ON  MY  WAY

60代になっても、迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされながら、生きている日々を綴ります。

娘よ(7)

2013-07-29 22:54:40 | 生き方
 26日は、職場の慰労会だった。
 ただ、日々の娘の容体が気になっていた。
 病室を訪ねると、娘は、目を開けていることが多くなってきていた。D剤は8.0のままだったが、P剤の濃さが低くなってきているように思えた。
 職場の慰労会は大事だが、それ以上に娘に会うことの方が重要な気がする。午後8時までに病院に行くと、娘の見舞いができる。

 そんな訳で、慰労会は午後7時までと決め、わがままを言って中座させていただくことにした。
 慰労会の会場から病院までは25,6kmある。7時に出れば、およそ45分くらいで病院に着くのではないか。そう考え、実行に移した。
 酒は好きなのだが、6時からの会は、食べるだけ食べ、職員の皆さんに手際よく注いで回ることに専念。
 7時の時点で、人々に1回ずつは注ぎ終わり、並んだごちそうも、まだ出ないデザート以外は食べ尽くした。はじかみも刺身のつまも、全部平らげた…。残さいは残さない…地球にやさしく資源は大切に…単にいやしいだけかもしれないが…(いやしさは隠せない)。

 病室を訪ねると、横になっている娘は、目を開けてこちらの方を見てくれた。やっぱり宴会を切り上げて娘に会いに来てよかったと思った。
ベッド上の娘に手を振ると、看護師さんが、私に気付いて、「(主治医の)先生に会いませんでしたか?」と聞いた。
 いいえ、と答えると、小部屋に案内してくれた。
 そこには、8時近いのに、主治医が妻と息子相手に、最近の治療の様子を説明してくれていた。
 私が行ったことで、医師はもう一度一から説明をする羽目になってしまった、しかし、「20代の若い娘さんが、こんな状況になっているのは尋常な姿ではない。だから、なるべくきちんと説明する機会を大切にしたい。」と常々言ってくれていたが、それを実践してくださっていることに、心から感謝した。

 主治医の説明である。
 けいれん止めの薬を下げていかなければ、血しょう交換の効果は確認できない。呼吸の管をのどから抜いた日にけいれんが起きたのは、呼吸の管を抜いてけいれん止めの薬を急に薄くして、脳に急激に強い刺激が与えられたからではないか。
 けいれんが起きたことからすれば、けいれん止めの薬を一気になくすわけにはいかない。
 この間は、P剤を濃いままにしてD剤を薄くしたらけいれんが起きた。P剤は、肝機能も悪くしているようだから、今度はD剤を濃いままにしてP剤を少しずつ薄くしていこうとしている。
 熱が高いのは、肺炎を起こしていることが考えられる。
 本当に血しょう交換の効果があったのかどうかは、話ができるようにならないとはっきりしない部分がある。まずは、けいれんを起こさないで、話ができるようになることを目指したい。

 この説明を受けてから3日がたった。
 指定された時間に集中治療室に会いに行くと、大概は目を開けているし、姿を見てくれる。
 ただし、まだ大半はぼうっとしている。こちらの話しかけに、時々は反応して首を振ったりはするのだが、けいれん止めの薬はまだ濃い。
 管を抜かないようにと、両手首が固定されている。鼻から胃に管は通っている。口には酸素マスクがかけられている。
 口元が動くことはあるが、声はいまだ出せないままだ。なのに、痰がひどくからむので、ひどい咳を繰り返すことが多い。
 こんな娘が、話せるようになる日は来るのだろうか。
 言う内容がまたとんちんかんな内容になるとしても、娘の声が戻ってくる日を待っている。
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近くの運動公園を5周

2013-07-25 22:57:35 | RUN
娘が倒れてからというもの、「グルマラ」には出たが、娘が本格的におかしくなってからというもの、あまり走っていない。
2回ほど10km前後を走ったが、心身のバランスが崩れているのか、2,3日後体調不良に陥ることが多い。
体調不良と言っても、出る痛みは、内臓系ではなく整形外科系?なのだ。
首の周辺やひざ、腰、肩甲骨の辺りから背中など、何やら年齢を感じさせる。
先日は背中が痛くて、夜じゅう眠れなくて、翌日は行きつけの整形外科医に行って、痛み止めをもらってきてしまった。
それ以来、11日ぶりの走りに前向きになった。
今日は、昨日の件もあり、気が晴れないので(天気も晴れではないがくもりであった)、少しだけ走って気分転換をしたくなった。

