ON  MY  WAY

60代になっても、迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされながら、生きている日々を綴ります。

年をとると欲しくなるもの???

2014-06-29 22:52:01 | 生き方
50代後半に至って、ここのところ、いくらかくたびれてきた感じがする。
大きな原因は、娘の病状のことではあろう。
だけど、それ以外にも、精神的な金属疲労が大きいと感じている。
職場に関して求められるリーダーシップなら、それだけで責任感はもってやっているつもりではある。
だが、そのことが疲労感のもとではない。
人のしていることに関して、いちいちいらないマイナスの評価をして、それをご丁寧にも言ってくる人がいることが、非常に疲れることなのだ。
結局そういうことを言う人は、自分の評価を上げるために、人のことに干渉してくるのだということが伝わってくる。

先日、以前一緒に勤めたことがある、先輩にあたる方のお話をお聞きする機会があった。
多くの方々の前でのお話であったが、いたく共感したのが、欲の話だ。

「年をとってくるとね、皆さん、どんな欲が強くなるかわかりますか。
 年をとると、昔と違って、食欲とか性欲とか物欲とかはなくなってくるんです。
その代わりにね、欲しくなるのが、名誉欲なんです。
あなたはすごい、とか、あなたでなければだめだとか、そういうことを言ってほしくなるんですよ。
他人から自分を高く評価してほしいという気持ちがだんだん強くなるんですね。
これはもう不思議なものですね。」

…ひょうひょうと語るその口調に、なるほどと思うところがあった。
自分自身、最近は、以前にも増して、他者の目が気になることがある。
近頃は、自分を取り巻く様々な出来事に、いささか疲弊気味であったが、改めて「自分は自分」でいくしかないな、と思ったのであった。
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半年に一度のカレンダーづくり

2014-06-21 22:23:27 | 生き方
毎年、半年に一度、カレンダーを作っている。
9年前に母が亡くなって以降、2~3か月に1回くらいは夫婦で、泊を伴う旅行に出ていた。
出かけるようになった年から、翌年のためにカレンダーを作るようになった。
主に旅行で行った先で撮った風景や花の写真を貼り付けて、1枚で半年分のカレンダーを作るのだ。
まず、カレンダーの6か月分を作る。
そして、スペースに1年前の同じころに訪れた場所や見た花の写真を月々の場所に配置する。
去年は、2月に小田原や熱海へ、5月のゴールデンウイークには静岡に行ってきた。
だから、今年前半用に作ったカレンダーの2月のところには小田原や熱海の写真が、5月には静岡の写真が載っている。


まもなく、6月が終わる。
ということは、今年前期のカレンダーが終わる。
また後期のカレンダーを作らなくては。
…ということで、作ってはみた。


ただ、7月~12月のお出かけには、泊を伴った旅行の写真はない。
出かけた場所も、近くが多く、日帰りの場所ばかりだ。
泊を伴った旅行はしていないからだ。
その理由は、昨年5月末に娘が倒れてから、家を空けるわけにはいかなかったということ。
これが、大した病気ではない、本人に命の心配がない、というのならどうということなく、「じゃ、行ってくるよ。」ということになったのだろうけれど。

まあ、それはともかく、娘のけいれんは飲み薬で抑えられているようで、しばらく起こっていない。
去年は、この7月から12月は、娘の闘病に共に参加し、不安や絶望、時々希望を味わった期間であった。
今年は、希望の多い後半になってほしいなあ、と思っている。



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W杯日本代表の試合も見ずに…~UPDOWN関川マラソン大会に出場~

2014-06-16 17:26:11 | RUN
サッカーW杯日本代表初戦。
日本は、先制しながらの逆転負け。残念。
日本中の人々が、テレビの前で観戦していたであろう。
だが、私は、同じ時間テレビは見られずにいた。
仕事かというと、そうではない。
久々に大会に出て、走っていたのだ。

第41回関川マラソン大会。
新潟県北部の関川村は、「大したもん蛇祭り」でプチ有名だ。
ここは、UPDOWN関川マラソンと名乗っているように、起伏の激しいコースが特徴だ。
昨年、息子が12kmに出場して、暑さからレース後脱水症状になった大会であった。
私は、今まで出場したことはなかったのだが、今年は、関川村に異動した知り合いの方から、「関川マラソン、出ませんか?」とお誘いをいただいた。
じゃあ、出てみようか。
ハーフ、12km、3kmと3種目のレースがある。
普通に練習ができて、体ができているのであればハーフに出場したかもしれないが、笹川マラソンを欠場するなど体調が不安なので、12kmへの参加を申し込んだ。

