ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

とにかく、せつないなあ… ~2024第37節ホームガンバ大阪戦~

2024-11-30 21:14:10 | アルビレックス新潟

…何と言えばいいのだろう…。

とにかく、せつないなあ…。

何がせつないかというと、J1残留が決まらなかったことでも、たった1点が取れずに負けたことでもない。

ホーム最終戦で勝てず負けてしまった。

おまけに、そのことでJ1残留は、完全に尻に火がついてしまった。

サポーターがあれほど熱心に応援しているのに、1年間の感謝を示すその機会に、期待を裏切ることになってしまった。

…その選手たちの無念さが、見ている側に伝わってきたことが一番せつないのだ。

見ているのが心底つらいなあ…。

 

試合は、見ていて面白かった。

ガンバも、今年好成績なのがわかるようなパスの鋭さ、プレッシャーのかけ方だった。

互いのボールの奪い合いが、とても見応えがあった。

互角だなと思いながら見ていた。

先取点がカギになるぞ、と思って見ていた。

立ち上がりの決定的なチャンスを2つ逃した新潟だったが、序盤は押していた。

特に開始早々に1分ほどの間に、2度も大チャンスがあった。

そう言う場面を逃すと、なかなかチャンスというものは訪れるわけではない。

案の定、18分、ガンバ大阪の優勢な時間帯に、舞行龍のスライディングタックルが外され、「やばい!」と思った直後に、センタリングからのヘディングを決められた。

先制を許すのはある意味慣れてはいるが、戦い方が難しくなるのは事実。

特にガ大阪は、先制すると今季負けたのは1試合しかなかったはず。

圧倒的に勝利が多かったはずだ。

 

それでも、1点取って引き分けるだけでJ1残留を決めることができる。

前半は、まだ30分もあったし、後半もある。

同点だけでなく、逆転だってできるはずだと思い、選手たちを信じることにした。

 

だが、前半だけでなく、後半になっても、選手交代を行っても、結局1点が重くのしかかり、アルビはガ大阪に0-1で敗れてしまった。

おまけに、後半の途中までFC東京に負けていた磐田が、残り10分から同点、逆転を果たした。

柏も、5試合連続アディショナルタイムでの失点となったが引き分けて、勝ち点で並び得失点差でアルビレックス新潟の上に立った。

この結果を見ると、次の最終戦で磐田が勝って、新潟が2点差以上で負けると、新潟はJ2降格となってしまうという状況に追い込まれてしまった。

しかも、最終戦の相手は、J1リーグでまだ勝ったことのない浦和が相手。

磐田は、最下位でJ2降格決定済みの鳥栖が相手。

かなり厳しい状況に追い込まれてしまった。

試合前には、虹が見られて、吉兆かと思ったのだがなあ…。(画面右の赤い屋根の上あたりからスタジアムの建物まで)

 

ホームの最終戦セレモニーも、盛り上がりに欠け、中野社長も、堀米主将も、出て行く3人の選手までもが、挨拶で「まだあと1戦あるから、熱い応援で背中を押してほしい」という内容のことを話すしかなくなってしまった。

 

とにかく、笑っても泣いても、最終戦に賭けるしかなくなってしまった。

相手が浦和だとか相性だとかは関係ない。

とにかく勝つのみ。

 

Visca Albirex !!!

 

【今季最後のスワンの灯】

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大雨警報の隙間にRUN

2024-11-29 19:41:13 | RUN

ここ数日間、よく雨が降り、天気が悪い。

毎年この晩秋になると、よく時雨れるから、雨が降るのは普通なのだ。

ところが、今年の雨は時雨でなく、大雨となって降り続いたりするから、異常である。

新潟県では、昨日から大雨警報が出ている市町村もあった。

ご多分に漏れず、当地でも今朝未明に大雨警報が発令され、今でも解除されていない。

地域の安全メールでその報せが届いた頃は、雨音が強くて目が覚めていた。

幸い、被害が出るほどにまではならなかったが、よく降る雨だ。

 

今月は、走ったのはここまでわずか2回。

しかも、娘とともに3kmずつ走っただけという少なさであった。

娘の場合は、週1のリハビリだからそのくらいでもいいのだが、私の場合はレースに出たりするのだから、もう少し鍛える必要がある。

ただ、今月は、腰痛に始まった体調不良、そこに雨が多かったせいもあって、走っていなかった。

今日は、週1の娘のリハビリRUNの日。

いつも伴走して、娘が3km走った後は、10kmくらいまで走るのが普通だった。

ところが、今日は、大雨警報が出ているから走れなくて残念だなと思っていた。

でも、娘のリハビリRUNはやりたいな、と思って、雨雲レーダーで調べた。

こうして調べて、わずかな雨やみの時間に走ったこともあったのは、前にここでも紹介したことがある。

 

雨雲レーダー使って、「おかえりモネ」気分 - ON  MY  WAY

2年前のNHKの朝ドラ「おかえりモネ」。結構お気に入りとなったドラマだった。そのドラマが始まって間もないころ、印象的な場面があった。小学生の林間学校の体験学習をす...