家から数百mのところに、体育館など運動公園がある。
そこの外周を走った。
1周およそ1100m程度だろうか?
初めから5周走ると決めて走った。
この運動公園の中には、かつて芝生のグラウンドがあった。
娘や息子が小学生の時、毎朝そこまで走って行って1周して家に戻るということをしていた。
その距離はおよそ2kmくらいであっただろうか。
高学年になったら、もう少し多くして、2700mか2800mを走ったのだった。
そのかいがあって、娘は、SBマラソン大会の地方大会で優勝し、全国大会に出場したこともあったのだ。
その時、瀬古監督や当時早大からSB入りした渡辺現早大監督や、櫛部、武井、花田らすごいメンバーと記念写真を撮ったこともあったのだった。
残念ながら、全国大会では60選手中50位台の前半の成績ではあったけれども。
…頭の中に、少しだけそんな思い出をよみがえらせながら、走った。

走っていると、面白いもので、同じコースを逆回りして走る人がいた。
1周するたびに2か所ですれ違う。
私よりも若い人だけあって、1周するごとに、出会う場所が近くなる。
向こうの方が1周5~10秒くらい速いということがわかった。
でも、走る時の張り合いになった。
5周を終える最後のすれ違いの時、思わず「ありがとうございました。」と言って、コースを外れ、家へと足を向けた。
外気温29℃。
汗びっしょりになった。

シャワー後、汗のおさまりを待って、病院に行った。
今日も娘の体温は高かった。
熱がずっと続いているということは、どこか悪いからなのだろう。
肺炎を起こしている可能性もありそうだ。
ハアハアと息をし、時々せき込み、眠っていた。
けいれん止めは、D剤はそのままでP剤は、少し下げられていた。
脚が細くなっていて、毎日もんだりさすったりしてやるのだが、脚の肌がまともに栄養をとれていないせいだろう、ガサガサだ。
これが、小学生の時、全国大会に行って走ったこともある、健康的だった脚かと思うと、やはり切なくなった。

ひどくせき込んだとき、目を開けたので声をかけると、わかるのかわからないのか、目をこちらに向けることがあった。
痰を吸引してくれると、看護師さんが言ったので、切ない様子は見ていられないので帰ることにした。
「さよなら」と手を振ってみせたら、こちらも細くなった手首を持ち上げてみせた。

私を認識してくれたのなら、うれしい。
熱よ、下がれ。


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娘よ(6)

2013-07-24 21:34:33 | 生き方
先週後半から、鎮静をかけていた薬の濃度が薄まるにつれ、病室を訪ねると、娘は目を開けているようになった。
ただ、口には、最も太い呼吸用の酸素の管や痰を取るための管、鼻からも胃とつながっている管が通っていて、本当に痛々しい。
熱は、38度前後と高めのことが多い。
土曜日には、ほぼひと月ぶりに、私を認識したようで私の声に涙を流していた。
その前日は、名前を呼びかける妻の声に涙を流していたのだった。
管が通りながらも、時折苦しそうな咳が出ているのが見ていて切なかった。
無意識に管を外すといけないので、また手首がしばられていた。
体も、拘束帯でベッドにつながれていた。
本人は、足の動きは自由になるので、膝を立てたり首を動かしたりするようになった。
それにしても、鎮静をかけられていたのが解かれるようになる、ということは、自分の体が自由にならない、ということに気付くことではないかと考える。
眠らされているだけなら、体が束縛されていたり管をくわえさせられていたりしてもよくわからないので、苦しみを直接味わわなくてもよいだろう。けれど、覚醒しているのなら、常人にはこの状況は耐えられないだろう。そう思うと、つらくなるばかりであった。

