ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

思い出す、サンザンだった2005年終業式、新潟大停電の日…

2024-12-24 20:55:36 | 「育」業

当地の周辺では、今日が終業式という学校も多かったようだ。

2学期の終業式と言えば、2005年のその日に起こった新潟大停電のことが忘れられない。

私は、その当時教頭だったが、たった一人で暗黒を味わっていたことが忘れられない。

そのときは、気を紛らわせようと、自分のノートパソコンに文章を打っていたのだった。以下に、その時の保存していた文章を起こしてみる。

 

今、真っ暗な学校の職員室で一時間半余りが経った。終業式の午後5時前、今日3度目の停電があった。しかし、今回の停電は長い。今までは、こんなに長くはなかった。よりによって、暗黒の中、たった独りぼっちで冷え込んできたこの職員室で復旧を待っている。ただ今時刻は午後6時40分。

今日は、朝のすごい暴風雪から始まった。子どもたちは、雨風雪で、ずぶぬれになって登校した。終業式をどうするか考えていたら、今度は停電。職員室にも不安を感じた子どもたちが訴えに来た。集団下校にしよう、終業式会場の体育館には大型ヒーターをつけて行おうということになった。幸い電気も復旧した。

しかし、そのまたすぐあと、終業式開始直前になったら、再停電。式は、そのまま続行。2学期を振り返っての発表をする子どもたちも、マイクは使えない。しっかり聞こえた子には大きな拍手が全校の皆から送られた。

幸い、電気はその後復旧した。しかし、今度は、体育館につながる渡り廊下の天井から、バシャバシャと雨漏りが…。これでは集団下校のために、体育館に集まる子どもたちが濡れてしまう。気づいた教員と二人で、シャッターを下ろし、カラーコーンとバーで通行止めの標示をした。

さあ、もうすぐ十一時からの集団下校だ。…というところだが、悪天候で帰りを案じた保護者たちの車が何台も狭い駐車場に入って来ている。これでは、集団下校する子どもたちが危ない。

仕方がないから外に出て、自分が交通整理を始める。ところが、濡れないための下のズボンがない!仕方なく、スーツのズボンの上からジャージをはいてしのぐことにした。

校門の車止めを外し、来る車、出る車を誘導する。しかし、顔に当たって痛いほどの風・そして雨、雪が襲ってくる。みるみるうちに、びしょびしょになってしまった。長靴にもしみてきた。上半身だけは、雨合羽。これは丈夫だった。頭の帽子を飛ばされないようにしながら、やっとかさっとか迎えを終えた保護者たちの車が帰っていったのを見送った。

次は、子どもたちの集団下校。町内ごとに子どもたちを帰す。引率する職員たちも大変だ。時折、ものすごい横風が吹く。とても傘などはさせない。

私も、児童クラブに行く子どもたちの引率である。あらかじめ、介助員の皆さんにお願いしてあったが、人手不足なので同行する。それにしてもすごい風だ。風に押されたり風が向かってきたり。時には顔に痛いあられのような雪が…。あまりにつらくて、ついには、何人かの子が泣き出してしまった。その泣き声を聞きながらも、泣いていたって風はやんでくれないよ、もうすぐだからと励まして、児童クラブのある建物まで連れて行く。途中の押しボタン信号も、停電で消えている。ついたと思ったが、なかなか信号が変わってくれない。足の長靴の中もグチュグチュになってしまった。寒い。

 子どもたちを送り届けた後、職場に帰って、ぐしょぐしょのジャージを脱ぐ。ズボンはところどころびしゃびしゃ。靴下は、もう脱ぐしか道はない。年下の職員の厚意により、彼のジャージと靴下一足を借りる。ズボンを脱いではき替える。なんとか助かった。

 その後、ズボンは、保健室の暖房機の前に掛けておいて、温風で乾かす。だいぶ乾いてきた頃、クレームを付けてきた保護者と、校長室で校長、担任と私で面談。少し生乾きのままのズボンで話を聞き、対応した。

 1日大変な最終日だった。懇談を終え、勤務時間終了になったので校長には早く帰ってもらった。職員たちも帰らせ、教頭の仕事として、職員の冬休みの届をチェックしていた5時直前に終わって、やっと帰れると思ったその時、この停電が起こった。

ラジオでも聴きたいと思ったが、どういうわけか乾電池がない。放送が聴けない。

 今は、午後7時も過ぎた。孤独な2時間が過ぎ、足元が次第に寒くなってきた。早く回復してくれ~と願う今である。トホホホホ…。 

                                         (2005.12.22 孤独な真っ暗な職員室にて)

 

…この40分後くらいに停電が終わって、やっと帰れた私、約3時間の暗闇の中の孤独であった。

20年近くたった今も、強烈な思い出として残っている。

 

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刑法の話をしたことがあった

2024-09-26 17:29:44 | 「育」業

 

 「こども六法」を読んで、かつて現職のときに子どもたちにした話を思い出した。

 いじめなど子ども間に起きるトラブルを、子どもなりに気をつける力をつけてほしいと願ってのものであった。

 以下に、その話を再現してみる。

 

