ON  MY  WAY

60代になっても、迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされながら、生きている日々を綴ります。

娘よ(33)

2014-01-31 23:19:06 | 生き方
娘の点滴のD剤の濃度もここ数日間に少しずつ下がってきた。
6.0から5.5、5,0、現在4.7。
ただし、下がってきても、娘の認識の程度は、あまり変わらない。
時々、自分がどこにいるのかわからなくなる。
美容院、ホテル…などと思ってしまうものだから、「財布がない」「ケータイがない」と思うことがよくある。
だが、そういう姿に直面しても、最近はわれわれ家族も、またかと思って落胆することは少なくなった。
いつか変わってくれる日があるのではないか、と思いつつ、いる。

認識の程度はあまりよくない中でも、娘らしさが出る時があり、愛おしいと思う。

例えば、病院の夕食でこんなことがある。
病院の食事だけに、あまり「おいしい!」と言えるものは出ないのだが、時にはうまいものもある。
そうすると、「これ、食べて。」と言ってくる。
自分だけが快いのではなく、周囲の人にも気持ちよくいてほしいという、娘の個性が発揮される。

先日は、私が出張の合間に30分間ほど時間を作って、昼食時間に訪ねたことがあった。
そのとき、昼食を食べながら、娘は涙をこぼし始めた。
どうしたのか、どこか悪いのか、と聞くと、「時間がないのに、会いに来てくれてうれしいけど申し訳ないと思う。」とこたえた。
そうこたえながら涙をこぼす娘を、愛おしい、と心から思った。

今日は、夕食後の歯みがき・洗顔を終えた後、立ち上がると急に動きを止め、椅子に両手をかけたまま下を向いて動かなくなった。
「おい、どうした!?」と聞くと、顔を上げた娘の目は真っ赤だった。
「悔しくてたまらない」のだと言う。
良くも悪くも行動的だった娘ゆえ、今は自分の記憶や意識を含め、すべてが思うようにならないことがたまらなくいやだと思ったのだろう。
スポーツも好きだった娘なのに、歩くのにつかまり立ちしながらなのだから、無念さはあるだろう。
悔しいだろう。
でも、悔しさを感じるということは、常人の気持ちに近いのではないか、ととらえることもできる。

病人である娘の姿にも、娘本来の言動が垣間見えるときは、とても愛おしい。
平常とは違う言動はまだまだあるけれども、娘本来の姿が見られる時がある。
今日は、「ほかの人と誰も会わないことがさびしい」と言っていた。
日頃から、たくさんの人が好きな娘である。
たくさんの人にリップサービスやら、冗談を言うのやらが好きな娘である。
日中看護師さんくらいにしか会えないのは、普段の生活からすればさびしいのだろう。
知っている人に会いたいのだろうなあ。

毎日毎日変わらぬ繰り返し。
それは、娘にも娘を見守る私たちにも同じ。
記憶が残らなかったり、物の位置が変わって見えたりする娘の大変さは、娘自身にしかわかるまい。
まだまだ現状はそんな娘だけれど、悔しさとかさびしさとかを感じて口にしている時は、普通の姿に近いように感じる。

入院以来早くも8か月が過ぎた。
明日から2月になる。
春が近い、と信じたい。
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黄色いチューリップ

2014-01-26 16:18:29 | 草木花
チューリップ。
新潟県の県花である。
同様に、お隣の富山県の県花にもなっている。
また、新潟県内では、新潟市、胎内市の市花にもなっている。

私は、童謡の「チューリップ」が好きだ。
さいた さいた チューリップの花が
ならんだ ならんだ 赤 白 黄色
どの花見ても きれいだな

この歌のことは、またいつかふれることにして、1月のこの時期にチューリップの花のことを言うのは、いささか早過ぎるとは思う。
ただ、最近、この花を見ることで、私も妻も娘も、少し明るい気持ちになれたので。



先日、妻が行ってきた安売りのスーパーで、チューリップの花が安く売られていたのだそうだ。
殺風景な娘の病室にも飾ってやろうかと、買ってきた。
妻が買ってきたのは、黄色いチューリップの束である。
童謡の中で歌われるチューリップの花の色で、黄色が出てくるのは赤、白に次いで3番目である。
「どの花見ても きれいだな」とは歌われてはいるが、今回、この3番目の黄色いチューリップの花が、今までになく輝いて見えた。
灰色が多く、色彩に乏しい新潟の冬にはきわめて華やかなせいだろうか。

