ON  MY  WAY

60代になっても、迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされながら、生きている日々を綴ります。

春の花見で体調不良を吹き飛ばす

2014-04-28 21:12:42 | 草木花
娘が転院してから今日で6日目。
病棟に入院しているのは、ほとんどが高齢者である。
娘の若さは、ひときわ際立っている。(!?)
4人部屋であるが、すべて高齢女性ばかりであることは、以前の病院と変わらない。
ただ違うのは、真向いの入院者たちが、前の病院とは違って、寝てばかりではないことである。
日曜日こそないが、土曜日もOT,PT,STと、何らかのリハビリが行われている。
転院による動揺がなければよいが、と懸念していたが、幸い何事もなくスムーズに新しい生活に入っているようだ。
最初に面談で伝えたことがさっそく実現していた。
室札の下に、ガチャピンの絵が飾られていた。
洗面室まで直線距離とはいえ、廊下を歩いて少し遠いのだが、自力で行き来ができているようだ。
順調な転院後の生活を、まずは何よりのことだと思っている。

反対に、私自身の体調は、絶不調である。
右ふくらはぎ痛、左腰骨痛に加え、先週は、夜寝ているときに寝返りを打ったら、ズキンと腰痛に襲われた。
久々の腰痛である。
そこに、頸椎の不良から来るのだろう、右首痛。
あげくは、のどの痛みが出てきて、風邪?
娘のことに加え、職場での人の出入りの多さに伴う、仕事量や気遣いの機会の増大。
体の不調に精神的なストレスがたまったのだろうか。
疲労がどっと出て来て、この土日は、かなりグッタリの状況であった。

気分転換を図りたくて日曜日の昼下がり、病院の娘に会いに行った妻が帰ってきてから、少し市内の山の方に向かって、車を走らせ、野草の花見に出かけた。
少しでも花見を行い、気分を改善したかったのだ。
今年は、雪が例年より少し少なかったうえ、この1週間は、よく晴れて暖かい日が続いた。
そのせいだろう、見たかったカタクリやミヤマカタバミなどの花々は、もうピークをとっくに過ぎていた。

それでも、咲き残っていたものを見つけては喜び、カメラに収めた。

ほかにも、春の花、エンゴサクやヒトリシズカ、イカリソウ、チゴユリなどを見てきた。

オオイワカガミもそろそろかと思ったが、早いものでまだやっとつぼみが開いたばかりであった。

逆に、イワナシは、もう咲き終わっていた。

だが、水辺でサワオグルマやミツガシワなどを見ることができたのはうれしかった。


昼に飲んだ風邪薬が効いてきたのと、短時間だったがたくさんの春の花々を見たことによって、気分は明らかに上向いた。
よし、今週も、がんばるぞ! と…。



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娘よ(43)~転院~

2014-04-24 23:27:21 | 生き方
週の半ば。
娘の環境に大きな変化があった。
転院である。
リハビリ専門の病院へ。
希望はしたが、転院先の病院から日を告げられたのは、あまりに突然、2日前だった。
だが、娘に経緯を説明すると、娘も、このまま退院するのではなく、少しでもよくなったと思える状態になりたい、ということが願いであることに、うなずいていた。

転院前日。
担当看護師のIさんがあいさつに来てくれたので、ちょっと引き留めて、記念に写真を撮った。
お世話になった。
何せ、入院してから約11か月である。
この病院では異例の長さの入院期間である。
娘と写真を撮った後、Iさんは言った。

「あなたのおかげで、私も変わることができたの。
 あなたは、いつも私を笑顔で迎えてくれた。
 だから、私も笑顔になれたの。
 あなたのように、笑顔でいられるようになりたいって思ったの。
 あなたから、教えてもらったんだよ、笑顔の大切さを。」

…言葉は多少違うかもしれないが、Iさんはこのような意味のことを、娘に対して語ってくれていた。

娘も大泣きであった。
Iさんの言葉が、どれだけ娘に入るかわからないが、もともとは感情にもろい娘である。
2人で涙をいっぱい流し合っていた。
娘の方が大泣きであったが、もらい泣きするような看護師のIさんに、涙をこぼしながらティッシュを差し出す娘のしぐさに、Iさんも見ている私たちも、笑い泣きであった。

