ON  MY  WAY

60代になっても、迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされながら、生きている日々を綴ります。

この夏のRUN生活

2016-08-31 22:20:30 | RUN
この夏は、結構暑かった。
トシのせいか、年々体がきつくなっているように感じる。
暑さに負けているのか、熱中症対策として無理をしなくなったのか、その両方なのか、暑い時は夕方近くになってから日陰が多いところを走る。
去年は、セミの抜け殻の多さに驚いたランニングコースも、今年は慣れたせいかあまり目につかなかった。
体は、ずうっと去年11月からの首痛が治らず、走るとやはり少々痛みが増す。

走ることについて、今夏のテーマは、時間を気にせず楽に走れるようにすること。
以前は、1kmあたり5分30秒くらいで走るのは楽だったのだが、最近は、走り始めに楽なのは1km6分ぐらいのスピード。
これを、5分30秒を目指して走ろうとすると、およそ3kmくらいしかもたない。
あとは、きつくなってしまう。
これも加齢によるものかな、と考えている。
それでも、まだ走れるだけいいやと考え、10km余りを走る。
それだけの距離を走るとき、必ず途中で水飲みをする。
3kmに一度くらいは水分補給をしないとくらくらしてくる。
熱中症で倒れてなんかいられないので、近頃は粉を水に溶かしたアイソトニック飲料をボトルに入れて持って行っている。
走る合間に飲む。

12kmほど走って家に帰ると、もう体じゅう汗びっしょりである。
上半身のTシャツからも、下半身の短パンからも汗がしたたり落ちてくる。
だから、シャワー浴びずにはいられない。
その後体重計に乗ると、3kgほどやせている。
3kgの汗をかいたということだ。
この汗がまた、近頃は、KUSAI!
いやだなあ、この加齢臭!

まあ、そんな思いをしながらもそれなりに、この5週間は、週に2度ほど走ってきた。
この夏、5週間で11回走りに出て、総距離は125km。
さほど多くはないけれど、汗びっしょりになって走り終えた後は、「生きている!」という充実感に包まれている。

今日31日も、走りに出た。
日中は30℃以上あった気温も、夕方は走りに出ると28℃になっていた。
日没も早くなってきた。
体調は完全ではないし、これからいろいろあるだろうけれど、なるべく走れる体でいたいと思う。

明日からは、9月だ。
いよいよ秋を迎える。

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矮性ひまわり「千夏」が咲いた

2016-08-24 22:14:11 | 草木花

ようやくひまわりが咲いた。
ただ、今回のそれは小さなひまわり。
「千夏」という名の矮性ひまわりである。
最近は、ずいぶんあちこちで見かけるようになった。
ひまわり、というとやはり人の背丈をも上回るような大きくあざやかな印象である。
それからすると、矮性のものはかわいいけれど、ちょっと期待外れな気がしていた。

ひまわりは、娘が大好きな花である。
東日本大震災の復興のシンボルとなった花でもある。
娘に聞いてみても、「大きいひまわりの方がいい。」と言っていたのだが、大きく育てることができなかった。

今回2度ほど普通のひまわりの種まきをしたのだが、どういうわけか芽が出て間もないうちに、いずれも虫や鳥に食われてしまった。
いくつ芽が出ても食われてしまうので、大きなひまわりはあきらめて、プランターに種まきをして、矮性ひまわりを育てることにした。
種の袋には、「60日で咲く」と書いてあったが、実質50日くらいで咲いたのであった。

娘にも、「おまえが好きな花なので、咲かせたんだよ。」と伝えた。
娘は、「ありがとう。」と言って、妻のデジカメを持って小さなひまわりの花の写真を撮り始めた。
それなりに気に入ったようだ。
小さいけれども、これはこれなりにかわいいものだなあ、と思った。

今、プランターで、矮性ひまわりは満開となっている。
「千夏」という種類の名の通り、少し夏の遅い時期となってしまったとはいえ、夏らしい気分にさせてくれるひまわりの花でもある。

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勝った、オレンジ!~勝てオレ!サンクスデーのホーム福岡戦~

2016-08-21 22:34:43 | アルビレックス新潟

AGF勝てオレ!サンクスデー。
風が強くて、いつもの歓迎ゲートがない。

前回のホーム神戸戦では勝ったものの、その後のアウエー甲府戦では不甲斐ない0-1の負け。
なんとかしようとゴール裏のNスタンドのサポーターたちも、あれこれ考えて必死の応援だ。