この火曜日、日中、ついに娘から呼吸用の管等が抜かれた。
代わりに、酸素マスクが付けられていた。
よかった!
ようやく口が自由になったのだ。
だが、3週間以上太い管が通っていた影響で、すぐ声を出せるようになる訳ではない。
声を出せない娘は、時折ひどく咳き込んだ。
痰がからむのがわかるが、痰を出すかと聞いてみても、反応がない。
熱は、相変わらず37度台の後半。高めである。
それでも、うれしいことに、病室に同行した息子が話す言葉に、うなずくこともあった。
しっかりとした意識が戻ってきているのならよいのだが…と願う。
鎮静をかける薬は、この3週間余り2つを併用していた。
ひと月半以上使っていたD剤とこの間使っていたP剤。
D剤の濃度は、ずっと「8」だったのが、「2」にまで下げられていた。

手は、手首のベルトは取られていたが、ミトンの手袋でおおわれていた。
体の拘束帯もかけられたまま。
妻は、足の機能が衰えないようにと、よく足首付近を回してあげたりマッサージしてあげたりしている。
私も行うようにしているのだが、それにしても細くなったものだ。
娘は、もうひと月半以上歩いていない。
ずっとベッドの上で動かない生活をしている。
おまけに、ひと月前に集中治療室に入ってから、食事もとっていない。
点滴から栄養をとっているだけなのだ。
だから、細くなるのも無理はない。

どうか、鎮静剤を薄めていっても、けいれんが起こらないでほしい。
血しょう交換の効果が十分にあった、と言えるくらいになってほしい。
ずっと、ずっと願ってきた。祈ってきた。

…だが、そんな願いはむなしかったことが今日また判明してしまった。

前夜、息子の言葉に応える娘の姿があったから、今夜はまたいくらかよくなっているといいな、という期待を胸に、私たちは、夫婦で病室を訪ねた。
ところが、娘は、またどんよりと眠っていた。いや、眠らされていた。
熱も相変わらずあるように感じられた。
看護師からの話では、昨日、またけいれんが起きたのだということだった。
だから、けいれんが起きないように、D剤をまた最高レベルの「8」に戻したのだという説明であった。

がっかりした。
恐れていたけいれんが起きてしまった。
このひと月の娘の苦しい闘病は何だったのか、と。
このうえ、まだ苦しみは続くのか、と。
妻は、落胆の色を隠せなかった。
繰り返し涙した。
何度もすすり上げていた。

娘が倒れた日は、水曜日だった。
今日の水曜日は、もう8週間になることを知らせている。

…でも、ここまで十分苦しんでいるんだ。
だから、もう暗転はいらない。
好転だけが、ほしいのだ。
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青い空に白い雲、窓の外の訪問者

2013-07-19 22:28:07 | 生き方
6月。関東地方から西が梅雨だと言っていた時、新潟に雨はなかなか降らず、暑い日が続いていた。
7月。関東地方から西が猛暑だと言っていた時、新潟は連日の雨降りで、まさに梅雨真っ盛りであった。
それは、今日まで続いていたような感じであった。
朝の通勤時、勤務先に着いた時は土砂降りの雨であった。
そのあと、次第に青空が広がってきた。

やはり青空は、いい。
青い空。
そこに浮かんだ白い雲。

気持ちがよかった。

窓のすぐ外に、おや、かわいい訪問者が。

全長1cm余りのアマガエルくんだ。
居心地がいいのか、午後になってもその場所にじっとしていた。


さて、天気予報によれば、久々に週末の2日間、晴れそうだ。


気持ちよい空を見上げながら、20歳前後の頃の娘は、青空に浮かぶ白い雲の写真を撮ることが好きだった、…そんなことを思い出していた。

今週火曜日、最後の血しょう交換の治療を終えた娘は、次第に鎮静薬の濃度を下げてもらっている。
昨日まではひたすら寝入っていたが、今日の娘は、目を開いていることが多かった。
ただし、意識はないようだ。
声が聞こえているのかいないのか、反応がない。
相変わらず口から大小の管を通されているから、声は出せない。
だが、管が通っているのどが痛いのか、胃かいようの胃が痛いのか、どこか別のところが痛いのか、時折眉間にしわを寄せ苦しそうな顔をしていた。
来週は、鎮静薬をさらに薄め、のどの管を抜く予定だという医師の説明であった。
意識が戻ること、けいれんが起こらなくなることを期待したい。
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娘よ(5)