その後は、さっぱりした性格だが仕事は確実なEさんが、薬を届けながら、顔を出してくれた。
「元気でね。」
と、手を振りながら言うEさんに、
「Eさんもね。」
と、手を振りながら答えた娘だった。

この後も、とてもお世話になった別の看護師のОさんとも、別れの時間を惜しんだ。
Оさんは、やはり30分近く娘のところで話してくれた。
娘は、このОさんに心を許していた。
「Оさん、髪の毛、寝ぐせ(がついてる)~。」
などと言いながら、Оさんのマンガ似顔絵はたくさん描いていた。
Оさんは、翌朝は、「明け」である。
娘に会えない。
その分、ハグしてくれたり話をいろいろしてくれたり、娘との最後のよい時間を過ごしてくれた。

ガチャピン。
娘は、ガチャピンが大好きである。
タオルや着ているもの、小さなぬいぐるみなど、ガチャピン・グッズに囲まれて入院生活を送ってきた。
大部屋に移ってから、トイレの方向や自分の部屋の位置がわからなくなる娘のために、看護師さんたちが知恵を絞ってくれたのが、「ガチャピン」であった。

このような掲示物を用意し、娘が迷わないようにしてくれたのである。
ロッカーにも貼ってくれた。

その結果、短期記憶がなくなってしまう娘であっても、ガチャピンを見ると、自分のことだと思い返し、迷うことが少なくなったのであった。
看護師さんたちの、娘をよく知るがゆえの解決策であった。

翌朝、退院の日、担当看護師のIさんからいただいた別れの手紙となったカードには、このようなことが書かれていた。

言葉が、前日のIさんの言葉そのものであった。
また、Iさんはじめ、看護師ではないがちょっとした世話係のAさんなど、たくさんの方が、やはり声をかけてくれていた。

この病棟では、人生の年輪を重ねた方が多い。
娘のような若い女性は珍しい存在であった。
しかも、笑いながら語りかけてくる娘は、たくさんの人に愛されていた。
そのことがよくわかった。
でも、新しい環境で、障害を負った脳の機能を少しでも回復したい。
それが、娘や私たちの共通の願いである。

娘は、言った。
「また、(新しい環境で)仲良くなればいいじゃん。」
なんとポジティブな思考であろうか。
そして、それができるという自信を持っているのだろう、こんな状態になっても。娘は。

そんな娘が、ナースステーションの皆さんに見送られて、病棟を後にした。
2度の外出をしたことも忘れている娘だが、3度目の外出は、こうして退院そして新たな病院への転院なのであった。

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娘よ(42)~2度目の外出そしてこれから

2014-04-19 22:47:46 | 生き方
待望の自宅への一時帰宅ができたというのに、翌日、娘の記憶には家に帰ったことは残っていなかった。
たくさんの看護師さんから、「よかったね。家に帰れて。」と祝いの言葉を次々にもらえたというのに、当の本人は、「あたし、家に帰ったの?」と言うのだから、なんとも…。

入院以来初めての帰宅、11か月ぶりの帰宅、ということで、多少疲れてしまったのかもしれない。
また、病院に戻った直後に、知り合いの方のお見舞いを受けて、感情が高ぶったこともあり、刺激が多かったからかもしれない。
息子と付き添いを交代した後、娘は少し不調を訴え、呂律が回らない、と言ったため、息子が寝るように促したのだそうだ。
たぶんこれはきっと、小発作だったのだろうと考えている。
それでも、その後は、何の不調もなく5日間を過ごした。

今日は、2回目の外出。

今日まで桜は残っていたが、娘の滞在した6時間の間にだいぶ散ってきていた。
家にいる時間を1時間長くして、2度目の帰宅であった。
先日は入院後初めての一時帰宅なので、食べたかったマックのバーガーを買って食べさせたりしたが、今回は、好きなものを食べさせはしなかった。
なぜか!?
それは、娘本人が一番よくわかっている。
― 太り過ぎだ。
平常時と比べると、10kgも多い。
腹回りも、ぽっこりだ。
帰宅して、体重計に乗ると、わかっていたとはいえ、がく然としていた娘であった。
だから、今日の昼食は、カロリーをおさえて、「そば」。