 世の中には、してはいけないことを定めた決まりがあります。

 日本には、「刑法」という法律があり、そこにはしては罪になることが、いろいろ定めてあります。

例えば、窃盗罪、傷害罪、暴行罪、強要罪、名誉棄損罪、侮辱罪など。

 難しい言葉で分かりにくいですね。

 今日は、これらのことについて皆さんに紹介します。

① 窃盗罪…人のものを盗むことです。刑法第204条によれば、10年以下の懲役または50万円以下の罰金と書いてあります。懲役というのは、刑務所に入って重い仕事などをさせられることです。だから、人のものをとった人は、最高10年間刑務所に入れられたり50万円の罰金を取られるということになります。詳しくは裁判で決められます。

② 暴行罪・傷害罪…刑法204条や208条にあります。他の人をなぐったりけったり、暴力で傷つけたりした人は、15年以下の懲役または、50万円以下の罰金です。

③ 脅迫罪・強要罪…刑法第222条や223条にあります。言う通りにしないとなぐるぞとか秘密をばらすぞとか言って、お金や物などを持って来させたり、無理なことをさせたりすること。3年以下の懲役か30万円以下の罰金です。

④ 侮辱罪・名誉棄損罪…刑法第230条・231条にあります。悪口を言って人の心を傷つけた人は、3年以下の懲役または50万円以下の罰金です。

 これらの法律は、大人になると適用されますが、子どもである皆さんにも考えてほしいのです。

 お店のものはもちろんのこと、教室や友だちの家から、友だちの持っているものを持ってきたり、取って隠したりする。これは、窃盗罪にあたります。大人なら、10年の懲役、50万円以下の罰金です。

 気に入らないから、他の人を、はたいたりけったりした。これは、暴行罪や傷害罪です。

 「お前の持っているゲームソフトを貸せよ。貸さないとなぐるぞ。」これは、強要罪です。

 「○○ちゃんって、この頃生意気だよね。かわいくもないのに。」悪口を言うのは、侮辱罪などになりますよね。

 このようなことは、子どもならしてもよいのでしょうか?

 いいえ、よいはずがありません。子どもでも、罪になることはしてはいけないのです。

 子どものうちに、どういうことが罪になるかを知り、してはいけないことはしないような人になっていくことが大切なのです。

 ほかに知ってほしいこととして、刑法第60条に「共同正犯」というのがあります。これは、二人以上で一緒に罪になることをすれば、全員が同じ罪をしたことになるということです。

 また、第61条には、「教唆」というのがあります。「人をそそのかして悪いことをさせれば、させた人も同じ罪になる」ということです。

 だから、罪になることを誰々が先にしたから、直接自分がしたのではないから、と言い訳してもダメなのです。

 また、してはいけないことを他の人がしていたから、自分がやってもいいということにはなりません。

 人間として生きていく限り、してはいけないことがあります。

 してはいけないことはしない。

 私は、皆さんが子どものうちからそれができるように、自分で気をつけて生きていってほしいと願っています。

 

 …こんな話をしてから、もう何年もたつ。

あのときの子どもたちは、ほとんどがもう大人になって生活しているはず。

自分なりにいい人生を送ってくれていることを願う限りだ。

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8年前にしていた話

2024-09-01 21:35:13 | 「育」業

今日は、9月1日日曜日。

今は、8月下旬に夏休みを終えて学校がすでに始まっている所も多いことだろう。

でも、昔と変わらずに8月いっぱいまで夏休みとした学校は、明日9月2日の月曜日から再開となる。

 

今から8年前は、定年退職前最後の1年だった。

何を子どもたちに話していたのかな、と調べてみたら、原稿が見付かった。

今年はパリ五輪だったが、あの夏にはリオデジャネイロ五輪があったのだった。

こんな話をしていた。

 

 今日から2学期が始まります。

 みんなが、今日元気に学校に来てくれたことが一番うれしいです。

 1学期の終業式に、「夏休み中に、生きていなさいよ。死ぬんじゃないぞ。」と、話しましたが、その約束を守ってくれて、本当にありがとう。

 それと、家の人のために、毎日家のお仕事はしましたか?

 夏休みには、みなさんにはいろいろな思い出ができたことでしょう。私は、どこへも旅行に出たりはしませんでした。だから、テレビでリオデジャネイロ五輪を見たことが、一番の思い出になります。日本選手ががんばって、たくさんのメダルを取ったことは大きな喜びでしたが、メダルを取るような人は、ただその種目のスポーツの技だけでなく、心もすばらしいことをたくさん見せてもらいました。

 例えば、柔道では、男子73キロ級で優勝した日本の大野選手です。優勝した後も、大野選手は叫んだりガッツポーズをしたりすることなく、静かに一礼をして会場を去りました。

 「相手を敬おうと思っていた。冷静にきれいな礼もできた。日本の心を見せられる場でもあるので、よく気持ちを抑えられたと思う。」と言っています。つまり、優勝したからと自分だけ喜んで騒ぐのではなく、一緒に戦った相手の負けた気持ちも考え、きちんとお辞儀をしたという訳です。

