疲れに疲れた。
昨日の新潟シティマラソン、37kmの前で、時間切れ。
ついでに言えば、今年は、ゲストランナー高橋尚子さんと、ハイタッチもできなかった。
朝は雨も降り、レース直前でもくもり空だった。

しかし、高橋尚子さんが出席する開会式では、急に、すっかり晴れたのだった。

号砲を待っているうちに、首筋が熱くなるくらい日差しも強くなってきた。
花火が上がる。
出発だ。
スタートして新潟の街なかを抜けていく。
萬代橋を渡っていくと、2km地点。
4kmあたりを行くと、以前一緒に勤めた若い職員が沿道で応援していて、互いにびっくりした。
「いってらっしゃ~い」と声をかけてくれた。
去年同様、前半は6分30秒前後のタイムを刻んでいき、後半は7分台に落ちてもよいように、と考えて走っていた。
だが、10kmを過ぎ、やがて海岸道路に出ると、なんと向かい風。
目に砂が飛び込んでくる。
おまけに日差しが強すぎる。
それでも、帰路には追い風になるはずだと考えながら、それを楽しみに走っていた。
しかし、6分台を維持するのに、予想外の体力を使ってしまった。
おまけに、前日書いたように、練習不足、風邪から回復して多く時間がたっていない、などの要素も自分を苦しめる。
折り返し点から、中間点でタイムは、2時間21分。
単純に倍にすれば、制限時間の5時間に間に合いそうだが、スピードがこれ以上上げられない。
6分台など、楽に維持できるはずのペースなのに…。
後ろから来る人々に次々に抜かれていく。
それはいいのだが、脚がまともではない。
右脚の太もも、ひざ。左脚のふくらはぎ。
今にもつりそうなひどさ。
それでも、なんとか6分台を維持してきたのだが、ついに25km地点では7分台に。
自分を励まし、歩き出す人が多くいたが、28kmを過ぎたあたりで、右太ももが悲鳴を上げた。
ついに歩き出してしまった。
31kmの手前では、2年前同様、「5時間ペース」を示すたすきをかけたランナーたちに抜かれてしまった。
付いていこうと、数十メートル走ったが、上り坂できつく、脚が痛くてだめだった。
今年もダメか…と、悔しさでいっぱいになった。
でも、31kmの関門でリタイアするのは、嫌だった。
体は限界に達していたが、2年前とほとんど同じところでリタイヤするのは、進歩がないようで嫌だった。
意地になって、31km関門を突破した。
ここからは、すぐ左が海になる。

歩きながら海を見ていると気持ちがいい。
しかし、少しでも走り出すと、100mくらいしかもたずに走れなくなる。
突然、
「50foxさん。」
と、私の名前を呼ぶ声がした。
近寄ってきたのは、長岡のIさん。
この大会目指して、9月にはひと月に150km走ったのだそうだ。
「調子がいい、と思っていたら、今日は風が強すぎた。海岸を行くとき、砂は飛んでくるし、スピードは上がらないし、気温も高くなって、日差しもきつかった。折り返せば、追い風にもなるから楽になると思っていたんだけど、だめだった。30kmで、心が折れたよ。」
Iさんと話をしながら、歩いた。
32km付近では、カメラマンが写真撮影をしていたので、「走るか。」とIさんが言うので、10mほど走ってカメラマンにポーズをとって走った。
カメラマンから、なぜか「ありがとうございま~す。」と声が返ってきたのには、2人で笑ってしまったけれど。
その後、Iさんは、救護の方を見つけて、走る(歩く)のをやめた。
私は、もう少し前に行きたかったので、「もうちょっと、歩くわ。」と言って別れた。
後で、この地点には、数分前まで高橋尚子さんが応援していたことを知った。
海岸をひたすら歩く。
係員の人は、がんばってください、と声をかけてくれる。
しかし、「走る気力はあるのですが、走れる足がなくなりました。」と言うばかりであった。
海岸の風は気持ちがいい。
だが、走ろうとしても足が動かない。
不思議なことに、かろうじて歩くことはできる。
青い空、強い潮風、そんな中を、次の関門通過はだめとわかっているのに、ただただ歩いた。
そして、スタートから4時間29分後の午後1時直前、後ろの車から、「制限時間を過ぎました。歩道に移ってください。」との言葉。
記念に海岸に咲いていた黄色い花を写して、バスの待つ場所まで、さらに歩いた。


37kmの手前で、バスに収容された。
ちなみに、息子は、ハーフで自己新記録を更新したとのことだった。
前半を抑え、後半追い込んでスピードを上げたとのこと。
よく練習していたから、よかった×2。
2週間後の大阪マラソンにいい弾みになった、と言える。
抽選にせっかく当たったのだから、がんばってほしい。
大阪マラソンは、制限時間が6時間だとのこと。
5時間の新潟に比べて、いいなあ、とは思ったぞ。
私は、ちゃんと鍛える練習をしていないと、ハーフマラソンは走れても、フルマラソンは走れない、ということが改めてよくわかった。
今年は、平日走ることが少なかった。
走るより、娘の病院へ行くことが多かったから。
走っているときも、娘の快復の願いを込めながら、そのためにもがんばるぞ、と思って走ったのだが、気合だけで走れるほど甘くはなかった。
さすがに厳しかった。
さて、今後はどうする?
いや、夢は持っておくことにしよう。
いくつになっても、夢に向かっていくこと、夢をかなえることは、続けていきたい。
人間にとって一度しかない人生だもの。