食後、洗い終わった家族4人分の丼が重なってあるのを見るだけでも、本来のわが家はこうだった、と少ししみじみしてしまった。


さて、娘には、今日の帰宅でしたいことがあった。
長い入院で生え際から途中まで完全に黒くなってしまった、髪を染めることである。
本来は、美容院に行きたいのだが、その余裕はない。
昼食後、洗髪し、その後染めていた。

ただし、量が少なかったために、結構まだらな染まり具合であった。
それでも、以前に比べたら、だいぶ明るい色になった髪の毛であった。

外出ができるようになった娘であるが、今後のことが大きな問題となっていた。
近づいてきた退院後のことである。
主治医は、私たちの面談で、在宅、あるいは何らかの形で作業所のようなところでの様子見を提案しようとしていた。
ただ、私は、娘に対するリハビリの継続を望んだ。
徐々にであるが、できることが増えてきている。
退院することによってリハビリが受けられなくなることは、回復の可能性にふたをすることのように思えたのである。
だから、リハビリを専門に行ってくれる病院に転院できないか、という希望を主治医にお願いした。
主治医は、これを快く聞き入れてくれ、リハビリ専門病院への紹介を約束してくれた。
早ければ来週にも転院となるかもしれない。

この話は、娘にも伝えておいた。
娘は、まだ自分の脳の状態の回復が十分でないことはよくわかっている。
だから、この話には同意したが、こうも言った。
「ただ、みんな、お見舞いに来れなくなるね…。」
…そうなのだ。その病院は、わが家からは少し遠いところになる。
毎日会いに行ける訳ではなくなるであろう。
娘は、そのことをしっかりわかっていた。
毎日の記憶がきちんと残らなかったり、物の位置の認識が正しくできていなかったりしていても、こういう判断力はしっかりしているのだ。
そんな娘だから、脳の機能の回復に少しでも可能性が高い道があるのなら、条件をよくしてあげたいのだ。


そんな事情の中、今日の外出が行われた。
特段、何も変わったことは、起こらなかったようだ。
何よりの結果である。
明日は、今日家に帰宅したことを覚えているだろうか…???
まあ、忘れていたとしても、そんなことに一喜一憂する時期はもう過ぎてしまっている。
そう実感している最近である。
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娘よ(41)~外出ー11か月ぶりの自宅滞在ー~

2014-04-13 22:43:28 | 生き方
点滴の外れた娘。
まだまだ娘の認識は、行きつ戻りつのところがあって、忘れてしまうことが多い。
なのに、このままいけば外出はどうだろう、と主治医から言われてびっくりしたのだが、それならば、と日曜日に行うことにした。
何日か前から、妻が娘に外出できることを言い、どんな服を着ていきたいか、何を食べたいか、などを聞いていた。
娘の希望する服を家から持って来て着替えてみると、服がパンパンに張ってしまうほどになっていた。
脳炎の影響と長い入院生活で、歩く足どりもたよりなくなっているから、完全に運動不足になっている。
さらに、入院生活で、毎食完食を心がけている娘。
最近ではおやつの食べ過ぎ(?)もあって、太っていたのだった。
そのことが、本人にとっても苦笑いであった。

11時頃から、行動開始。
着替えた後の娘は、しっかりまつ毛を整えていた。
廊下でその姿を見て、よく知っている何人かの看護師さんに、「気合入っているねえ。」などと言われたが、「行ってらっしゃい」と声をかけてもらい、笑って手を振って応えていた。
エレベーターから、廊下をゆっくり歩き、院外へ。
車に乗せた。


新潟の平野部は、今、桜が満開のシーズンだ。
今日はよく晴れ、青空に白い桜の花々が美しい。
たくさん桜が咲いている通りを選んで、車を走らせる。
娘の目には、どう映っているだろうか?
季節感がないのでよくわからない、というのが本音のようだった。
本人の希望で、病院では食べられなかった、「ダブル・チーズバーガー」のセットをドライブスルーで購入。
やがて車は、家に到着。
11か月ぶりに、自宅に戻った娘であった。
エアコンが変わった、と言う。
エアコンは、昨年、娘が入院中に替えたものではない。
娘が元気だった一昨年の夏である。
なのに、変わったという娘。
娘の記憶は、2年ほど抜けている。
だから、昨年だけでなく一昨年の記憶もなくなっているものがある。
そのことを改めて感じた。