申し込んだ後、誤算が続いた。
前述のW杯の日本戦と重なったこと。
娘の外出可能日が日曜日となったこと。
時間的な余裕がなく練習がなかなかできないこと。
腰痛や打撲などの体調不良から練習量が極端に少ないこと。
娘のことで非常に心を悩ませていた去年であっても、週に1回は走って、12kmくらいは軽くこなしていたのだったが、今年は、月に2回くらい5km前後を走る程度になってしまっている。
特に、先週日曜日には、娘の病室で後ずさりしたところ、空いていたベッドの金属部にふくらはぎをぶつけた痛みがとれず、木曜日まで湿布して腫れをとろうとしていたのであった。
出場するのをやめようか、と思っていたくらいであった。
でも、4月には笹川マラソン大会を申し込みながら欠場。
幸い腫れもひいたので、2回連続の棄権はもったいないから出場することにした。

ふれあいドームでの開会式も簡素なものだった。
でも、平田大六村長の気概はしっかり感じ取れた。


さて、ハーフのスタート地点は、県の重要文化財の豪農の館、渡邉邸前。

ハーフが9時に出発した後、12kmのスタートは、その15分後であり、200mほど後方。
これまた由緒ある通りを出発地点に選んだものだ。


さて、スタートしてみると、やがて関川中学校脇へ。
そこには、参加のお誘いをくださったYさんが写真を撮っていた。
「Yさん、来たよ~。」と言って、手を振ると、「おお~!」と驚きながら喜んでくれていたのがわかった。
ユニークなのはその中学校の脇を通った直後。
道が狭くて薄暗い杉林。そこは、実は墓場のすぐ脇でもあった。
おお、気分が涼しい。

やがて、市道に出て走っていると、1kmの標示。
1km5分32秒。
今日はこのくらいのペースでいきたいと思っていた速さであった。
だが、走っていくうちに、自然ともう少しスピードを出して走りたい気分になった。
とは言っても、そんなにスピードが出る訳ではないが。
2kmまでの1kmを5分16秒、次の3kmまでの1kmを5分8秒と、次第にペースが上がったところで、上り坂となった。
ここから、丸山大橋までの急な上り坂。
上り坂を見ながら走ると苦しくなるので、下を向いて少しずつ少しずつ、と思いながら坂を駆け上がっていった。
だから、4kmポイントの標示を見逃してしまった。

丸山大橋からの眺めは、川が流れ下界がよく見える。

いい眺めだ。
5年前に夏の全国高校野球大会で、日本文理高校が中京高校から9回2死無走者から奇跡の追い上げを見せたことがあったが、その日の夜のNHKニュース9の始まりは、ここからの風景だった。

【↑ある秋の風景写真】
あの奇跡の追い上げを見せた文理のバッテリーが、この関川村出身だったからだ。
そのいい眺めが、この日はややぼんやりとしていてくっきりはしていなかったが、いい気分で橋を渡った。
その直後は、蛇行する車道を駆け下りる。
スピードが出過ぎると後で足に来るので、速過ぎないように気を付けた。
丸山大橋から下って、5km地点では2kmを11分2秒で走っていた。
わりとよい方だと思った。

平地になって、高瀬温泉の宿が並ぶ道の近くで6km。
ようやく半分になるところなのに、練習不足からだろう、太ももが痛くなり始めた。
ストライドを狭め、持っていた飴で塩分を補給して走り続けた。

8km地点では、可愛い赤ちゃんを抱いた老人が、「ここが最後の上りだよ。」と教えてくれていた。
また、この辺りには、高齢者のための施設が多く、手をたたきながら声を出して応援してくれていた。
だから、「ありがとうございます!」と声を返しながら、気持ちよく走った。
すごいのは、この辺りからすごいスピードで追い抜いていくランナーがいたことだ。
その人たちは、ハーフのコースを走ってきた人たちだ。
わずか15分しかスタートが違わないのに、もう倍以上の距離を走ってきたというわけだ。
すごい!
だが、私の足は速く動かない。
ハーフのランナーだけでなく、走り方が悪いなあ、と思うランナーにも、次々追い越されていく。
仕方がない、これが今の実力。

