ON  MY  WAY

60代になっても、迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされながら、生きている日々を綴ります。

HIKITUGI~離任前夜~

2012-03-29 21:21:00 | 生き方
昨日、次にこの勤務先を受け持ってもらう方に、事務引き継ぎをした。
今日、次に行く勤務先に行き、事務を引き継いできた。

不思議なものである。
当の本人(わたくし)は、異動はしたくないと思っている。
しかし、その意思に反して、時は流れ、別れの時は迫ってくる。

3年前は、ある種「やり遂げた」感があった。
ほとんど何も心配することなく次の方に、仕事を引き継いだ。
ところが、今回は、えらく後ろ髪が引かれる。
今の勤務先に、残された課題が多いのである。
できれば、それらの課題を処理してから、安心して次の人に仕事を渡したかったのである。

しかしながら、そういう訳にはいかない。
意に反して、異動の命は下されている。
後は、後任の方にお願いするしかないのである。
今の職場の方々に、「ごめんなさい」という気分で、健闘を期待したい。

今までありがとう、職員の皆さん、そして子どもたち・おうちの人々…。
一期一会。
とてもよい出会いができました。
皆様の、ご発展とご多幸を祈っています。

日中は、明るく晴れていた。
わが家の福寿草、クロッカス、雪割草たちも一斉に明るい花を開かせていた。



心のさびしさとは正反対のまぶしさだ。

別れと出会い。
春本番を迎えようとしている…。


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別れのあいさつ~離任式~

2012-03-27 17:29:28 | 「育」業
 1回勝負です。最後のジャンケンをしましょう。
 いきますよ。
 最初は、グー。ジャンケン、ポン!
 (チョキを出した私。)

 グーを出して、勝った人。(手が挙がる)
 おめでとう。私に勝ってよかったね。
 チョキを出した人。(手が挙がる)
 あいこだったね。同じで、うれしいな。
 パーを出した人。(手が挙がる)
 優しいね。負けてくれてありがとう。

 今の私の気持ちは、チョキなのです。
 チョキは、はさみ。
 はさみは、切り開いていけます。
 この学校を去る私は、次の学校に行って、未来を切り開いていかなくてはなりません。
 皆さんと別れてしまうのは残念ですが、「最初はグー」の通りグーを握って、力を奮い立たせ、未来を切り開いていこうと思います。

 ところで、未来のことを「明日(あす)」ということもあります。
 明日は、「りがとう」の「」、「みません」の「」からできています。
 今まで、皆さん、「ありがとう。」とてもすばらしい皆さんと会えてうれしかったです。
 でも、私のために、いやな思いをした人もきっとたくさんいたことでしょう。
 そういう人たちに、言います。「すみません。」
 おうちの人たちにも、いっぱいお世話になりました。
 おうちに帰ったら、私が「ありがとう」と「すみません」を言っていた、と伝えてください。

 最後に、「あす」の「あ」と「す」は、次のようにもいえます。
 いしてます、この学校
 きです、この学校

 では、皆さん、さようなら
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今しかできないことがある~亡くなったS先生からのメッセージ~

2012-03-18 23:17:38 | ひと
 一昨日・昨日と、G市のセレモニーホールに行ってきた。
 知り合いのS先生が亡くなったのだ。
 通夜、そして告別式に参列してきた。
 病休から休職。闘病の末の残念な結果であった。
 まだ、55歳。
 40,50年前ならいざ知らず、現代では、あまりにも早い。
 奥さんや学生の子どもさんたち家族を残しての逝去は、さぞかし無念であったことだろう。
 彼は、大変誠実で謙虚な人柄だった。
 担任時代には、熱心に子どもたちのための仕事をする人だった。
 もっと教壇に立ちたかったことだろう。

