世界的にも著名な『はだしのゲン』が学校図書館で子どもの目から遠ざけられた松江市の学校の対抗について、昨日下村文科大臣がコメントしました。予想したとおりでした。それにしても、簡単な日本語を使うことで、自由主義史観の立場にたつ自分の思想をウソとスリカエで正当化するものでした。このような人物が教育行政の最高権力者であることに憤りを感じました。
それでは、下村発言を掲載した記事から、その問題点をまとめてみます。
1.「子どもの発達段階に応じた教育的配慮の必要性がある」から閲覧を制限できるというスリカエです。
(1)小学校は、年齢差を考え、低学年・中学年・高学年と呼んでいることからも、また教育においては、発達段階を配慮することは当然です。
(2)しかし、年齢差を考慮・配慮しても、図書館の閲覧が子どもの自主性を踏まえたものであることを考慮すると、閲覧そのものを制限・排除することが教育的でないことは明らかです。
(3)閲覧を制限することを是認する下村発言は、自由に閲覧することで、子どもの中に戦争や人間について自由に発想する子どもを育てる芽を摘んでしまうことになります。
(4)「発達段階に応じた教育的配慮」は多様であるべきです。すなわち、人間の「自虐性」に蓋をするのではなく、「自己推奨性」「すばらしさ」をも公平に体験することで、相乗効果をつくりだすべきです。
(5)『はだしのゲン』で言えば、原爆や戦争をする人間のおぞましさの中で、たくましく人間的に生きていくことを対比できるような展開に、その多様性の一端があるのではないでしょうか?
2.「教育上好ましくないのではと考える人が出てくるのもありうる話」だから閲覧を制限できるというのもスリカエです。
(1)「好ましくないのでは」と「考える人が出てくる」のも「ありうる」とするならば、「好ましい」と「考える人がでてくる」のも「ありうる」としなければなりません。
(2)一方の「考え」を強調することで、閲覧を制限することを正当化することは、公平さに欠けると言わなければなりません。
(3)これでは、自分の都合の良い事例をあげて閲覧を排除したと言われても仕方ありません。
(4)こんなことがまかりと追ってしまったら、何でもアリ!になります。「公の利益」という曖昧な日本語を使って人権を抑圧できることになりませんか?自民党の本質が、ここに浮き彫りになってきます。
3.「学校図書館以外で、読みたい人が読める環境が社会全体で担保されていれば良い」というのもスリカエです。
(1)この論理が許されるのであれば、学校教育は不必要になってしまいます。
(2)その最も良い事例が「塾」です。学校以外で学ぶ環境が担保されていれば、わざわざ学校の教育環境を整備しなくても構わないことになります。
(3)これは大学時代から学習塾を経営していた下村氏の立場を如実に示したもので、本来の公教育のあり方の否定になりかねません。
4.「市教委の判断は違法ではなく問題ない」論についても、事実経過を無視した大ウソとスリカエです。
(1)そもそも、今回の市教委の「判断」は正式の会議による「決定」という「経過」を踏んでいなかったという事実があります。
(2)こうした事実経過を、文部行政の最高責任者が把握していなかったとするならば、怠慢です。
(3)しかし、こうした経過を把握していながらの発言であるとするならば、極めて意図的な発言と言わなければなりません。
(4)そもそも『はだしのゲン』が、最初から問題アリとしていたのであれば、教育委員会も学校も図書館におくことはなかったでしょう。国内外でどれだけ普及しているか、無視した視点です。
(5)しかも、何故「今」なのでしょうか?
