実は、朝日・毎日・東京も再稼動条件付賛成派!
ゴマカシ・スリカエ・トリックを見抜け!
今回の規制委の決定=原発再稼動に反対する朝日・毎日・中日東京を検証します。ポイントは、以下のとおりです。
1.今回の決定にあたって、三紙は批判していますが、それは以下のレベルです。現状の原発は認めているのです。その点では、賛成派の読売・産経・日経と同じです。
朝日「3年前、私たちの社説は『原発ゼロ社会』を将来目標とするよう提言した」と「将来目標」ということは現状の原発再稼動は容認なのです。
毎日「私たちはこれまで、原発に頼らない社会をできる限り早く実現すべきだと主張してきた。一方で、そこに至る過程で、必要最小限の原発再稼働を否定するものではない」と、ハッキリしています。
中日東京「そうすれば最も新しい原発の寿命が尽きる二〇三〇年代に、原発は自然にゼロになる、という道筋だったはず」と述べながら、原発の寿命が尽きる二〇三〇年までは、原発再稼動は容認しているのです。このことは、最後の部分にも現れています。
「基準」「計画」が「万全」ならば、再稼動はオッケー!
地震国・火山国・津波国日本にあって原発は存在可能か!
2.だから、「基準」や「計画」が問題になるのです。その点でも読売・産経・日経と、基本的には同じです。「基準」「計画」が満たされれば、また民意を問うことであるならば、などというように、原発の再稼動はそのものは認めているのです。地震国日本と原発は相容れないものだという認識にはたっていません。
しかし、原発は、人間の命と安全と両立できるのでしょうか?確かに、見た目は両立しています。しかも、福島の被害を受けた国民は少数です。圧倒的多数ではありません。だから、と言いますか、いつの間にか、「風化」していくのです。だから「風評」が発生し、拡散し、そのことで被害を受ける人が出てくるのです。
それにしても、本来であれば、原発がなければ、このような事態は起こらなかったはずです。「安全神話」によってもたらされた被害の重みをどのように理解していくのか、そのことが問われているのです。以下ご覧ください。
朝日
(1)「このままで原発を再び動かそうというのは暴挙である。いまだに収束できない事故から何も学ぼうとしない無責任な態度というほかない」
(2)「政府も自治体も住民の安全を守る責任を果たしたとはいえまい」
(3)「安倍政権は…あたかも規制委の審査が原発の安全確保のすべてであるかのように。現実は違う。あまりに多くの問題点が置き去りにされている」
毎日
(1)「ただし、条件がある」
(2)「福島の教訓を徹底的に学び取り、過酷事故を防ぐと同時に、再び事故が起きても住民の被害を食い止める手立てを整えておくこと」
(3)「さらには、政府が脱原発依存の道筋を描いた上で、エネルギー政策全体の中に原発の再稼働を位置付けること」
(4)「まず、事故が起きた場合の防災体制の整備が明らかに遅れている」
中日東京
(1)「規制委の審査には、四十年寿命、新増設はなし、という大前提があることを忘れてはならない。
(2)従って、新基準への適合とは、せいぜい、当面の稼働を認める仮免許といったところだろう」
(3)歯止めを外し、原発をゼロに導くはずだった規制基準を、原発を動かし続けるための基準にすり替えた。広く民意を問うこともなしに、である。
(4)原発再稼働は、全国民の問題である。国民の将来を考えて原発を動かしたいと言うのなら、しっかりと民意を問うてみるべきだ…なし崩しの再稼働は、かえって国民の不信を深めるのではないだろうか」と「なし崩し」でなければ、「再稼動」は容認なのです。
3.三紙は、安倍式再稼動について、批判的見解を述べながら、今回の再稼動は容認していません。しかし、本当は原発は容認しているのです。こうした認識こそが、国民を混乱させているのではないでしょうか。いや国民の意識を反映しているのだということかも知れません。
原発は必要不可欠か?必要悪か!
こうした混乱を改善していくためには、三紙は、原発が何故必要不可欠なのか、明らかにすべきです。そのことが、本当に現在の日本にあって妥当かどうか、検証すべきです。ところが、そのことは述べていまあせん。以下ご覧ください。
朝日「日本は原発依存に逆戻りしかねない」
毎日「原発の安全神話の復活につながる懸念」
中日・東京「欧州のように、メルトダウン(炉心溶融)に備えるより根本的な改善を要求するものではない。当面の対症療法を求めていると言ってよい」
何故原発「ゼロ」を掲げないのか!ゼロは非現実的か!