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8時30分くらいに調べると、今日も、この「おかえりモネごっこ」ができそうだと思った。

午前9時10分くらいになると、雨はいったん止む。

およそ50分くらいは、まとまった雨が降らないはずだから、この雨が止むのを待って走ることにしようと決めた。

そう決めたのに、9時過ぎまでかなり強い雨が降った。

はたして9時10分ごろ、雨はさきほどの雨雲レーダーのとおり、確かに小止みになった。

やったね!(^_-)-☆

 

それで娘と走り出したのだけれど、雨が止んだばかりだから、走る道は、大きな水たまりや雨水が流れていて、あっという間にシューズに水がしみこんでしまった。

走れるのは気持ちいいのだが、足元がぐちゅぐちゅいうのは気持ち悪い。

雨の前には強風が吹いたから、走った道路わきには、落ち葉が吹きだまっているところがあった。

風に負けたメタセコイアの折れた枝や葉がたまって、道を塞いでいるところもあった。

大きな水たまりができたところは、水鏡となっていたのが、こんな時でないと見られない風景だな、と思った。

 

娘との3kmRUNが終わってからも、追加して7kmまで走った。

今日は、天気が再び崩れて雨が強くなるから、そのくらいでやめるのがいいだろうと思った。

それは正解だった。

家に入って間もなく、再び強い雨が降り始めたのだ。

 

道路の気温表示は、息が白くなるだけあって、「5℃」を示していた。

走る前には、ひょうが降ったりもした。

いよいよ冬も近づくなあ。

…そんな荒れる天気の下でも隙間を見つけて走れたことに、なんとなく満足感を覚えたのだった。

 

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三遊亭好楽さんの講演会に行ってきた

2024-11-28 17:57:09 | ひと

先日、地元信金が主催する文化講演会があった。

その講師が、三遊亭好楽さんだというので申し込んだら抽選が当たり、行ってきた。

届いたチケットには、「講演40分+落語50分(予定)」と書いてあった。

でも、だいたいこういうのには、本人じゃない出演者もいるのだよな、と思っていたら、その予想は当たった。

講演+弟子の落語+本人の落語という構成だった。

 

日頃、「笑点」で見かける好楽さんは、「やる気がない」とか「仕事がない」とか言ったりして、あのメンバーの中ではあまり語りは多くない気がする。

だから、講演のテーマは、「一期一会」というが、講演と言ってもどんなものかな、と思っていた。

 

だが、そこはさすがに「はなし家」とも言う落語家だった。

壇上に登場すると、

「日本で一番来たかったこの街に来ることができました。」

と、お世辞とは分かっていてもうれしくなってしまうひと言で笑いをとって、話し始めた。

 

新潟との縁は、すでに高校生の時からだという。

友だちと年末に来て、県北の瀬波温泉の旅館に泊まったのだそうだ。

そんな話や、当日は5年前に亡くなったカミさんの誕生日だという話などを、笑いを交えながら話していった。

観客を飽かさずに、どんどん話に引き込んでいく。

やっぱり、さすがは話のプロだなあ、と感心した。

笑点では、よく自分の話の時には客が寝ている、などと自虐ネタをいうことがあるが、やはりあれは仮の姿、笑わすための嘘なのだなと思いながら聴いていた。

 

テーマは「一期一会」だったが、それは、自分が実際に見たり聞いたりした話で構成されていた。

最近のテレビでは、お笑いの人たちは、やたら声が大きかったり、その抑揚が聴きづらかったりやかましかったりすることが多い。

それに比べて、好楽さんの話し方は、その程度が適正だ。

非常に聴きやすかった。

それは、後でつなぎとして登場する弟子の語り口と比べても、はるかに上質だった。

 