 もう1つは、体操の個人総合で優勝した内村選手と2位になったオレグ選手のことです。最後の鉄棒の種目で、内村選手は難しい技を次々に決めて、逆転しました。2位になったウクライナという国のオレグ選手は、ほんの少しの差で、内村選手に負けてしまいました。

 その後、他の国の取材をする人からのインタビューで、「内村選手は、審判にひいきされているのじゃないか。」という質問がありました。その質問に、2位になったオレグ選手は、「審判が点数をつけるということは、フェアで神聖なものだとみんなが知っています。内村選手は、いつも高い点数を取ってきています。彼は世界で一番かっこいい人物だと思います。僕はこれからも一緒に内村選手と競技をしていきたい」と答えています。内村選手は、「今日はとてもすごい戦いを見せられたと思う。次に戦ったら、オレグ選手にはかなわないかもしれない。でも、これからも一緒に体操の面白さ・すごさを伝えていきたい。」と話しています。

 こんなふうに、一流のすごい技や戦いぶりを見せられる選手たちは、自分だけでなく一緒に戦う相手の人をも大切にできるのだな、と感心しました。

 皆さんにも、行事でも、勉強でも、ふだんの生活でも、自分のめあてに向かって、あきらめずにがんばって、自分の力を高めていってほしいと思います。そして、周りの人や他の人たちをも大切にして、お互いの力を高めていってほしいと思います。2学期は、学習発表会や児童会祭りなど、自分ががんばり周りのみんなと取り組むことがたくさん予定されています。

 自分も、他の人も大切にして、力を合わせてがんばり、楽しく力をつけていく2学期にしましょう。

 

…こんな話をしていたようだ。

夏休みが終わると、学校に行きたくない子が増える、ということを扱うワイドショーなども多い。

どうか再開した学校生活が楽しい毎日でありますように。

 

 

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片手手放しより、両手手放しの方が、もっと難かしい

2024-07-18 19:38:32 | 「育」業

ひと月余り前に、電子ピアノとお別れしたことをここに載せた。

 

さようなら、YP―10 - ON  MY  WAY

長年一緒に過ごした(?)、電子ピアノとお別れした。ここ10年ほどは、娘のリハビリ用に使っていた。指を動かすことは、脳の働きを活性化させるのによいという考えからだった...

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その際、結局ピアノが弾けないままだったことを書いた。

まあ、できるようになるといいなと思って、練習用に電子ピアノを買いはしたのだったが。

職業上、弾けないということは致命的(?)かとも思えたのだが、それも個性の一つ、くらいの割り切り方ができていた。

「ピアノが弾けなくても、恥じることはない」ということを教わっていたからだ。

しかも、それは、音楽専門の大学の先生から学んだのだった。

 

私は、出身大学で中学校・高校教諭の免状を取得していたが、小学校教諭の免状はもっていなかった。

それを取得したのは、通信教育によってであった。

玉川大学の通信教育部で、単位を取得するために、夏は4週間のスクーリングに通ったことがあった。

スクーリングには、全国各地から教員を目指す若者が集まってきていた。

その若者たちには、すでに教員として働きながら、このスクーリングに参加している者たちも多くいた。

私が受講した1つに「音楽教育」があったのだが、その担当の先生が小宮路敏先生であった。

小宮路先生の代表的な曲には、「歩いてゆこう」(きくよしひろ作詞、小宮路敏作曲)がある。

音楽の教科書でも見た先生の音楽は、音楽の教科書にはないような楽しい曲もいっぱい教えてもらったし、それをみんなで歌うことが何より楽しかった。

 

ある時、小宮路先生は、スクーリング生たちに聞いた。

「今、もう現場の学校で先生として勤めている人も多いと思いますが、手を挙げてください。」

「(挙手している数を確かめながら)ああ、たくさんいますね。毎日大変でしょう。がんばってくださいね。」

そう言って、以前スクーリングに来た方の話をしてくださった。

 

その彼もね、小学校の代用教員の先生として、すでに働いていたのです。

いちおう彼をA先生と呼ぶことにしましょう。

A先生はピアノが弾けなかったのです。だけど、音楽の授業をするために、一生懸命ピアノの練習をしたんですよ。

でも、いっぱい練習したのだけど、どうがんばっても両手でうまく弾けない。

仕方がないので、音楽の時間は、片手でメロディーを弾いて授業をすることにしたのだそうです。

がんばって音楽の授業をしていたのですけど、ある子どもが先生の手元を見て、大発見をしたように叫んだのです。

「あ~っ、先生、ピアノ片手でしか弾けないんだ!」

さあ、困ったことになったわけですね。

でもね、A先生は、困ったなと思いながら、困った顔を見せずにこう言ったそうです。

「うん、そうだよ。片手なんだ。片手運転なんだけど、みんなだって自転車に乗る時、両手より片手手放し運転の方が難しいでしょ。」

「そうだね、先生。片手手放しで自転車に乗る方が難しいよ。」

「でしょう。だから、音楽の授業も片手でやる方がすごいんだよ。」

A先生が子どもたちにそう言うと、うなずく子どもたちが多かったそうです。

A先生が、よし、と思っていたら、子どもから次のような声が上がりました。

「でも、先生。片手手放し運転より、両手手放しの方が、もっと難かしいよ。」

「そうか、そうだね。じゃあ、これからの音楽は、ピアノなし。両手手放しでやろう!」

先生がそう言うと、歓声が上がり、その後の音楽は大盛り上がりだったということです。

A先生、正式に採用されていない先生なのに、すばらしいですよね。

そう。ピアノやオルガンを弾けなくても、音楽の授業はできるのです。

 

