ON  MY  WAY

60代になっても、迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされながら、生きている日々を綴ります。

娘よ(65)

2014-11-29 11:07:38 | 生き方
昨日は、朝方は悪かった天気も回復し、晴れて暖かくなった。
午前中は、娘と妻で4000歩ほどの散歩に出てきたのだとのこと。
1週間ぶりに外歩きができてよかったなあと思っていた。
妻が夕食作りをしている時も、「何か手伝うこと、ない?」と聞いてくれたりもしていた。
相変わらず今日が何日かはよくわからないけれど、それでもその日のことを少しでも覚えていることもあったりもした。
少し状態がよくなってきたな、とわれわれ夫婦は話をしていた。
ただ、今までの娘のこととして、よくなってくると痙攣が起こっている。
だから、最近は、状態がよいからこそ不安を覚えていたのだ。
前の発作から2か月半近くになり、よさを感じるがゆえに、そろそろまた発作が起こるのではないか、と懸念をいだいていたのだった。

今朝4時前、その不安が的中した。
ふと目覚め、同じ部屋で寝せている娘の様子がおかしい、と気付いた。
娘は、拳を固く握って、腕は硬直し震えていた。
顔は、白目をむいており、口からよだれが垂れていた。
幸いにも呼吸は止まっていなかった。
痙攣は、全身に及んだわけではなく、脚は特に変化に気付かなかった。
呼吸しやすいように、顔の向きを変えて、何度も名前を呼んだ。
数分すると、妻の呼びかけに応えられるようになった。
眠さを訴えるので、ゆっくり眠るように言った。
外からは、嵐を思わせる雨風の打ち付ける音が、バラバラバラと何度も何度もやかましく響いてきた。

眠りについた娘だったが、前回前々回の発作では、これから1時間くらいおきに複数回の痙攣が起きたのだった。
油断ができない。

朝が来て、7時になった。
幸いこの3時間で痙攣は続発することはなかった。
このままあとは発作が起きないことを願った。
トイレに行きたいと言うので、支えながら連れていくと、ふらついて倒れそうになった。
トイレのカレンダーを見て、「今日が何月何日だか、わからない。」とつぶやいた。

朝食は、普段通り食べることができた。
しかし、熱を測ると、微熱であった。
頭痛や顔面の違和感も訴えていたので、食後の薬の服用後、茶の間にふとんを持って来て、寝せることにした。


今は、寝息も立てずに眠っている。
目を凝らして見ると、わずかながら掛け布団の上下する動きを感じる。

それにしても、調子が少しでもよくなってくると、こうして発作が起きる。
そのくり返しが切ない。
まるで、よくなってはいけない、というようなものではないか。
脳の働きがよくなってくると、こうして発作も促してしまうような働きが娘の体に形成されてしまっているのであろうか。
ただ、今回の発作がこれで収まることを願う。
いったん起こると連続して起こっていた発作が、単発になり、しかも程度が軽くなる。
その過程だというのなら、救いもあるのだが。

どうか、今回、発作はもう起こりませんように。ひどくなりませんように。
今はただ、ひたすら願っている。


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散歩

2014-11-22 22:34:19 | お出かけ
3日連続でよい天気であった。
11月のこの時期、新潟では珍しいことである。
青空が美しい。

娘も、今日は少しは調子がいいようだ。
運動不足の娘のリハビリを兼ねて、一緒に少しだけ散歩に出た。

風が少しだけ冷たく感じたり、陽射しがまぶしく感じたりしたので、娘はさっそくフードをかぶった。
今日は、足元のふらつきは少ない。
いつもこんなだといいのだが。
娘も。
新潟の天気も。

頭上を見れば、桜の木々の葉は、すっかり落ちている。
足元に目をやれば、落ち葉が枯葉となっているものも多い。
落ちてから数日たっているということだ。
まだいくらか残っている木々の枝の葉も、もうあと数日で落ち切ってしまうだろう。


それにしても、娘と二人で散歩に出るなんて、いったい何年ぶりだろう。
娘が小学校に入学する前以来かもしれない。
穏やかな秋の空の下、ゆっくりゆっくり1500歩ほど歩いた。
木々の間にベンチがあった。
ベンチには、金具がついているものがあった。
それを見て、
「腹筋してみよっかな。」
などと娘が言うので、
「やれるもんなら、やってみたら。」
と応えた。

