今夏は夏の祭禮がいづれも神事を除いて中止となったため、樂しみにしてゐた奉納神樂も観ること叶はず。
今回は試しに現地へ出掛けず、内容を動画配信で解説した當世流行りの“オンライン”で観ることにする。
そのぶん、神樂の原典である「古事記」を出土した器物から讀み解く、國學院大學博物館の企画展「モノで読む古事記」にて、その渇を癒やす。
今回は試しに現地へ出掛けず、内容を動画配信で解説した當世流行りの“オンライン”で観ることにする。
天照大神を天岩戸から連れ出す鏡、伊弉諾伊弉册の黄泉の國、山幸彦の釣り針など、神樂では毎年上演される定番の演目を、實際に遺跡から出土した器物より観るといふ、この現状がもたらした“新しい鑑賞法”をそれなりに樂しむ。
神樂に観る如く、古代の神々は實に人間臭く描かれてゐる。
それは、日本國の原型を創造した人々の勞姿を、さまざまな神に假託して描いたからだらう。
私が神樂に惹かれるのは、そこに登場する神たちが決して超越した存在ではない、いかにも身近にゐさうな人間味を放ってゐるからだ。
支那發の病菌も六月中旬頃からトウキョウで突然國産化され、それが現在の新規感染者をつくり出してゐると、國立感染症研究所が研究結果を發表云々。
だがそれを蔓延させたのは、折からの“宣言解除”を勝手に“終熄宣言”と勘違ひした、ニンゲンたちだ。
情けないことだが、現状では病菌のはうがまだまだ一枚上手であることを、認めざるを得ない。
マスクやトイレットペーパーでは學習し足らず、今度はうがひ薬に振り回されてゐるニンゲンたちを眺めてゐると、来年の夏も覺束ないと思へてくる。
さうなると、あの人間な神々にはまたいつ逢へるのだらう……。