ON  MY  WAY

60代になっても、迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされながら、生きている日々を綴ります。

残り4試合で、新潟監督交代

2016-09-27 20:28:59 | アルビレックス新潟
監督交代のお知らせ
いつもアルビレックス新潟に温かいご声援をいただきまして、誠にありがとうございます。当クラブでは、トップチームのスタッフ陣容について、吉田達磨監督から片渕浩一郎コーチに監督を交代することといたしましたので、お知らせいたします。また、北嶋秀朗コーチ、安田好隆コーチが退任いたしますとともに、アルビレックス新潟サッカースクールコーチの内田潤氏がトップチームコーチに就任いたしますので、併せてお知らせいたします。

ついにこんな報せがアルビレックス新潟のHPに掲載された。
今季残り4試合での監督交代。
実に重い交代である。

今季の新潟は年間7勝6分け17敗の15位に低迷し、J2降格圏の16位名古屋には勝ち点1差に迫られている。
今季就任した吉田達磨監督は、期待されていたが、結局その期待に応えられないまま、ずるずると直近4試合は4連敗であった。
残り4試合は、磐田・浦和・大阪・広島と、上位で優勝争いを繰り広げているチームである。
つまり、強い。
これらのチームに勝利できなくては、残留は危うい。

先日の鹿島戦は、チーム結成20周年の記念試合であったが、0-2と無惨な敗戦であった。
サポーターは声を枯らして応援したが、勝利を喜ぶことはできなかった。
しかし、戦い終えた選手たちが挨拶に回って来た時には、「戦え新潟」という歌で迎え、そして去って行く選手たちの背中に向かって、この「戦え新潟」の歌を届けていた。

最後の4試合で監督交代という荒療治に出た新潟。
さて、どうなるか。
実力のある上位チームとの対戦でも、よい試合ができるだけの地力は持っている新潟。
2012年には、奇跡の残留を果たした新潟。
土壇場での底力の発揮を心から期待している。
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今度は左脚が…

2016-09-25 17:23:10 | RUN
東日本にやたら台風がきてばかりいるうちに、次第に秋らしくなった。
新潟シティマラソンは10月9日。
今年はハーフマラソンに、と思っていたのに、すぐに定員いっぱいとなり申し込めなかった。
仕方なく今年もフルにエントリーしたのだった。

とはいうものの、今年は今までで一番体調が悪い。
首痛、肩痛、ふくらはぎ痛に加え、今度は左脚のアキレス腱の辺りが、伸ばし方によって痛くなっていて、ここ数日困っている。
今日は、準備運動をしてもその辺りが痛い。
脚が痛まないように、歩くように走れないだろうかと、この頃いつも思う。
なので、そこが痛まないように、歩くように走ることを課題として走ってみることにした。
歩くように走るとは、苦しくないように進むこと。
歩くように走るとは、歩くような感覚でありながら無理なく走ること。
息をするのが自然なように、歩いているように自然に走ることができないかなあ、と思いながら走っていた。

最初の3kmくらいは、1kmあたり6分20秒くらいで走っていたが、それ以降は、6分40秒前後の走りとなった。
違和感はずっとあったのだが、このペースで行くと特に苦しくなることはなかった。
結局、13kmという距離を走り通せた。
平均すると、1km6分33秒だったが、後半は、だいたい6分40秒くらいでいけるとわかった。
そのことには、とりあえず満足した。

走り終わってから、ストレッチをしようとしたら、やはり左脚は痛くなるのだった。
困ったもんだ。
まあ、この走りがフルマラソンで使えるとよいとは思う。

翌日である今日も、かかとに力を入れると、アキレス腱付近がズキンと痛んだ。
長い距離を走るためには、少しでも不安材料は減らしたいのだがなあ…。


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娘よ(80)

2016-09-23 22:51:39 | 生き方
毎日わずかながらでも散歩をしたりスクワットやストレッチをやったりしているせいか、娘は、足腰はしっかりしてきた。
足腰「は」と書くと、他のことについてはまだまだのようだけど、生活上の言動は、通常に近いと感じることもある。
こちらの言うことを察知してみたり、上げ足をとってみたり。
そういうことは、結構普通になった。

ただし、やはり短期記憶が積み上がらないのが、なかなか改善されないことではある。
「ではある」が、自分で時々前日のことについて話し出し、笑ったりすることもある。
先日は、息子と共に手作り餃子を作ったのだった。
翌朝、起きるなりガスが出たのだが、そこで娘いわく、「昨日の餃子のニラだな…。」
と、笑わせた。
起きた後、眠る前のことが言えるというのも短期記憶が少しは残っているということ。
このことは、ガスの排出はともかく、うれしいことであった。