 聞けば、すでに25年も前から、難病と呼ばれる病にかかっていたのだという。
 そんなことは、ほとんどの人が知らなかった。
 彼は、弱音を吐かなかったのである。
 責任感の強い彼は、他人に弱みを見せずに、常に精一杯仕事を行っていたのだ。
 自分のことよりも、自分の前の子どもたちや人々のために、ということを優先していたのだ。
 そのうえで、自身は、闘病を続けていたのだった。
 セレモニーホールの入口には、車椅子に乗った、昨春の彼の写真が次々に映されていた。
 満開の桜の下で、車椅子に座りながら目をつぶって息を吸い込む、彼の写真。
 青空の下、桜満開の春の空気を、彼は、どんな思いで吸っていたのだろうか。

 彼は、年が明けてからは、「3月30日まで生きたい。」と、奥さんに言っていたそうである。
 3月30日は、奥さんとの結婚記念日だったのだそうだ。
 「それが達成できたならば、5月の連休の子どもの誕生日まで。」と笑っていたそうである。
 誠実な人柄そのままに、一瞬一瞬を大切にして生きていたことがわかる。

 読経の流れる中、まっすぐこちらの方を向いている彼の遺影。
 様々なエピソードが浮かび、遺影の写真から、彼のメッセージが聞こえて来た気がした。
 
 
  今を大切に生きてください。
  今しかできないことがあるのです。
  そのことに懸命になって取り組んでほしいな。


 今、私たちは、学校という場に勤めている。
 ここは、子どもたちの成長のためにと、子どもたちに力がつくようにと、取り組むところだ。
 
 今しかできないことがある。

 今回、彼から教わったこのことを心の中でくり返し念じつつ、今を大切に生きたいと思う。
 今の勤務先でできることも、まだまだたくさんあるのだから…。
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かのんちゃんの作文に泣けた

2012-03-12 22:05:20 | 生き方
 以下は、多少書き換えたところはあるが、朝日新聞(3/10朝刊)に載った記事の文章からの抜粋である。
 

「先生、あのね。」
 両親と姉を亡くした岩手県陸前高田市の熊谷海音(かのん)ちゃん(8)は、昨年11月、マラソン大会の途中で家族の声が聞こえた、と小学校の「あのね帳」に書いた。
 こんな言葉が並ぶ。


「がんばれ、かのん。」
ママの声です。
「うちの分まで。」
おねーちゃんの声です。
「つなみにまけないおまえがまけるわけがない。おれたちの分までがんばれ。」
パパの声がしました。
「うち、がんばっているから、おうえんおねがいね。」
 楽しかったけど、ちょっといま一人になったことがくやしいです。


 海音ちゃんは、走りながら、びくってなったよ、と楽しそうに振り返る。

「80歳まで生きたら、タイムスリップして、小学1年のわたしになるの。そうすれば、天国のパパとママが私を見つけて迎えに来てくれるから。」

 海音ちゃんは、時折、家族の写真を枕元に置いて眠りにつく。“みんなの声を忘れないように”、と。



…家族の声の一つ一つが、あまりにも具体的で、泣けてしまった。

 いのちの大切さと人の強さを思う。
 こんな小さな子でも、亡き家族との絆を大切にして、たくましく生きている。
 その強さに感じるものがあり、ぼろぼろぼろぼろと、さらに涙が出てきた…。
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3月10日は…

2012-03-11 22:00:18 | 生き方
3・10そして3・11と
日本にとって大きな被災の日が続く。
3・10は、作家の早乙女勝元さんが絵本でも書いているように、東京大空襲の日だ。
そして、3・11は、言うまでもなく…。

絵本になっている「東京大空襲」は、現在の仕事をするようになって、初めて読んだ。
絵本ではあったが、絵と文から、空襲の怖さを実感したのを思い出す。
3月10日もしくは、その前後に朝日新聞の投書欄に、東京大空襲についての早乙女さんの投書が載ることがある。
今年も載っていた。

3月10日と言えば、かつての日本では「陸軍記念日」であった。
1905年3月10日に、日露戦争の奉天会戦で大日本帝国陸軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領して奉天城に入城した日である。
日本陸軍の勝利を祝って、記念日としたらしい。

実は、3月10日は、亡父の誕生日である。
父は、辰年の生まれであった。
生きていれば、年男である。
しかし、父は、60歳の年男になることもなかった。
現在の私が50代であるが、父は50代半ば過ぎで亡くなった。