いろいろな楽しい話、しみじみする話があったが、話を紹介しながら言った言葉に印象的なものがあった。

★「心豊かな人は、すばらしい言葉がすっと出る」

 赤子をロッカーに捨てていく人がいたというニュースを聞いた、師匠のおかみさんの言葉。

 「どうしてそんなところに捨てていくんだろうね。どうせ捨てるなら、うちの玄関前に捨てて行けばいいのに。」

★「心のこもったものが(人に)伝わる」

 ・お礼の手紙を出すなら、文章を整えてとかきれいにとか言わずに早く書いて出す方が、気持ちが伝わる。

 ・結婚式の披露宴最後に言う、新郎のお父さんの挨拶がしどろもどろであったり長くなったりしても、お父さんの気持ちはよく伝わってくる。

 

こんないろいろな話を聞きながら、講演テーマは「一期一会」だったが、どれもこれも人間のしたことに、人間が思ったことばかりだ。

好楽さんは、人間のしたこと、言ったことなどから見つけた面白さをたくさん語ってくれた。

それは、まさに「一期一会」だから見つけられた面白さだ。

いろいろな点で、話で人を楽しませる好楽さんの技術。

「さすが、はなし家!」と思った次第であった。

 

 

アルビの退団情報

今日は、トーマス・デン選手だった。

私が持っているグッズで一番多いのが、なぜか彼のもの。

キーホルダーに、ハンカチに、バッジ、…まだ何かあったな。

けがをしてクビになった前チームから、「ゆっくりケガを治してがんばってほしい」と言われて契約した新潟。

その恩義を果たそうと、3年間がんばってくれたデンくん。

今までありがとう。

オーストラリア代表として今後もがんばってほしいな。

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「想い出にかわるまで」(内館牧子著;角川文庫)

2024-11-27 18:24:05 | 読む

 

別れたらそれっきりというのは、淋しすぎる。

想い出にかわった時、元恋人は「一番大切な他人」になっているんだわ。

 

久々に恋愛小説を読んだ。

その書名が「想い出にかわるまで」(角川文庫)。

著者は、内舘牧子。

この文庫本が出たのは、平成5年だったから、今から30年以上前になる。

手元にあるのは、平成10年の第19刷のものだから、本当に昔のものだ。

本棚の陰にずっと隠れていた一冊。

 

この本の最も印象に残る文章は、冒頭に載せた2文。

60代後半の自分だが、胸がきゅんとする文章だ。

「一番大切な他人」かあ。

言い得て妙だなあ…。

しかも、それが「想い出にかわった時」だというのだからなあ。

 

ストーリー自体は、主人公のるり子が、婚約者のエリートサラリーマン直也を、実の妹の久美子に強引に奪われるというもの。

そんな妹の姿には、多少おどろおどろしさがあった。

印刷屋の町工場の父母、るり子と妹、弟を交えた家族のつながりについても描かれているから、ああ、あの頃はまだこんなふうな家族関係だったな、とか跡継ぎの問題は必ずついてまわっていたな、などとも思ったりした。

恋愛小説に家族小説の要素が入り込んでいたのは、いかにも、という感じで懐かしさを覚えた。

 

この作品について調べてみると、あの金妻(金曜日の妻たちへ)のシリーズと同じ夜10時の時間帯に放送されたテレビドラマから、放送終了後、書籍化→文庫化されたものだった。

金曜10時台のドラマは、それこそ「金曜日の妻たちへⅢ」しか見たことがなかったので、ドラマ放送されていたとは知らなかった。

この「想い出にかわるまで」のドラマは、1990年1月から3月までの放送で、主演は今井美樹と石田純一だった。

私にとっては、魅力的なシンガーとしてしか知らない今井美樹が出演していたことなんてあったんだね。

しかも、姉から婚約者を奪い取る妹役は、当時21歳の松下由樹だったなんて、「へえ~」だった。

おまけに、主人公のるり子に心を寄せ、時には彼女の支えになるカメラマンには、あのチューリップの財津和夫が起用されていたというのも、興味深い。

財津氏は、ドラマに出たこともあったのか、…知らなかったよ。

…と、いろいろと珍しいことを知ることができた。

 

こういう恋愛小説を読むと、自分と違っていてうらやましくなったり、自分が経験したこととの共通点を見出したりしてしまう。

終盤に移ってきた自分の人生と比べながらも、気持ちが若くなるような気もするものだなあ。

 

 

話は変わる。

ああ、アルビレックス新潟。

今日は島田譲選手の契約満了の報せだ。

連日の満了発表、つらいなあ…。

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鈴木孝司選手契約満了の報せが届く ~4年間ありがとうございました~

2024-11-26 21:46:50 | アルビレックス新潟

今日の夕方、「モバアルZメルマガ」として届いたのは、契約満了の報せだった。

 