4.本来であれば、原発は、現在の日本にあって「ゼロ」にしなければならないものであるはずです。ところが、そのような視点には立っていません。以下の視点にたつのであれば、「ゼロ」でなければなりません。ご覧ください。
朝日「原発事故が日本の政治と社会全体に投げかけた広範な問いはまだ何も答えられていない。ところが再稼働をめぐる議論はいつの間にか、原発の性能をめぐる技術論に狭められた…このままで原発を再び動かそうというのは暴挙である。いまだに収束できない事故から何も学ぼうとしない無責任な態度というほかない…本質的に重要なのは、新基準への適合は決して『安全宣言』ではないということだ…原発密集地での事故は、おびただしい数の住民を被曝(ひばく)の危険にさらし、膨大な土地を放射性物質で汚しかねない」
毎日「福島の教訓を徹底的に学び取り」
中日東京「政府が繰り返し言う『世界一厳しい基準』にこそ、根拠はない」
原発再稼動問題と集団的自衛権行使問題は酷似している!!
5.この「基準」「計画」づくりで「適合」しないからと批判しながらも、原発そのものを容認する原発再稼動問題と、「歯止め」論で批判しながら違憲の軍隊そのものを容認する集団的自衛権行使論問題は、著しく似ているということを強調しておかなければなりません。
憲法九条は、その条文を素直に読めば、自衛隊は軍隊で、憲法違反です。しかし、「原発をゼロに導くはずだった規制基準を、原発を動かし続けるための基準にすり替えた」と同じように、共産主義の脅威を口実に、戦力不保持を軍隊ではなく「自衛隊」としてすり替えたのです。しかも、そもそも「急迫不正」の攻撃が起こらないような切れ目のない外交努力をするのではなく、その「急迫不正」の攻撃に対応するために「他の対抗できる手段がない」などという「理由」をつくり出して「必要最小限の原発再稼働を否定するものではない」というような「必要最小限」論を持ち出して「戦力」を使うことを容認してきたのです。そうした積み重ねのなかで、今日は、「個別的」「集団的」の「基準」すら曖昧にして「武力行使」を容認させようとしているのです。
日米軍事同盟と自衛隊を抑止力とする「安全神話」と「原発安全神話」の思想と論理は、全く同じものであることが判ります。それはそうです。原発メーカーと軍需産業は、ほぼ一致しているからです。両者とも「死の商人」というべき多国籍企業であり、戦後自民党政権を、その利権を守るために政治的代理人としてきたのです。勿論マスコミも学問も官僚も使ってです。
こうした事実を、安倍式再稼動に反対する朝日・毎日・中日東京は、社説できちんと書くべきです。日本国民の命を安全を奪う原発も、軍隊としての自衛隊も、地震国日本にあっては、また憲法九条を持つ国にあっては、相容れないものであることをハッキリ確認することです。
それでは、以下の文章をご覧ください。
朝日
原発事故が日本の政治と社会全体に投げかけた広範な問いはまだ何も答えられていない。ところが再稼働をめぐる議論はいつの間にか、原発の性能をめぐる技術論に狭められた。事故が起きた時の政府や自治体、電力会社の対応や、避難計画のあり方など、総合的な備えはほとんど整っていない。このままで原発を再び動かそうというのは暴挙である。いまだに収束できない事故から何も学ぼうとしない無責任な態度というほかない。
毎日
私たちはこれまで、原発に頼らない社会をできる限り早く実現すべきだと主張してきた。一方で、そこに至る過程で、必要最小限の原発再稼働を否定するものではない。ただし、条件がある。ただし、条件がある。福島の教訓を徹底的に学び取り、過酷事故を防ぐと同時に、再び事故が起きても住民の被害を食い止める手立てを整えておくこと。さらには、政府が脱原発依存の道筋を描いた上で、エネルギー政策全体の中に原発の再稼働を位置付けることだ。
中日東京
福島事故以前は原発推進の旗振り役だった経済産業省から、原発の規制機関を独立させた。その規制委の基準を満たす原発は、当面の稼働を認めるが、四十年で廃炉にするという原発の“寿命”を厳格に適用し、新増設はしない。そうすれば最も新しい原発の寿命が尽きる二〇三〇年代に、原発は自然にゼロになる、という道筋だったはずである…今年四月に閣議決定した国のエネルギー基本計画の中に将来的にも「重要なベースロード電源」とあらためて位置付けた。新増設も否定していない。規制委が昨年夏に定めた規制基準を「世界で最も厳しい水準」として、それを満たした原発を速やかに再稼働させる姿勢を明らかにした。歯止めを外し、原発をゼロに導くはずだった規制基準を、原発を動かし続けるための基準にすり替えた。広く民意を問うこともなしに、である。(引用ここまで)
朝日新聞 原発再稼働を問う/無謀な回帰に反対する 2014/7/17 4:00
http://www.asahi.com/paper/editorial.html?