昨年は、父の誕生日の翌日、数百年に一度の惨禍が起こった。
海の好きだった父でも、あのような出来事が起こるとは、生前思いもしなかったことだっただろう。


写真の酒かんポットは、私が、社会人として初めて迎えた父の誕生日に、プレゼントとして買ったものである。
買ってあげてから、4年もたたないうちに、父は突然亡くなった。
それ以降、自分が使って酒を飲んでいる。
冬は、もっぱら新潟清酒。
熱燗である。
この酒かんポットも、数年前から温度調節は効かなくなっている。
そのうえ、最近、かなり外側にひびが入って来た。
しかしながら、父の思い出につながる品なので、使い続けているのである。
何か、父とのつながり―絆のようなものを感じるのである。
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J1リーグ2012 開幕 新潟は川崎に惜敗のスタート

2012-03-10 21:17:24 | アルビレックス新潟

いよいよJ1リーグ2012のシーズンが幕を開けた。
われらが応援するアルビレックス新潟は、アウエー川崎戦。
スカパー観戦で応援。

新潟は、開始早々のチャンスを逃すと、案の定、川崎に先制された。
結局、その1点が取り返せず、無念の敗戦スタート。

チームを紹介するサポート誌の表紙には、「史上最強」の文字があった。
しかし、評論家等のシーズン前の順位予想では、なんと降格の予想。
評論家諸氏は、やはり地方のチームにはカラい評価である。
そこまで足を運んで、事前のチーム状態を見ていないのか、と腹立たしくもなった。
目に物見せてくれる!
と意気込んでの開幕戦だったのだが、わずか1点が取れなかった。

とはいうものの、サッカー自体は間違いなく去年よりワクワク感がある。
新加入選手が、輝いているのだ。
そして、ゴール前に迫る回数が多い。
今日の試合は、シュートが正面を突くシーンが多かった。
残念。

次節は、いよいよホーム開幕戦。
勝利の、歓喜の瞬間を味わいに行きたい。
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見舞ったMから反対に元気をもらった…

2012-03-06 23:11:26 | ひと
あれから、約2か月。

Mは、2月に一時退院し、数日後再入院。
治療も2クール目に入っている。
日曜日、新潟市に行く用があったので、彼の入院しているがんセンターに見舞いに立ち寄った。
再入院から約3週間、どうしているかが気になった。
放射線治療と抗がん剤の併用、と聞くと、あまりよい連想ができなかったのである。
げっそりやせたりしていないだろうか…???

しかし、よい意味で予想を裏切ってくれた。
数年ぶりに会った彼は、むしろ太っていた。
むくんでいたわけではない。
髪は、つるつるにそりあげていたけれど。

順調なのだそうだ。
これから2クール目の後半に入るのだそうだ。
4月には退院できそうだと言う。
そうしたら、同級会の実施に向け、住所録の整理をしたいと言っていた。

「自分は、にぎやかなのが好きだから、がんになったことを公表して大勢の人に知らせている。それを知った人から、いろいろと連絡をもらったり励ましてもらったりして、元気をもらっているのさ。」
恐れ入った。
生命にかかわる病にかかりながら、そういう考え方ができているMを頼もしく思った。

反対に、Mから悲しい話も聞いた。
昨年の1月には、同級生のHが亡くなっていたのだそうだ。
ごく一部の人しか知らなかったのだそうだ。
ひっそりと亡くなっていくなんて…と思った。
42人のクラスメート(あ、1人は自分だ)のうち、私の自宅から近いOに次ぐ2人目の同級生の鬼籍入りだ。
50代での人生の終わり。
とてももったいない。

私の父も50代で亡くなったのであった。

…気付けば、Mと1時間も話していた。
「また来るよ。」
そう言って、1階まで見送りに来てくれたMに手を振り、病院をあとにした。
予想外に元気なMにほっとした。

運転する車のハンドルを握りながら、見舞いに来たのに、反対にこちらの方がMから元気をもらっていたことに、苦笑いした私であった。
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雪消し、雪消し!