そういえば、春先に咲く花では、黄色く輝いて咲くものが美しいと思う。
たとえば、ロウバイ。
たとえば、フクジュソウ。
厳しい冬を乗り越えて、これから春が来るのを先んじて告げるように感じられる。

さて、病室に置かれたチューリップの花は、とても美しく見えた。
娘は、花の中では、ひまわりの花が好きである。
咲く季節は違うが、ひまわりも、黄色い輝きの美しい花である。
そのせいか、今回暖色の黄色のチューリップは、娘もとても気に入ったようで、よく落書きする絵の中に登場させ、「きれい」と、たびたび愛でていた。
見るたびに、われわれに、春を呼んでくれるようで、少し幸せな気がした。
(そういえば、「『幸福の黄色い』ハンカチ」っての、ありましたね!!?)

ただ、病室は、暖房が効いていて、室温が高い。
そうすると、チューリップの花は、すぐに完全に開いてしまう。
案の定、数日するとあっという間に散ってしまった。

土曜日、その安売りスーパーに出かける用ができた妻は、「またあったから。」と、再び黄色いチューリップの花束を買ってきた。
今また、娘の病室に飾られたチューリップは、窓ぎわでひときわ明るく輝いて咲いている。


黄色く輝くチューリップよ、
娘にも、明るい春を、呼べ。


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娘よ(32)

2014-01-23 23:38:52 | 生き方
どうか、痙攣が起きないように。
そう願いながら、長い間娘の右手を握っていた。
長い間、と言っても1時間余りでしかないのだが。
娘の手をこんなに長く握っていたのは、娘が幼児の時の家族旅行以来のことだろう。。

今夜も、娘は、いつもどおりのルーティンで、夕食後、個室の病室内で歯みがき、洗顔を終えた。
7時半前に、トイレに行こうとしたとき、点滴の終わりを告げる警告音がした。
そこで、看護師さんが来てその交換が終わるまで洗面台の椅子に座って待っていたら、急に娘がしっかりと立てなくなった。
それでも、立たせてあげると、なんとかトイレに行けたのはいいが、またしてもトイレ内で自力で立てなくなってしまっていた。
アコーディオンカーテンを開けて、手を貸し、立たせた。
つかまらせて歩く足どりもおぼつかなく、体がふらふらしていた。

なんとかベッドまで支えて歩かせて寝かせた。
ベッドに寝かせてからは、ぼうっとして動きが少なく、今にも痙攣が起こりそうな様子だった。
だが、目線は時々動いていた。
いつもの痙攣なら、まもなく目の動きが止まってしまう。
私は、ずっと手を握ってあげ、話しかけていた。

時折、娘の目から涙がすべるようにこぼれ落ちてきた。
「ごめんなさい。」
小さな声で娘は言っていた。
「何もお前は悪くないんだから、そんなこと言わなくてもいいんだ。一番大変なのはお前なのだから。」
 具合を聞くと、時々ものが二重に見えるとか、回って見えるとか、よくない様子だった。
その間じゅう、娘の右手を握っていた。
やがて娘は、8時15分頃から10分間ほど寝入った。
その後、目覚めると、少しは気分がよくなったようだった。
しかし、尋ねると、トイレで具合が悪かったことも、もう忘れていた。


でも、とりあえず大丈夫そうなので、よかった。
就寝前に様子を見に来た看護師さんに、今までのことを話して伝えた。
就寝前のトイレは、さっきよりは確かな足取りで行って来ることができた。
それをみて、ひとまずは安心した。
とりあえず痙攣の危機は脱したようだった。
就寝時間となったので、娘と小さく手を振り合い、帰ることにした。