原発事故が日本の政治と社会全体に投げかけた広範な問いはまだ何も答えられていない。ところが再稼働をめぐる議論はいつの間にか、原発の性能をめぐる技術論に狭められた。事故が起きた時の政府や自治体、電力会社の対応や、避難計画のあり方など、総合的な備えはほとんど整っていない。このままで原発を再び動かそうというのは暴挙である。いまだに収束できない事故から何も学ぼうとしない無責任な態度というほかない。
原子力規制委員会が九州電力の川内(せんだい)原発1、2号機(鹿児島県)について、新規制基準を満たすとの審査書案を出した。1年前に新基準ができて初めてのことだ。意見公募など手続きはまだあるが、規制委による審査は実質的にヤマを越えた。
安倍政権は「規制委の専門的な判断にゆだね、安全と認められた原発は再稼働する」と繰り返している。あたかも規制委の審査が原発の安全確保のすべてであるかのように。現実は違う。あまりに多くの問題点が置き去りにされている。規制委の権限が及ぶ範囲にも、その外側にも、である。このままでは、原子力規制のあり方を多少改めた以外、ほとんど何も変わらず、日本は原発依存に逆戻りしかねない。
■世界一と誇張するな
安倍政権はエネルギー基本計画で、新基準を「世界で最も厳しい水準」と明記した。閣僚や自民党幹部もたびたび「世界一厳しい新基準で安全確認できたら、再稼働する」と口にしてきた。
誇張が過ぎ、原発の安全神話を復活させかねない言動だ。
確かに新基準は、地震や津波への設備対策を以前より厳しく求めている。だが、それは有数の地震国である日本の特徴を反映したに過ぎない。 事故が起きるおそれを数字で表す手法は、欧米では広く採り入れられているが、新基準はそこまで徹底していない。川内原発で注目された火山噴火対策については、火山学者が疑問を投げかけるなか、手探りの火山監視で対応できるという九電の主張を追認した。本質的に重要なのは、新基準への適合は決して「安全宣言」ではないということだ。 規制委の田中俊一委員長は「新基準では事故は起きうるという前提だ」と強調してきた。すなわち、事故対策は規制委だけでなく、電力会社や政府、自治体や住民も本気で考えるべきだと訴えてきたのだが、その多くが手つかずのままだ。
■重要課題が手つかず
何より、事故の際の避難で、現実的な計画が描けていない。規制委が示した原子力災害対策指針を基に、地元自治体がつくることになっている。いきなり難題を突きつけられた形の自治体側は戸惑っている。原子力政策を国策だとしておきながら、政府はなぜ、避難を自治体に丸投げするのか。再稼働の条件に、避難計画は含まれていない。このまま計画の見通しなしに自治体が安直に再稼働に同意しては、政府も自治体も住民の安全を守る責任を果たしたとはいえまい。
置き去りのままの重要課題はほかにもたくさんある。3年前の事故が浮き彫りにした課題を何度でも思い返そう。過酷事故、とくに原発密集地での事故は、おびただしい数の住民を被曝(ひばく)の危険にさらし、膨大な土地を放射性物質で汚しかねない。なのに複数原発が集中立地している問題は、規制委でもまともに議論されていない。防災の重点区域が「おおむね30キロ圏内」に広げられたのに、再稼働への発言権は立地自治体だけでいいのか。福島第一原発の吉田昌郎所長(故人)の証言「吉田調書」では、幹部職員の一時離脱が明らかになった。破局の瀬戸際の対応は電力会社任せでいいのか。
■もっと深い議論を
