹川流れマラソン以来のRUNなのだが、あれから5日、まだ足が重い。
1kmを6分前後のゆっくりした走り。
4kmほど走って桜の咲く公園内に入る。
池のほとりには桜も咲いている。

走っていると、かわいいピンクの花が。

イワナシだ。
ショウジョウバカマも咲いていた。

そして、アズマイチゲの青花がたくさん咲いている一帯へ。

さらに、湿地帯には、サワオグルマや水芭蕉が花を開かせていた。

山野草ではないが、もう散りそうなマンサクや、今美しいコブシの花も見かけたのだった。

花を見るたび、足を止める。
花に元気をもらう感じで、走ったり止まったりを繰り返す。
そのことが、単調な走りにならず、適度な休みになる。

足が大丈夫そうなので、最後に、本当の花見ができる場所にも行きたくなった。
足が次第に軽くなり、1km5分35秒くらいでも走ることができた。


桜満開の木の下を桜独特の甘い香りを嗅ぎながら走った。

豪勢なごちそうをいただいている気分。


そうこうして走っていると、ばったりと30年近く前に一緒に勤めた知り合いに会った。
立ち話をしていたら、すっかり体が冷えてしまった。
少し前まで見えていた夕陽。

それも落ちてしまった。

それでも、山野草や桜の美しい花々を見られて、楽しかった。
久々の知り合いにも会えたし。
走った時間、総計1時間12分。
走った距離、12km。
体は少し疲れたが、楽しい花見RUN終了。
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記録より楽しく走り切れればいい~‘16笹川流れマラソン大会(3)~

2016-04-05 22:26:42 | RUN
復路を走りながら、ふくらはぎの痛みが出てこないことに、ほっとしていた。
ありがたい。
きっと、足首&ふくらはぎサポーターの効果でありましょう。
しかし、12km、13kmといくうちに、少しずつつらくなってきた。
当たり前だ。
11月3日の胎内市ロード大会以来、こんな20km以上の距離は走ったことがない。
12kmほどを2回くらい走っただけに過ぎない。
明らかに練習不足、トレーニング不足。
20km以上の距離を走るのなら、最低で16,7kmの距離を何度か走っておかなくては。
それが、ふくらはぎ痛等のせいで、練習がままならず。
エントリーはしておいたため、走らずに棄権はしたくなく、今日の日を迎えてしまった。

このマラソン大会の景色は、よい。

確かに今年は晴天もあり、青い海がいちだんと美しくきれいだった。
トンネル近くの斜面には、カタクリや白いキクザキイチゲの群落も見ることができた。
楽しく走れているのだが、体は正直だ。
疲れが出てきている。
それが顕著になるのが、トンネルだ。
ここのコースは、トンネルの直前や直後が坂道なのだ。
トンネルの前は上り。
その後は、下り。
この上りがつらい。
上りになると、後ろのランナーに抜かれ、あごが上がる。
上りは、体力消耗が激しい。
キライだ~!

14kmの給水地点で、もう一度、アミノサプリの粉末を水とともに流し込む。
体力よ、脚よ、どうかゴールまでもっておくれ。

復路はキロ6分そこそこで走れていたのが、15kmを過ぎると、キロ6分20秒台になってしまった。
脚が、つらい。
これでよくもまあ、昨秋はフルマラソンだの25km以上の長距離だのが走れたものだ、と改めて思う。
しかし、その時走れたことが財産になっているから、今、走れるのだろう。
とはいえ、その財産を使い果たそうとしている。

自分の感覚として、まったく速さがなくなった。
それでも、残り1km少しとなったところで歩いているランナーに、「あと少し、がんばりましょう。」なんて声をかけていた私であった。

そして、道の駅桑川を通り、国道と別れを告げ、横道に入る。
そこで、ひざとふくらはぎに少しだけツンとした痛みが来た。
いよいよだめか?
と思いつつも、「ま坂」に挑む。
…が、「挑む」ことなんてできない。
だって、脚が上がらず走れないんだもん。
仕方なく、腕だけは振って、走ろうとする意思のあるところを、周囲の人たちに見せる。
(あれ、これと同じことを以前もやったなあ…。)

つらい「ま坂」を登り切ると、ゴール!!!

やりましたあ~。
体調不良の練習不足の中、21kmを走破しました。
安直に、うれしい~!!!