ありがたかったのは、給水所が豊富にあったことだ。
ポカリ、水、塩がどの給水所にも置いてあった。
だから、そのたびに、ポカリを口にし、水を追加して飲み、塩をなめて手を残り水で洗った。
気持ちよく走ることができた。

ラストスパートもしたつもりだが、ラスト2kmは、1km5分39秒と5分23秒。
大したスピードも出なかった。
それでも、ゴールすると、目標にしていた1kmあたり5分30秒のペースで走り切ることができた。

一般男子50代の部、参加者70人余のちょうど中間から少し後ろ。
それでも、不安の中、走り切れたことに満足した。

参加賞の1つは、おにぎりとわらびの入ったみそ汁。

おいしくいただきました。

さて、ゴールした頃は、日本代表も1-0で勝っていたのだが、帰りの車のラジオで、あっという間に逆転された放送を聞くはめとなってしまった。
残念。

しかし、日本は負けたけども、自分が走り切れたことで満足していたので、私は、あまり悔しくはなかった。
次戦、がんばってもらいましょう。(仕事でテレビ観戦できないけどね)

やはり、走るのは、いい。
もっと速く風を切って走れれば、もっと気分がいいのだろうけどなあ。
50代後半。まあぜいたくは言わないことにしよう。
体調不良の続いた中で、12km完走した喜びにひたることにしよう。

運営スタッフの皆様に感謝。
スタート・ゴール付近だけでなく、給水係、道案内役、駐車場係…、その他たくさんの方々…。
この方々も、サッカーW杯を見られなかったのだから。
がまんして大会を運営してくださった方に心より感謝したい。
ありがとうございました!とても楽しく走ることができました!

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娘よ(47)

2014-06-14 17:49:49 | 生き方
予想もしていなかったことが頻発したり、出張が毎日あったり…。
日々慌ただしく一日一日が過ぎていく。
時間的な余裕、精神的な余裕がない毎日が続く。
心がすさみそうな1週間がようやく終わった。

そんな中でも、夜の会合があった日以外は、勤務後は、極力毎日娘の病院を訪ねている。
私よりも遠いところから、妻は車を運転して駆けつける。
そんな訳で、夕食はいつも8時半ごろからになっている。
それでも、娘の顔を見ると安心する。
最近は、どういう訳か、化粧をする習慣が結構あるようになってしまった。
まゆはわかるけど、チークはやめなさい。
病院に入院しているのだから、顔色が分からなくなる化粧はいけないんだよ。
そんなことを毎日のように話している。
でも、リハビリの成果もあって、歩く歩幅はずいぶん大きくなった。
おやつの食べ過ぎで、やせていたはずが体重は、標準体重を上回ってしまった。
めざせマイナス5kgとか本人は言うけれど、「明日からがんばろう」なので、毎日毎日おやつの誘惑に負けて、やせることはないようだ。
なんだか、情けなることもあるけれど、とりあえずけいれんが起きずに毎日過ごせているのがよいと思う。
ただし、認識の程度は毎日毎日変動する。
ただ、さすがに1年前ほどではない。
昨年秋にはもっとよくなっていたのに…といつも悔しくなる。
ではあるが、いつも明るさを忘れず、楽しく過ごそうとしている姿はほっとするものがある。
心が許せる看護師さんには、わざとおかしな顔をしたりおかしなことを言ったりして、気を引こうとしているのがわかる。
基本的に、明るく楽しく生きていきたいという娘の姿は、病気の前と変わっていない。
そのことがうれしく感じられる。
たまに1年前の様々なことを、私は真剣に娘に話したりするのだが、そういう時は、話をしっかり聞いてくれる。
そういう時は、純粋に病気を治したい、と思ってくれる。
そういう姿は、なおさらうれしく感じられる。

だから、少しでもよくなっているという手ごたえを私たちは感じたいのだ。
が、前日に行った化粧の禁止を忘れてまたやっている顔に会ったりすると、がっかりしたりするのである。
ただ、去年の6月の今頃は、いったいどうなってしまうのだろうという不安に襲われていた毎日であった。
今は、すっかり“omanuke”な様子になっているけれど、命が助かっていること、これから記憶に関することは少しでも状況が改善することに期待していることなどは、大きく違うと思っている。

さて、妻、息子に次いで、今日3人目の訪問者となりに、病院まで車を飛ばしてくることにしよう。
今日は、どんな娘に会えるか、と期待して…。
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リベンジ登山 青田南葉山