根本的な問題は、日本社会が福島第一原発事故を十分に消化していないことだ。関係者や組織の責任を具体的に厳しく追及することもなく、かといって免責して事故の教訓を徹底的に絞り出すこともしていない。未公開の吉田調書に象徴されるように、事故の実相は国民に共有されていない。3年前、私たちの社説は「原発ゼロ社会」を将来目標とするよう提言した。幸いなことに、原発がすべて止まっても大停電など混乱は起きていない。関西電力大飯原発の運転差し止めを命じた福井地裁判決は、「原発停止は貿易赤字を増やし、国富流出につながる」という指摘に対し、「豊かな国土に国民が根を下ろして生活していることが国富だ」と断じた。原発を含むエネルギー政策は経済の観点だけでは語れない。人間と自然の安全を長い未来にわたってどう確保するのか。放射性廃棄物の処分問題も含め、広く深い論議を抜きに原発再稼働を進めてはならない。(引用ここまで)
毎日新聞 川内原発再稼働へ/教訓学ばぬ見切り発車 2014/7/17 4:00
http://mainichi.jp/opinion/news/20140717k0000m070182000c.html
東京電力福島第1原発の過酷事故から3年4カ月余り。新規制基準に基づく初の原発再稼働が現実味を帯びてきた。九州電力川内原発1、2号機(鹿児島県)について原子力規制委員会がまとめた審査書案は、事実上の「審査合格」を意味する。政府は新規制基準を「世界で最も厳しい水準」とし、合格原発は再稼働を進める方針だ。現在のルールでは、国民からの意見公募を経て、地元の同意を得れば再稼働が可能となる。福島の原発事故後、それ以前には無理だと思われてきた「原発ゼロ」のまま、日本は社会を維持してきた。新規制基準に基づく川内原発の再稼働は、過酷事故を経て、日本が再び「原発を活用する国」に戻る転換点となる。
◇防災対策は置き去り
私たちはこれまで、原発に頼らない社会をできる限り早く実現すべきだと主張してきた。一方で、そこに至る過程で、必要最小限の原発再稼働を否定するものではない。ただし、条件がある。福島の教訓を徹底的に学び取り、過酷事故を防ぐと同時に、再び事故が起きても住民の被害を食い止める手立てを整えておくこと。さらには、政府が脱原発依存の道筋を描いた上で、エネルギー政策全体の中に原発の再稼働を位置付けることだ。いずれの点でも、現状で川内原発の再稼働は合格とは言えない。このままでは、原発の安全神話の復活につながる懸念が大きい。
まず、事故が起きた場合の防災体制の整備が明らかに遅れている。国際原子力機関(IAEA)は原発事故対策として「5層の防護」を定めている。3層目までが過酷事故の防止で、4層目が過酷事故対策、5層目は放射性物質が敷地外に漏れ出る場合の防災対策を求めている。福島第1原発事故後、政府は事故に備えた重点対策区域を原発から8〜10キロ圏から30キロ圏に拡大した。ところが、第5層の防災対策は災害対策基本法で自治体任せにされ、規制委の審査対象から外れている。川内原発が立地する鹿児島県の地域防災計画では、30キロ圏内の病院の入院患者や介護施設の入所者ら要援護者の避難計画は各施設が作る。ただし、実際には、受け入れ先探しなどで県の仲介や調整が不可欠だ。県は10キロ圏までの避難計画を公表したが、伊藤祐一郎知事は「30キロ圏までの要援護者の避難計画は現実的ではない」と発言した。対象となる要援護者の数が増え、避難手段や受け入れ先の確保が難しいことが背景にある。これは、他の原発立地地域にも共通する課題だ。このままでは5層の防護を欠き、防災対策は置き去りにされていると言わざるを得ない。(引用ここまで)
中日/東京新聞 川内原発・審査「適合」/ゼロの目標はどこへ 2014/7/17 8:00
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2014071702000179.html