当クラブでは、鈴木孝司選手(35)と2025年2月1日以降の契約を締結せず、今季をもって契約満了とすることを決定いたしましたので、お知らせいたします。

 

うーん、そうか。

この30日が、今季ホームの最終戦だ。

例年ホーム最終戦では、退団する選手とのお別れのセレモニーが行われるということから、誰かアルビレックス新潟を退団する選手が出てくるかもしれないとは思っていた。

鈴木孝司選手は35歳であり、前季も今季もケガで離脱したことがあった。

ポジションはフォワードでゴールを期待されるのだが、今季はリーグ戦18試合出場で2得点のみであった。

もしかしたら、と思っていたけど、やっぱり鈴木孝司選手と契約を更新しないのか。

さびしいなあ、と思ってしまった。

4年間新潟に所属していたが、最初の2年間は攻撃をけん引し、J2からJ1に新潟を引き上げる働きをした。

そして、この2年間はJ1での戦いとなったが、けがもあっていい数字は残せなかった。

だが、今季、チームメートにけが人が多く出た春から夏の時期には、彼がチームの中心となってがんばっていたことが印象に残っている。

あの時期は、若い選手たちが続々と試合に出るようになったが、試合の中や後にそういう選手たちにたくさん言葉を交わすなど、ベテランとして渋い働きをしていた。

プロ意識の高い選手だった。

人柄もよく、子煩悩。

子どものことになるとデレッとして、子どもが大好きな父親だということがいつもよく伝わってきた。

人間性豊かな選手だと、いつも頼もしく思っていた。

その彼が、新潟を去るのだなあ…。

 

発表されたコメントは、長くはないが、彼の人間性とチーム愛、サポーターに対する感謝の気持ちがあふれていた。

 

■コメント

4年間ありがとうございました。

 

苦しみの中に幸せな瞬間がある、そんなあっという間の4年間でした。 

 

2022シーズン、新型ウイルス禍から日常を取り戻す過程のアウェイ栃木SC戦で、サポーターの皆さんの声出し応援を初めて聞き強く胸を打たれ、新潟に来て良かったと改めて感じることができたあの日は忘れられません。

 

スタジアムで感じる応援の力、街の中でサポーターの皆さんからかけていただく温かい声。新潟での生活は、どんな時もサポーターの皆さんに支えられていました。これからも熱い愛で選手たちを包み込んでほしいです。

 

アルビレックス新潟の活躍を心から願っております。

 

新潟最高!

 

彼のフォワードとしてのプレー同様に、コメントも全く無駄がない。

サポーターたちに対する感謝の思いがあふれている。

チームを去るというのに、

「アルビレックス新潟の活躍を心から願っております。」

「新潟最高!」

という言葉は、泣かせる。

そんな素晴らしい彼だから、これからまたどこかのチームで活躍してほしいと思う。

そして、仮に選手でなくなっても、人柄を生かしていい仕事をするだろうと、確信している。

今まで4年間ありがとう、鈴木孝司選手!

 

これからまたチームを去る選手が出てくるのだろうなあ。

毎年のこととはいえ、つらい時期だなあ…。

 

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孫の世代が活躍するようになった大相撲に…

2024-11-25 22:21:50 | スポーツ

大相撲九州場所は、琴櫻の初優勝で終わった。

順調に出世してきた彼は、父が琴ノ若で祖父が先代琴櫻だった。

私にしてみれば、琴櫻と言えば、今でもその祖父の姿の方が先に浮かぶ。

 

50年以上前になる自分の小学校時代は、「巨人大鵬卵焼き」の時代。

男の子の遊びとしては、外では野球、中では相撲というのが結構当たり前だった。

相撲は、木の床なので固い運動場(あの頃は体育館というしゃれた呼び名はなかった)でありながら、結構やったものである。

今の時代なら、けがが危ないので止められるところかもしれないが、あの頃はそんなことは気にせず、何年生でもよく興じたものであった。

 

私の小学生以前から、大鵬の時代は長く続いた。

なにしろ、32回も優勝した横綱だからね。

小学生になる前には、まだ集落にはテレビのある家が数軒しかない時代だったから、ある家まで出かけて行って、「見せてください」と言って、上がり込んだものだった。

大鵬が好きだったから、彼が土俵に上がると、テレビの前で大きな声で「大鵬、大鵬」と声援を送っていたら、その家の主に「やかましい。静かにできないなら、出て行け!」とどなられたこともあった私であった。

