迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

三十年前の疑問の答へを見つける。

2018-11-26 16:15:09 | 浮世見聞記
大嘗祭につひて確と知るため、國學院大學博物館の企画展「列島の祈り─祈念祭・新嘗祭・大嘗祭─」へ出かける。


即位した新天皇が、天照大神にその年の新穀を中心とした神饌を奉り、共食する一代一度の神事──

それが、大嘗祭である。

直近の大嘗祭は今上天皇が即位した三十年前、当時わたしは小学校の高学年だった。

この時、大嘗祭につひて異國人たちが、

「テンノウはカミになるつもりなのか?」

と気色ばみ、宮内庁──だったと思ふ──がさうではないことを弁明する一幕があったことを記憶してゐる。

私が「ダイジョウサイ」といふ名称を知ったのは、実はこの事がきっかけである。

あれから三十年以上が経ち、来年には再び大嘗祭が行われるであらうわけだが、今回の企画展を通してこの神事を考へても、あのとき異國人たちが騒ひだやうな性質は、まったく当てはまらない。

それどころか、古代より稲作が国家の礎であり、そのために豊作を神へ祈り、そして感謝するといふ、素朴な信仰心が儀式となったもので、それは日本人の心の原点を成すものとも言へる。





結局、彼ら異國人たちは、“現人神”などと偶像化されてゐた前時代のテンノウで認識が停まってゐるのである。

そのやうな物知らずが日本古来の天皇家の儀式に口出しをするなど、僭越も甚だしいことである。




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