今日の夜は、珍しく雪が降っていなかった。
オリオン座が大きく見えた。

家に帰って、遅い夕食を食べようとしたら、娘とつないでいた右手人差し指の付け根が痛かった。
手をつないだまま、知らないうちに無理な姿勢をとっていたらしい。


寒い冬は、まだ続く。
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さよなら、「わが家の」ピアノ

2014-01-19 22:50:10 | 生き方
さよなら、ピアノ。
24年間わが家にあったピアノと別れになった。


最もたくさんこのピアノを弾いていたのは、娘だったのだけれども。
このピアノが来たときは、娘が小学1年生の3月であった(そうだ…記憶力の弱い私には定かではない)。
娘がピアノを習い始めたのは、小学1年生。
当時家にはわが家には電子ピアノしかなかったので、私の母(娘の祖母)がお願いして、元小学校のX先生のお宅から譲り受けたのだった。
Ⅹ先生は、実は私や私の父の出た小学校の先生だった方だ。
生前、私の父と親交があった。
実は、私の父の遺影は、そのⅩ先生と父と私とで一献傾けた時の写真である。
定年退職後は、塾を開き、習字、珠算、ピアノなどを教えていた方だった。
私も、小学校時代、習字や珠算を習いに行った。
ただし、ピアノは、習わなかった。
私の周辺の同級生どもは、ピアノなんか男のすることじゃない、という偏見に満ちた奴らだったから、とても習うどころではなかった。
そのうえ、私は手先が不器用で、ハーモニカにせよリコーダーにせよ、大の苦手だったから、これ以上楽器に携わりたくないというのが、小学校時代の本音であった。
ただし、それはこの稼業を選んでからというもの、不自由することが多かった。
自分が不自由をした経験から、自分の子どもたちには、①ピアノ、②水泳、③スキーの3つは身につけさせたいと思ったのだった。
そんなことで、娘や息子にピアノを習わせることにしたのだが、やはり電子ピアノではなく本物のピアノが必要だと、ピアノ塾の先生に言われたのだった。
そこで、Ⅹ先生が亡くなった後、母が、孫のためにとそこのお宅にお願いして、譲り受けたのだった。
娘が、最初のピアノ発表会の日、周囲をゆっくり見回しながら、発表会の始まりのあいさつをしっかりと言えたことが、思い出される。
ちなみに、最初に弾いた曲は、「だるまさん」だったっけ。
毎週ピアノを習いに行く前に、おさらいして弾いていたのを思い出す。
ただし、息子は、あまりおさらいせずに行ってばかりいたので、あまり上達しなかったなあ…。
娘は、専門学校生となって保育園に実習に行った頃も、よく弾いて練習していたっけ。
そんな子どもたちの成長を支えてきてくれていたピアノであった。

このたび、X先生のひ孫にあたる子が、ピアノを弾く年齢になった。
そこで、今わが家のピアノが使われていないようなら貸してもらえないか、と、故Ⅹ先生のお宅から相談があった。
現在、娘はこんな状態だし、およそ弾ける状態ではない。
快くお返しすることにした。
娘にもそのことを話すと、「いいよ。」とのこと。
そうは言ったが、何せ記憶の残らない今の状態では、すぐに忘れてしまうのだろうなあ…。

娘も、息子も弾いたピアノと別れる日が来た。

かけていたカバーも、器用な私の母が縫って作ってくれたものだった。


父とも、母とも、縁のあるピアノと言えた。
ちょっぴり、惜しい気もした。

当日、250kgもあるピアノをどうやって移動するのかと思ったら、さすが専門職。

わずか2名の男性が、協力し合ってトラックまで持って行った。

なくなってしまったピアノの場所。

なんだか、さみしいなあ。
でも、今まで娘や息子の育ちを豊かにしてくれたのだった。
ありがとう、さようなら。
「わが家の」ピアノ!




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娘よ(31)

2014-01-16 23:06:41 | 生き方
今年初めてとなる痙攣に、一度に三回も襲われた娘。
心配なので、この3日間は、昼食時間帯から家族の誰かが付き添うようにしてきた。

昨日は、昼過ぎに妻が病室に行くと、少食の傾向が強い娘が、完食していたと言う。
おまけに、衣類を入れるバッグに、周囲の様々なものを詰め込み、飾られていた千羽鶴も外し、すっかり自宅に帰るつもりで準備していたのだと、妻からのメールで知った。