その大鵬の孫にあたるのが、王鵬である。

下から上がって来たときには強さをあまり感じなかったが、ここ数場所力をつけてきた。

今場所優勝した琴櫻に、唯一の土を付けたのが王鵬であった。

 

その琴櫻―王鵬の一番を見て、しみじみ時の流れを感じた。

昭和40年代、彼らの祖父に当たる大鵬と琴櫻は、何度も対戦していた。

圧倒的に大鵬が強く勝っていたが、現在の孫同士の対戦は、琴櫻が秋場所前まで4連勝していた。

だが、地力をつけてきた王鵬が今場所も琴櫻に勝ち、2連勝。

攻守、力のこもったいい相撲だった。

なかなかいい勝負になってきた。

今から50年以上前の時代に、先代琴櫻も大鵬も、まさか半世紀余りの後に孫同士が戦うことになるとは思いもしなかっただろうなあ、と思ったのであった。

自分は、その、祖父たちの現役時代も知っているし、現在の孫たちをも知っている。

もちろん、彼らの父の琴ノ若や貴闘力の相撲もずっと見てきた。

ずいぶん長く見てきたことになるなあ、とちょっぴり感慨にもふけったのである。

 

さらにいえば、大横綱大鵬が引退した頃には、横綱となって活躍していたのは、北の富士だった。

そして、その頃は大関でその時代が長かった先代琴櫻も、大鵬が引退した2年後、33歳で横綱昇進を果たした。

ただ、横綱時代は8場所と短かった。

2年後、昭和49年名古屋場所の直前に琴櫻が、場所中には北の富士が引退していった。

 

…子どもの頃から、そんなふうに、大鵬・北の富士・琴櫻を見てきた。

一時代を築いた、それぞれ魅力のある横綱たちだった。

 

今場所は、場所中に解説者の北の富士の訃報が流れた。

昭和40年代の横綱が、3人とも、もうこの世にいなくなってしまった。

横綱と言えば、ヒーローである。

子どもの頃よく見たそのヒーローたちがいなくなって、その孫たちが土俵を盛り上げるようになった。

そこに、長い年月を感じ、自分の年齢が上がったことを感じてしまう。

だが、その活躍は、うれしいことでもある。

孫たち世代の活躍は、きっと天上の彼らも喜んでいるに違いないのだから。

 

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佐藤瞳・橋本帆乃香ペアのWTTファイナルズ優勝を称える

2024-11-24 21:53:45 | スポーツ

卓球の国際大会シリーズ年間王者を決めるWTTファイナルズ2024という大会が、今日まで日本の福岡で行われていた。

この試合は、シングルスは16人、ダブルスは8組が出場する。

基本的に、その種目の世界ランキングで上位の選手しか出場できない。

 

この大会では、日本の選手たちもそれなりに健闘した。

男子シングルスでは、日本のエースの張本が、中国選手を2人破って決勝に進出した。

決勝では、世界1位の中国選手に完敗ではあったけれども、ランキング上位の選手からの2勝は貴重だった。

男子ダブルスでは、戸上・篠塚組が初戦で格上の中国ペアを破り、準決勝も勝って決勝に進んだ。

決勝ではゲームオールの接戦となったが、フランスペアに惜しくも敗れてしまった。

女子シングルスでは、5人も出場し、同士討ちの組み合わせもあったが、3人が初戦を勝って準々決勝へ進出した。

ただ、そこで3人とも、中国人選手や欧州チャンピオンの選手に敗れてしまったのだが。

 

まあ、こんなふうに、かなり善戦していた日本人選手だったが、栄冠を勝ち得たのは、女子ダブルスだった。

女子ダブルスで優勝したのは、佐藤瞳・橋本帆乃香のペア。

特徴的なのが、カットマンペアだったということ。

今の時代、カットマンで世界の上位に君臨する選手はほとんどいない。

最新の世界ランクでは、橋本は34位、佐藤は81位である。

その佐藤・橋本ペアの初戦の相手は、ダブルスの世界ランク1位、中国の孫・王(芸)組であった。

孫はシングルスでも世界ランク1位、王は3位である。

彼らの強打と鋭い打球は、男子顔負けのすごさがあった。

善戦しても勝ち目はないだろうな、と思っていた。

 