…音楽の達人、小宮路先生から聞いたこの話が、現職だった40年間、私の支えになった。

音楽の授業はピアノが弾けないといけないという、私の固定観念を打ち砕き、コンプレックスから解放してくれるものとなったのだった。

 

あれから40余年、先日ふと、小宮路敏先生のことが気になって、調べてみた。

 

小宮路 敏(こみやじ さとし、1936年(昭和11年)1月8日 - 2018年(平成30年)11月14日)は、昭和・平成時代に活動した日本の教育者、作曲家。

玉川学園小学部教諭、玉川大学講師。元文部科学省認定小学校音楽教科書編集委員。名前は「こみやじ びん」と音読みで呼ばれることが多かった。

 

ウイキペディアには、こう書かれてあった。

そうか、6年前に亡くなられていたのか…。

 

44年前の夏に聞いた話、ずっと忘れずに生きて来ました。

あの話は、本当に大きな心の支えになりました。

ありがとうございました。

合掌。

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今年最大の出会いは

2023-12-30 21:25:14 | 「育」業

まもなくあと1日で、2023年が終わる。

退職してから、世間との接点が少なくなっている(?)私だが、それでも素晴らしい人間性に触れる機会があったことをうれしく思っている。

 

なかでも、今年最大の出会いは5月に再会したKO君のことだ。

KO君は、とても立派な料理人&経営者になっていた。

そのことは、5月にここに書いたとおりだ。

 

40年余り前の教え子たち3人と再会、今は同じ実年世代 - ON  MY  WAY

3月、「天上のT君がいたずらして、K君に会わせてくれたのだろうか!?」という記事を書いたことがあった。天上のT君がいたずらして、K君に会わせてくれたのだろうか!?-ON...

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後日談がある。

 

訪ねて数日後、KO君からメールが届いた。

そのメールのやりとりで、KO君の素晴らしい人間性に触れることができた。

最初に届いたメール一部には、次のように書かれていた。

正直、自分の思うようにはなりません。世の中、正義が必ずしも勝つという訳には行かない日本になってしまっています。人を信用出来ない世の中がつらい時もありました。しかし、自分は人を信じて生きて行きたいし、騙すより騙された方が良いです。

 

彼の、「自分は人を信じて生きて行きたいし、騙すより騙された方が良い」と言い切れるそのしっかりとした信念は、人として最も大切なものだろう。

自らの力で、いい人生を生きているなあと思った。

「育」業にかかわっていた私の信条は、「自分で考え判断し行動できる人を育てる」であったことを挙げ、時を経て、まさにそういう人になっているKO君の生き方に感銘を受けた。

そのことを書いて、返信メールを送った。

 

すると、さらに長文の再返信メールが彼から届いた。

「自分で考え判断し行動できる人を育てる」

この言葉は、衝撃を受けました。まさにこの言葉をアルバイトさんに教育しています。欲しいと思った物はほとんど手に入ってしまいます。しかし、有るのが当たり前ではないのです。誰かに助けられてる?して頂いているから?生きていけているのだと思ってます。

中国に1年半程仕事で行った時が有りましたが、中国の人たちは何事にも貪欲で「知りたい!学びたい!稼ぎたい!」それをものすごく感じました。

今の日本の若い人達は、用意されている事が当たり前になってしまっているように感じます。

成功するには、自分で考え判断し、行動し、修正し、結果が見えてから、どうするのか?

何よりも気付く事が一番大事な事だと思います。

 

自分は、前職で大変な労働環境で働いてました。年間20日以下くらいの休みしか取れず、退職する前の5年間ほどは、9時~深夜12時までのほぼ休憩なしで1月1日の正月のみの年間1日しか休みがない状態でした。

その25年間の間に経営者の車は良くなり、家は良くなり、外向けには業者さん優良会社に思われ、7店舗まで店舗は増えましたが、働く人達はまともな報酬は貰えずでした。優秀な人達は退職してしまい、残された人達が可哀想に思い退職まで踏み切れませんでした。会社のNo.2にも自然になりました。

しかし、売上も伸びなくなってきてから、悪いことは自分の責任にされ、自分達が企画成功させた事は、まるで自分がしたかのようにする経営者になり、コロナが流行し出した時に経営者の化けの皮が剥がれたのを目の辺りにし、絶望感を感じ退職に至りました。