妻にも仕事があり、ずっと付きっきりという訳にはいかないので、代わって私が休みをとり、妻の退室2時間半後、娘の病室に行った。
あれまあ!
やっぱり、黒いバッグやその中に入っていた手提げ袋を上手に使って、身の回りのものがしっかり片付けられてあった。
ただし、妻の時とは違って、千羽鶴は外されていなかったけれども。
どうしたのか、やわらかく聞いてみると、誰も知っている人がいないから、早くこのカラオケボックス(病院ではなくカラオケと認識したらしい)から帰らなくちゃ、と思ったのだそうだ。
だけど、財布もケータイもなくて、どうしようかと思っていたのだそうだ。
なるほどなあ…。
こんなふうに、娘は考えているのか、と思った。
そこで、ゆっくり説明すると、自分の状況が少しずつ分かってくる。
病院に入院していることも、脳の病気になっていることも。
だけど、時々また忘れて、母や弟がいなくなった、と口にすることがたびたびある。
でも、ちゃんとまた説明していると、分かってくる。
そのことは、今までの時よりおだやかに感じられる。

今日も不安だったので、昼食時間帯から私が付き添ってみることにした。
今日は、病室内に帰り支度の様子はなかったことにほっとした。
コンビニで見つけた、娘の好きな担々麺を昼食に持って行ってみた。
しっかり娘は食べてくれた。
ついでに、家から持って行ったミカンも1個ぺろりと平らげた。

歯みがき等を終えた娘は、しばらく得意のお絵かき(幼稚な表現で申し訳ないが、自分の思いをキャラクターに喋らせるというお絵かきなのである)をしていた。
娘の描く絵は、看護師さんたちには評判が良い。
前の日は、主治医の先生を描いていた。
それを見た看護師さんが、「似てる!」と、大笑いしていた。
今日は、その先生の髪が、「父ほどではないけど、後ろ頭の毛が少ない」と気付き、わざわざ絵に、文字でそのことを知らせる注意書きを描いていた。
「それは、秘密にしておいてね。」と、苦笑した今日の看護師さんに言われていた。

その後眠気を催した娘は、2時間弱の昼寝をした。
目覚めた娘は、昼に担々麺やミカンを食べたことは、すっかり忘れていた。
やはり、時間がたつと、すっかり忘れてしまうのだ。
痙攣が起きる前と起きた後では、さすがに忘れる度合が違う。
今は、簡単に忘れてしまう。

ただ、習慣とは恐ろしいもので、朝夕の食後には9錠1包の薬を飲むのだが、飲む前から「この中に苦い薬がある」のだと言う。
物忘れの激しい病気になりながら、こういうことは忘れていないことが、不思議である。

娘に付き添って、娘の周りにはゆったりした独特の時間が流れていると感じた。
ただし、ゆったりながら、その流れは流されることもあるような厳しさもあるようにも感じている。
なんてったって、7か月以上も流されているのだから。


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娘よ(30)

2014-01-13 23:03:32 | 生き方
難病だ、と改めて思う。
午後1時10分過ぎ、昼食を終えトイレに立った後、頭痛・顔痛を訴えた娘。
妻が寝かしつけると、間もなく娘を痙攣が襲った。
11月末以来、ひと月半ぶりの痙攣である。
なぜ?
痙攣止めの薬D剤も3.7であり、さほど低くない。
それ以外に毎食たくさんの薬を飲んでいる。
昨日は、少しよくなってきたねと、家族で喜んでいたところだった。
だから、昨日のように明るい気持ちでいることを記せたのだった。
なのに、また今日、急転直下の状況になるとは思わなかった。

妻から娘に痙攣が起こったというメールをもらったとき、私は、RUNに出ていたところだった。
帰ってからそれが分かって、14時50分頃、大あわてで病院に駆け付けた。
その直後、娘を今日2回目の痙攣が襲った。
「顔がチクチクする」「心臓がおかしい」と言い出した。
ナースコールを押して看護師さんを呼ぶと、ほどなく顔から腕にかけて痙攣が始まった。
マスクをかけられて酸素吸入が行われた。
30分もすると、意識も取り戻し、「おはよう」などと言った。
また、今日が1月13日であることを知ると、「どんな正月をしたのか、全然覚えていない。」などと言う娘だった。
とんちんかんなことを口にすることは少なかったが、やはり様々なことを忘れてしまっている娘だった。