ところが、どっこいであった。

強打されながらも、カットで拾いまくる2人。

テニスと違って、卓球のダブルスは、1球ずつ交互に打たなくてはならない。

その難しさがあるのに、前に後ろに右に左によく動いてボールを相手コートに返す。

ダブルスは2人が動きながら交互に打たなくてはいけないということを、日本のペアは逆に、最大限に生かした。

カットするだけでなく、時にはドライブして打ったり、攻撃に転じたり、プレーにも変化を加えて相手をかく乱していた。

時には、スマッシュを連発されてもカットやロビングで粘って相手のミスを誘ったり、想定しがたい強打で反撃したりして、接戦に持ち込み、要所で得点していった。

日本の2人のカットマンの技術はすばらしかった。

1+1が3にも5にもなっている感じだった。

2ゲームを先取しながら、第3ゲームをジュースで落としたときは、この後はやられるのだろうと思ったが、違った。

集中力は途切れず、第4ゲームを奪い、中国の1位ペアをゲームカウント3-1で破る殊勲を打ち立てた。

 

佐藤・橋本ペアは、続く準決勝でも別な中国ペアを3-0で破り、決勝進出。

決勝は、日本人ペア大藤・横井組との同士討ちとなったが、やはり3-0で退けた。

 

どの相手も、威力のある攻撃で打ち抜こうとしてくる相手に対して、本当によくカットで拾って粘っていた。

あれだけ攻められても、長いラリーになっても、粘りに粘るプレーには魅せられた。

それは、会場の卓球ファンも、ひょっとすると世界中のファンも同じだったのではないだろうか。

 

優勝したということは、今年の世界一ペアであるという栄冠を手に入れたということ。

長い間ペアを組んできて、世界の舞台で優勝したのはおそらく初めてだろう。

佐藤瞳・橋本帆乃香ペアを、心から称賛したい。

本当におめでとう!

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人生の隣にいつも谷川俊太郎氏の詩が…

2024-11-23 17:45:30 | ひと

今週、自分にとって、自分のいろいろな時代に影響を受けた人たちの訃報が相次いでいる。

ゆるいけど、ほかの人の人生を思い出を知ることができた「こころ旅」の火野正平さん。

われわれが少年時代に横綱を務め、引退後も角介で活躍した北の富士勝昭さん。

そして、子どもから大人まで楽しめる詩を書いていた詩人の谷川俊太郎さん。

 

私にとっては、谷川俊太郎さんのことが一番思い入れ深い。

初めて谷川さんのことが気になったのは、学生時代に聴いていた歌からだった。

あの頃、吉田拓郎・井上陽水・泉谷しげるらと一緒にフォーライフレコードを設立した小室等の曲には、谷川俊太郎氏の詩が多かった。

4人の中で、最初にフォーライフレコードから曲を出したのが小室等だったが、その曲「お早うの朝」は、谷川俊太郎作詞、小室等作曲だった。

小室等がその後発表する多くの曲は、谷川俊太郎作詞だった。

私が持っているLPレコードには、小室等の「23区コンサート〜東京旅行」というライブレコードがある。

その1曲目は、谷川俊太郎氏による「かっぱ」で、曲が付いていないのに、語呂がよく口ずさみやすかった。

たしか、それは、谷川俊太郎氏自身がゲストで唱えていたような気がする。

「かっぱ」

かっぱかっぱらった

かっぱらっぱかっぱらった

とってちってた

かっぱなっぱかった

かっぱなっぱいっぱかった

かってきってくった

 

学生時代が終わって、「育」業についた。

始まりは、小学校1年生相手に教える仕事だったが、そのとき同僚の先輩から勧められたのが、「にほんご」。

これは、「学習指導要領にとらわれない、小学校1年生のための国語教科書(私案)」として谷川俊太郎氏が安野光雅らと編集したもので、興味深かった。

仕事をしているなかで出合ったのが、谷川俊太郎氏の「わらべうた」という本。

文字ばかりで絵のない文庫本だったが、「おならうた」など子どもに大うけする詩がたくさん入っていて、子どもたちに読まれてボロボロになった。

「おならうた」

いもくって ぶ

くりくって ぼ

すかして へ

ごめんよ ば

おふろで ぽ

こっそり す

あわてて ぷ

ふたりで ぴょ

 

そして、秀逸だったのが、「のみのぴこ」。

 

これはのみのぴこ

 

これはのみのぴこの

すんでいる ねこのごえもん

 

これはのみのぴこの

すんでいる ねこのごえもんの

しっぽふんづけた あきらくん

 

これはのみのぴこの

すんでいる ねこのごえもんの

しっぽふんづけた あきらくんの

まんがよんでる おかあさん

(以下略)

 