料理を作るということでは、ほかにも先日がんばったことがあった。
今年は、サンマがなかなか近海で獲れないので値が高いと聞いていた。
そのサンマが、いわき市の母の実家からクール便で送られてきたのだ。
ああ、親戚のありがたさよ!
新鮮なサンマは、生魚として食べてもうまいのだ。
特に、通称「サンマのタタキ」と言っている食べ方がうまい。
ネットでは、「なめろう」という料理名で載っている。
以前、ここでも私が調理したものを紹介したことがあった。

ただし、サンマは平日に着いたので、私は仕事でいなかった。
そのサンマは、新鮮なうちに調理しなくてはいけない。
妻は、10数年前、利き腕を2度手術しているので、包丁に十分に力を入れることができない。
そこで、サンマをさばくその調理を娘が担ったのだ。

出刃包丁を操って、サンマを6匹、3枚に下ろしたのだそうだ。
その後は、皮をはがしてから、包丁を文字通り「たたく」ようにして、下ろしたサンマやショウガやネギを細かく刻み、立派に「タタキ」を作ったのだ。

おかげで、私たちも、非常においしい料理をいただくことができた。

朝食や昼食後の茶わん洗いは、だいたい娘の仕事だ。
娘も自分の仕事だと思ってやっていることが多い。
夕食後も、頼めば洗ってくれたり、頼まなくてもやってくれたりすることがある。
こういうことは、家族にとって大変ありがたいことだ。

先日、いただき物をした時、母に(わが妻に)言われて、娘は、隣の家に一人でおすそ分けしてくることができた。
「初めてのおつかいだね。」と母にからかわれながらも、ごく普通に隣家を訪ね、渡して来ることができた、と後から教えてもらった。
こういった何気ない当たり前のことができるということ、それは普通の状態に近づくということ。
こういうことが増やしていけるとよいなあ、と思う。

懸念するのは、たまに「頭が痛い」ということ。
頭が痛いというのは、2,3年前に入院していた時、痙攣発作が起こる前ぶれでもあったのだ。
だから、頭痛は油断できないのである。
後頭部が痛いという、その時は、私は自分の経験から、娘の肩や背中、肩甲骨周りをマッサージしてやる。
そうすると、いくらか改善するようだ。
これからも、もう痙攣はおきませんように、といつも強く祈るしかないのだが…。
これからも根気強く回復を励ましていきたい、支えていきたい。
そう思いながら、退院してから丸2年を迎えている今である。

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感傷的プチ鉄旅

2016-09-19 17:29:30 | お出かけ

世は3連休だったが、天候は今一つ恵まれず、観光地もさほど潤わなかったのではないかな、と思う。
私が家の外に出たのは、土曜日だけだった。
同年輩の同業者との交流会があって、長岡市まで出かけてきた。
在来線で新潟まで行き、上越新幹線で長岡まで行くのが手っ取り早いのだ。
が、調べてみると、家を20分早く出て、ローカル線を乗り継いでいく方法もある。
そうやっても、着くのが新幹線を使うよりも20分早い。
それがわかって、ローカル線の各駅停車の旅を楽しむことにした。
田んぼの中を走るローカル線は、単線である。
この時の車両は、わずか1両編成のワンマン・カー。

止まる駅は、今やほとんどは無人駅である。

こんな小屋みたいな建物が駅舎である。
5年前に勤めていた時、当時の勤務先まで、最寄りの(?)この駅舎から5kmを走って通勤したこともあった。
新潟平野の中を走るこの路線、田んぼは稲刈りを終えたもの、これからのもの、今その最中のもの、といろいろであった。

銘柄にもよるが、新潟のおいしい新米が出始めた。
新米コシヒカリもそろそろ出回る頃だ。

この路線の終点は、新津駅。

乗ってきたのは、羽越本線。

この駅は、蒸気機関車SLばんえつ物語号の発着駅である。
40年近く前、まだ学生の頃、上越新幹線はまだ走ってなかった。
帰省する時、最終1つ前の「特急とき号」に乗ってきて、この新津駅で乗り換えて当時の家のあったところまで約1時間、列車に揺られて帰っていたことを思い出した。
盆の頃などは、穂が出始めた稲の田に、電車の影を見ながら、夜行列車の風情を楽しんだものである。