やってみたのはいいが、体力がなくなりおまけに太り過ぎた娘は、ここまでが精一杯であった。
チャレンジは、1回で終わった(笑)。

紅葉がきれいに残っている木もあったので、写真にとって、またゆっくり家に歩いて帰った。

記憶障害は改善されないから、今日の散歩のことも明日には忘れてしまうだろう。
けれど、こうして少しだけでも散歩に出られるようになっている今日の娘のことを喜んだ。
歩いた歩数は、3007歩であった。


晩秋の青空の下、普通に歩いていられることの幸せを感じた今日の散歩道であった。

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娘よ(64)

2014-11-20 22:32:26 | 生き方
昨日11月19日。自分の中では少し警戒していた。
娘の状態が、最悪のダメージを受けたのは、去年のその日だったからだ。
ひどい全身痙攣を連発した日からちょうど1年の日付になるからだ。
その直前が、娘は病が発症してから最もよい状態だった。
その頃は、体調も記憶力もついてきていたので、このままなら、退院も近いかもしれない、と思えるくらいであった。
しかし、無惨にもその日の発作の連発で、ICU送りになってしまったのだった。
涙を流しながら、駐車場まで荷物を運んだことは、昨日のことのように私の記憶に残っている。
ひどい痙攣の連発は、去年7月1日にもあった。
そして、今年も7月1日の朝に起こっていた。
だから、今年も去年同様の11月19日にも怒らなければいいが、と懸念していたのだった。
幸い杞憂に終わったことは、よかった。ほっとした。

さて、最近の娘は、日中、すごく眠たがっている。
午前1回午後1回ならまだわかるのだが、午後は2回である。
昼食後昼寝、おやつの時間を挟んで、また昼寝。
起きるのは、夕食30分前。
どうにも眠り姫(?)となっている。

悪く言えば、「食っちゃ寝」の生活なもので、あまる動いていないものだから、体重は病に倒れる前より15kgくらい増えて、太ってしまっている。
薬の投与量は、体重と無関係ではない。
体重は多くなるほど多くなる。
太ると、薬効が薄くなるのではないかと不安なのである。
また、太って、弱った足腰では体をうまく支えられないようで、よくふらついている。
それでも、2か月前の発作・入院の跡の退院後に比べたら、しっかりしてきたように思えるのだが。

記憶・認識の方は、相変わらず積み上がらず、逆に今に近い過去数年のものは少しずつ減ってきているような気もする
それでも会話は結構普通にできているので、暗くならないで明るく過ごしている。
ただ、一日中そばに付いている妻にしてみれば、毎日毎日同じことで注意されている娘の状態が改善されていないので、落ち込むことは多いようだ。
それももっともだと思う。

でも、家で過ごしていられるのだから、よしとしよう。
夕焼けが美しかった今日、6時半ごろ、西の空に新潟空港目指して飛んでいく飛行機の灯りを見た。
この時間の飛行機は、かつて娘が入院中、よくバイパスの道路上で見たものだった。
それを見つつ娘の病院目指して走り、病院で娘の世話をして1時間余りを過ごし、家に帰ってくると9時近くになっていたのだった。
それから夕食を食べると、もう10時になっていることがしばしばであった。
今は、一緒に夕食を食べることができる。
まあ、私が仕事で遅くなったりしなければ、であるが。

きれいな夕焼け空を見上げながら、今年の1年を思った。
もう11月も下旬になる。
この1年は、本当に早かった。
去年は30歳を目前に症状が悪化した娘であったが、今年はこのまま新しい誕生日を迎えてほしいと願っている。
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戻り咲き?~タンポポ、ブタナ、オニタビラコ

2014-11-17 22:00:34 | 草木花
近所の家の庭で、タツナミソウが戻り咲きしていた。
以前は、「狂い咲き」と言っていたはずなのだが、最近は、春に咲く花が秋に咲くのを「戻り咲き」と言うようになったようだ。
辞典に「戻り咲き」は載っていないのだが、いい言い方だと思うなあ。