茶の間で、座椅子にもたれ、ゆっくり座った娘。
フライドポテトやハンバーガーをほおばって、満足そうに見えた。

ここでも、腹がぽっこりと出ているのがわかって、おかしな顔はしたが、食べる手は休まらなかった。
食後は、茶の間や自分の部屋で小物などを探したりした。

あとは、茶の間で弟が見ていたサッカーなでしこリーグ「新潟―神戸」戦をゆっくりテレビ観戦。
「うまいなあ。」と感心しながら見ていた。
家にいるので、かつてのように動こうとする。
だが、立ち上がる時は、まだ足元がふらふらし、よろけることが多いのだった。

あっという間に帰らなくてはいけない時間となり、病院に送っていった。
また、看護師の皆さんが、お帰りと集まってきてくれた。
うれしそうな娘だった。

パジャマに着替えて、トイレに行って戻ると、久しぶりに以前の職場の同僚(先輩)と上司(的存在)の人が二人でお見舞いに来てくれた。
インフルエンザ予防の面会制限があって、なかなか会えず、久しぶりの面会であった。
時々泣きながら話をして、約1時間を過ごした。
元気そうに見えてよかった、とお二人は喜んでくれた。
娘は、涙で目の周りは真っ赤だった。

ただ、私が帰ってからその数分後、うちの息子(娘の弟)が訪ねてみると、頬やあごをなでてしきりに気にしていたということだった。
しびれを口にし、うまくしゃべれない、ということだった。
すぐに看護師を呼んだが、間もなく改善した。
疲れが出て、発作のようなことが起こったのではないかと考える。
これだけ一日いろいろなことがあったのだ。
それも仕方ないのでは、と思う。

さらに夜7時半頃、私が訪ねると、娘は、家に帰って何をしたか覚えていない。と言った。
でも、テレビでのど自慢を見たでしょ?サッカーの女子の試合を見たでしょ?
などと聞くと、「うん、見た。」と言い、首を縦に振った。

11か月ぶりに家に戻った娘。
家で過ごせたということは、これからにつながる。
多少の体の変調は起こったようだが、大きな変調は起こらなかった。
今日は4時間の外出だったが、これが何度かできれば、やがて外泊となり、退院につながるはずだ。
そうあってほしい、と祈るように信じたい。


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3年連続エントリーbut2年連続不出場…の笹川流れマラソン

2014-04-09 22:56:29 | RUN
笹川流れマラソン。
申し込みはしたけれど、走らず棄権した。
ひと月余り前からの右ふくらはぎ痛がとれないからだ。
常に張りがあり、走ると痛くなってしまう。
それから1か月もたつからと、スロージョギングをこわごわ20数分してみたが、ふくらはぎに痛みが出てきたので、やめた。
すると、その後、左の腰骨あたりに痛みが出てきた。
今まで出てきたことのない場所の痛みであり、困ってしまった。
たぶんこれは、右足をかばって走っていたからではないか。
それで、体のバランスが狂ったのではないかと推測する。
こんな状態では、およそハーフの距離なんて走れない。
参加費は納めているが、もったいないが、参加を断念した。
10kmくらいなら、なんとか痛みに耐えられるかもしれないが、21kmはあまりに長い。
平常でもヘロヘロになるのに、痛みを抱えていては、とうてい走り切れる気がしない。
そんな訳で、当日は受付用ハガキを息子に渡し、「父が棄権します」と伝えてもらった。
参加していないのに、参加賞となるタオルをもらった。

これで笹川流れマラソンは、3年連続エントリーだが、ここ2年は走れていない。
もっとも、去年は、荒天で大会中止となったのではあったが、右ひざ痛に悩まされていた。
この季節の変わり目の時期は、体に異常が発生する年頃になったということか!?