ゴール直後に「あおさ汁」をいただいた。
みそ汁の味がうまい。


記録は、昨年に比べて3分も悪い、2時間8分台後半。
それでも、うれしかった。
だって、走れないかと思った今日、参加することができ、ゴールにたどり着いたのだから。
自信になった。
多少のコンディションの悪さはあっても、これからまた少しずつ走り続けていきたいと思った。

ゲストランナーの千葉ちゃんは、入賞者にメダルをかけていた。

最後は、これ、がんばった自分へのごほうび。

道の駅桑川で、「日本海ソフト」。
1個350円ナリ。
いやあ、うまかった。

家に帰ると、どっと疲れが出た。
風呂を沸かし、ゆっくりつかった。
夜のビールが、最高にうまかった。

記録よりも、とにかく楽しく完走することを目指した笹川流れマラソン大会。
めでたく終えることができましたよ。

バンザーイ\(^o^)/バンザーイ\(^o^)/バンザーイ\(^o^)/

思わずはしゃいでしまう気分の私であった。
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記録より楽しく走り切れればいい~‘16笹川流れマラソン大会(2)~

2016-04-04 23:03:42 | RUN

笹川流れマラソンの受付&ゴールとなるのは、この旧桑川小学校の校地なのである。
その校地にたどり着く手前の坂が、非常に急であり、ゴール手前の200mは苦しさにあえぐことになる。
この坂のことを「まさか」と言う。
信じられないような魔の坂である。
この「ま坂」には、子どもたちが作ったのぼりが並んでおり、勇気づけてくれる。


この学校も、今はもうない。
少子化により、統合されてしまったのである。
だけど、年に一度、この笹川流れマラソン大会が行われるときだけは、大勢の人でにぎわい、ぎゅうぎゅう詰めになる。
めったにないことのせいか、建物内のトイレは、今回、水が出なくなってしまった。
水は流れないが、外の簡易トイレを使うようにと、何度も放送が流されていた。

受付を終え、旧桑川小学校内でストレッチをして、国道のスタートラインまで移動を開始した。
レース前に、突然名前を呼ばれ、びっくりしたのが2回あった。
5,6年前に勤めていたところで知り合ったランナーの方が、呼びかけてくれたのだった。
私は、その人たちの風貌が以前より変わったように思えて、誰だったのか思い出せず、「今どこにお勤めですか?」なんて聞いてしまった。

レース前には、30回記念のゲストランナーの千葉真子さんが、気合を入れるあいさつをしてくれた。
苦しくなったら、息を吐くこと。
姿勢をよくすること。
などを話してくれた。(矢印の先の赤っぽい服の人↓)


さて、いよいよスタートの号砲が鳴った。
今回の目標は、「記録を気にせず、楽しんで完走する」ということ。
スタートと共に、後ろからたくさんの人たちが私を抜いていった。
始まりの頃の私のペースは、1kmあたり6分。
まあ、このペースでいけば、2時間強でゴールにたどり着けるはず。
体調さえ良ければ、2時間を1つの目標にしたかったけれど、今回は体のあちこちに不調を抱えているから、無理はしないことにした。
なるべく足は上げないように、すり足のようにして走り、ふくらはぎに負担が行かないように走っていた。
幸いなことに行きは追い風だ。
背中を押してもらおう。
ただし、帰りの向かい風が怖い気がする…。
あまり足のことばかり考えないようにするためもあって、きょろきょろと周囲の風景を楽しみながら行くことにした。
海を左側に、様々な絶景シーンに出会いながら、進んでいくのであった。


天気が回復してきて、結構陽射しが強くなってきた。
これは、体力の消耗が早いかもしれない。
エネルギー切れを考えて、4kmの給水地点で、早めに粉末のアミノサプリを口に流し込み、水と共にそれを飲んだ。

6km付近で、職場の若い人が目の前を走っているのに気付いた。
「暑いね。」と声をかけながら、彼よりも前を進んでいくことにした。
…と言っても、ほんの数歩ずつだけなのだが、彼より前に進み出した。
幸いなことに、足首&ふくらはぎサポーターが効果を発揮しているようだ。

タイムは、1kmあたり5分45秒前後。
まあまあいい走りだと思った。
8km過ぎの脇川大橋の上では、知り合いの同年齢のランナーとすれ違った。
フルマラソンを59歳にしておよそ3時間で走る彼は、さすがに速い。
私とは、もう3km以上の差がついていることになる。
まだまだ折り返し点までは遠い私。
でも、あせらない、あせらない。
折り返し点までは、同世代のISさん、SNさんたちが1kmくらいも先に行っているのを確認した。
でも、あせらない、あせらない。