2014-06-08 22:41:21 | お出かけ
もう一度行ってみたい山があった。
…なんて書くと、どんな高い山かと思うかもしれないが、そこはわれわれ夫婦の歩ける山の話だ。
2年前の今頃、われわれ夫婦は、上越市の青田南葉山で遭難しかけた。
残雪のために、道を見失ったためだった。
水筒と熊鈴を犠牲にして(?)私たちは、なんとか知っている道に出ることができた。

あの時迷った道を、今度は迷わずに山頂にたどり着いてみたい。
ずっとそう思っていた。
ただし、無理に山頂に行かなくてもいいのだ。
私らの山の楽しみは、なんと言っても、山野草の花見だからだ。
2年前がそうだったように、今の時期ならサンカヨウやシラネアオイが美しいはずだ。
そう考えて、5月31日、花見を主な目的に、青田南葉山に出かけた。
高速道路も使って、約2時間半後、登山口に到着。
10:30、3年前は木落沢コースを使って登ったが、今回は2年前に迷った明神沢コースを行くことにした。

出発して3分後にはオオイワカガミ、
10分後にはササユリ、

15分後エンレイソウ、

20分後にはササユリやホウチャクソウ…と様々な野草に出合いながら、歩いて行った。
22分後には、待望のサンカヨウに会うことができた。

その辺りには、アケビの花も多かった。

やがて、36分後には、2年前に道に迷ったきっかけとなった分かれ道に到達。
今年は雪渓の下を水が流れていた。

こうなっていれば、2年前も道を迷うことはなかっただろうと思う。
そこから3分も歩くと、ミヤマカタバミやシラネアオイと出合った。

分かれ道から15分も歩くと、おお、この曲がりくねった枝は、懐かしのあのポイント!

2年前に、われわれが遭難から生還したポイントであった。
この枝の裏側に赤い丸を見つけた時はうれしかったよなあ…。

スタートして1時間半近くたったころ、特徴的な葉から、コシノカンアオイを見つけた。
この辺りの花は、茶色い濃い色ではなく、まだ色がついていなくて青っぽい色をしていた。

こんなのは、初めて見た。

長い長い登りをたどっていって、12:25、明神峠に到着した。

ここからだと、山頂まで「30分」と書いてあった。
おお、あと30分か、とうれしくなった。
ここからは、尾根のような道をずっと登っていく。
ツクバネウツギやギンリョウソウを見つけ、喜びながら写真を撮りつつ登って行った。

ただ、きつい登りに、後ろから来たグループに道を譲った。
やがて、明神峠から25分後には、雪渓の上に出た。
そこで、山頂を見上げたが、どう考えてもあと5分では着きそうもない。
案内板のウソツキ~!
雪渓では、マンサクやタムシバなど春の始まりの頃に見かける花だ。

初夏の花から初春の花が見られるのが、この時期の青田南葉山のいいところだ。

35分間登ったが、まだまだブナの林は上り坂。
まいった。

雪渓をいくつか過ぎて、山頂にたどり着いたのは、13:14。
登り始めてから2時間45分。
あと30分と書いてあった明神峠からは50分もかかった。
でも、とにもかくにも、山頂にたどり着いた。
やったあ~!!。
3年越しの思いを成し遂げたぞ!
明神沢コースからの登頂。

山頂では、先ほど道を譲った、湯ったり村から登ってきたグループが昼食をとっていた。

山頂にもまだ雪は残っていた。
昼食のおにぎりを食べ、20分後の13:34には、下山開始。
雪渓をいくつもいくつも踏み越え、雪渓近くのショウジョウバカマに目をやりながら、降りて行った。

雪渓の雪をコンビニのビニル袋に入れる。

そこにスポーツドリンクやお茶の入ったペットボトルを入れ、歩いた。
そうすると、雪が解け、ドリンクが冷やされる。

飲んだスポーツドリンクやお茶は、冷えていて最高。すごくおいしかった。

こちらのコースは、えらく急坂だったことに、改めて気づいた。
ひざが苦しかった。
コースには、道標があった。
14:08 7合目。
14:22 6合目。 
14:29 5合目。
14:34 4合目。「ここから急登」と書いてあった。