2012-03-05 21:37:49 | 新潟
新潟脱出して戻ってから早くも1週間。
関東に脱出しても先週青空は見られなかったのに、今日の日曜日の新潟は、皮肉なことに、とてもすばらしい青空の日曜日の朝。
ああ、先週、この青空を見たかったなあ…。

雪を大量に落としたり運んだりしたわが家の庭は、まだまだたくさんの雪。
そう簡単に解かせるものではない。

とりあえず、こういう晴れた日は、自分の家の前の道に積まれた雪は、少しずつ崩して道路に出し、減らすのが礼儀。
だって、自分の家の前に雪があるということは、自分の隣の家などの車が通ろうとするとき、道が狭くて困ってしまうのだから。
そういうことで、雪を崩して、アスファルトの道に雪をまく。

しかも、なるべくうすく、日に当たって解けやすいようにまく。


懸命に雪消し作業に取り組んだ。
これだけでも、汗をかいてしまった。
ついでに、庭の雪も、少しだけど、崩す。

…まだまだ庭の春は、遠いなあ…。
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週末新潟を脱出その6~長瀞岩畳を訪ねる~

2012-03-04 12:18:26 | お出かけ
宝登山のあるのは、長瀞町。
長瀞町と言えば、国指定の名勝・天然記念物「長瀞岩畳」、長瀞ライン下りなどで知られている。
宝登山神社から下り坂を歩き、長瀞駅へ。
表参道のこの道の両側には桜の木が並ぶ。
駅から、西武線の踏切を渡ると、道の両側に観光土産などを売る店が並ぶ「岩だたみ通り」となる。
そこを進むと、河原である。
「長瀞岩畳」に出た。

なるほど、平たい岩の重なりが面白い。

これも自然の造形である岩畳の上を歩いていると、川にはライン下りの船が流れてきた。。


思っていたほど広かったり渓谷美が続いていたりしているわけではなかったけれど、名勝を訪ねてきたぞ、という思い出づくり。

踏切そばのそば屋でそばを食べた。

そばの味より、テーブルが大きな樹木を使ったものだったことに感心した。


結局、天気は回復せず、くもりのまま。
あー、青空は、ついに見られなかった。
冷たい風が吹く中、新潟への帰途に着いたのであった。
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週末新潟を脱出その5~宝登山に登る~

2012-03-02 22:28:17 | お出かけ
「宝登山」と書いて、「ほどさん」と読む。
長瀞町にある標高497mの山である。
ここには、ロープウエーがある。

山麓駅から山頂駅までの全長832mを約5分間で結び、2台のゴンドラが山頂駅と山麓駅をつるべ式に往復している。
その名前が、「ばんび号」と「もんきー号」。
私たちが乗ったのは、「ばんび号」。

山頂にある小動物園の人気者のサルとシカにちなんでいるのだそうな。
往復で大人800円。
片道は、460円。
山頂には、東ろうばい園、その奥に西ろうばい園があった。
フクジュソウの花もそこかしこにあったのだが、晴れていないせいか、花の開きがよくない。

その手前には、「梅百花園」があったのだが、梅の花は、ちらほら程度。ほとんど咲いていない木ばかりであった。
咲いている花の写真を積極的に撮る。


それでも、そこからながめる武甲山や秩父の街並みが美しいと思えた。


さすがに、ロウバイは花盛り。

ただ、残念なことに、黄色の花に合う青空は出ない。
やっと、薄日が差してきたので、それはうれしかったのだけど。

山頂近くには、宝登山神社の奥の院もあった。
ここまで登って来るのは、大変だろう。
案内によると、登ると50分かかるとのこと。
そう思いながら、われわれは下り始めた。
下山は、ロープウエーではなく、自分らの足を使うことにした。

大半が砂利道の車が通れそうな道なのだが、多少急である。
しかしながら、下からかなりたくさんの人たちが登って来る。
曇り空の下、よく登って来るなあ。
なかなかの人気なのだ、と再認識した。
45分ほど歩き続けて、山麓駅近くの宝登山神社に到着した。
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