8日前の日曜日の午後、ひとっ走りしてきた後のことだった。
アスファルトや生け垣に囲まれた狭いスペースに、黄色い花が3種咲いていた。

タンポポ、


ブタナ、


そして、オニタビラコ。


どれも、黄色い花である。
黄色い花は、春先によく咲いている…と、以前ここに書いたことがあったように記憶している。
しかし、今回の3種類の黄色い花は、それぞれ咲いた意味が違うように思った。4
ブタナは夏の花なので、がんばって最後の力を振り絞って咲いたように見えた。
タンポポは、戻り咲きというよりも、小春日和に近い天候が続いていたから、春に先んじて咲いたのだろうか。
オニタビラコは、これこそ戻り咲きではないかなと思った。
春によく咲いている花であるが、走っている時も、田んぼのそばで多数咲いているのを見かけた。
寒くなってきた時期だけに、黄色い花には暖かさを感じた。

昨日も走った後、1週間前にそれら3種の黄色い花が咲いていた辺りを探してみたが、寒さが進んだ1週間を間に挟んだせいか、もうどの花もすぼんでいた。
遠くの山は当たり前のこととして、近くの山も山頂から途中まで雪化粧していた。
もうすぐ雪に覆われる冬が来る。
花が見られない季節が、すぐそこまで来ている。
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30年

2014-11-16 21:32:28 | 生き方
父の命日である。
30年前のこの日、父は亡くなった。
われわれ夫婦は、当時1歳を迎えようとしていた娘とともに、70数km離れたところに住んでいた。
私はそこからさらに毎日勤務先まで30数kmかかる距離を通っていたのだった。
5日前に父母の住む家に娘を連れて訪ねたばかりだった。
娘は、1歳になる前から、もう歩いていた。
足腰の強い子どもだった。
その孫娘の名を呼んで、後を追いかけていたじーじが父だった。
その父が、勤めから家に帰って、いつもしていたように、風呂に入った。
風呂上がりの晩酌が一日の仕事に疲れた父の最大の楽しみだった。
30年前のその日も、そうだった。
ところが、風呂場で倒れた父は、2度と目覚めることも立ち上がることもなく、息を引きとったのだった。

あの時、父が追いかけた、小さくとも足腰の強かった娘は、今は、傾斜のある墓地に上るには、時折支えや後押しが必要になった。
1年半前までは、全く何事もなかったというのに。

砂地の坂道を上ると、父や母だけでなく、父の「本家」の人々や伯父伯母たちの眠る墓に着く。

今日は、北日本は完全に冬型から脱出しておらず、風が強い。
線香に火がなかなかつかない。
それでもなんとか火をつけ、妻や娘に線香を渡した。
すると、片手に線香を持った娘は、急に足元がおぼつかなくなった。
何もしないと、後方へしりもちをつきそうになった。
娘の分厚い上着の背中をつかみ、かろうじて娘は倒れずにすんだ。
なんとか線香を立て、神妙に手を合わせていた娘。


こんな娘ですが、祖父の命日を、祈りを捧げにここまで来ました。
あなたが30年前に慈しみ愛した孫娘です。
どうか、もっと状態がよくなるように見守ってください。

そんなことを考え、祈っていた。

最後に、墓地の地蔵に、もっとよくなりますように、とその頭をなで、自らの頭に手をやった娘であった。


無事に元気で育ってきた娘だから、墓では感謝の気持ちだけで祈っていたのだが、このような現状になるとは、想像できなかった。
今は、仏壇に仏様に、娘の快復を祈る毎日である。

30年がたったよ。
私はあなたの歳を超えた。
だけど、今、30年前の父のようになるわけにはいかないんだよ…。
娘がもっともっとよくなるまでは…。

親父、いや、じいちゃん、頼むよ。
娘をもっとよくしてくれよ。

何度もそう願いを念じながら、亡き父に語りかけ、帰ってきた、30年たった今日であった。
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S氏よりの手紙