妻が家に帰った後、16時30分頃、またしても娘が頭痛を訴え始めた。
顔から左半身に力が入らないと言う。
またナースコールを押し、なかなか看護師さんが来ないことにじりじりした思いを抱きながら娘を見守った。
看護師さんが駆け付けてくると、娘の
呼吸の仕方がおかしくなり、今日三たびの痙攣が娘を襲った。
顔、腕、脚まで。
見たくもない娘の苦しむ姿をまたしても見せられてしまった。
回が増すごとにダメージが大きくなるように思えた。
呼吸が戻り、意識が戻り、いくらか落ち着いてきた頃、看護師さんから連絡を受けた当番医が駆け付けてきた。
「どうですか?」
などと聞きながら、自分の手で痙攣止めのD剤の点滴を最高濃度の8.0に上げた。
その医師の動作があまりにも無造作に見えて、なんだか娘が可哀想になった。

その後も、娘は頭痛を訴え続けていたが、幸い痙攣にまでは至らなかった。
夕飯も、食欲がないと言ってかなり多くを残したが、とりあえず食べることができた。
就寝時間まで様子を見るために、自宅から再び病院に戻ってきた妻と交代したのは、19時半過ぎだった。
あっという間の4時間半だった。

11月には、1日に5回も痙攣が起こったこともあった。
予断は許さない状況であると思う。
せっかくここまできたのに、という思いは、入院以来何度目だろう。

難病だ、とまたも思う。
でも、最も苦しんでいるのは娘のはずなのだ。
娘が病と闘っている。
それを支え続けるのが、家族である私たちの責務だと思う。
最もつらい娘の気持ちを和らげ、回復に向けて明日に向かう気持ちを高めるのが、私たちの仕事だ。
娘とともに、あること。
私たちも、負けない。
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年明けから明るい気持ちに…

2014-01-12 23:04:38 | 生き方
年末は、結構暗い気持ちでいた。
やはり娘の状態が思わしくないことが最大の理由であったのだ。

入院中である理由が、本人もよく理解できるなら納得するだろうけど。
体のどこが悪いとわかるのならまだしも、娘の病気は、本人がどこが悪いと自覚できないから困ってしまうのだ。
だから、正月になるのに、家に帰れないなんて、可哀想だという気持ちが最も大きかった。
その思いが、重い、暗い気持ちにつながっていた。


可哀想に、と思いながら、年末から年始にかけて毎日病院通いをしたのだけれど、次第に私自身の考え方も変化があった。
休み中や時間外の病院入口には、時間外の救急外来の窓口もある。
そこには、ソファがあって、行くたびに具合の悪い人や付き添いの家族たちが、数人いたのだった。
体の具合が悪くなるのに、年末も正月もない。
大みそか、日本中が「紅白」を見たり家族団らんで過ごしたりするのが普通だと、今までの自分は思っていたのだなあ。
そのことを改めて感じた。
ところが、大みそか当夜、娘に会いに行くと、救急車で運ばれてくる人はいるし、救急外来の待合にあふれている人はいる。
不幸なのは、うちに限ったことではないと、改めて思った。

さらに院内で、当番医となって、あるいは看護師として、夜遅くでも働いている人がいるのだ、ということが改めてわかった。
人を支える人がいる。
改めて、そのことを思った。

正月までには何とか明るい展望がほしい…という気持ちがあったのは確かだ。
しかし、年が明けてみると、不思議なことに私自身の気持ちが暗くないことに気が付いた。
あのど根性ひまわりが、残念ながら、寒波・降雪で年明けとともに枯れてしまったというのに。

あの年末、不幸なのは自分だけではないこと。不幸な思いを支える人がいることを感じた。

年が明け、今年は、まだまだ先が長い、という気がした。
病を乗り越えるのは、今年、まだまだこれからだ。
娘の人生も、まだまだこれから。
未来が開けている気がしている。

幸い、娘の状態は安定している。
まだまだ、けいれん止めのD剤の濃度は、3.7だし、娘には病室が美容室に思えたり、物の位置が変わって見えたり、訪ねて来てくれた人のことをすぐに忘れたりはしているけれど、けいれんは起こっていない。
娘自身が、自分のことを、病気のせいで異常が起きていると思える時さえ、ある。