…こんなふうに延々と続いていく。

この詩は、よく低学年の子どもたちへの読み聞かせに使ったものだった。

絵本があると知ってからは、ページをめくりながら、子どもたちにもくり返し最初から唱えさせて、一緒に声を出させると、みんなノリノリになった。

最後の「のみの ぷち」まで行くと、子どもたちは満ち足りた笑顔になるのだった。

 

最高学年の6年生の教科書(光村図書)には、「生きる」の詩が載っていた。

(詩はこの後まだ続くが以下略)

私は、この詩を使って、卒業間近の彼らによくメッセージを送ったものだ。

そのときには、必ず小室等の「いま生きているということ」の歌を教室内に流して聴いてもらいながら行うのだった。

詩の一部が違うが、「生きる」に曲をつけたのが「いま生きているということ」だった。

 

生活を楽しくすることから、命を考えることまで、谷川俊太郎氏の詩は幅の広さや深みがあった。

 

そして、このブログでも紹介したとおりに、娘の家でのリハビリでは、詩「明日」を暗唱に使った。

娘は今でもこの詩をそらんじることができる。。

 

「明日」(谷川俊太郎)を暗唱する - ON  MY  WAY

娘のリハビリの一環として、詩の暗唱を行ってきた。最初は、落語の「寿限無」次が、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」。そして、清少納言の「枕草子春はあけぼの」。いずれもクリ...

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小室等の「プロテストソング2」を聴いて、谷川・小室両氏が健在であることを喜んだときもあった。

 

「プロテストソング」(小室等・谷川俊太郎著;旬報社)を読む - ON  MY  WAY

「プロテストソング」。そういう書名の本が、谷川俊太郎、小室等の共著で、5年前に出ているのを知った。その本を取り寄せて、読んでみた。私が学生だった頃、小室氏の歌には...

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詩「こどもとおとな」(谷川俊太郎)から思い出したこと - ON  MY  WAY

先日、ここで書いた谷川俊太郎・小室等共著の「プロテストソング」(小室等のアルバムでは「プロテストソング2」)の中にあった詩で、「こどもとおとな」というものがあっ...

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自分の人生の隣に、いつも谷川俊太郎さんの詩があったような気がする。

感謝と冥福を祈る気持ちでいっぱいだ。

合掌。

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スマホの機種変更に行く

2024-11-22 21:12:23 | 生き方

4年と1か月愛用してきたスマホ。

よく見ると分かるように、表面下部に無数のひびが入ってしまっている。

あちゃー、やってしまった。

そう思ったのは、10月の初めだった。

小屋から自転車を取り出そうとしたとき、引っ掛かったはずみに、ポケットからスマホが滑り落ちてしまった。

パシャン!

いやな音がした。

スマホには、割れないように保護カバーを付けていたので、今まで何度も落としたが、割れずに済んでいた。

だが、今回はスマホが、角からではなく表面を下にして真っ平らに落ちた。

これは、ひょっとして…と思って拾い上げてみると、このように表面のガラスにひびが入っていたのだった。

 

ひびが入って多少凸凹が生じたが、タッチ画面はなんら支障がなかった。

予定がいろいろあったので、しばらくはこのまま使おうか、と決めた。

そうやって、10月は新潟シティマラソンや高校の同級会で使ってきたのだった。

腰痛になって、今月も行く余裕がなく、回復して埼玉などに出かけてきたのだった。

 

そして、今日になってようやく新しいスマホを求めに店に行った。

だけど、店は混んでいた。

2時間待たされたあげく、2kmほど離れたところにある、店の出張所に行くことを求められてしまった。

出直すのも面倒だから、出張所に行った。

まあ、そこでは店員にいろいろと親切にしてもらえたから、たくさん待ったのも仕方なかったことにする。

テキパキと処理して、データやアプリのほとんどを新機に移し替えてくれた。

自分にはできないことだから、すごいなあと思って、その手つきを見守っていた。

世の中にはそういう技術を持った人がたくさんいる。

専門的な知識や技術を持った人がいるから、自分たちの生活ができたり豊かになったりするのだ。

そのことは知ってはいたけれど、今日またその思いを新たにした。

 

店に行ってから終わるまでに4時間近くかかってしまった。

出費も少なくなかったのだから、新しいスマホは、不用意に落としたり、ウエストポーチのように忘れたりしないように気を付けよう。

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とんだ災厄4連続(後編)

2024-11-21 17:57:27 | 生き方

(前編からの続き)