2014-11-11 20:52:30 | RUN
11月5日。職場に一通の白い封書が届いた。
封筒の裏を見たら、Sさんの名前があった。
あの、胎内市ロード大会で私をあっさり追い越して行ったSさんである
封を開けると中には、手紙と4枚の写真が入っていた。
折り返し地点やゴール付近で、私の写真を何枚か撮ってくれていたのだった。
大会からまだ2日しかたっていないというのに。
わざわざすぐに送ってくれたのだった。


前略
11/3の胎内市ロード大会、お疲れ様でした。
当日は寒くておまけに人が少なくて、少々寂しいレースでしたが、途中で貴君のゼッケンを発見し、並走することができてとても嬉しかったです。
胎内市で走るのは初めてでしたが、都合がつけばまた来年以降も参加したいと思っています。
私は春と秋のシーズンは県内あちこちに出かけて走っていますが、またどこかでお会いできるといいですね。
取り急ぎ写真をお送りします。
折り返し付近の写真はグローブをしていたため、若干タイミングがずれてしまいましたが、ご容赦ください。
ご自宅の住所が不明ですので、不躾ながら職場宛にお送りさせていただきます。
暑い夏が過ぎたと思ったらあっという間に冬ですね。
時節柄ご自愛のほどお祈り申し上げます。
                  草々
         2014年11月4日
              S


文章を読んでみても、実にさわやかな、ナイス・ガイだと思った。
50代後半になって、ナイス・ガイもないもんだとは思うが、彼が運動が得意ではなかった高校時代よりもスリムになっていたし、何より私をあっさり抜いて走り終えても元気が有り余っていた。
そして、この2日後に届いた手紙の迅速さ。
「ナイス・ガイ」と呼ぶにふさわしいと思えた。
所属が、「○○ランナーズ」となっていた彼は、今までの人生でずっと走り込んできたのだろう。
高校時代は、隣のクラスにいた彼だったが、今回のように話したことはなかった。
おまけに、こうして写真をすぐに送ってくれる。
いいヤツだったんだなあ、と見直したと言うか、感心した。

自分が走るようになったから、こんな再会もできたのだろう。
RUNに親しむようになって以来最大の楽しい出会いであった。
次は、どこのレース会場であえるだろう?楽しみだ。






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娘よ(63)

2014-11-09 20:54:45 | 生き方
先月は、千葉から叔父さんが来てくれたが、このたびは、埼玉から伯父さん(妻のお兄さん)がはるばる来てくれた。
こちらの伯父さんからは、去年入院中だった娘の誕生日に病院を通じて、誕生日のメッセージをいただいたことがあった。
また、ひなまつりや七夕の日にも花をいただいたりしたのだった。
姪っ子思いの心優しい伯父さんである。

伯父さんは、実は、娘が9月に退院して、3日目にあたる土曜日に、新潟までお祝いしに来ようと思っていた。その時には、寿司をはじめとするごちそうを、わが家の近くの店に注文してくれていた。
ところが、退院して2日目の金曜日の夕方に娘は倒れてしまったのだった。
だから、頼んでいたものをキャンセルしてしまったりしたのだった。(キャンセルに応じてくれた店の方には、大いに感謝していますm(_ _)m)

その後、娘のことを心配してくださっていたがゆえに、自身も体調を崩してしまったのであった。
このたび、やっと体調が整い、埼玉から来てくれたのだった。

今回の土曜日は、2か月前の代わりに、娘の退院祝いを行った。

伯父さんのおごりで、寿司や刺身、焼き鳥や果物などを並べて、娘を中心にして、夕食をみんなで楽しくいただいたのだった。

一泊して今日、昼食後に帰って行った。

伯父さんからは、娘の今の状態について、ありのままを見ていただいた。
ボケボケのところがあっても、本来の娘の気性が変わっていないところなどがわかってもらえたのではないかと思う。
そう、娘の言動は、
今は少し幼稚に感じるかもしれないけど、
滑舌の悪さにあきれるかもしれないけど、
少々何を言っているのかわからなくなる時もあるけれど、
以前と変わらず周囲を明るくしようとする思いが根底にあることを。
娘のそういうところが、伯父さんも好きなのではないかなと思うのだ。