いつも「好きにならずにいられない」を歌って選手の入場を迎えてきたが、今回は「sombrero」の繰り返しだ。
ラーラーララー 男達よ
俺の心に火を
ハートに火をつけろ
そう、火がつくような熱い戦いが見たい。

今日のサンクスデー名の「勝てオレ!」は、試合前の社長自らの言葉によると、
① カフェオレ
② 勝て、オレンジ(色のチーム)!
③ オレ(自分)に勝って走り続け勝利をつかめ
などの意味があるのだとか。

うーん、うちわにドリンクに、とサービスもいいねえ、AGF。
(だけど、社長、あいさつで対戦相手福岡の選手名「亀川」と、ホーム新潟の「野津田」を忘れちゃダメでしょう。)

試合は、最初こそ押されたが、次第に新潟がペースを握る。
しかし、前半は0-0。
ハーフタイムには、花火も上がった。

何発も花火が上がるように、何発もゴールを見たい。

その思いが届いたように、後半は、ラファエル・シルバとレオ・シルバの2人がゴールを決め、3-0で新潟が勝利した。

スタンドは、熱狂!
久々に大量リードの時に歌う「蹴っちらせ」も歌うことができて、ホーム戦連勝。
大満足の新潟サポーターであった。
とても気持ちよい、勝てオレ!サンクスデーとなった。

試合後のヒーローインタビューは、2人のシルバ。

これで、年間順位のボトム3、名古屋、湘南、福岡に勝ち点8以上の差をつけた。
ただ、まだ勝ち点は27に過ぎない。

この調子でこれからも新潟には勝ち続けていってほしいものだ。
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競歩 荒井・ダンフィー選手のフェアプレー精神に、拍手!

2016-08-20 15:32:49 | ひと
リオデジャネイロ五輪もいよいよ終わりが近い。
残る種目もわずかとなった。

昨夜、50km競歩の中継を見ていた。
暑い中を50kmも早歩きするような競技があるなんて信じられない。
各選手のがんばりは、見ていて引きつけるものがあった。
その50kmを歩き終えた後、日本の荒井選手が3位となって喜べるかと思った。
しかし、4位となった選手のカナダチームの抗議により、30分後に接触行為による「失格」の憂き身となってしまった。
それでも荒井選手は、そのことについてうだうだ言っていなかった。
待っていた4時間の間、「失格でも3位でもどちらでもいいと思っていた。」という。
ただ、日本陸連が対応早く上訴してくれたおかげで、失格が取り消しとなって、3位銅メダルが確定した。

4位となったカナダ人のダンフィー選手は、自分から抗議したわけではなかった。
レースの違反失格問題にかかわって、こう声明を発表している。
「今回のことはレース後に、カナダの陸上競技連盟の判断で行われたものです。お互いぶつかることは競歩ではよくあること。競技の一部だと思っています。これ以上、スポーツ仲裁裁判所に上訴するつもりはありません。」とコメントした。
 また自身のツイッターでは「今日のレースに誇りを持っている。20年東京に向けて頑張ります。」と、4年後のメダル獲得に意欲をみせていたと言う。
そして、帰国後、荒井選手はこんな話を披露してくれている。

この両選手のフェアプレー精神に感心した。
ダンフィー選手の態度に感心したのは、レース中にもあった。
レース前半、一人飛び出してダントツでトップを行っていたフランスのディニ選手。
後続を2分以上も引き離していたのに、体調不良で立ち止まってしまった。
その後ろを2位で追いかけていたのが、ダンフィー選手だった。
ダンフィー選手は、ディニ選手を追い越していく時、彼の肩をポンと叩いたのである。
「おい、どうした。もう少しがんばって一緒に行こうぜ。」
とでも言うように。
この後、ディニ選手は、何度か倒れたりふらついたりしながらもレースをあきらめず、最後は8位でゴールした。
そして、ダンフィー選手は、最終盤では日本の荒井選手を一度は抜き返すがんばりも見せていたのである。
接触があって、ごたごたしてしまったのは残念だったけれども。
メダルをかけた国同士のメンツが、両選手の思惑とは違うところでいろいろ働いてしまうのはやむを得ない。
それがオリンピックでもある。

自らを奮い立たせ、他国の選手にもフェアプレーで接する。
そんなダンフィー選手に、大きな拍手を送りたい。
また、全力を尽くして50kmを走り(歩き)終え、全てを好意的に受け入れた荒井選手の心意気にも拍手を送りたい。
輝く銅メダルを得るにふさわしいふるまいであった、と改めて思っている。