このマラソンに参加しないのなら、当日は朝の町内清掃が待っていた。
天気が悪くなったので、そこそこで切り上げたが、ついでにわが家の庭の簡単な整備をした。
秋から冬にはできなかった枯れた草の茎や葉を片付けたのだ。
ついでに、隣家との境の雑草の処理なども。
それがよくなかったのか、スロージョギングをした時に出てきた、右ふくらはぎと左の腰骨の痛みが再発した。
やはりこれでは、マラソン大会出場なんて無理だったなあ、と再確認したしだい。

…それにしても、いつになったら、痛みが引いて、走れるようになるのだろう?
年度初めの仕事の慌ただしさに、ストレスもたまり、閉塞感が続いている…。
喝!
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娘よ(40)~点滴が外された

2014-04-03 23:47:16 | 生き方
新年度2日目というのに(新年度だからこそでもあるが)夜の会合があり、参加していた。
だから、病院の娘に会いに行けない。
そういう事情をかかえながら、会合に参加していたら、携帯が、着信アリを示す振動を伝えた。
こっそり見てみると、妻からのメールだった。
娘のことで、悪い知らせでなければいいが…と思った。
メールを開けてみて、驚いた。

 「点滴とれた」
 主治医から電話あり。
 思い切って、点滴なしにして、別な薬を半錠増量するとのこと。
 様子見て、外出や外泊等考えるようにと言われました。

ええ~っ!!?
ちょっと信じられない処置だった。
なぜなら、娘は、前日の夕食後、後頭部が刺すように時折痛くなると言い、そのため薬までもらっていたのだったから。
また、3日ほど前には、視点が定まらないぼうっとした様子になったために、その時一緒についていた息子が、横にさせたりしたのだった。
この1週間内には、明け方に顔のほおのあたりがしびれるようでおかしいと感じ、目をさました、ということもあったりした娘だった。
このような症状は、けいれんの発作時の症状と共通するものだった。
全身けいれんには至らないで済んではいるが、紙一重のような感覚を抱いていた私たちであった。
だから、なんとかけいれんの発作が起こらなければいいのだがなあ、やはりけいれん止めの薬の濃度を下げていくということはリスクが高いのだよなあ、と思っていたのだ。

ところが、点滴なしにした、というのだから、びっくらこいてしまったのだ。
なんでもすぐに忘れてしまう娘は、前夜の後頭部の痛みなど覚えていなかったと、帰った時に話を聞くと、妻は言っていた。

今日、大丈夫だろうかと思いつつ、夕食の時間に病室を訪ねると、勤務先が遠方になった妻と一緒の入室になった。
そこには、すでに息子が来て、娘の食事の付き添いをしていた。

なるほど。
点滴台はあるが、設置されていた機械と薬袋や液を入れたシリンダーがない。
もちろん、娘の体につながっていた管もない。
ただし、何か起こってもわかるように、心電図を無線で伝える機械は付いていたけれども。
今日は、本当に久しぶりに風呂に入ったのだという。
わずか2,3分しか湯船には浸かれなかったらしいが、シャンプーもして、さっぱりした顔をしていた。

点滴を外して、薬を増やした。
薬が効くのかどうか、試してみないとわからないから。
医師の言葉を看護師さんが改めて話してくれた。
本当に、これで大丈夫なのだろうか?
医師の判断に対する疑念も湧いてはきた。
だが、確かに、外れないことには、退院なんて遠い話だ。
また、胸から刺して入れていた点滴も長期化して、限界が来ていたことも事実だ。
うまくいくことを祈るばかりだ。

しかし、点滴の管がなくなって、少し自由になったように見える。
からむかどうかなどを気にしなくていいのは、はるかにいい。
液体のなくなった点滴台を杖替わりにして歩いてはいるが、かなり自由な感じに見えた。

本当の意味で自由にしてあげたいと思った。

隣のベッドの老女は、カチャカチャと音を立てている。
抑制帯をされているのを外そうとしている音だ。
数か月前、娘が同じことをしていたことを思い出した。
自由を奪われてしまい、なんとか外そうと試みる姿は痛々しく感じて見ていられなかった。
…ということを思うと、今は、ずいぶん回復に向かっているのだなと、改めて思う。
記憶が積み上がらないから、ちっともよくなった気はしなかったのだけれど、ハチャメチャな行動はなくなっている。

神よ。どうかこのままけいれんを起こさないで。
そして、脳の機能も回復に向かわせて。
改めて祈る思いの昨日・今日そして明日…。
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