原子力規制委員会の審査で「適合」が示され、川内原発が再稼働へ向かう。だが、もともと規制委は、原発ゼロ目標を前提につくられたのではなかったか。前民主党政権は福島第一原発事故の反省に立ち、一昨年九月の「革新的エネルギー・環境戦略」で、二〇三〇年代に原発をゼロにする方針を打ち出した。福島事故以前は原発推進の旗振り役だった経済産業省から、原発の規制機関を独立させた。その規制委の基準を満たす原発は、当面の稼働を認めるが、四十年で廃炉にするという原発の“寿命”を厳格に適用し、新増設はしない。そうすれば最も新しい原発の寿命が尽きる二〇三〇年代に、原発は自然にゼロになる、という道筋だったはずである。
◆40年寿命が大前提
規制委の審査には、四十年寿命、新増設はなし、という大前提があることを忘れてはならない。
従って、新基準への適合とは、せいぜい、当面の稼働を認める仮免許といったところだろう。
「二〇三〇年代原発ゼロ」は政権の独断というよりも、一定の民意を集めて成り立った。当時の政府は革新的エネルギー・環境戦略を策定する前に「討論型世論調査」という新しい手法を使って、民意を確かめた。無作為に選ばれた市民に、将来原発をどうするかという討論会に参加してもらう。原発やエネルギーに関する十分な情報と専門家の助言が保証された二日間の討論を経て、参加者の意見がどう変わるかを調べるという手順である。その結果、「二〇三〇年時点で原発ゼロ」のシナリオを支持した人が、約三割から約五割に増えたのだ。原発は一定程度必要だとした人は、討論の前後とも約三割と変わらなかった。万全ではないが、よりよい方法だった。
ところがその後、自民党政権は「二〇三〇年代原発ゼロ」を「具体的根拠が伴わない」とあっさり覆し、今年四月に閣議決定した国のエネルギー基本計画の中に将来的にも「重要なベースロード電源」とあらためて位置付けた。新増設も否定していない。規制委が昨年夏に定めた規制基準を「世界で最も厳しい水準」として、それを満たした原発を速やかに再稼働させる姿勢を明らかにした。歯止めを外し、原発をゼロに導くはずだった規制基準を、原発を動かし続けるための基準にすり替えた。広く民意を問うこともなしに、である。
◆安全との保証はない
新規制基準は、津波や地震対策、そして過酷事故への備えを強く求めてはいる。しかし、欧州のように、メルトダウン(炉心溶融)に備えるより根本的な改善を要求するものではない。当面の対症療法を求めていると言ってよい。だからこそ、原発を持つ電力会社が比較的短期間で申請書類を整えることが可能になっている。
政府が繰り返し言う「世界一厳しい基準」にこそ、根拠はない。
九州電力川内原発では、大噴火の恐れもある近くの火山対策や周辺住民の避難計画の不備が指摘されている。規制委の判断は避難計画には関知しない。規制委は、原発の敷地内を走る活断層や、基本設計の基準になる地震の揺れの大きさなどを厳しく評価してきている。電力会社と規制機関のなれ合いに、くさびを打ち込もうとした。そのため、推進側からは非難も批判も浴びた。
ところが安倍政権は、その独立性を盾に取り、規制委の審査に通ったものは安全という、新たな原発神話の構築に向かい始めたようにすら見える。それを裏付けるのが、野党がこぞって反対した委員の交代人事である。活断層に厳しいと言われた委員を辞めさせて、原発関連企業から寄付や報酬を得ていたような人物に入れ替えた。規制委の生命線である信頼性が保てなくなる。小手先の話法と数の力でわが意を通すかのような安倍政権の政治手法に、疑問を抱く国民は少なくないだろう。隣県に原発のある滋賀県民は先日の知事選で、隣県の原発事故に影響される「被害地元」の住人として、「卒原発」の民意を突きつけた。
◆しっかりと民意を問え
原発再稼働は、全国民の問題である。国民の将来を考えて原発を動かしたいと言うのなら、しっかりと民意を問うてみるべきだ。福井地裁はこの五月、大飯原発の差し止めを命じる判決を出している。地裁の判断とはいえ、憲法の保障する人格権の見地から考察を加えている。規制委の審査とは違う視点もある。なし崩しの再稼働は、かえって国民の不信を深めるのではないだろうか。(引用ここまで)