40年か…と、ちょっとした感傷に浸りながら、ここまで30分間ほどのプチ鉄旅。
そこから先の信越本線で約1時間揺られて長岡駅へ。
そこで開催された、15年前に創設した同業者の交流研修会も、同年代なのでそろそろ定年を迎えるからという理由で、最終回であり、解散となった。
創設してから15年もあっという間だったなと、これまた少々感傷的になりながら、復路の鉄旅をして家に帰ったのであった。
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3か月ぶりに21kmを走る

2016-09-12 22:12:48 | RUN
26℃。
だいぶしのぎやすくなった。
4週間後は、新潟シティマラソンでフルマラソンを走る。
そのためには、事前に長い距離を入っておきたい。
ところが、ここのところ体調不良が続いているのだ。
昨日の朝などは、起き上がる前に、両手を後ろで組んで首を支えながら、軽い起き上がり腹筋をしていたら、急に左首がおかしくなってしまった。
ずっと首の右側がおかしかったのに、今度は左側。
まさに、「首が回らない」状態。
ふくらはぎも不安を抱えている。
しかし、走っておきたい。
25kmとか30kmが理想なのだが、6月の関川マラソンでハーフを走って以来、3か月間、20kmを越える距離は走っていない。
夕方、とりあえず、20kmを目標に、久々にサイクリングロードを走ることにした。
ふくらはぎ痛が出ないで、走りやすい速さを求めて走る。

1kmを6分10秒~20秒台で走るのが楽な感じ。
サイクリングロードに入る前から走っていたのだが、この地点で折り返すことにした。

この地点で、走り始めてから10kmになったからである。
おまけに、道の両側がこれだ。

サルやクマ対策として、電気柵が続いている

(ありゃま、ぼけてしまった…)
もう暗くなってきているのに、ここから先を行くのは怖い感じがするせいもある。
…ということで、折り返す。
道が帰りは緩やかな下りとなっていて、折り返してからの4kmはキロ6分かからずに走ることができた。
20kmにプラス1.1kmするとハーフマラソンの距離になるので、ちょっと疲れたが、その距離になるまで走り続けることにした。
帰り道は、もう完全に秋の日。
あっという間に暗くなった。
やっぱり道をあそこで引き返したのは、正解だった。

21.1km走って、時間は、2時間11分05秒。
このタイムは、ふくらはぎが痛かった関川マラソンより11分も早く、笹川流れマラソンより3分ほど遅いだけ。
ただ、フルマラソンはこの距離の2倍。
体の疲れは正直で、この2倍を走れるかどうかは、まだ疑問。
でも、まあ、首の痛みやふくらはぎの不安を抱えながらも走り切ることができた。
ひと月後挑戦してみようという気持ちが萎えはしなかったので、よしとしよう。
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猛暑の10kmRUN~かみはやし穀菜マラソン、きつかった…

2016-09-04 18:06:38 | RUN
いやあ、暑かった。
だから、苦しかった。

今年も、「こくさいマラソン」10kmを走ってきた。
そう、村上市の神林地区で行われる「かみはやし穀菜マラソン」である。

今日は、雲一つない青空。

西から台風が迫ってくる時、決まってこちらはフェーン現象が起こったりして暑くなる。
レース前の8時過ぎでもう30℃を越えていた。
(レース後は、車はしばらく35℃と表示していた)

レースのスタート10分前には、スタートライン付近に行ってチェックを受けたが、立って待っているだけでも、じりじりと陽射しに焦がされそうな思い。
並ぶ合図がされるまで、近くの木陰で、わずかでも涼をとる。

9時00分に5kmの部がスタート。

9時10分、いよいよ私や息子が走る10kmの部がスタート。
一般男子は、122名のエントリーがあった。
一般女子は、23人。
一緒にスタートである。
去年は、この大会で10kmを49分15秒で走ったのだ。
今年は、1kmあたり5分前後でいければいいな、と思っていた。

トラックを1周半して道路に出ていくのだが、息子はゆっくり行っているので、まずは軽やかに抜いていった。
コースは、田んぼの中の農道を走って往復するコースである。
何せ、平野のど真ん中の田んぼなので、陽射しをさえぎるものが何もない。
今日は完全な青空、本当に暑い。
3,4,6,8,9kmと給水所があるのだが、用意してあるのは、水とスポンジ。
こんな日は、水以外の飲料もほしい。
4km付近で、息子に抜かれた。
「これから、これから。キロ5分でいいペースだよ。」
と言われた。
レース後半型の息子は、どんどん遠ざかっていく。
5kmあたりで、「調子はどう?」と言いながら、よくレースで会う知り合いのSNさんが、私を抜いていった。
SNさん、いい走りだなあ、とその走りっぷりに感心する。
それに比べてわが足の重いこと。
暑さに負けて、全然スピードが上げられない。
給水所で、水を二口飲み、スポンジの水と共に体にかける。
汗と水とで、背中がぐしょぐしょになった。