正直、憎さ半分・感謝半分です。このような事を体験しなければ、今の自分はないと思いますし何事も行動した事には無駄はなかったのだと思います。行動しなければ結果は見えないです。

 

先生の教育信念は、知らないうちに先生の信念には劣るとは思いますが、しっかりと引き継がれているのかなぁ?って、思わされました。

この度は、良い再会ができて良かったですし、良い確認をさせて頂きました。

人に感謝し、一期一会、少しでも人の役に立つ、の精神で生きて行きたいと思っています。

また、いつか会える日を楽しみにしております。

本当に有り難うございました。

 

…「本当にありがとうございました」と言いたいのは、こちらの方であった。

小学校の大切な3年間を、かつて青二才であった私に教わったために、損をしたことは多々あったことだろう。

あの頃を思うと、本当に恥ずかしくなってしまう。

でも、そんな彼の少年時代にかかわれたことが、改めて誇らしくも思えた。

今では50代となり、すばらしい人間性を備えて生きているKO君。

今や私の方が、深く学ばせてもらうようになったのだと、感慨深かった。

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40年前の、1枚の紙モノ

2023-11-28 21:10:32 | 「育」業

昨日、紙モノ整理についての本について書いた。

実は、紙モノ整理は、途中までは、やっていた。

なかなか捨てきれずにいた紙モノが、去年の夏、集中豪雨での出水によって濡れてしまったものがいろいろあったのだ。

夏の熱い陽射しで乾かしたりしたのだが、色やにおいがついてしまったので、捨てざるを得ないなと思ったのだ。

特に、新採用として勤務した3年間のものは、だいぶ捨てたが、手放すには惜しいなと思ってしまい、いくらかスキャナで取り込んだのだった。

ただ、あまりにその量が多すぎて、途中で挫折していたのである。

 

なりわいの「育」業でかかわった,あの当時のT君やK君たち。

 

天上のT君がいたずらして、K君に会わせてくれたのだろうか!? - ON  MY  WAY

先日、新潟ハーフマラソンを走り終えてから、行きたいところがあった。この時期は彼岸の期間に当たっていたからだ。行きたい場所は、今年の初めに訃報が届いたT君の家だ。...

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彼らを思い出す当時の資料がいろいろとあった。

この紙モノ1枚だけを紹介しておく。

デザイン化して絵で描いた時間表を配ったのだった。

あの当時は、土曜日も午前中限りの3時間の授業があったっけ。

 

どの絵が、どの教科を示すか、分かるでしょう?

たぶん、主要教科の国語、算数、理科、社会、音楽、図画工作、家庭、体育などはすぐに分かるでしょう。

委員会活動やクラブ活動の時間も分かるでしょう。

道徳は、あの頃、道徳のテレビを見るということを多くの学級でしていた時代であった。

だから、TVの絵がついている。

手を挙げて意見を言おうというのが、学級会の時間だ。

「?学」と書いてあるのは、学級で自由に勉強に使うことをしていたが、算数が多かったかな?

「浜」と書かれたのは、児童会的な行事の時間だったかな。

 

それにしても、下手な文字だ。

あの当時は、手書きが普通だったので、文字が下手でも隠しようがなかった。

でも、こんなふうに工夫しながら、思いを込めながら、毎日「育」業に向き合っていたのだった。

今からちょうど40年前のことだった。

「光陰矢の如し」だなあ…。

 

…と、一つ一つ見ながら思いにふけるから、片付けや整理は進まない私なのである。

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40年余り前の教え子たち3人と再会、今は同じ実年世代

2023-05-29 19:55:05 | 「育」業

3月、「天上のT君がいたずらして、K君に会わせてくれたのだろうか!?」という記事を書いたことがあった。

 

天上のT君がいたずらして、K君に会わせてくれたのだろうか!? - ON  MY  WAY

先日、新潟ハーフマラソンを走り終えてから、行きたいところがあった。この時期は彼岸の期間に当たっていたからだ。行きたい場所は、今年の初めに訃報が届いたT君の家だ。...

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そのとき会ったK君から、その後連絡があった。

T君やK君と同級生だったKO君が、2年ほど前から現在私が住んでいる街で料理など食べ物を提供する店を経営しているとのこと。

そんなことは、全然知らなかった。

「今度、そこへ一緒に行ってみませんか?」

という誘いだった。

同級生の女性KEさんにも声をかけ、伴って来るという。

 

先日、それを叶える日がやって来た。

 

彼らと初めて出会ったときに、私と彼らは、24歳と9歳だった。

当時、この年齢差は、大きなものがあった。

15歳という年齢差、まさに、大人と子ども。

教師と小学生。

24歳で新採用教員となった私と、小学校4年生の彼らであった。

 

それから3年間、彼らと私は互いにかかわり合う時代を過ごした。

単純に思い出と呼ぶにはあまりにも軽すぎる。

私にとって、人生で非常に濃い時間となったのであった。

 