5.「それぞれの自治体の判断だ」論のウソとスリカエです。
(1)文部行政が、日の丸君が代の強制に象徴されているように、ぞれぞれの自治体。学校現場の判断によって運営されていないことは周知の事実です。
(2)言葉上は、「それぞれの自治体の判断」と言いながら、校長への「お願い」などを通して、権力的に現場を萎縮させているのは周知の事実です。今回も、実教出版の教科書問題も、日の丸君が代の強制も、公然の秘密というか、言葉だけは強制していまんせんが、強制は公然と行われています。可笑しな社会です。「判ってるよね」に一言です。あるのは。これって常識中の常識でしょう。
6.子どもの発達段階を強調するのであれば、文科大臣としては、児童の権利条約(児童の権利に関する条約)に明記されている子どもに対する権利保障と子どもに人権思想を根付かせる行政を行うべきです。
(1)まず、子どもの意見表明権を尊重し、子どものなかに多様な表現方法をつかって、意見表明できる環境の整備に力を注ぐべきです。
(2)そのためには、生きる力の土台である学び、調べ、互いに意見交換し、表現するというプロセスを教育のすべてに貫く授業と学校教育を保障すべきです。たとえば『はだしのゲン』の検証についても、子ども自身に委ねるべきことです。これこそが国際的レベルの教育思想と言えます。
(3)その教育方法の基本に「命の大切」があることは明瞭です。これは憲法と旧教育基本法に明記された人類の到達した知恵です。
(4)そうした教育を具体化していくうえで、確認されなければならないことはユネスコ国際教育やユネスコ「学習権宣言」など、ユネスコが確認してきた宣言や勧告、条約集を踏まえた教育の具体化です。これについては、森田俊男『平和教育についての宣言・勧告・条約集』(平和文化96年10月刊)が参考になります。
(5)以上のような国際的に確認された教育が行われるようにするためにも、教育予算を拡充すべきです。教育は国家百年の計と言われる所以は、ここにあります。
それでは、下村文科大臣の発言を掲載しておきます。
「教育的配慮は必要」=はだしのゲン閲覧制限に下村文科相 (2013/08/21-17:55)
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc&k=2013082100703
下村博文文部科学相は21日の閣議後記者会見で、松江市教育委員会が広島の原爆被害を描いた漫画「はだしのゲン」の閲覧制限を市内の小中学校に要請したことについて、「学校図書館は子どもの発達段階に応じた教育的配慮の必要性がある」と述べ、要請は市教委の権限に基づく行為で問題ないとする認識を示した。 下村文科相は、「漫画の描写について確認したが、教育上好ましくないのではと考える人が出てくるのもありうる話だ」と指摘。「学校図書館以外で、読みたい人が読める環境が社会全体で担保されていれば良いのでは」と話した。(引用ここまで)
下村文科相「教育的配慮は必要」 はだしのゲンで 2013/08/21 17:04 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/201308/CN2013082101001388.html
松江市教育委員会が市立小中学校に漫画「はだしのゲン」の閲覧制限を求めた問題について、下村博文文部科学相は21日の記者会見で「市教委の判断は違法ではなく問題ない。子どもの発達段階に応じた教育的配慮は必要だと思う」と述べ、理解を示した。閲覧制限には言論の自由を制限するとの批判的な意見があり、議論を呼びそうだ。 下村氏は過激な描写と指摘されている部分を自らも確認したことを明らかにし、「小中学生が必ずしも正しく理解できない描写だ、と考える人もいるかもしれない」と語った。(引用ここまで)
文科相 閲覧制限は自治体判断 8月21日 20時39分http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130821/k10013936431000.html
下村文部科学大臣は、記者会見で、松江市教育委員会が漫画「はだしのゲン」を市内の小・中学校の図書室で子どもが自由に読むことができなくするよう学校側に求めていたことについて、「子どもの発達段階に応じた教育的配慮の必要性があり、それぞれの自治体の判断だ」と述べて、一定の理解を示しました。この中で下村文部科学大臣は「学校図書館は、子どもの発達段階に応じて教育的に配慮する必要性があると思う。設置者である教育委員会の判断で、学校に対して具体的な指示を行うことは、通常の権限の範囲内であり法令上問題はなく、それぞれの自治体の判断だ」と述べて、一定の理解を示しました。そのうえで下村大臣は「具体的に指摘されている部分を私も確認したが、『教育上、必ずしも好ましくないのではないか』と考える人が出てくるのは、ありうる話だと思う。子どもたちにとって、読みたい人が読める環境が、学校図書館以外も含め社会全体で担保されれば、それでいいのではないか」と述べました。(引用ここまで)