ゆっくりでもいい。
右肩上がりの回復を願う。
このまま、明るい年となってほしいと、切に祈る。


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初練RUN

2014-01-06 18:28:01 | RUN
日曜日。朝起きた時は、積雪1cm程度の銀世界だった。
その後は、日も射して、穏やかな一日だった。
午後4時、すでに頭上はくもり空。
でも、雨ではないので、走り出してみた。
今日が新年初練RUN。
元旦マラソンはレースだったので、「練習」ではなかった。
ともかく、元旦マラソン以来のRUN出である。
今日は7km余のコースを走ってみよう。

走り出してみると、沿道の気温は、「2℃」となっていた。
急に、あられを小さくしたような雪がパラパラと降ってきたりした。
道のそばの田んぼには、たくさんの白鳥たちが餌をあさっている姿が見られた。
日中晴れた時間もあったせいか、積雪は日陰のほかはすっかりなくなっていた。
雲におおわれた空、しめった空気の冷たさ、ふきだまりの雪、田んぼに白鳥。
…新潟の冬を感じさせる風景だ。
その中を走る。
何より走りたいと思っている自分がいた。

体は正月太りで重いはずなのだが、不思議に足は軽かった。
気持ちのいいリズムで走ることができるのが不思議でならなかった。
思い当たったことは、4日前の元旦マラソンの走りだった。
レースになると、普段より速いスピードで走ることが多い。
元旦マラソンで走った速めのペースが、体に残っていたのかもしれないな、などと考えながら走った。
新しい年になり、一歳年を経た訳である。
いつまで走れるのだろうか、などと時折考える。
ただ、意外と無心である。

やがて、娘が18年余り前、ちびっ子健康マラソンの地方大会で優勝したコースの一部も走る。
上り坂を駆け上がる時、思うことがある。
そのレースの時、小5、小6だった娘はこの上り坂をきついと思わなかったのかな?
よくこんなコースで一番になれたものだなあ…!
…などと。
あの時は、2位になったライバルの子に負けたくない一心で走っていたから、きついなどとは考えなかったかもしれないな、と結論付けて、再び走りに集中する。

それにしても、疲れが来ない。
今日は、まだまだいける。
雪のない田んぼ道を大きく回っていくことにした。
辺りが暗くなってきていたが、いつものコースに、およそ3km強のプラス。
だが、家にたどり着く最後まで気持ちよく走れた。
最初から最後まで体の軽い、1時間1分余りのRUNであった。
あー、気持ちヨカッタ~!


…しかし翌朝、仕事始めというのに、体は鉛のように重かったのであった…。(ま、そんなもんだ。)


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娘よ(29)

2014-01-05 12:51:58 | 生き方
この年末年始も、当然のごとく病院通いは続いていた。
昼は妻が、夜は私が、食事の時間を中心に行っていた。

幸い、娘の容態は落ち着いている。
けいれん止めの薬の濃度が、ずっと濃い目の4.0に設定されているせいもあるのだろう。
一昨日から、その濃度も3.9となり、また少しずつ下げられていくことになりそうだ。
娘が書く絵や字についても、正常時に近いものに見える時も多くなった。
いくつか届いた年賀状の返事も、妻が付いて書かせていた。
それらを何も知らずに見た人には、絵も字もなかなかのできだと感じることだろう。
看護師さんの中には、娘に「○○の絵を描いてみて」とリクエストしてくださる方もいるくらいだ。

ただし、現状の認識や記憶力の程度は、あまり変わってはいない。
相変わらず、目の前の物の位置が変わって見えるようだし、数分前にしたことをしっかりと覚えていられない。
それでも、毎日のことについては、習慣化しているので、定着してきていることも多い。
8錠1包の多量の薬の中で苦いものがあることや、食後にすべき歯磨きや洗顔などは、忘れずにいられる。

正月の間は、夕食時などにわが家で作ったおせち料理をいくつか容器に移し替えて病院に持って行った。
娘は、表情に表わすほど喜びはしなかったが、持って行った物はいつも完食していた。
食後すぐ、「母へ ありがとう」などと、紙にメッセージを書いてくれたこともあった。
病気にはなっているが、そういう娘本来の気の良さが残っていることはうれしいと思う。
おだやかに娘を取り巻く時間が流れているように見えること、それを喜ぶことにしている。