3 

翌朝は、熱湯風呂のショックと蚊による寝不足が大きかったせいか、体に変調が起こっていた。

なんと、お通じが通じなくて困ったのだ。

「門」の近くまで来ていて出したくてたまらないのだが、そこを突破できないのだ。

そこでたまっていて痛くて苦しくて困ってしまった。

 

でも、出発しなくてはいけない時間になったので、仕方なくお通じできないまま、宿から出発。

熱湯風呂に、相次ぐ蚊の襲来と、熱烈歓迎していただいた、思い出深い宿になった。

おまけに、今度は自分の体に変調が起きるとは…。

 

向かった先が袋田の滝。

そこでは、光のトンネルや大きな滝など素晴らしかったから、下の痛みも少し軽減していた。

見終わった後、苦しくなったので、公衆トイレでまたがんばってみたけど、ダメ。

やっぱり苦しい。

 

約2時間の車運転の後、また別の公衆トイレでがんばったが、ダメ。

持ち合わせていた胃薬を飲んでみたが、改善の気配はなかった。

苦しい、苦しい。

 

 

この後、親類宅を訪問した。

懐かしいいとこや、伯母に会えてうれしかった。

伯母は90代だが、はきはきしていて元気な口調なのがうれしかった。

訪問中は、幸いトイレに行きたいとは思わなかった。

そこを辞して、あとは新潟に帰ることにした。

 

高速道路に乗って、サービスエリアで小休止。

当然のように、トイ活(トイレ活動)をした。

努力を重ねたせいか、昼に飲んだ胃薬が少しは効いたのか、ずっと塞がっていた一部が「開門」。

すっきりとまではいかなかったが、一部出たことによって、ようやく苦しみから解放された。

7時間も、この苦しみと戦っていたので、解放された喜びは大きかった。

ああ、完全じゃないけど、やっと楽になったぞ!

うれしいなあ。

…3つ目の災いは、この開門しない苦しみであった。

あとは、気持ちよく運転して帰るだけだと思ったのに、まさかこのサービスエリアのトイ活が、もう一つの悲劇を生むことになるとは思わなかった。

 

3時間高速を走って、下道に降りると、目の前はゆっくりと乗用車が走っていた。

多少イライラしそうになりながら、私の車の後ろにも何台も車がつながっているのが確認できた。

可能なら抜きたいのだけど、すでに日は暮れているし、道も広くなく危ないから、ずうっと30分以上、後ろを付いていった。

やっと前のゆっくりな車と別れることができ、イライラから解放され、10分ほど走って、ようやく家に着いた。

 

いろいろあったけど、やっとわが家に着いたよ。

さて、荷物を下ろそう。

その前に、運転の邪魔だからと外しておいたウエストポーチを持って、…と。

…ない!ない!?ない!!??

え~!!?そんなバカな!!

ウエストポーチがない!!

ウエストポーチには、財布も入っていた。

現金だけでなく、キャッシュカードやポイントカードなども、たくさん入っている。

うわあ~、どうしよう!!!?

どこでなくした?

そうか、サービスエリアのトイレだ。

思い出した。

用を足すために外して、棚のようなところに上げて置いたのだった。

なのに、「開通の喜び」が大きかったものだから、それに紛れて、ウエストポーチをとり忘れてしまったのだ。

なんてこった!!!

心臓バクバク、冷や汗ダラダラ。

あれからたくさんの時間がたっている。

悪い人に拾われていたら、もう返ってこない。

カードを悪用されたらどうしよう?…⤵

 

それでも、まずはサービスエリアに電話だ。

スマホで検索するにも、もどかしくて時間がかかった。

やがて、電話がつながると、「ありますよ」という話。

すぐには信じられなかったが、トイレ掃除の作業員の方が見つけて、届けてくれたのだそうだ。

入っている物を確認すると、何も取られてはいなかったことが分かった。

ホッとした。

着払いで荷物を送ってくれるように頼んで、住所や名前などを告げた。

 

2日後、小さな段ボール箱が届いた。

丁寧に梱包材でくるんであった。

開けてみると、アルビ選手のキーホルダーがついた黒いウエストポーチ。

まぎれもなく私が置き去りにしてしまったウエストポーチだった。

さっそくサービスエリアに電話をして、大きな感謝の気持ちを伝えた私であった。

 

 

…熱湯、蚊、閉門、置き忘れ。

わが身が招いたものもあるけれど、24時間の間に4つも災厄に見舞われた私だったのである。

なんだかね~…(タメイキ)

でもね、4番目の、置き忘れたウエストポーチが手元に返ってきたということは、幸運だったのだから、これからいいことが続くと思いたいね。

コメント (2)
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