当地の周辺では、今日が終業式という学校も多かったようだ。
2学期の終業式と言えば、2005年のその日に起こった新潟大停電のことが忘れられない。
私は、その当時教頭だったが、たった一人で暗黒を味わっていたことが忘れられない。
そのときは、気を紛らわせようと、自分のノートパソコンに文章を打っていたのだった。以下に、その時の保存していた文章を起こしてみる。
今、真っ暗な学校の職員室で一時間半余りが経った。終業式の午後5時前、今日3度目の停電があった。しかし、今回の停電は長い。今までは、こんなに長くはなかった。よりによって、暗黒の中、たった独りぼっちで冷え込んできたこの職員室で復旧を待っている。ただ今時刻は午後6時40分。
今日は、朝のすごい暴風雪から始まった。子どもたちは、雨風雪で、ずぶぬれになって登校した。終業式をどうするか考えていたら、今度は停電。職員室にも不安を感じた子どもたちが訴えに来た。集団下校にしよう、終業式会場の体育館には大型ヒーターをつけて行おうということになった。幸い電気も復旧した。
しかし、そのまたすぐあと、終業式開始直前になったら、再停電。式は、そのまま続行。2学期を振り返っての発表をする子どもたちも、マイクは使えない。しっかり聞こえた子には大きな拍手が全校の皆から送られた。
幸い、電気はその後復旧した。しかし、今度は、体育館につながる渡り廊下の天井から、バシャバシャと雨漏りが…。これでは集団下校のために、体育館に集まる子どもたちが濡れてしまう。気づいた教員と二人で、シャッターを下ろし、カラーコーンとバーで通行止めの標示をした。
さあ、もうすぐ十一時からの集団下校だ。…というところだが、悪天候で帰りを案じた保護者たちの車が何台も狭い駐車場に入って来ている。これでは、集団下校する子どもたちが危ない。
仕方がないから外に出て、自分が交通整理を始める。ところが、濡れないための下のズボンがない!仕方なく、スーツのズボンの上からジャージをはいてしのぐことにした。
校門の車止めを外し、来る車、出る車を誘導する。しかし、顔に当たって痛いほどの風・そして雨、雪が襲ってくる。みるみるうちに、びしょびしょになってしまった。長靴にもしみてきた。上半身だけは、雨合羽。これは丈夫だった。頭の帽子を飛ばされないようにしながら、やっとかさっとか迎えを終えた保護者たちの車が帰っていったのを見送った。
次は、子どもたちの集団下校。町内ごとに子どもたちを帰す。引率する職員たちも大変だ。時折、ものすごい横風が吹く。とても傘などはさせない。
私も、児童クラブに行く子どもたちの引率である。あらかじめ、介助員の皆さんにお願いしてあったが、人手不足なので同行する。それにしてもすごい風だ。風に押されたり風が向かってきたり。時には顔に痛いあられのような雪が…。あまりにつらくて、ついには、何人かの子が泣き出してしまった。その泣き声を聞きながらも、泣いていたって風はやんでくれないよ、もうすぐだからと励まして、児童クラブのある建物まで連れて行く。途中の押しボタン信号も、停電で消えている。ついたと思ったが、なかなか信号が変わってくれない。足の長靴の中もグチュグチュになってしまった。寒い。
子どもたちを送り届けた後、職場に帰って、ぐしょぐしょのジャージを脱ぐ。ズボンはところどころびしゃびしゃ。靴下は、もう脱ぐしか道はない。年下の職員の厚意により、彼のジャージと靴下一足を借りる。ズボンを脱いではき替える。なんとか助かった。
その後、ズボンは、保健室の暖房機の前に掛けておいて、温風で乾かす。だいぶ乾いてきた頃、クレームを付けてきた保護者と、校長室で校長、担任と私で面談。少し生乾きのままのズボンで話を聞き、対応した。
1日大変な最終日だった。懇談を終え、勤務時間終了になったので校長には早く帰ってもらった。職員たちも帰らせ、教頭の仕事として、職員の冬休みの届をチェックしていた5時直前に終わって、やっと帰れると思ったその時、この停電が起こった。
ラジオでも聴きたいと思ったが、どういうわけか乾電池がない。放送が聴けない。
今は、午後7時も過ぎた。孤独な2時間が過ぎ、足元が次第に寒くなってきた。早く回復してくれ~と願う今である。トホホホホ…。
(2005.12.22 孤独な真っ暗な職員室にて)
…この40分後くらいに停電が終わって、やっと帰れた私、約3時間の暗闇の中の孤独であった。
20年近くたった今も、強烈な思い出として残っている。