その3年間、私と彼らには、やはり大人と子どもの大きな違いがあった。

それが、60代と50代で再会してみると、大した差を感じない。

42年経った今、私は66歳で、彼らは51歳である。

当たり前だ。

同じ大人であるし、同じ「実年世代」という枠でくくれるのである。

彼らだって結婚して子どももいる。

それどころか、会って話してみたら、女性のKEさんは、「おばあちゃん」になっているとか。

私は「おじいちゃん」にはなれていないので、越えられている感じすらする。

40年余りの年月は、互いの立場を大きく変えていた。

 

K君、KEさんと私の3人で、KO君の店に行って、少し遅いランチをいただいた。

ランチをいただきながら、昔のことを中心にいろいろと話をした。

ランチは、さすがにおいしかった。

この店は、若い女性を中心に人気がある。

K君いわく、予約しないと席が確保できないので、前もって予約したとのこと。

つまり、人気の流行店なのだ。

 

食事後しばらくして、KO君と会って話すことができた。

40年余り前は、スポーツが大好きで、当時巨人のストッパーだった角三男投手の投球フォームをよく真似ていた少年だったKO君。

彼は、すっかり立派な料理人、職人という雰囲気を醸し出していた。

だが、2年ほど前にこの店を開いたときには、感染症禍だったために、不安でいっぱいだったという。

幸い今はこうして、話しているときも客がひけるときはない人気がある店の経営者である。

彼の成功を心から祝福した。

そう言いながら、何も準備していかなかった私に、帰るときKO君はスイーツの入った箱を持たせてくれた。

この店の共同経営者は、様々な新作スイーツづくりに取り組んでいる。

それがまた、この店の人気を高めている。

お土産までもらって申し訳ない、恐縮至極。

 

K君、KEさん、そしてKO君。

彼らが現在、自分の人生をしっかり生きていることが確認できた。

いい刺激となった。

近ごろは自分が老年世代に入っているとばかり考えていたが、私も、まだ彼らと同じ実年世代なのだということを意識して、元気で生きていたいと思ったよ。かつては彼らを教える身だったけど、今は彼らに教わるような思いがした。

ありがとう、素敵な再会だったよ。

またいつか、元気で会いましょう!

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最もうれしいのはしっかり今を生きているということがわかること、だが正反対の報せも届いてしまった…

2023-01-11 20:47:56 | 「育」業
今朝、2年前にかかわりのあった子が、その後もしっかり成長しているのがわかる情報があった。
何回かここで書いてきたが、「育」業を生業としてきた私にとって、最もうれしいのが、別れて以降しっかり今を生きているということがわかることである。
あの頃も自分なりの考えをしっかり持って行動していたその子が、着実に人生を前に進んでいるのがわかったのは、非常に大きい喜びであった。

ところが、今夕思いがけない電話がかかってきた。
去年、久しぶりに電話で声を聞いたT君の父君からであった。
「年賀状をいただいたけれども、今日が命日なので電話したのです」
という声だった。
えっ、えっ、えっ…???
今日が命日?
命日って、亡くなったってこと?
あのしっかりした体のT君が?
まさか?

彼は、しばらく私のFacebookを見て、めったに投稿しない私だったけれども、ことあるごとに、「いいね」のサインは押してくれていたのだった。
夏ごろまで間違いなく、反応してくれていたはずだった。
ただ、去年の12月の彼の誕生日に、「おめでとう」と投稿したが、私のそれにも他の人の投稿にも、何の反応もなかったことは確かだった。
どうしたかな?とは思ってはいた。
それが、…命日?

命日と言っても、もちろん今日ではなかったはずだ。
電話に、「命日とのことですが、いつ亡くなられたのですか?」
と聞くと、どうやら去年の夏だったらしい。
電話でもう少し話を聞きたかったが、父君もあまり語りたくないようで、話の終わりを急いでいるのが感じられ、とても突っ込んでは聞けなかった。

11か月前に、23、24年ぶりに話ができて、しかも私の誕生日に花束まで送ってくれたT君だった。
「自ら省みて縮(なお)くんば 一千万人といえども我いかん 」
という自分の生き様の信条を教えてくれた彼だったのに、いったいどうしたというのだろう?

50歳を生きるT君と話したのは、23,24年ぶり - ON  MY  WAY

T君。電話ではあったが、彼と話したのは、何年ぶりだろうか。たぶん、23,4年たっていると思う。その時会ったのは、彼らが20代後半の時で、同級会だったはず。その5年後くら...

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「育」業を生業としてきた私にとって、最もうれしいのが、別れて以降しっかり今を生きているのがわかるということ、と先ほど書いた。
今回のことは、その逆で、もっとも悲しいことである。
かかわってくれた教え子たちには、齢をとって年長な私より、誰一人早くこの世を去ってほしくないのだ。
このような悲しみを味わうのは、御免こうむりたい。

T君がどのように逝去したのかは、まだわからない。
だが、もうこの世にいないことは事実なのだ。
とても残念だ。
心から彼の冥福を祈りたい。


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30年余り前の教え子たちの同級会

2023-01-04 19:26:46 | 「育」業
かつての教え子、I氏たちの年齢は、43歳。
先月、今東京に住んでいるはずのI氏からメールが入った。
正月に地元でプチ同級会をするから来てくれないかというものだった。
行動制限がなくなったとはいえ、まだ感染症禍であることから悩んだが、めったにない機会なので、感染が急拡大しなければという条件付きでOKの返事をした。
ワクチン接種から1週間後ということもあり、十分気をつけながら出席することにした。