後半は無理なくタイムをあげようと思ったのだが、無理をしないと速く走れない。
だから、無理はやめた。
ラストスパートもきかず、ゴールすると、65番の札をいただいた。
140人の中で、このくらいの順位なら真ん中へん?
記録は、53分34秒。

なんと、去年よりも4分20秒近く落ちているではありませんか。
1kmごとのラップは、5分00秒、4分44秒、5分05秒、5分22秒、5分33秒、5分20秒、5分36秒、5分47秒、5分42秒、5分26秒。
3kmの後は、撃沈のスピードですな。苦しい、苦しい。
加齢に猛暑が加わって、「モウショーガネー(猛暑加齢:苦しいダジャレである)」

だけど、がんばったことを天は見放さず、ゴールすると、参加賞のおにぎり・バナナ、アクエリアスのほかに、抽選でL賞をいただいた。

L賞は、カスタードケーキなどの焼菓子であった。


ここの穀菜マラソンは、参加費も3,000円と安いが、いろいろと工夫してくれている。
ゼッケンに穴は開いておらず、丈夫な紙に直接安全ピンで留める式。
ゴールも、今どきチップも使わず、手動計測である。
でも、そうやって景品抽選などの準備に予算をさけるという利点もあるわけだ。

抽選で豊かなめぐみをいただける穀菜マラソン。
厳しい10kmだったけど、L賞、ありがとう!


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歌で世界一周~昭和50年代の好きな歌を中心に~

2016-09-03 15:02:05 | うた
リオで五輪が開催されたこともあり、目が世界に向いた。
そして、個人的には国内でも旅行に出られない事情があるけれど…。
世界旅行に出かけてみたいよなあ、と思う。
今は、あちこちでテロの危険があるとはいえ、昭和50年代は今ほど危険ではなかったように思う。
その昭和50年代、自分がまだ学生だった頃や社会人となって20代だった頃、世界のあちこちを感じさせる歌が流行っていたよなあ、と改めて思った。

じゃあ、あの頃の日本人の歌で世界中を回ってみようか。
リオで五輪が開催されたこともあり、目が世界に向いた。
そして、個人的には国内でも旅行に出られない事情があるけれど、世界旅行。
出かけてみたいよなあ、と思う。
今は、あちこちでテロの危険があるとはいえ、昭和50年代は今ほど危険ではなかったように思う。
その昭和50年代、自分がまだ学生だった頃や社会人となって20代だった頃、世界のあちこちを感じさせる歌が流行っていたよなあ、と改めて思った。

じゃあ、あの頃の日本人の歌で世界中を回ってみようか。

異邦人となって。
なんてことを思いついた。

中国は、ユーミンの「大連慕情」や佐藤隆の「北京で朝食を」などがパッと思い付いたけど、

井上陽水の「なぜか上海」が聴いていて一番飽きないかなあ。
東南アジアに行くと、加藤和彦の「シンガプーラ」が心地よい曲だった。

心地よいというのとは違うけれども、「ラサ ラササヤン ゲ」と繰り返し歌う

松任谷由実の「スラバヤ通りの妹へ」は、耳について離れないところがある佳曲だ。
ちょっと南太平洋の気分で、

高中正義の「ブルーラグーン」を聴いて心地よくなる。

東アジアに行くと、「They say it was in INDIA」と歌われる、ゴダイゴの「ガンダーラ」がある。

ここから、メソポタミア地方を通ると考えると、「メソポタミアダンス」という渡辺真知子の歌がある。
アフリカは?「世界で一番暑い夏」というプリンセス・プリンセスの曲がある。

が、昭和50年代ならチューリップの「アフリカは午後0時」だな。

この曲は、「虹とスニーカーの頃」のレコードのB面の曲。
アフリカなら、庄野真代の「モンテカルロで乾杯」という歌もあるけれど、庄野真代なら「飛んでイスタンブール」の方を選曲すべし。