14:37 「山頂まで1時間40分、キャンプ場まで20分」の標識。

そして、14:59、入口の案内板に到着。

登りの明神沢コースを3時間近く。
下りは木落沢コースを1時間半かけて、青田南葉山の山歩きを終えた。

ここまで書いてこなかったが、今年は、2年前・3年前に比べて暑かった。
そのせいか、雪解けが早く進んでいた。
サンカヨウやシラネアオイも、ピークを過ぎていて、虫がたかっているのが多かった。
そして、無事に終わったわけではなかった。
山頂付近以外には、山のコースじゅうに毛虫がぶら下がっていたのだった。
枝を振りながら、毛虫を払いながらの山歩きであった。
首の周りにはタオルを巻いていたのだが、汗を拭くのに使ったりしたら、毛虫が付いていたらしい。
翌日から、首の周囲がかゆくて、湿疹が出てきたりして、大変だった。
ついに、火曜日には勤務終了後に皮膚科を受診した。
リベンジしたはずの青田南葉山であったが、相変わらず困難を与えてくれる山であった。
まあ、3年ぶりに山歩きができたのだし、山頂にたどり着けたのだから、よしとしよう。
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娘よ(46)~1年…~

2014-06-02 21:37:57 | 生き方
1年が経過した。
娘が突然倒れて、救急車に乗せられて運ばれ、入院生活を送るようになってから。
その直前までは、娘は、ごく普通の人であった。
そして、入院はしても、娘の明るさに変化はなく、早晩退院できるだろうと、本人も周囲も楽観的に見ていたのだった。
全身けいれんを繰り返すうちに、どんどん娘の様子はおかしくなっていったのだった。
あれから1年。
こんなに長くかかるとは思ってもみなかった。
それどころか、今もまだ入院中だなんて。
1年前は、こんな未来になるとは思ってもみなかった。
ただ、思う。
去年の7月の記事を見直すと、
よくぞ生きのびてくれた、と。

でも、現状では、重い現実がある。
「高次脳機能障害」。
その改善が大きな課題である。
この障害には、記憶障害や注意障害などがあるが、娘の場合最も大きなものは、記憶障害にほかならない。

◆今の病院に移ってから、おおむね毎週日曜日に帰るようになった。
今回で8回目の帰宅である。
今の病院に移ってからは、すでに6回目。
病院から自宅に向かう車の中で、娘は、沿道の大型店等の変化を口にする。
①「『カ○チ』ができてる。」
②「ラーメン屋が変わった。」
③「『セ○ン・イレ○ン』がつぶれてる。」
確かに、①の「カ○チ」は、去年できたもの。
②も、数か月前に、経営者が変わったのか、店名が変わった。
これらは、入院中に変わったものと言える。
だが、③は、娘が倒れる2,3年前に閉店していたはずだ。
だから、知っているはずなのに、「つぶれた。」とつぶやく。
同様に、家の近くにあったスーパーは、何年も前に閉店したはずなのに、「つぶれてる。」などとつぶやいている。
そんな娘の様子を見ていると、記憶が抜け落ちただけではなく、うまくつながらない面もあるのだな、と思う。
記憶が積み上がらない悲しさは、病院に戻る道すがらに味わう。
さっきの①②③を、今度は③②①の順番で聞く羽目になるのだ。
来るときの聞いてきたことが覚えられないからだ。

ただ、改善されているところも、わずかながらある。
◆今でも、病院でトイレに行った後、自分の病室の方向にすっと体を向けないで、反対側に行こうとしたりする。
でも、2か月前までは点滴なしでは生活できない娘だった。
それが、今は、点滴台なしで歩いている。(記憶力とは関係ないか…)
◆「ここは、どこ?」と聞くと、「*#¥&」と、老人ホームの名前が出てきたりしていた。
今は、「○○病院」と正確に答えられている。
◆「父、髪切った?」は、本当に何回も聞いてきた言葉だ。
11月から1月には、90数回も聞かれたのだった。
それを言われることは、今も続いている。
先月上旬に散髪に行った私に、娘は18回聞いてきている。
だが、先日はじっと私の頭部を見て、こんな聞き方をした。
「父2週間くらい前に、髪切った?」
これは、「髪切った?」と聞こうと思ったけど、ちょっと前にも聞いたんじゃないか?と思ったらしい。

一気の回復は望めないが、わずかずつでもよくなったという実感がほしいわれわれである。
でも、去年の7月を思えば、うんとよいと思うのだ。

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