I氏たちの代の子どもたちである彼らに関わっていたのは、もう30年を超える昔のこと。
彼らは、小学校5,6年生だった。
私がまだ33歳の頃に出会った子どもたちであった。
2年間の担任生活の間、もちろん本気になって「育」業生活に取り組んだ。

だが、それまで10年近くも教師生活を送っていたというのに、2年目の後半には、自分自身に指導力不足を痛感する日々となった。
別に子どもたちが学級崩壊状態になった訳ではない。
ただ、教師としての自分の思いが子どもたちに十分通じない、ということを感じて悩んでいたのだった。
何度同じ注意を受けても改善されないなどということがあったり、避難訓練ではいらないおしゃべりをする、真剣味がない姿を見せられたりした。
その頃の私は、当時のテレビの「金八先生」のように、熱心に働きかければ、きっと道は開けると思ってがんばっているのに、なぜ思いが伝わらない?と、思い悩むばかりだった。

あるとき、その原因は、子どもたちではなく私にあることがわかった。
私は、正論で子どもたちに相対し、自分の思いを伝えようと一生懸命になるのだが、それがよくなかったと気付けたのである。
こちらの思いは伝えようとするが、子どもたちの思いを十分に聴こうとしていなかったのである。
子どもたちの言い分に対する耳の傾け方が足りないから、教師の上からの言葉を素直に飲み込んでくれなかったのである。
一方的に教師の価値観を押し付ける指導ではなく、子ども自身がその価値観に気付くようにしていくことこそ重要だと気付いたのだ。
それ以降は、私の子どもたちへの働きかけ方も大きく変えることができた。
「育」業で本当に大切なことに、ようやく気付けたのかもしれなかった。

そう考えると、この代の子どもたちは、私の愚かさと子どもの側に立つ大切さを教えてくれた子どもたちだったと言えるのだ。

会場では、大人として充実期を迎えた12人と会うことができた。
参加を予定していたもう1人が、家庭内に感染者が出たので大事をとって当日キャンセルになったのは、今の時代を表している。
幹事を務めてくれたI氏は、この会にともに出席したもう一人と東京で飲んだ際に、小学校時代の同級会をしたいねという話になり、それを実現させようと考えたのだそうだ。
そこから、LINEを駆使して呼びかけ合い、この日の会にこぎつけたということだった。
さすが、今風だと思った。
会場も、東京とは離れているので、ネットでやっている店を探し、口コミを見るなどして決めたというあたりも、さすがであった。

席上、小6当時の野球の試合で、タッチアップを怠って先取点が取れずに負けた話や、別の先生に教わる理科の時間に手いたずらして、アルコールランプをひっくり返して火災報知機を鳴らした話など、昔の話題にも花が咲いた。



また、現在の家族の話が多くなるのも、40代前半の彼ららしい内容だった。
特に、子どもの心配をするのは、昔の彼らを知っている身としては、非常に微笑ましく思った。



30年余りたってみんな大人になり、社会人・家庭人として立派に今を生きている姿を見ることができた。

私にとって、あのころの「育」業の信条は、「自分で考え、判断して、たくましく生きていく人を育てる」ことだった。
その目指していた姿が、目の前にあった。
一人一人が輝いて見えた。

短く楽しい時間が、あっという間に過ぎた。



次の会への誘いも受けたが、そこは若い人たちに気兼ねなく過ごしてほしいから、辞去することにした。
店の外に出て、こんな時期だから一人一人と握手ではなくグータッチを交わした。
私なりの激励と別れのあいさつのつもり。
高齢者となってみると、このような会はいつまでできるか、分からないと思ったりする。

今はもう、皆さんが支える時代になっている。
これからも、がんばって生きておくれ。
皆さんの幸せをいつも祈っているからね。
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「人権の日」に子ども時代をからめて

2022-12-10 22:12:36 | 「育」業
そうか、今日12月10日は、「世界人権デー」か。
1948年12月10日に「世界人権宣言」が第3回国連総会で採択されたのを記念してできた日だという。 世界各国で人権にまつわる行事が行われるのだそうだ。

50年以上前の自分の少年時代に比べると、人権に対する意識はずいぶん大きくなったものだと思う。
かつて仕事をしていたとき、大勢の子どもたちを前に、自分が子どものころにつらい経験をしたことについて話すことによって、考えてもらいたかったのだった。
少し恥ずかしいが、その話のうちの一つを載せておくことにする。

