【日中戦争】:「私は傷痍軍人」 練馬の100歳、本紙記事で名乗り
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【日中戦争】:「私は傷痍軍人」 練馬の100歳、本紙記事で名乗り
東京都練馬区在住の百歳の男性が太平洋戦争(一九四一年十二月開戦)以前の日中戦争で負傷した傷痍(しょうい)軍人と分かり、傷痍軍人の労苦を伝える国立の史料館「しょうけい館」(東京・九段)が聞き取り調査した。百歳の傷痍軍人を確認したのは、館として初めて。太平洋戦争期と比べて傷痍軍人の待遇が対照的だったことも、聞き取りから改めて浮き彫りになった。 (加藤行平)
デイサービス施設で囲碁を楽しむ鈴木富雄さん=東京都練馬区で
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男性は鈴木富雄さん。昨年十二月三十一日朝刊「この人」欄で、同館学芸課長、木龍(きりゅう)克己さん(62)が傷痍軍人の調査を続けていると報道したことがきっかけで名乗り出た。
しょうけい館によると、存命の傷痍軍人の平均年齢は正規兵で推定九十八歳。太平洋戦争の傷痍軍人でさえ高齢化が進み、聞き取り調査は難しいという。木龍課長は「日中戦争時の傷痍軍人の調査は『もう無理だ』とあきらめていた」と打ち明ける。
鈴木さんが保存している傷痍軍人手牒(帳)と軍人傷痍記章
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鈴木さんは一九一八(大正七)年七月、岐阜県下有知(しもうち)村(現在の関市)の農家の長男に生まれた。岐阜市の工務店に勤務中の三九(昭和十四)年一月に召集を受け、地元の連隊に入隊。四月に中国・上海に上陸し九月二十六日夕、湖南省・洞庭湖付近の戦闘で銃弾が右胸を貫通した。「三人で最前線から駆け出したら次々に銃撃を受け、前にいた二人は戦死した」と証言する。
旧陸軍は日中戦争時、戦争継続や徴兵制度に悪影響を与えないよう、傷痍軍人に手厚い対応をしていた。鈴木さんは負傷した翌月の三九年十月に帰国。右腕の神経を痛めており、名古屋の陸軍病院で手術を受けた。下呂温泉などで療養・リハビリを続け、四一年七月に兵役免除になった。
その後は傷痍軍人大阪職業補導所に入所。約一年三カ月、社会復帰に向けて建築関係の職業指導を受け、四二年十月、大手建設会社に就職。戦後結婚し、東京にあった別の建設会社に入り、定年まで勤めた。
木龍課長は「陸軍は厭戦(えんせん)意識が広がることを懸念し、日中戦争の傷痍軍人を『白衣の勇士』と称し、傷の軽い兵士に白衣姿で街中を歩かせて『きちんと処遇している』とPR。当時の新聞や雑誌などでも頻繁に取り上げられた」と説明する。しかし「太平洋戦争ではその余裕がなくなり、扱いは雲泥の差になった」と指摘。鈴木さんも戦後間もないころの傷痍軍人の姿に「自分の姿に重ねると気の毒だった」と振り返る。
現在も右腕の感覚がなく、指が開かない後遺症が残る鈴木さん。二年前には心臓にペースメーカーを入れる手術を受けたが、連日デイサービスに通い、施設では囲碁を楽しむ。「負傷したときも『絶対に生きて帰る』なんて気負わなかったのが、むしろよかったのかも」と振り返り、「新しい元号の時代にも無理をせずに自然体で生きていきたい。来年の東京五輪が楽しみ」と目を細めた。
<日中戦争>
1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)で日中両軍が衝突した事件をきっかけに戦闘が拡大。宣戦布告なき戦争で、近衛内閣は「不拡大」方針を表明したが、軍部は無視して強硬路線を続けた。国の統計資料などによると、37~41年で戦死者約18万人、負傷者約32万人。中国大陸の戦闘は太平洋戦争開戦後も続いた。37年から45年の終戦までで日中戦争・太平洋戦争の軍人・軍属の戦死者は約230万人に達した。
元稿:東京新聞社 夕刊 主要ニュース 社会 【話題・日中戦争で負傷した傷痍(しょうい)軍人】 2019年03月05日 15:15:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。