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亡くなった同級生たちを悼んでまわる

2016-08-18 15:52:52 | 生き方
盆の期間、還暦を前に亡くなった高校時代の同級生たちの家を訪ねてまわった。


同級会当日、その時間になる前に、この春亡くなったW氏の家を訪ねた。
彼の家を初めて訪ねた。
その理由が、彼が亡くなったから、というのが何とも切ない理由であった。

彼の家は、かつて通った高校の近くにあった。
かつて通った高校、と言ったが、おそらく彼の家は元の高校の敷地が宅地として売りに出されたときにに建てたものだろう。
それから30年くらいは経過しているはずだ。
実は、入学した当時高校生活を送った建物は、まだ存在していた。

懐かしい。
1年生は、この木造の建物で生活を送っていたのだった。
W氏とは高校1年生時は同級生だった。
あの頃は、私たちの未来は、まさにまだ霧の中であった。

W氏の遺影は笑っているものだったが、かすかに記憶に残っている彼の父親の笑顔によく似ていた。
仕事から帰って、自宅で倒れた彼は、そのまま帰らぬ人となってしまったのだと、彼の奥さんから聞いた。
途中で出てきたご子息は20代。
彼の若い頃と目もとがとてもよく似ていた。


W氏の家で焼香させていただいた後、高校2,3年生時同級生だった、例の同級会前幹事のM氏宅を訪ねた。
もうあれから3年
仏壇のM氏の写真が若い。
がんになる前の50代前半のM氏の写真だ。
まだ髪があり、働き盛りの様相だ。
こうして、M氏と私たちには年齢差が生じてくる。
「これから同級会です。Mに代わり幹事です。」というと、奥さんは笑って、「皆さんによろしくお伝えください。」との言葉を告げた。


同級会の翌日は、新潟市内に出かけ、4月に亡くなった、S.I氏の自宅を探した。
訪ね当てると、彼の家のある場所は、アルビレックス新潟のサッカーの試合がある時、ビッグスワンからの帰り道で車で通り過ぎる道のすぐ脇道にあった。

高校時代の同級生だと名乗ると、家に入れていただいた。
午前中にも、高校時代の同級生・MT氏が訪ねてきたと言う。
MT氏は、同級会の案内を送った時、真っ先に返信を「参加」として送ってきた人だ。
前日の同級会でS.I氏の逝去を知ったのだろうが、翌日すぐに焼香に上がっている。
高校時代はこんなに行動力のある人だとは知らなかった。
それとも、その後の人生で身に付けたのだろうか。
ともかく、MT氏の迅速な行動に感心した。

S.I氏宅では、奥様と娘さん・息子さんが応対してくれた。
彼は、末期がんとなっていたが、退職日の3月31日まで勤め上げた。
4月2日には、どうしても行きたいと言う本人の強い希望で、家族皆で長野の御柱祭を見に行ったのだそうだ。
腹水がたまり、足もはれ上がって靴が履けなくなっていたが、運動靴のひもをゆるめ、かかとをつぶして履いていったのだという。
私からの高校時代の話は、ほとんど聞いたことがなかったということで、興味を持って話を聞いてくれた。
最後の旅行といい、話の聞き方といい、家族の温かさを感じた。


最後に、同級生仲間で最も早く8年前に亡くなったO氏の家を訪ねた。
彼の家は、私の家から1km余しか離れていない。
私の母が入院していた時、O夫人が入院中で隣のベッドにいて親しく話をして知り合いになったこともあって、彼の死後、毎年盆には焼香に行っている。
去年は、たまたま奥さんが外出中だったため会えなかった。
今年は、2年ぶりですね、と言いながら話が弾んだ。
O氏の遺影は、上記のM氏よりさらに若い。
この日は、2人の娘(孫である)を連れて娘が里帰りをしていた。
亡くなった当時、未亡人となり途方に暮れていた夫人であったが、今はすっかり落ち着いて日々を過ごしているようだ。
近々行われる中学校の同級会の幹事をやらされているのだといって、前日同級会幹事をした私に同情してくれた。
「また来年来てくださいね。」と笑って、私を見送ってくれた。



高校の建物は今も変わらずにある。
高校時代の同級生、同い年の彼らがぽつりぽつりと欠けるように人生を終えていく。
彼らと大切な人生を生きていた家族の皆さんに、彼らの人生と時を同じくしたことがあったこと、共に過ごし泣き笑いをしたことがあったことの思い出などを少しでも伝えることができたのなら、訪ねたかいがあった、よかったと思っている。
一人一人の人生が、大変だったとしても、かけがえのないすばらしさを伴うものであったに相違ないのだから。