2013-07-14 17:49:33 | 生き方
その3日後の木曜日には、娘を新たな災難が襲っていた。

病室を訪ねると、医師からは鼻から出ている管の話があった。
管の褐色の水は、ストレス性の胃かいようからくる出血の跡だとのこと。
眠らされていても、ストレスは感じているということに驚いた。
かいようが動脈をけずっていなければ、大丈夫だろうと言う。
脳波は、時々乱れが来ているらしい…ということは、表に現れないけいれんがやはりきているようだ。
生きているのが分かるのは、呼吸をして胸で息をしているのが分かることから。
動くことはない。
長い治療で、血管が炎症を起こしているとのことで、足部は赤くなり、むくんでいるのが分かった。
唇は、器具を押し付けられ、血がにじんで腫れ上がっていた。
しかし、いろいろあっても予定通り進んでいる、というのが話の中心であった。
髄液からは、以前より白血球の数が減っていること、たんぱく質の数値が落ちていることなどは、よいことなのだそうだ。

意識がなくとも胃かいようになっているのだな、などと妻と話しながら、車を運転して駐車場を出ようとした時だった。
急激に私の胃の辺りが痛くなった。
これこそ、まさにストレス性の胃かいようであるまいか、と苦笑いながら必死に痛みをこらえた。
感染性の病気やあくびはうつると言うが、胃かいようまで同じか?…と。
幸い、家に帰って胃薬を飲むと、私の胃の痛みは収まったのだった。
ただ、その後も時々胃の重さを感じるのだった。

まもなく、血しょう交換の治療も終わろうとしている。
効果が上がっていることを期待するばかりである。
果たして効果はどうなのだろう。

毎日毎日痛々しく眠らされている娘を見守ることしかできない。
何とかよい効果が表れてくれ、と切に願う日々が続いている。
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娘よ(4)

2013-07-14 17:44:19 | 生き方
およそ4週間いた個室を離れ、娘は集中治療室に移った。
ここは、1日の中で、午前(10時~11時)・午後(14時~15時)・夜(19時~20時)しか面会時間が持てない。
しかも、1回2人。15分くらいである。
その夜、1回目の血しょう交換を終えた娘は、深い眠りに落ちていた。
暴れるといけないので、麻酔の濃度を上げたのだという。
鎖骨の下あたりに管が通されていた。
それ以外にも導尿、血圧や心臓、脳波等の働きを示す機械などにつながる様々な管につながれていた。
こうなっては食事もとれず、点滴に頼るのみとなっていた。
翌日より翌々日は、少しよくなっていたように見えた。
声はかすれるが、しゃべろうとしていた。
金曜日には、2回目の血しょう交換を行った。

4日後には、主治医の説明を夫婦で聞いた。
今のところ順調だとのこと。
毎晩眠れず、夜中に目覚めてはすすり泣いていた妻が、この夜は、いつもより多く眠れていたことに、ほっとした。

それなのに…。
もう何度目の暗転だろう。
まだ事態は悪くなる。
7月になった月曜日の朝、病院から突然電話があった。
夕べの午前2時ごろから、およそ1時間に1回くらい、ひんぱんにけいれんを起こしたとのこと。
そこで、鎮静をかけるため濃度を上げると言う。
さらに、そうすると呼吸が弱くなるので、口から肺へ管を通して酸素を送り呼吸ができるようにする、とも。
面会時間に集中治療室を訪ねると、病室が変わっており、より暗い病室であり、機械がさらに増えていた。
ベッド上の娘は、見るに耐えられないものだった。
目は薄目でとろんとした表情、口は醜く開けられ、肺に直接酸素を送るために太い管を通されていた。
それを固定するために、口元には、何本ものガムテープのような絆創膏が張り付けられていた。
時折のどに唾液が詰まるのかむせていた。
詰まったものを取ってもらう時、娘は目から涙をこぼして苦しんでいた。
娘のことで、もう何度心がつぶれただろう。
それなのに情け容赦なく、これでもかこれでもか、と状況は悪くなる。
主治医は、想定の範囲内である、という。
今すぐ命がどうこうはないと言う。
しかし、私たちの目の前にいる娘がこのひと月余りの間に経験していることは、あまりに重い。
そして、それを胸がつぶされる思いで見ているしかない私たち…。
けいれんが頻発したというのに、この日3回目の血しょう交換。
これは、一週間に3回ずつ、7月中旬まで行われる予定である。