また来てください。
今度は、土日でなくて平日であっても、娘や(貴方の妹である)私の妻がいつでもいますから。

そんな思いを胸に抱きながら、帰る車を見送ったのだった。

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娘よ(62)

2014-11-06 22:31:41 | 生き方
娘に残っている主な障害は、大きく言って3つ。
①1つは、記憶の障害。
②1つは、運動の障害。
③1つは、言語の障害。

最大の困り感は、本人も言う「物忘れ」。
実は、物忘れどころではなく、本当に困ってしまうほどの記憶の積み重ならなさ、なのだ。
それを、妻は嘆くように娘に対して指摘するのだが、娘曰く、「母に怒られた」なのである。
妻にしてみれば、もうちょっとしっかりしてほしい、という思いもあって、娘に対して強い注意を与えるのだが、娘には「怒られた」ように感じるらしいのである。
今夜は、「母に怒られた」と言いながら、洗面所から茶の間に戻ってきたのだが、「何を怒られたの?」と尋ねると、「…忘れた」である。
なるほど、妻があきれる訳である。
でも、まあ、その辺の一番つらいのは娘本人のはずだから、仕方ない。

それから、最近は、立ち上がる時などのふらつきが目立つ。
特に、手に何か持って立とうとすると、それに気が向くせいか、よたよたしたり立ち上がれずひざから崩れたりしている。
疲れがたまると痙攣につながるのではないか、と懸念するので、あまり足腰を強くするための運動はさせられないでいる。
通院しても、足腰を強くするためのリハビリを行う訳ではない。
9月の退院後すぐの痙攣を思うと、あまり疲れさせてはならないと妻が考えるのも理解できる。
もう少し足腰を強くしなくては、とは思うのだ。
10年前に病気だった母に使わせていたステッパーを使わせてみる時もあるのだが、娘本人の木が向かないとやらせられない。
そのために、体重が日々恐ろしく右上がりである。

体調が悪くなければ、日中、妻と二人で買い物に出かけたり近所の公園へ散歩に出かけたりもできるのだが、最近は少し不調である。

それから、しゃべる時の、声の低さと滑舌の悪さは、なかなかである。
時々、「えっ??」ともう1回言ってほしいと言ってしまう。
うまく言えなくて、カミカミなことも多いのである。
時には、今日したことでないこともしたように感じ、口走ることもある。

それでも、朝私が仕事に出かける時や、夜家に帰って来た時、娘の顔を見るとほっとする。
今日も、特におかしなことはなかったのだろうと思うと、それが何よりである。
もっとも、一日中寄り添っている妻は、ふらついたり調子が良くないように見えたりする娘の姿に、また痙攣が起きるのではないか、と恐々としているので、毎日疲れているように見える。
私ももっと早く帰れればいいのだが、時期的に仕事が忙しく、毎日夕食の時間に帰れないでいる。
とはいえ、毎日娘がとりあえず無事に過ごせていることには、大いに感謝したいと思っている。

「また、明日も元気に過ごそう。おやすみ。」
そう言って、寝床に行く娘に声を掛けている毎日の私である。
病院でなく、家でその言葉を言えることは、間違いなくうれしいことなのだ。




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今年も完走 胎内市ロード大会20km

2014-11-03 17:24:35 | RUN

胎内市ロード大会。
RUNNETでも公開されたから、参加者が少しだけど増加。
駐車場に車を止めようとしたら、スペースはあるのに、おバカな車が後ろに行けないように通路をふさいでいた。
その車の横を無理やりぎりぎりで通って車を止めた。
受付を終え、今年は、参加者がどのくらい増えるかなと思いながら、要項を開くと、「おお、30人余りいるじゃないか!」と、ちょっぴり感激。
ところが、ここから健康診断に並ぶと列がなかなか進まない。
それもそのはず、血圧を測る機械が手動で、おまけに2人がかりでやっている1台が故障中。
私のデータもいつになく高血圧!?
それでいて、2回も行った上に、「本当はもう少し低いのでしょう?」などと聞くようでは、何のための健診?
まあ、医師から聴診器を当てられても、心音の異常はなかったのでよかったのですが。