年明けの新潟は、1日こそ荒れたが、その後は薄日が差したり数時間晴れたりすることもある。
安定した天気の太平洋側がうらやましくはあるが、降雪が少ないことは冬の新潟の喜びだ。
年末から年始、今日に至るまで、休みが長くてうれしかった。
元旦マラソンに参加した1月1日を除いて、朝はだいたい7時半くらいまで寝ていて、われわれ家族も、ゆっくり体をいやすことができた。
明日から、私たち家族にとっては、いよいよ仕事となる。
気分も新たにやっていこうと思う。
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とりあえず元気なスタート、ということにしよう

2014-01-01 23:17:39 | 生き方
元旦6時起床。
息子と2人してガサゴソ動き出した。
今年も、村上元旦マラソンに参加するためだ。
おせち料理も置いといたまま、まずは餅を焼き、この辺りの郷土料理である「小煮物」に入れ、雑煮として食べた。

そして、7時台出発。
胎内市を過ぎるあたりから、上空は真っ黒。
すごい稲光が時折、横に走り、また光った、また光ったと2人で言いながら、開催地村上市に向かった。
幸い、開会式の会場である体育館に着くと、雨は降っても雷は直接の影響がなく、無事に開催の運びとなった。

今回の開会式は、「さけりん」の登場もなく、淡々と終わってしまった。

昨年と違って、今回は、知っている子どもの出場はなかった。
代わりに、知っている人が2,3人あいさつしに来てくれた。(こちらから行かず、面目ない!)
息子は5km、私は10kmに出場した。
前回は、大雪の中のレースであったが、今回は強風・降雨のレース。
足元が滑らないだけ、今回の方がまし。

出発すると、大勢の混乱の中を走り出す。

足元に雪があった去年よりは走りやすいが、あいにくの向かい風。
最初の1kmが5分25秒もかかってしまった。
やばい!
今回の目標は、50分切りなのだ。
このままで行くと、それは果たせなくなる。
と言うことで、次の1kmは途中から追い風になったこともあり、4分50秒、4分49秒、4分43秒、4分57秒と、前半をまずまずのペースで行けた。
2kmを過ぎて、前に知人がいた。
この人には負けたくない、と思ったのだが、その後、どうしても差を詰められなかった。
やはり向かい風で始まる後半は、5分16秒、5分1秒、4分57秒、4分46秒、4分47秒…。
苦しくなるが、自分を抜いていく人たちの足取りが軽く見えること。
目の前の知人の姿もわずかずつ遠くなっていった。

ゴール付近で、私を応援する子どもの声がした。
小学校3年生のD男さんだ。
一緒に歩道を走ってくれた。
「がんばれ、がんばれ。」と声を出しながら。
なんと、彼の方が速いとは。
情けない。
最後の数十メートルを加速した。
目の前の人を2人ほど直前で抜いて、ゴール。
最低目標だった50分を20数秒少なく走り切ることができた。
ゴールしてから、D男さんとその一家に感謝した。
彼の励ましがあったから、2人を抜けた。数秒早くなった。
しかし、記録は、昨年より10秒ほど遅くなった。
やはり加齢と運動不足ですなあ。
とはいえ、完走した自分に拍手!


残念なことは、今年は抽選で何も当たらなかったこと。
そして、ふるまわれた鮭汁の具に鮭はなく、薄っぺらな白菜とねぎ少々だったこと。
それでも、今年も元気なスタートを切ることができた。


夜、娘の病室に、妻が作ったおせち料理を持って行った。
「あけまして、おめでとう。」と言いながら。
持って行った料理は、すべてしっかり食べた娘だった。
病院の夕食もかなり食べた。
あわせて元気な食べっぷりだった。

2時間ほど病室に滞在した後、私の帰り際に、思い出したように娘は言った。
「あけまして、おめでとう。」
さっき、2時間前にそれを私から言って病室に入ったのになあ。
忘れているんだから…まあ、病気だからしようがないけど。
その後の娘のからかいが、可笑しかった。
「ハゲまして、おめでとう。」
言いながら、娘は笑っていた。
私は、確かにそういう身体的特徴を持っている。
「このヤロー、親をからかいやがったな。」
と言いながら、私も笑った。

食欲と言い、からかいといい、明るさを感じた正月初日の娘だった。
今年こそ、よい年になりますように!

2014年が始まった。
とりあえず、元気なスタート、ということにしよう。

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