最後に強調しなければならないことは、以下の下村氏の思想です。これをみると、『はだしのゲン』は下村氏にしてみれば、子どもに見せたくない書物であることが判ります。松江市教育委員会に乗り込んだ人物と同じ思想の持ち主であることが明瞭になります。
サンデー毎日(3月10日号)にインタビュー記事が載りました 公開日: 2013年3月4日 | 投稿者: 下村博文
http://hakubun.jp/tag/%e6%95%99%e8%82%b2%e6%94%b9%e9%9d%a9/
巷間、「右寄り」といわれる下村氏。まずは、教科書検定についての“真意”を聞いた。
河野官房長官談話(1993年)や村山総理談話(95年)を含め、政府全体で官房長官の下で見直すことになっているので、文部科学省だけが先に議論することはありません。ただ、私は近隣諸国条項にかかわらず、検定制度と採択の在り方は見直す必要があると思っています。理由として二つあります。一つは、(第1次安倍政権で)教育基本法が改正されて、学習指導要領も改訂されましたが、それらの精神にのっとった教科書になっていない。もう一つは自虐史観が強く、近現代史の影の部分を強調しすぎている。もっと日本の伝統の中で素晴らしいものを子どもに教えることで、自分の国に対して誇りが持てるような教育をすべきです。自分の国への誇りと、他国への尊重の念は相反するものではありません。愛国主義が他国批判主義につながるのは間違っています。(引用ここまで)
さらに、以下の歴史教科書問題日誌をご覧ください。下村博文文部科学大臣の憲法違反の思想と論理がハッキリします。
【国会】 衆議院予算委員会第三分科会で、自民党の下村博文議員が現在の歴史教科書をと批判したのに対し、小杉文相が「児童生徒がこれらの教科書で学び、正しい歴史認識を持ってこれからの社会の中でしっかりと生きていくことを期待している」と答弁(議事録)。(引用ここまで)
以下の下村氏の発言をお読みください。アパグループが何をやっていたか、を視れば明瞭ですが、こうした人物が文部科学大臣として存在していることに、驚きです。同時に国際的に恥ずかしいことでしょう。
東京裁判史観や河野談話、村山談話など日本の近現代 ... - アパグループ (2012年10月)
歴史問題に明確な意志を打ち出せば一気に国民を味方にすることができる
下村 中国や韓国がそういった行動をとることは、日本にとっての国家の危機だと思うのです。前回の安倍政権が掲げた「戦後レジームからの脱却」は、東京裁判史観や河野談話、村山談話など日本の近現代史の全てを見直すということです。この戦後六十七年は日本の滅びの軌跡です。立て直すのは今しかない。それに必要なのは、安倍さんのような本物の政治家です。特にタイミングを見計らったわけではありません。
下村 アメリカからの圧力はどうでしょうか…。将来は真の独立国を目指して日米安保を見直す時が来るにせよ、安倍政権は当面の方針として日米同盟の強化を打ち出していましたから。安倍首相が道半ばにして辞任に追い込まれた理由は二つです。一つは戦後レジーム体制の思想にどっぷりと浸かっていたマスメディアが安倍叩きを行ったから。朝日新聞や毎日新聞を中心としたマスメディアは、社会主義的な考えをベースに現状を肯定し続けているのです。
下村 戦後レジームからの脱却とは、第一義的には東京裁判史観の破棄です。周辺国との領土問題によって、国家とは何かという命題が今国民につきつけられています。国の基本要素は領土と国民と主権ですが、戦後の日本はこれらを疎かにしてきた。これが今のような体たらくを招いた原因なのです。
自虐装置を一つずつ外して、日本本来の姿に立ち返るべきだ
下村 財団法人日本青少年研究所が行った日米中韓の中高生の意識調査が衝撃的です。「自分はダメな人間だと思う」と答えた中学生の割合が日本は五六・◯%と、アメリカの一四・二%、中国の一一・一%、韓国の四一・七%のいずれをも大幅に上回っていたのです。これだけ多くの子供達に自信を喪失させている教育とは一体何なのか。自虐史観によって、国も個人もダメだと思い込まされているのです。まさに今の日本は、終戦直後アメリカが望んだ精神的な敗戦国の姿そのものだと思います。
下村 中国や韓国がのさばる中、こんな日本でいいのかと思う人々が増えています。(引用ここまで)