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同級会、無事終える

2016-08-16 14:05:25 | 生き方

幹事として、高校の同級会を無事に終えることができた。
会場探しと予約、会計を行ってくれたE氏にまず感謝である。
また、集まってくれた16名の皆様に感謝している。

今回は、「祝!還暦」を記念した同級会である。
激動の60年、過ぎてしまえばあっという間だったが、皆それぞれの人生をよく生きてきたものだ、と思う。
S.I氏のように、この4月に亡くなった人だっているし、入院中の者もいる。
だから、今ここに集えるのは、本当によくぞ生きていると言えるのだ。
そして、盆でもあり様々な予定もあったと思うが、出席しようと努めてくれたことがうれしい。

会の中では、一人一人の短い近況報告の時間を設けた。

17人も報告するから長くならないようにと、一人1分くらいずつで、と思って幹事の私から始めた。
しかし、久々に会った人たちに話をするのに、短く話すというのはしょせん無理なこと。
全員が話し終えるまでに、1時間程度もかかってしまった。
それも無理からぬこと。
話の内容で最も多かったのは、私の前に「永年幹事」をしてくれていたM氏への感謝の言葉であった。
彼がいかに熱心に幹事として毎回参加を誘ってくれたかということ。
そして困難があるとき彼がいかに思いやりに満ちた言葉をかけてくれたか、ということなどが多かった。
様々な職種の者がいるが、60歳で定年を間近にしている者は、「やっとゆっくりした日々が過ごせる」と言っていた。
反面、自営業の者は、「自分に定年はない。まだまだ働かなくてはいけない。」という者もいた。
遠方から久々に参加した某氏は、80歳まで研究を続けるために勤務先を変えた、と言っていた。さすがである。

普通は2時間くらいで会を終えるのだろうけど、近況報告後ようやく席を自由に移りながらあちこちで話に花を咲かせることになった。

そんな訳で、会場の割烹店(特にバイトの女の子たち)には悪かったが、会を閉じたのは、会が始まってから3時間余の後のことであった。
「2次会に行きたい」という声が上がったが、あいにくこの地に住んでいない私は、2次会向けの店など知らない幹事である。
でも、そこは地元のIm氏が、いくつか掛け合ってくれて、日曜夜でもやっている店を探し当ててくれ、助かった。

12、3人でその店に行って、Im氏がカラオケで何曲か歌い出すと、あっという間に午後10時半近くになってしまった。
申し訳ないが、田舎駅の終電の時刻が近い。
時刻は近いが、駅からは遠く、2kmくらいもある。
「駅まで送るよ」と、ウーロン茶飲みで過ごした女性が言ってくれたが、心から感謝しつつ、車には乗らず一人で駅に向かって走り出した。
ただ、さすがに酒を飲んだ後なので2kmを走り続けることができず、半走半歩で15分かかった。

駅に着いて2分後に終電が来て、乗り込み、座席に座ってホッとした。
M氏に代わっての幹事、なんとかやり終えた。
何人かから、今日の同級会ははうれしかった、と言ってもらえたことが何よりの喜びであった。
ただその言葉に続けて、「Mに代わって、『永年幹事』よろしく」。」と言われてしまったことが、なんとも複雑な思いではあるのだが、…まあいいや。
皆さん。東京オリンピックの年、またお会いしましょう。
それまで、元気で生きていきましょう。
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同級会準備完了

2016-08-12 17:44:08 | 生き方
明日は、8月13日。
盆の入りとなる。
今年は、土曜日から始まるので、休みと重なってちょうどよい人も多いことだろう。
ただ、立秋を過ぎたのに非常に暑い日が続き、暑い盆になりそうだとも思う。

以前から書いている、同級会の件。
幹事となってしまった今年は、14日の日曜日に会を行うことにした。
人の助けも借りて、会場をとってもらった。
会場は、高校にほど近い割烹店である。

かつて、高校時代の貴重な2年間を過ごした学級は、41名の構成員であった。
それが、先日書いたS.I.氏を含めて、男性ばかり4人が故人となっている。
残り37人。男性19人、女性18人である。
住所も電話番号もわからない者が1名。
同級会の出欠の返信がなかった者が、他に2人。
連絡があった者は、35名(私以外)。
そして、出席者が、18名(私を含める)。
ちょうど半数の出席である。
男性10名、女性8名。
幹事としては、半数が集まってくれるというのは、うれしいことである。