いよいよ折り返し点到達。

記録写真を撮り、いよいよ復路へ。
復路は、向かい風が強い。
風が気になった。
それでも、さっき抜いた職場の若い人を100mくらいは追いやったであろうか。
そして、知り合いの長岡の同職・同年代のSさんがずいぶん遅れて走っているのにもすれ違った。
まだまだ、先は長い。
あと10kmを楽しみたいと思った。
ふくらはぎ痛もなんとか出ずにおさまっている。
向かい風の中、無理せずに行こうとリラックスを心がけ、来た道を戻っていくのであった。


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記録より楽しく走り切れればいい~‘16笹川流れマラソン大会(1)~

2016-04-03 21:05:17 | RUN
新潟県のRUNの愛好者の多くの人たちにとって、県内でのランニングシーズンの到来というのは、4月の第1日曜日に開催されるこの笹川流れマラソン大会で感じるのではないかと思う。
例年、この大会は春先なので、天候に恵まれないことが多い。
雪の降る中走ったこともある。
3年前の大会にいたっては、荒天のため開催自体が中止になってしまった。
だから、エントリーしても、天候が最大の心配の種なのであった。

今年は、心配がもう一つあった。
何かというと、ほかでもない、自分の体である。
首痛・頭痛で、横を向くのがつらい。
そして、何より右足のふくらはぎ痛である。
2月以来、3kmくらい走るとそこが肉離れを起こしたように痛くなってしまうのだ。
だから、走るのを控えてきたのだけど、3月の中旬になっても治らない。
5kmも走れないのに、ハーフマラソンの距離を走るなんて、無理な話だ。

焦っていた時、SNさんとたまたま電話で話をしたら、新潟シティマラソン前の彼もそうだったのだそうだ。
それで、ふくらはぎ用のサポーターを着用して走り、なんとか完走できたのだそうだ。
それを聞いて、私も、スポーツ店に寄り、ふくらはぎサポーターを購入してみた。
しかし、あまり効果がなかったので、もう一度スポーツ店に行き、今度は足首&ふくらはぎ用のサポーターを購入してみたのが1週間前のことだった。
この火曜日に、そのサポーターをして走ってみた。
効果がなければ、日曜日の笹川流れマラソンを走るのはやめ、欠場するつもりでいた。
10kmを一つの目安にして走ることにした。
ただし、スピードは出さずに、自分ではジョギングに近い速さでなるべくふくらはぎに負担のかからないようにしてのことだった。
すると、サポーター効果であろう、10km走ってもふくらはぎは痛くならなかった。
そこで、笹川流れマラソンへの出場を決めたのだった。

こうして迎えた、笹川流れマラソン当日。
曇りながら、晴れ間も見える好天であった。
朝起きると、すぐにふくらはぎのストレッチをして、大丈夫そうなのを確認した。

新潟駅から特別列車が出るので、それを利用してマラソンの行われる最寄りの駅の桑川駅まで行くことにした。

列車は、予定より遅れて到着したが、日常特急いなほ号に使われている立派な列車である。
新潟県を走るこの列車の車体には、新潟県ゆかりのゆるキャラたちの絵が描かれていた。

新潟県のトッキッキ。

新潟県(上越市)のレルヒさん。

新発田市のアスパラくん。

胎内市のやらにゃん。
楽しい絵が並んだ列車が、桑川駅に着くと、たくさんのランナーが降り立った。




私は、なるべく最後尾から歩いていった。
途中、春の野草があれば、撮影しようかと思っていたのだ。
すると、あちこちの家の庭に、名前不詳の黄色い花が咲いていた。

あまり見かけないのだが、この辺りには普通に咲いているらしい。


道の脇の斜面には、カタクリの紫色の花が咲いているのが見えた。

線路脇の白い花の群生は、私の好きなキクザキイチゲだった。

虫に食われているものが多かったけどね。

受付&ゴールのある旧桑川小学校への急坂の途中には、ナツボウズの黄色い花も咲いていた。


あんまり走れるかどうかばかり気にしているより、せっかく別の場所に来たのだから、こういう知らない花々に会う楽しみをたっぷり味わいたいと思っていた私であった。
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