毎晩、仕事を終えてから集中治療室の病室を訪ねると、体じゅう管だらけになってひたすら眠る娘がいた。
こんな苦しい姿になっているなら、眠っている方がよいだろうと思ったりもする。 
一つだけ幸いは、薬で鎮静させられているから、拘束されていたベルトたちが取られていたことだった。
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娘よ(3)

2013-07-14 17:30:05 | 生き方
 娘の心が現世に住まなくなってからおよそ1週間後、脳の血流の検査によって、正常な人と比べてみて、娘の脳の周囲、特に右の側頭部側がよくないことがわかった。
ここで初めて、病名がついた。
「辺縁系脳炎」
しかし、名前が付いただけのこと。
何が原因なのかはわからなかった。
ウイルス性のものなのか、自己免疫不全によるものなのか、わからない。

主治医は、全国の医師にデータを送るなどして、娘の稀な脳炎の治療について、対応策を決めていた。
全国でも、このような症例は400くらいしかないとのこと。
もはや娘が難病であることははっきりした。
しかも、個によって様相は異なるために、どれが決定的な治療法になるのかは、わからないのだと説明を受けた。
ただ、わからないからといって、手をこまねいている訳にはいかない、効果的と思われる療法を次々とやっていくしかないのだということだった。
それで、翌週から集中治療室で、「血しょう交換」という療法をまず行うことになった。
鎮静をかけて、週に2~3回、血液を採ってその代わりに凍結血しょうを入れるのだという。

新しい治療法が決まったその翌日、娘の夕食後も珍しく私たち夫婦が一緒に病室に残っていた。
夕食後、相変わらずちんぷんかんぷんなおかしな会話をしながら、久々に歯みがきをさせようとしたところ、ベッド上で急に娘の動きが止まっていた。
目はうつろで、よだれを垂らしていた。
おかしい!
そう気づいてナースコールを押そうとしたら、娘の上体がぐらりと折れ、ベッドの柵に頭からぶつかり、そのままベッドに倒れた。
そこから全身けいれんが始まった。
看護師さんが大勢駆け付け、酸素吸入等の処置を行った。
けいれんが収まった後も、娘は、「いや~」という悲鳴を上げながら、ベッドの上をのたうちまわっていた。
嵐のような時間が娘を襲っていた。
声を上げて暴れる娘の手足をつかんで、ひたすら落ち着くのを待った。
看護師さんの話では、けいれんが起きるといつもこうなのだと言う。
けいれんが起こると、意識を失い呼吸も止まってしまう。
こんな状態では、治って普通の生活ができるようになるなど、信じられなかった。
親である私たちは、絶望感に包まれていた。

…やがておよそ1時間後、落ち着いた娘といくらかまともな会話ができた。
昔のことについて話すと、娘は私たちと一部を正確に話すことができた。
「がんばって、病気を治そうね。」
そう言って、落ち着いた娘におやすみを言って、私たち夫婦は重苦しい気持ちのまま帰宅した。
その時の気持ちを書いたのが、その日の「悲しみに向かい合ったとき」であり、めったに見ないホタルを見かけ、その光にいちるの望みを信じたいと思ったのもその夜のことだった。

その夜、私たちが帰ってから1時間後の、夜9時半頃だった。
娘が泣いて、自分のスマホから私の携帯に電話をかけてきた。
心細くさびしくなったらしい。
看護師さんが好意で電話をかけてくれたようだ。
「帰りたい」と泣きながら訴える娘に、
「病気を治して帰ろうね。明日また行くよ。待っていてね。病気に負けるな。がんばるんだよ。」
という私の働きかけに、娘は泣きながら答えてくれた。
娘からの電話は、これが現時点で最後になった。
あとは、脳の働きも鈍って、スマホの使い方もわからなくなってしまったのである。

この前後は、私たちが病室を訪ねると、娘は、感情が高ぶるのか、必ず顔をくしゃくしゃにして泣いた。
家族に会えてほっとする気持ち、家に帰りたい気持ちがつのるのだろう。
脳の働きがまともではなくても、家族が来たことはわかるということに、愛しさを覚え、不憫でならなかった。何度ももらい泣きした。