ああ、またいやな月曜日だ。学校に行きたくない。行けば、またクラスのボスのAやその周りの奴らに、はたかれたり悪口を言われたりして、いじめられる…。
同じクラスの気が短くてケンカの強いAのことは、皆が恐れていました。
Aは、音楽の授業がきらいでした。だから、音楽の時間の前には、「音楽の時間になったら、授業中に騒いで先生を怒らせて、少しでも音楽の授業ができないようにしろ。」と、毎回いろいろな人に言いつけていました。
また、放課後も、「オレはチョコレートが食いたいから、店から盗んで来い。」と何人かに命令して、店の人の目を盗んで取って来させたりもしていました。
クラスの男子たちは、こんなふうに勝手なことを言うAに逆らえずにいました。もし、反対したら、殴られたり蹴られたりするからです。だから、Aが怒って、Aになぐられたりけられたりしないように、Aのご機嫌取りをしている男子ばかりでした。
Aには逆らえないでいやな思いをしている人は、自然と自分より弱い人に八つ当たりするようになって、自分より弱い者をいじめるようになります。力の強い人から順番に、弱い人へ弱い人へと暴力や悪口は広がっていきました。その一番弱い人の先に私がいました。私は、いつもいじめられていたのです。ほとんどの男子が、私を何か理由を付けて、攻撃してきました。
私は、今でこそこうして体が大きくて丈夫になりましたが、小学生の頃は、よく熱を出したり病気になったりして、とてもひ弱でした。体が弱いので、スポーツもうまくできません。周りの子たちは、何か理由を付けて、攻撃してくるのです。スポーツができないと、そのことを馬鹿にされます。けんかなんか、もちろん一番弱かったです。だから、私にわざと強くぶつかってきたりはたいたりする奴もいました。そして、「バーカ。悔しかったら、かかってこい。」などと言ったりするのです。我慢しきれなくなってかかっていったこともありましたが、いつももっとひどくはたかれたり蹴られたりしたので、私は、我慢し続けて、相手にしないようにしていました。
 相手にしないようにしていても、毎日毎日いやなことを言われたり、暴力を受けたりしていました。だから、本当に学校に行くのがいやでした。
いじめられていることを、家の人にも言わずにいました。泣いて帰った時、父は、「やられたのならやり返して来い。」と言って、外に私を出したことがありました。父は、私にもっと強い人になってほしかったのです。でも、私には、それができませんでした。母は、いつも本当に心配してくれました。だから、逆にあんまり心配かけてはいけない、と思うようになりました。だから、父にも母にも心配をかけたくないので、学校でいやなことがあっても、毎日がまんして過ごしていたのです。
ただ、いやなことやいやなやつらに負けてたまるか、とだけは、心に強く思っていました。
こんなにつらい小学校の頃でしたが、私の気持ちを救ってくれていたのは、たった一人の友だち、B君でした。B君は、
「Aの周りにいる奴らは、Aのことが怖いからぼくたちをいじめてるんだ。Aにやられていやな思いをしているから、それよりも弱いぼくたちを攻撃してくるんだ。ボクらは、音楽の時間に騒げとかチョコレートを盗んで来い、と言われても、やらないよね。だから、泣かされたりするんだけど、本当の弱虫は、AやAの言いなりになって悪いことをしたり、ボクたちをいじめたりする奴らだよ。」
とよく言って、いじめられる私を勇気づけ、励ましてくれました。
 一緒に遊んでくれ、励ましてくれるB君がいたから、私は、完全にひとりぼっちにならずに、生きてこられたのだと、今になって思っています。
 皆さんのまわりには、ひとりぼっちで困っている子はいませんか?
 まさか、理由を付けて、だれかを困らせようとしたりしていないでしょうね。
あの子はいやな子だから困らせてやろう、と考えていやなことをしたりしていないでしょうね。人の体や心を傷つけて喜んでいる人は、人間の気持ちがなくなっていきます。
 
小学校時代の私が6年生の時、隣のクラスの先生が、私がいじめにあっていることに気付いてくれました。学校で保護者会が開かれたりして、大きな問題になりました。
父も、「強くなれ」とは言わなくなり、母も、なぜ今まで言わなかったのだと言って、本当に心配してくれました。校長先生や町の教育委員会にかけ合って、今までのクラスの友だちと別れて、私が別な中学校に行けるように努力してくれました。
その時、分かりました。親は、本当に子どものことを心配しているのだと。だから、本当につらいいじめなどは、相談してよいのだということを。
小学校時代のみんなと別れて行った中学校でも、よいことばかりではありませんでした。いやなことを言う奴ももちろんいました。反対に、自分が言ったことやしたことでも、他の人の心を傷つけてしまったことも、ありました。
こんなふうに、小学校時代にいじめられ、いやな思いをたくさんしてきた私が、皆さんに、今伝えたいことをもう一度、言います。
・ 自分と人の、命と心を大切にしよう。
・ いやなことに負けるな。強い人じゃなくてもいいから、生き続けよう。
・ B君のように、ほかの人を元気にできる人になってほしい。
皆さんが、自分のことも人のことも大事にできる人として成長していってくれることを、私は、いつもいつもずうっと願っていますからね。

人権という言葉など、子どもの間に存在しなかった(?)私の小学校時代。
だからこそその大切さを知ったのだった。
現代は、大きく変わったなあ…と感慨に浸りながら思うのである。
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