トルコから地中海、エーゲ海へ。
エーゲ海と言えば、何と言っても、ジュディ・オングの「魅せられて」。

「Wind is blowing from the Aegean.」の発音があまりにも立派過ぎて、流行っている頃ちゃんと聴き取れなかったことを思い出す。
志村けんがよく茶化して真似をしていたことも。
続いてイタリアからフランスの海岸部へ。
森進一の「冬のリヴィエラ」は、大瀧詠一の作曲。

ゆったりした感じが好きだった。
久保田早紀の3枚目のアルバムは「サウダーデ」。

このA面の曲は、すべてスペインギターで伴奏されている。
すばらしい異国情緒にあふれた曲ばかりだ。
その中にある「4月25日橋」や「アルファマの娘」がすごくいい。
アルファマは、スペインかと思っていたら、ポルトガルのリスボンの下町・旧市街なのだとか。
次は、フランス。
因幡晃は、「愛の流れの中に」という歌を、結構スケール大きく愛をうたっている。

「ああ、パリ 素敵な街。気が付いた時は恋に落ちている」なんてことを堂々と歌い上げていたのだった。
ここから海は渡らずに、内陸部へ。
ドイツ。佐藤隆が「ベルリン・ソナタ」という歌を歌っている。

ただ、この曲は昭和63年発表の歌なのだけど、ま、いっか。
そして、さらに東へ行き、「モルダウ」は、チェコの名曲。

これを、クライズラー&カンパニーが演奏したものが、1993年(平成5年)に発表されている。
平成の曲だし、歌声はない。
だけど、チェコは行ったことのある国なので、どうしても入れたいから、ま、いっか。
さらに東へとはるかに行く。
ロシア。「さらばシベリア鉄道」という、太田裕美が歌ったよい曲がある。

これも、大瀧詠一作曲で、作詞は太田裕美の曲お決まりの松本隆。

ここから、アメリカ大陸に渡る。
西海岸と言えば、カリフォルニア。
(山本コータローと)ウイークエンドの「カリフォルニアドリーム」という歌が軽くて、心地よい。

水谷豊の「カリフォルニア・コネクション」もよかったけど、旅は「カリフォルニア」の方だなあ。
アメリカは、浜田省吾の「アメリカ」という曲もある。
でも、サーカスの「アメリカンフィーリング」の方がいいなあ。

八神純子の「パープルタウン」も、ニューヨークを歌っていて、

ノリがいい。

中南米は、あまり知らない。
昔、豊田勇造という人が「あこがれのジャマイカ」という歌を歌っていたけど、よく知らない。
アリスが「逃亡者」という歌を歌っていたが、その中に、「女はやっぱりメキシコ 酒ならやっぱりテキーラ」という歌詞があった。
でも、ちょっと旅情と違うかな。
南米。
「コンドルは飛んで行く」が思い浮かぶ。
しかし、日本人の歌にこだわれば、何かないかな?
そうだ、中森明菜が「リオの街」と歌う歌があったぞ。

これこそ、オリンピック・イヤーにふさわしい。
その歌は、「ミ・アモーレ」でしたね。
レコード大賞受賞曲でした。

…とまあ、こんなふうにして、昭和50年代を中心とした世界めぐりの歌の旅を終えたのであった。

CD-ROMの80分間に入るように編集するために、次のように最終選曲。
① 異邦人(旅のテーマ:久保田早紀)
② なぜか上海(中国:井上陽水)
③ シンガプーラ(シンガポール:加藤和彦)
④ スラバヤ通りの妹へ(インドネシア:松任谷由実)
⑤ ブルー・ラグーン(南太平洋:高中正義)
⑥ ガンダーラ(インド:ゴダイゴ)
⑦ アフリカは午後0時(アフリカ:チューリップ)
⑧ 飛んでイスタンブール(トルコ:庄野真代)
⑨ 魅せられて(ギリシャ:ジュディオング)
⑩ 冬のリヴィエラ(イタリア・フランス:森進一)
⑪ アルファマの娘(ポルトガル:久保田早紀)
⑫ 愛の流れの中に(フランス:因幡晃)
⑬ ベルリンソナタ(ドイツ:佐藤隆)
⑭ モルダウ(チェコ:クライズラー&カンパニー)
⑮ さらばシベリア鉄道(ロシア:太田裕美)
⑯ カリフォルニアドリーム(アメリカ:ウイークエンド)
⑰ パープルタウン(アメリカ:八神純子)
⑱ アメリカンフィーリング(アメリカ:サーカス)
⑲ ミ・アモーレ(ブラジル:中森明菜)

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