M氏が幹事をしていた時は、同級会の要項のようなものは何もなかったのだが、今回は、ちょっと気取ってみようと、高校時代の卒業写真を表紙に使うことにした。

(実物は、こんなふうにぼかしてはいない)
そして、不参加者のメッセージと、住所や連絡先がわかる人のそれは載せておいた。
同級会の準備完了。
あとは、当日を待つだけだ。

…その前に、亡くなったとわかった人のところへ、線香をあげにいかなくてはな…。



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全盲の竹内昌彦氏の話に引きつけられた

2016-08-11 22:03:51 | ひと
「子どもはねえ、教師ががんばった分だけ力が伸びるんですよ。だから、教師には専門性がいるんです。」
しめくくりの言葉はそのようなことだった。
自分自身の体験をもとにした言葉だったから、その話は説得力があった。

去る8月9日は、新潟市・朱鷺メッセで、第50回全日本特別支援教育研究連盟関東甲信越地区特別支援教育研究協議会新潟大会(なんと長い名称だろう)が開催された。
この大会で、社会福祉法人「岡山ライトハウス」理事長及び社会福祉法人「岡山視覚障害者協会」理事の竹内 昌彦氏の記念講演が行われた。
竹内氏は全盲である。
現在71歳。生まれて間もない頃肺炎で右目の視力を失くし、7歳のとき、左目の網膜剥離となり、やがて失明した。

その完全失明直前の学校でのいじめの話も、心に残るものだった。
小学校の入学時には、まだわずかにあった視力で絵を描くことが好きだったと言う。
しかし、目がよく見えないという理由で、周囲の子どもたちからはすごくいじめられた。
口で悪口を言われるだけではない。
食べ物や飲み物の中にごみを入れられ、見えないからわからないでそれを口にすると「ゴミ人間」と揶揄され嘲笑された。
でも、負けたくなかった。
そして、母に心配させたくなかった。
歩いていたら、石を投げられたりもした。
それが悔しいから、復しゅうを考えた。
石ではなく砂を洗面器ですくって取り、それを石投げした子の家に行き、座敷にばらまいた。
家の人が怒って出てきて「何でこんな悪さをするんだ!」と言うから、「おばさんとこの○○が、ぼくにめくらと言って石を投げたから、代わりに砂を投げたんだ。」と、泣きながら答えた。
すると、おばさんは自分ちの子をつかまえてきて、その子の口からあやまりの言葉を言わせた。

こんな悲惨ないじめられる日が、2年生になったら担任の先生が代わって大きく変わった。
「竹内君は、赤ちゃんの時の病気で目がよく見えません。だから、教室の中で一番よく見える席がいいけど、みんなどこがいいと思う?」
「(黒板に大きな字を書いて)竹内、この大きさで分かるか?」と、配慮をしてくれた。
「みんな、隣の席の子は、そばで竹内君に自分のノートを見せて教えてくれとる。ええ子じゃ。優しい子じゃ。」と紹介すると、みんながノートを見せてくれたりして、競争して役に立とうとしてくれた。
クラスでは、竹内氏の役に立ち、親切にすると、先生にほめられて、それが正義というものになった。
先生は、一度も「人権」だの「差別」だのという言葉は使わなかったし、「いじめはいけない」などとも言われなかった。
しかし、先生の姿勢が、60人(1クラス)の子どもたちに対し、あっと言う間に、何が正義で、何が人として恥ずかしい行為かということを教え込んだ。

こんなクラスになるのに、ものの2週間もかからなかった。
そして先生がいないところでも、子どもたちの心は彼を受け入れるようになっていった。
ある日、他の組の悪ガキが来て、「この組に、竹内と言うめくらがいるだろう。どいつだ。」と叫んだ。
静まった中、クラスで一番体が大きくてケンカの強いA君が立ち上がって、その子の前に立った。
「何い。目が悪いのが何だ。お前みたいに頭が悪いのとは違うんだ。文句言わず、帰れ!」
と言い返した。
A君は一躍クラスの、特に女の子たちの英雄になった。
こんないいクラスを作り上げたのは、一にも二にも、担任の先生の力だ。
そう竹内氏は語った。

全盲というとてつもないハンデを背負いながらも、活力のある方だった。
聞いていて、元気になる話だった。



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