心配していた天気は、スタートするとトラックを2周余りする間、横なぐりの雨とバックストレートコースでの強い向かい風。
5kmの途中までは、10kmと20kmはコースが同じである。
そして競技場を出てからの向かい風と雨。誰か風を防ぐ人になってくれればいいのだが…と思うのだが、みんな結構速いランナーばかりで、次々と追い越されていく。
4kmに届かない地点で、もう5km過ぎの折り返し地点を回ってきた10kmのランナーたちが次々と反対車線を駆けてくる。
あれが、今年開校した開志国際高校の外国人留学生、そして同級生のランナーたちが。
その後ろから次々と重川材木店の青年ランナーたちが、行く。
4kmを過ぎたところで最初の給水点。
新潟シティマラソンと違って、このレースは水だけ3か所。
新潟シティマラソンでは、水のほかにアミノバリュー
南魚沼グルメマラソンの手厚い給水が懐かしくうらやましい。
上り坂があったので、4kmまでは5分10秒台で行けたのだが、5kmでの1kmは初めて5分20秒台であった。
その後は正直なもので、上り坂が入るとタイムが落ちる。
風は相変わらず強いが、雨は上がった。
風に負けないようにと体を前に傾けながら走っていた。

いつもより無理のないペースで走っているので、気持ちはいい。
沿道の人々の声援に、いちいち「ありがとうございます。」と声を出しつつ走っていた。
途中で反対方向から来た車が止まり、窓から顔を出した知り合いが叫んだ。
「ふるさとを、颯爽と走れ!」
うれしかった。「ありがと~す。」と拳を突き上げて応えた。


中間地点の手前で、小さい頃から「お姉ちゃん」と呼んでいた従姉が待っていてくれた。
中間地点、折返点を過ぎた。

目は自然と向こうの墓場に行く。

両親が眠る墓がある。
再び従姉に会い、ハイタッチして元気をもらう。
残りはあと半分、10km弱だ。

今年は、帰路が追い風だった。
そのおかげで、ペースが落ちても、5分20秒台から30秒台で走り続けることができた。
今年の15kmの関門は、2時間であった。
去年までは1時間20分だった。
今年は、1時間19分59秒でそこを通り過ぎた。
去年までと同じでも、今年も突破できたじゃないか!!?…と自賛した。

今回の最大の驚きは、前半途中で追い越して行ったSさんである。
よく似ているのでてっきり彼の弟かと思ったのだが、本人であった。
高校時代は、運動はからっきしだめだったはずである。
その彼が、淡々と20kmを走り終えて、私の600~700mくらい前でゴールしていたのである。
人は変わるんだなあ、と改めて思った。
ゴール地点で再会し、彼がカメラで何枚か撮ってくれた。

今年の私は、参加者が増えたので、去年のように最下位ではなかった。
記録も、1時間43分台の一昨年ほどよくなかったが、去年の1時間52分台を大きく上回る1時間47分台であった。
やはり後半はスピードが上がらなかったが、最後まで気持ちよく走り切ることができた。

これで、今年の大会出場は、終わり。
4月の笹川流れマラソンは欠場したものの、1月の村上市元旦マラソン10km、6月の関川マラソン12km、10月新潟シティマラソン21km余、11月胎内市ロード20kmと走り切ることができたことを喜ぼう。
年々走るスピードは遅くなるけれども、可能な限り走り続けていきたいものだ。


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明日は、胎内市ロード大会20kmなのだが…

2014-11-02 20:43:25 | RUN
せっかくの3連休だというのに、天気がよくない。
もっとも、娘をほっといて外出する訳にもいかないので、晴れていてもきっとどこにも行けないのだけど…。
そうは言いながら、胎内市ロード大会の20kmに今年もエントリーしたのである。
今年は、この大会も、RUNNETで公開されるようになった。
うれしいのは、15kmでの時間制限が、1時間20分から2時間に延長されたこと。
今まで出場した2年間は、この15km1時間20分をクリアするのに必死であった。
今年は、自分のペースで走れそうだ。

そう思って楽しみにしていたのだが、この3連休の天気の悪さ。
天気予報では、明日は、東北から北陸にかけて、大荒れだと言う。
大会は無事にできるのであろうか?

まずは、荒天であっても、心折らずに走り切ろう。



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