悲しいことに、だんだん幻覚を見て口にするようになっていった。
言葉が、何を言っているのかわからなくなっていった。
こんな姿で、脳の働きが回復するのだろうか。
こんな姿で、集中治療室での血しょう交換などできるのだろうか。
しだいに衰えていく娘の姿には、不安を覚えるしかなかった。
しかしながらも、命だけは、と、新しい治療に期待するほかはないのだった。
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娘よ(2)

2013-07-14 17:23:15 | 生き方
再三様々な検査を行ったが、どこが悪いのか、何が原因なのかは相変わらずわからない。
効果を期待して、新たにステロイド剤の投与が始まった。
点滴で、飲み薬で、けいれん止めの薬と合わせて使うようになった。

娘の精神状態が突然ひどくなったのは、入院してからちょうど2週間目となる日の朝だった。荷物をまとめて、「家に帰る」と強行しようと暴れまくった。
点滴の管を引き抜こうとしたり、帰ろうとしたり、ベッドに立ち上がったりするようになった。
この日から、体には、拘束帯が必要になった。
それを取ろうと、必死に指を動かしたり体をねじったりする姿は、本当に悲痛な姿だった。
心が正常ではない人のそれだった。
そんなだから、やがて拘束帯のほかに、手足にも拘束ベルト・手袋が必要になった。
意識が正常でないから、点滴を取ったりベッド上で立ったり逃げたりしようとするからだ。
わかってはいても、娘がベッドに拘束された姿を見るのは、家族として心が痛んだ。


彼女の言動は、あきらかに認知症の人と同じになっていた。
言っていることに脈絡がない。
自分が入院していることも時に分からなくなるようになった。
病室が、時にお好み焼き屋や食べ物屋になった時もあった。
「あと一つだけ食べようかな。」
「すみませーん、誰かいませんか~。」
などと廊下に向かって叫んだりしていた。
どんどんおかしくなっていく娘。
しかし、われわれ家族にできることは何もなかった。
面会時間に訪ね、一緒にいてあげ、相づちをうって上げるくらいしかないのがもどかしかった。
家族が責任もって付いてあげられるとき、拘束帯やベルト・手袋は外してあげることができた。
せめて食事の時間は外してあげたい、と考え、朝は無理でも、昼食や夕食の時に家族や信頼して頼める誰かが付いてあげられるように努めた。
 
話をする時、時々は正常な会話が成立した。
「小学校の頃のマラソン大会でいつも1位だったけど、2位は誰だったっけ?」と聞くと、正確にその時の級友の名前が出てきた。
数年前勤めた事業所が所有する車種や台数なども正確に言えたりした。
看護師さんの名前も、自分に好意的に接してくれる方なら、「〇〇さーん」などと、その名を間違えずに呼べたりもしたのだった。
話の中身が大半おかしい話をしている時でも。

とにかく、私たちにできることは、そばにいて話を聞いてあげること。
拘束を解いてあげること。
食事を気持ちよくできるようにしてあげること。
そんなことぐらいしかなくなってしまったのだった。
倒れてから3週間もたつというのに、娘はよくなるどころか、こんなふうに悪化の一途をたどるばかりだったのである。
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娘よ(1)

2013-07-14 17:16:29 | 生き方
 娘が職場で倒れた、と聞いたのは、5月の末に近い午前のことだった。
職場の人と話をしているうちに、右側の顔面がけいれんし、意識を失ったのだという。
娘は、以前は、健康だけが取り柄の子だった。
小学校1年生から、高校卒業まで病気欠席はたった1日だけ。
それも大事を取ってのものだった。
三十路が近い今になっても、主な病気は花粉症ぐらいなものだったのだ。
そんな娘が倒れるなんて。救急車で運ばれるなんて。
倒れた時は、息もしていなかったのだが、幸い、職場は介護施設であり、看護師さんが勤務していたのがよかった。
看護師さんの心臓マッサージにより蘇生し、救急車内では意識も取り戻した。
病院に運ばれたが、症状が落ち着き、個室の病室で、妻や息子(娘から見れば母と弟)と面会できるようになった。
しかし、その時2回目のけいれんが起こってしまった。
何が原因かよくわからないため、MRI,CTなどいくつかの検査をしたが、検査入院することになった。
その日、主治医から説明を受けたが、何が原因か、どこが悪いのかわからないと言う。
可能性が高いのが、「ヘルペス脳炎」と言う名の脳炎だということだった。
そのための治療なら、効く薬があるということで、点滴を使って投薬して治療を行うことになった。

本当にヘルペス脳炎なのだろうか。
検査はしても、どこが悪いのかわからないまま、時間が過ぎていった。
それが不安だった。
案の定、入院4日後にあたる日の夕方、またしてもけいれんが起きた。看護師さんがいてくれたため、大事には至らなかった。
さらに2日後、四たび顔面からけいれんが起こってしまった。
本人が、ナースコールを押そうとした。
が、うまくできずに焦ってばたばたした時、たまたま花びんを下に落とした音に気付いた看護師さんたちが駆けつけ、なんとか助かることができた。
薬を投与しながら、4回もけいれんを起こすのは、もはやヘルペス脳炎ではないことがはっきりした。
この後、けいれん止めの薬を強くすることになった。
けいれん止めの薬は、麻酔の働きがある。濃くするのはあまりよいことではない。
しかし、「2」から「3」へ。「3」から「4」へ。そして、けいれんを起こすと一気に「8」へ。濃くせざるを得なかった。
けいれんをくり返し起こしながら、娘の性格は変わっていった。
意識障害が少しずつ出るようになったからだ。
「いつ退院できるかな」「うちに帰りたい」が口癖だった。
その頃は、それでもまだましだった、と今にして思う。
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奇跡の逆転劇

2013-07-07 14:27:04 | アルビレックス新潟
 
「ようこそ 夢の劇場へ」
以前は、ドラゴンボールZとのコラボだったが、J1リーグ戦再開の柏戦は、「ジャイアントキリング」とのコラボだ。
こんなことをやってくれるのだから、テンションも上がる。

新潟にとって、うれしいのは、日本代表にまでなっていたGK東口の復帰だ。

練習時。大雨が降っていたが、試合開始の頃は雨がやみ、チームカラーのオレンジである夕陽の光が、スタジアムに差し込んできていた。

リーグ戦再開初戦とあって、サポーター席も気合が入っていた。
ゴール裏には、「アイシテルニイガタ」のコレオグラフィが鮮やかに浮かび上がっていた。


試合は、新潟・柏双方互角の展開。
とはいえ、ACLで日本勢唯一勝ち残っている柏。やさしい相手ではない。
テクニックと敵を崩す動きは、さすがだった。
だが、わが新潟も、守るばかりではなく決定的な場面もあった。
それは、向こう、柏も同じ。
そこを復帰した東口が、よく防いでいた。
前半終了間際にも、決定的な場面をしのいだのは、さすが東口であった。

後半開始早々、FW川又が先制ヘッド!
ところが、その6分後、同点ゴールを決められると、試合は均衡状態になり、終盤へ。
ついに後半38分、柏に勝ち越されてしまう。
1-2.
やはり今日も負けてしまうのか…。
そんな空気に包まれたスタジアムだったが、新潟サポの応援の声はずっと続いていた。
そして、選手はあきらめていなかった。
後半43分、MF田中亜土夢の、起死回生のシュートが相手ゴールに突き刺さった。
場内は騒然!
すぐにロスタイムに入り、どちらも相手ゴールに迫るが、柏の方の足が止まってきていた。
時間は、ロスタイム4分まであと数秒というところで、新潟のパスがうまく回り、田中亜土夢が、FW岡本へすばらしいラストパス。
これを岡本が確実に決めた!
すばらしいシュートであった。

そして、試合終了。

今までなら、逆転されて意気消沈し、そのまま敗れることの多かった新潟。
1-2から、信じてはいたが、ゴールが決まるとは。
まさか、勝つとは。
 

最後まであきらめずに、勝利を目指して走り切った選手たち。
誇りに思える勝利であった。
新潟のサポーターたちは、歓喜に熱狂した。
奇跡のようなゲームであった。

奇跡は、起こるんだ。
いや、起こるのではなく、起こすのだ。
起こすのは、あきらめない人の意志の力なのだ。
そんなことを強く思った。






娘よ。
奇跡を起こそう。
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